第四話 契約初夜
夜の郷田家に悲痛な声が響き渡る。
「どうやら俺はここまでのようだ……」
「いやっ! そんなことは言わないで……っ!」
「よく聞いてくれエミリー。君にこれを託す」
「これは……?」
「時間がない。その鍵を使って……っ」
「ここにいたのかぁあっ!?」
「あああっ!」
ヒロイン役の女優さんの悲鳴が上がったところでちょうどCMへと差しかかった。
「ふぅ~、いったいこの先どうなってしまうのか……」
ハラハラと手に汗握りながらテレビで十年以上前の洋画を血走った眼で見つめているゴキブリの精霊が吾郎のベッドに腰掛けている。
吾郎は、というと学校で出された宿題を片付けている最中であり、はっきり言ってうるさい事この上なしなのだが、テレビでも見せておかなければ、それはそれでひどくやかましいので我慢しているのだ。
「はぁ」
今日の学校は本当に疲れた。
別に特に変わったことがあったわけではない。
いつも通り授業はつつがなく進行し、何事もなく帰途についた。
しかし問題が一つ。
「エミリー! そっちじゃない! だめだめ罠だよそっちはぁ!?」
Gがうるさいのだ。
あれは何? これは何? あの人は誰? あれ私知ってるよ!
なんであれはこれはそれはどれでなにが。
最初こそ偉そうにしていた精霊様であったが。
「おぉ~! エミリー頭良いっ!」
どうやら3億年以上前から地球に存在している割には人間の生活についてはビギナーであるらしい(当たり前か?)。
事あるごとに吾郎にしつこく質問してくるものだから、吾郎としてはたまったものではない。
一つ二つの質問ならともかく、授業中であっても吾郎が普段から気にしていないような細かい所まで問いかけてくるのだ。
逐一答えるこちらの身にもなって欲しい。
「はぁ……喉乾いたな」
一通りの宿題を終えた吾郎は1階の冷蔵庫まで飲み物を取りに行こうと部屋の扉に手をかけた。
「お前もなんか飲むか?」
「牛乳でお願いします!」
「はいはい」
Gの精霊はテレビから目を離すことなく吾郎の問いに答えた。
彼女は今朝方吾郎が飲んでいた飲み物が気になったらしく、帰ってくるなり早々、牛乳を吾郎にせがんだのだ。
吾郎にとっては、別にどうということもない牛乳ではあるが彼女はいたく牛乳の味に感動し、その場でコップ3杯分もの牛乳を飲みほした。ようするに彼女は牛乳が気に入ったのだ。
「あんまり離れないでよ~。引っ張られちゃうから~」
吾郎には、引っ張られる、というのがどういう感覚なのかがいまいちよくわからないが、今朝彼女の言っていたことが本当ならば15メートルぐらいならば大丈夫な筈。
なに、さして大きな家でもない。
2階にある吾郎の部屋から一階の冷蔵庫のあるリビングまでの距離は直線距離にして15メートルを超える、ということはないだろう。
手早く牛乳を二つのコップに注いだ吾郎は、そのままコップを手に取り階段を上っていく。
吾郎は自分の部屋の扉の隙間に足を踏み込むようにして部屋へと入った。
そして。
今朝から突然の異常事態が進行していたために、吾郎は未だ自分が考えておかなければならなかったことが山積していたことにこの時ようやく気付かされることになる。
「吾郎……この子誰?」
「えぇっ! お前俺に内緒でこんな可愛い彼女がいたのかよぉっ!」
「……ぁ」
吾郎は自身の迂闊さを呪うも時すでに遅し。
自分の部屋へと帰って来た吾郎の視線の先にはGの精霊少女だけではなく、幼馴染である孝介と響子の姿があった。
3人の家は横並びに並んでいるお隣さん同士だ。
響子の部屋はちょうど吾郎の部屋の向かいにあり、さらにはお互いの家の屋根が高低差こそあるもののほとんど接するような距離であるため、昔からよく響子は吾郎の部屋へと窓から勝手に侵入してくる。
孝介も響子と同じように吾郎の部屋へとやってくるのだが響子とは方法が違う。
響子の部屋から吾郎の部屋へとやってくるのは屋根伝いに歩いてくればいいのでそれほど難しくはない。
しかし当然反対側に位置する孝介の家から直接吾郎の部屋へとやってくることはできない。孝介の家の屋根はあまり広がった形をしていないし、そもそも孝介の部屋は一階だ。
ではどうするのか?
答えは簡単である。
登ればいいのだ。
素直に玄関から入ってくればいいものを、こちらの方が楽しいからという理由で孝介は郷田家の塀を登り、屋根の上まで這い上がり吾郎の部屋の窓へと到達するのだ。
小さい頃はそれでも子供の遊びの一環として(危険ではあるが)、どこか微笑ましいものがあった。
だが高校生にもなると状況が変わってくる。
身長180センチを超える大きな男が他人の家の塀や屋根を上っていくという姿はもはや空き巣以外の何者でもなく、警察を呼ばれそうになったことは一度や二度ではない。
しかし中村孝介という馬鹿野郎はそんなことを気にすることもなく、吾郎の部屋へとやってくる。
孝介が地方新聞の一面に記載される日もそう遠くはないだろう。
まぁ吾郎としても仲の良い友達がやってくるわけだから拒む理由もない。
時と場合にもよるが。
そして今は来て欲しくないタイミングであったことはいわずもがなだ。
「いや……こいつは……」
吾郎は頭の中を高速で回転させるもなかなか上手い言い訳が見つからない。
遠い親戚というのが一見無難な受け答えであるように思えるがそれは罠だ。
周防家、中村家、郷田家は昔から家族ぐるみでの親交がある。お互いの親戚にすら大抵は会ったことがあるし、そんな嘘はすぐにばれてしまうだろう。
(……どうする!?)
「……本当に可愛い子ね。え、なにホントに彼女なの? それとも沙耶さんが拾ってきたとか」
「!」
それだっ!
「そっそうそう! 実は姉貴の知り合いらしくてさっ! 昨日の夜いきなりやって来たもんでなぁ! いやもう本当にびっくりだよな。事情があって、しばらくウチで預かることになったんだよ」
「あぁ~、だからお前は今朝疲れた顔してたのか」
「そうそう!」
完璧じゃないか!
郷田沙耶の破天荒ぶりは二人も知るところ。
姉貴ならばどんな無茶なことをしたり、おかしな要求をしてきても不思議ではない。
というか以前にも、沙耶の知り合いという小学生の少女が郷田家にやって来たことがあるという、前科持ちだ。
視線を精霊少女へと向ける。
"話を合わせろ"
"……わ、わかった"
「実はそうなん……」
しかし何事かを言おうとした少女の言葉を遮って孝介が尋ねた。
「ねぇねぇ。名前はなんて言うの?」
「……」
名前……だと……?
無言で精霊少女を見つめるも彼女は小さく首を振るのみ。
(やばいっ! 名前……名前……。くそっ、というかなんで俺は今まで名前を気にしなかったんだ! Gの精霊? 言える訳がない。どうしよう……彼女はえっと……ゴキブリの思念……ゴキブリ……ゴキ……)
「彼女はえっと……ごぉっ! 吾武さんだ! 吾武希莉って言うんだ」
こいつぁ……我ながらひどいネーミングセンスですね……。
吾郎の言葉を引き取るように精霊少女は満面の笑顔で言った。
「初めまして! 希莉って呼んでねっ」
しかしこいつも順応はえーなおい。
「へぇ~。希莉ちゃんかぁ。俺は中村孝介。孝介って呼んでくれ」
「あたしは響子。周防響子よ、よろしく」
「よろしくねっ」
愛想よく元気いっぱいで希莉は孝介と響子と挨拶を交わす。
「事情ってその……あたし達は聞かない方がいいようなこと?」
小声で響子はこそこそと吾郎へと問いかけた。
「いやまぁ……ちょっとな」
「……そっか」
なにやら思案する様子の響子だったが、やがて顔を上げて希莉の方に目を向ける。
うーん、なんだか深読みをさせてしまったようだ。
なんだか騙してしまったようで、多少の罪悪感が沸き上がってくるも、こればかりは致しかたない。
「可愛い子だね」
呟くように響子が言う。
「あ、あぁ……まぁそうだな」
「本当に可愛い子ですこと」
「なんだ? なんか文句でもあるのか、って足を踏むなよ痛いって!」
いったいなんなのだ。
たっぷり5秒以上吾郎の足を踏んづけた響子は鼻を鳴らして吾郎の隣から希莉の隣へと歩いて行った。
「その白いワンピースすごい似合ってるね」
笑顔で響子が希莉に話しかける。
「えへへっ。やっぱり? 実はこれ吾郎の望みなんだよねっ」
「へっ?」
「えっ?」
「………………」
なにそれ知らないなんのこと?
「吾郎の趣味なんだよっ、吾郎の理想でね~。やっぱり黒髪ロングの美少女には白いワンピースが最高によく似合……」
「おぉおおおおおおぃいいいいいいいいいいいいっっ!?」
あばばばっ! 何を言ってるのかなぁ! この子は! 全く愉快な娘さんですこと!
「希莉は本当に冗談が好きだなぁ、おい! おいこらっ、あははっ!」
引きつった笑顔に、大量の冷や汗。
(というかなんで知ってるの?)
彼女が口にしたのは吾郎のいわばトップシークレットだ。
「あとはね~、浴衣ってあるじゃない? 吾郎は浴衣そのものよりも髪を纏め上げたことによって表出される女のうなじに……」
「きさまぁっ! もう許さん!!」
吾郎はかつてない羞恥プレイの最中にいた。
幼馴染にも隠し通してきた性癖が吾郎の意志に反して暴露されている。
これ以上の希莉の横暴を許していいのか、いや許していいはずがない。
世の中には言っていいことと悪いことがあるのだ。
尚も吾郎の知られたくない、男子高校生の恥ずかしい部分をさらけ出そうとする悪魔の口を塞ぐべく、吾郎は忍者よりも素早く敏腕社長秘書(妙齢の美女)よりも無駄のない動きで希莉の背後を取った。
「むぐぐ~っ」
「ごめんなさいはどうした、ん?」
吾郎は希莉の背後に回ると素早く彼女の首を両腕で縛り上げた。
何も知らない人がこの場面だけを見たならば、即刻警察に通報していただろうほどの鬼気迫る表情だ。
絞めている方も絞められている方も。
「おいおい吾郎やりすぎだろうっ」
「そっそうよ、さすがにそれは……っ」
幼馴染二人の制止でハッとなった吾郎は腕の力を緩める。
しかし二人の幼馴染がその顔に浮かべている表情はどこかニヤニヤと嫌らしい笑みを孕んでいた。
こんなに楽しそうな顔は久し振りに見た吾郎である。
なんだその顔はいったい何だというのですかね。
吾郎の腕を逃れた希莉はするするとベッドへと倒れていく。
そして涙目で吾郎の顔を見上げると大声で言った。
「この悪魔ぁっ!」
面白いことを言う娘だ。
「悪魔はお前じゃああああああっ!」
魂からの叫びだった。