第三話 登校
手早く学生服に着替えた吾郎は風船のように軽い学生鞄を手に取り、部屋を出ると階段で1階まで下り、洗顔と歯磨きを済ませて髪を整えた。
冷蔵庫の中に入っている牛乳をコップに注ぎ、オーブンに食パンを突っ込む。
パンが焼きあがるまでの間に熱したフライパンにベーコンを敷き、その上に卵を乗せて目玉焼きを二人分作っていく。
一つは父親の分だ。
いつも夜遅くに疲れて帰ってくる父親の朝食を準備するのは吾郎の仕事のようなものだった。
食パンにマーガリンとジャムを塗り、口へと運ぶ。
咀嚼しながらも簡単なサラダを作るために手を動かしていく。
父の朝食を作り終えた吾郎は、さっさと自分の食事を終了させて玄関へと足を向けた。
だが。
「いってきます」
「いってきます」
吾郎の声と重なるように美しいソプラノが聞こえた。
「……」
「ん? どしたの? 早く行こうよ!」
吾郎の後ろには黒髪の美少女精霊が居た。
その表情は生き生きとしており、擬音で表現するならば、ワクワク、だ。
「さっきからずっと……なんで俺についてくんの?」
「え……だって契約者だし?」
何を当然のことを、とでも言わんばかりの態度で答える精霊。
「俺はいつも通りに生活するだけでいいんだよな?」
「どうぞどうぞ」
「じゃあお前は家に居ろよ」
学校に私服姿の美少女なんて連れて行けるか。
なんて説明すればいいんだよ。
「いやそれ無理」
「は?」
「だって私……そうだなぁ、吾郎から15メートルぐらいしか離れられないし。契約したばっかりだからかな? あははっ」
なん……だと……?
「それって……」
あははっ、じゃないが!
「なにぃっ!? じゃあどうするんだよ?」
「なにが? 早く学校行こうよっ!」
「いやいやいやっ!」
あぁもうっ! そんなの無理だからっ!
「……ん?」
いやちょっと待てよ。
「お前確か俺の中に入れるんだよな?」
「えっ、うん」
「おし、じゃあ俺の中に入ってろ。いいか? 家の中以外では絶対に出てくるな」
そうだよ、そうすりゃ問題ない。
いや問題ないことはないけど、とりあえずは大丈夫だ。
「えぇ~っ!?」
「いやいや、これだけは譲らんぞ!」
「……ちぇ~、なんだよもぉ」
若干不貞腐れながらも少女は大人しく吾郎の身体の中へと入っていった。それと同時に吾郎の中には不可思議な感覚が満ちていく。
むずむずとした気分になりながらも、吾郎はきつく言い含めた。
「よし。絶対に出てくるなよ?」
"はいはーいっ"
吾郎は靴を履いて今度こそ玄関の扉に手をかけた。
☆ ☆ ☆
「おっす、吾郎」
「なんか吾郎やつれてない?」
「あぁまぁ……ちょっとな」
玄関の軒先から少し歩いた公園前。
吾郎は毎朝ここで待ち合わせ、中村孝介、周防響子の二人と一緒に学校へと向かっていた。
これは小学校の頃からずっと変わらない。
元々は響子と孝介の家が空き地を挟んで隣どうし並んでいたのだが、二人が小学生になる少し前に郷田家が間の空き地の土地を買い取り、そこに一軒家を建てたのだ。
以来、3人は歳が同じであることも手伝い、何かと一緒に過ごすようになった。
孝介と吾郎は昔からやんちゃな遊びばかりしていたため、それに一緒になって付いてきていた響子も自然と男勝りな性格になってしまい、昔はよく周防家の母親が頭を痛めていたものだ。
「いつもは吾郎が一番最初にいるのにな。あっ、さてはお前ぇ……先週貸したビデオで昨夜は遅くまで……むふふ」
「はぁん……なるほどねぇ。まぁ思春期の男の子だからしょうがないかもしんないけど、ほどほどにしときなよ?」
あらぬ誤解だ。
「ちげーよっ! てかあのビデオは俺が借りたんじゃなくて孝介が忘れたんだろ! それと響子は女の子なんだから、もっとこう、なんだその……恥じらいというかなんというか」
女の子が普通に男子高校生の性事情に踏み込まないでいただきたい!
「またまたぁ~」
「またまたぁ~」
う、うざい。
いつもならば反抗してみせるものだが、今日ばかりは本当に疲労感が溜まってしまっていた。
「はぁ……もういいやそれで」
「うーん? ……なんか本当に疲れてるねぇ?」
顔を近づけつつ響子が言う。
「響子お前下着見えてんぞ」
「見せてんのよ?」
ニヤニヤと吾郎を見上げる響子。
彼女は胸の谷間を強調しながらカラカラと笑った。
「お前は本っ当に姉貴に似てきたな」
溜息を吐きつつ吾郎が呆れ混じりに言うと、孝介も同意した。
「確かになぁ。沙耶さんはいつ帰ってくるんだっけ?」
「わからん。俺が聞きたいくらいだ」
吾郎の姉であり、郷田家の長女である郷田沙耶は現在大学生なのだが、これがまた遊びまわっているどうしようもない姉であり、現在3年生にして絶賛留年中である。
しかし沙耶は学費から何から自分でお金の工面をしているため、親も厳しく言うことはなく沙耶の好きなようにさせているのだ。
いや……そもそも他人の言う事などは聞きはしないが。
「北海道行くって言ってたからなぁ。どうせ姉貴のことだから今頃呑気に蟹でも食ってるんじゃないか? もしかしたらマグロを釣ってたりしてな」
「沙耶さんならありそうだよね~。あたしも沙耶さんに会いたいなぁ」
響子は昔から異常に沙耶に懐いている。
さらには沙耶も響子をやたらと可愛がるものだから、吾郎が実の姉弟以上に仲良くしている二人に嫉妬していた時期もあったくらいだ。
そんないつも通りの日常会話に花を咲かせていると。
"おぉっ! 車だ車! ねぇねぇ吾郎は車を持ってないの!?"
頭の中で賑やかな声がした。
「…………そういや今日って数学の小テストがあったよな?」
吾郎は脳内に響き渡る声を無視する。
声が妙に乾いている気がしたが気のせいだろう。
「そだねぇ~。あたしは瑠璃に教えてもらったから大丈夫」
「数学なんてなかった」
「現実逃避はやめるんだ孝介」
"テストかぁ……ねぇねぇ吾郎は学校にはいつも歩いて行くの? あとどれくらいで着くのかな? あっ、どれくらいの人数がいるの?"
「………………あぁ~、嫌だなぁ小テストぉ……」
"テストってあれだよね? 学力確認のための試験だよね? ねぇねぇ筆記? 筆記なの、ねぇ?"
「吾郎は数学それほど苦手でもないじゃん」
「そう言うがな響子、テストっていう響きがもうなんか嫌なんだよ」
「右に同じ」
"ねぇねぇ~。筆記試験なの? テストって筆記?"
「………………………………」
"あれ、もしかして聞こえてない? もしもーし? 多分吾郎には聞こえてると思うんだけど……私鉛筆って持ったことないんだよ。字を書いてみたいんだぁ。あと数学ってどんなことを勉強しているの? ってあぁっ! あっ! あれはアイスクリーム! アイスクリームじゃないですかぁ! あれ食べてみたいよ私! 昔他の精霊に教えてもらったんだけどアイスって幸せの味がするって言ってた! 私って今まで味覚っていうのを感じたことがないからすごい楽しみでっ……"
"やかましぃいいいいいいいいいいいいいいいいっっ!!"
"ひゃっ!"
"おっ? なんだこんな感じで話せるのか"
吾郎はなんとなく頭の中で念じるようにして話しかけたのだが、どうやら口から声には出さなくても精霊少女とは会話をすることができるらしい。
"お前さっきから人の頭の中でべらべらべらべらと……ちょっと静かにしてくれ"
"むぅっ……なにさ! 人が楽しんでるというのに!"
"いやお前人じゃないだろ"
"なにを~っ!"
「吾郎? なんかさっきから様子が変だけど……もしかして本当に体調悪いの?」
今度は本気で心配そうな顔で響子が吾郎にそう尋ねる。
どうやら朝から顔色が悪く、今もまた急に難しい顔をして黙り込んでしまった吾郎の様子が気になったらしい。
「あっ、いや大丈夫だって。ほらっ、信号もうすぐ赤になるぞ」
少し慌てたようにそう言った吾郎は駆け足で横断歩道を渡る。孝介と響子も足を速めてそれについてきた。
この交差点を渡り終われば学校はもうすぐそこだ。
吾郎の着ているものと同じ制服を身に纏う若者たちの姿も多く散見される。
この時間にここまでやってくれば道路を歩く人間の多くは吾郎達と同じ私立熱帯高校の生徒達だ。
"みんな吾郎達と同じ服を着てるね~"
"そりゃあこれがアツ校の制服だからな"
吾郎が頭の中で精霊少女と会話をしていると横で制服のYシャツをパタパタとはためかせながら孝介が口を開いた。
「それにしてもあっついなぁ!」
「暦ではもう秋なのにねぇ。今朝テレビでやってたけど台風も近付いてるらしいよ?」
「まぁもうすぐ学校に着くから我慢しろ」
吾郎はそう言いながら道の角を曲がる。
その先には二つの校舎を渡り廊下で繋ぎ合せた5階建ての建造物。
私立熱帯高校、通称アツ校の姿が見えてきていた。