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第二十四話 人の想い、精霊の願い

「なにが神様だよ……」


 俯く吾郎の拳は固く握りしめられていた。


「わからない……希莉の言っていることがわからないよ……」


 所詮は人間、ということなのだろうか。

 吾郎はまだまだ世界のことをほんの少ししか知らない子供に過ぎない。


 だけどそれでも。


 一つだけ。


「お前は……仲間達が目の前で殺されていって……本当に何も思わなかったのか?」


 確かめたいことがあった。


「……」

「自分達を助けるためにやって来てくれたゴキブリ達を人間が殺して……しょうがない、って言ったけど……お前は本当に何とも思わなかったのか!?」 

「吾郎……」


 問いかける吾郎の声はか細く、今にも消えてしまいそうな程に儚い。


「答えて……くれ……」


 少年の言葉に俯いた少女。


「……」


 やがて彼女は……小さく囁いた。

 

「やっぱり悲しかった……かな」

 

 ずっと昔から変わらないことだったけれど。

 それでもやっぱり。

 わかっていたことだけど……あんな風に死んでいく仲間達を見るのはやっぱり辛くて。


 仲間達の苦悶。


 そして人間達の怒号。


 怯えた表情。

 忌避の表情。

 侮蔑の表情。


 人間の視線が怖くて、同時にそれが寂しくて。

 人間から好意を得ることが不可能なんだと改めて思わされて。


 吾郎と自分との間に存在する絶対的な壁を突きつけられた気がして。


 胸が痛んだ事実は消えない。


「それでも人間はすごい、ってお前は言うのか?」

「……うん」

「人間のことが羨ましい、と。……好きだとお前は言うのか?」

「…………うん」


 そんな泣きそうな顔で?

 なんで……どうして……。


 なんでそんなことを言うんだ。


 言葉に詰まった吾郎は、先程の希莉の話の中で気になった部分を思い出し問いかけた。


「……希莉はさっき、最近になってもう一度自我を確立した、って言ったよな」

「……」

「どうして、なんだ?」


 先ほどの希莉の説明だけでは、わからないことがあった。

 人間の人口は今尚、増え続けているのが現状だ。

 ならば当然、負の思念も大きくなっていくのが道理。


 彼女という存在が再び人格を有したのは一体――。


「……あなたが」


 俯く少女は顔を上げる。


「吾郎が生まれたから」


 真っ直ぐに。

 希莉は吾郎の瞳を見つめた。


「……え?」

「吾郎が生まれた瞬間、この人は私と契約することが出来る人間だとわかったの」

「……」

「私に……世界を感じさせてくれるかもしれない少年」


 3億年の時を経て。

 ようやく巡り会えた、可能性。

 希莉にとっての希望であり、生まれて初めての奇跡。


「契約をして欲しかった……」


 そこで彼女は目を細め頭を振った。


「ううん、そんなことよりも」


 希莉は優しい表情で微笑んだ。


「……吾郎に会ってみたかった。どんな人なのか、興味があったんだ」

「……」

「だから頑張ったんだ。人の思念に押しつぶされそうになりながらも……あなたに逢いたくて……逢いたくて逢いたくて。16年間かけて私は精霊としての形を取り戻した」

「……どう、やって?」

「あはは、私にもよくわかんないんだ」


 笑いつつも彼女の声音には真剣さが込められていた。


「ただ……私はただひたすらに願い続けてた。吾郎と契約することを」


 祈る様に両手を重ねる希莉の姿は聖女の様だと吾郎は思った。


「そしたら、ね。神様が気を利かせてくれたみたい」


 そう言って微笑む希莉の顔を見ながら、吾郎の頭には一つの考えが過った。


 願い続けていたら。

 思い続けていたら。

 奇跡が起きた。

 

「そう……か」


(それはきっと――)


 ならば。


「お前はもう……人間だよ」


 静かに目を細め吾郎は言った。

 吾郎の言葉に目を丸くする希莉。


 だがすぐに寂しそうな表情で彼女は言う。


「あはは……そりゃあ、がんばって人格を得た訳だし……こうして神様に人間の姿をもらったんだから、人間みたいに見えるのは当たり前で」

「違う……そうじゃない」 


 少年はゆっくりと、そして優しく言葉を紡ぐ。

 自分でも何を言葉にすればいいのか、はっきりと整理出来てはいない。

 けど……何も考えていなくても。


 どういうわけか、言葉が勝手に口から溢れていく。


 精霊のことは未だによくわかっていないし。


「そうじゃないんだ」


 神様がどんな奴かだって知らない。


「お前は……」


 だけど。


「希莉は願ったんだろう?」


 彼女のことなら知っている。

 ゴキブリの精霊。

 吾武希莉という、安直なネーミングセンスにも、ひどく喜んでくれた少女のことならば。


「精霊の形を取り戻したい、って。俺と契約して世界に触れたい、って」


 まだまだ子供っぽくて。


「きっとお前は長く時を過ごしすぎて、ちょっとだけ休んでいただけなんだよ」

「……」


 些細な事で一喜一憂して。


「以前、希莉は俺に教えてくれただろう?」


 いつだって無邪気にはしゃいで、笑って。


「人間の思念に不可能はない、って。それは奇跡を起こせるだけの力があるんだ、って」

「……」


 何故か豆が大好きで。


「お前の思念が……お前の想いが。きっと奇跡を起こしたんだよ」


 オムライスを作ると、とびきりの笑顔で美味しい、と言ってくれる少女のことならば。


 知っている。


「それが人間達の負の思念にも負けないぐらい強かったんだ」



 知っているんだ。



「それはさ、きっと」

「……」


「人間が持っている思念の力と、同じものだろう?」


「吾郎……」


 種々様々な物語で使い古された陳腐な言葉ではあるけれど。

 今は実感を持って言える。


「精霊だとか、人間だとか、関係なくて。確かにちょっとだけ違うかもしれないけど。お前が持っている心は、少なくとも人間と同じなんだよ」

「私……が?」


 少年の言葉を少女は噛み締める。

 彼女は少年と過ごしてきた時間をゆっくりと思い出していた。



 世界に触れる。



 その意味を実感し、世界の美しさに感動した日々のなんと素晴らしいことか。

 3億年の時間を紐解いてもこれほどの幸福を味わったことなどない。


 何よりも。

 いつだって彼女の傍には――。


「……」


 少年の顔を見つめ――。

 

 希莉は胸の高鳴りを感じた。


 堪え切れないほどの熱い思い。

 体中を満たす幸福感。

 得も言えない充足感。


 

 そして――彼女は理解した。


 

 間違いない。

 きっとこれが。

 この感情が。


 精霊仲間が話していた――。


「これが……」


 何かを言いかけた彼女の身体が。


「……っ!?」

 

 吾郎の目前で。

 突然薄れていった。


「希莉……?」


 驚く吾郎とは対照的に希莉は落ち着いていた。


「あはは……時間みたいだね」

「時間って……」


 言う間にも彼女の身体が少しずつ消えていく。

 焦燥感が吾郎の身体を蝕んでいった。


「希莉っ!?」

「ちょっと……無理しちゃったんだよね」


 彼女は寂しげに言う。


「無理? おい……どういうことだよ……っ」


 しかし希莉の笑顔は崩れない。


「大丈夫。吾郎は助かるよ」


 訳の分からない返答に苛立ち、吾郎は叫んだ。


「何を! 今はお前が……っ!!」


 視界から消えていくだけではない。


 吾郎の心から。


 契約した時からずっと感じていた、魂を共有する温かな感覚。


 それが今――失われていく。


「これって……」


 彼女の気配が。


 吾郎の中から消えていく。


「契約時に俺にメリットはあるか、って吾郎は聞いたけど……私はちゃんと吾郎の役に立てたのかな」


 ぼんやりと希莉はそんなことを口にした。


「馬鹿そんなこと……っ」


 今はどうだっていい


「大事なことだよ……吾郎には恩返しをしなくちゃ」

「そんなものはいらん!」


 役になんて立たなくていい。

 ただ……傍に居てくれるだけでいい。


「おい、いなくなるのか!?」

「あははっ、吾郎焦ってる」

「茶化すなっ! おい、勝手にいなくなるのかよ!?」


 切羽詰った吾郎の声に答えたのは優しげな少女の美声。


「……楽しかったよ、本当に」


 その言葉が重くて。


「……やめろ」


 彼女の気配が、生命が、消えていく感覚が怖くて。


「吾郎と過ごした日々はさ。きっとこれから先も絶対に忘れないと思う。それこそ何億年経っても絶対に」

「やめろっ!!」


 そんな言葉は聞きたくない。

 もっといつもみたいに、馬鹿みたいにくだらないことを話したいんだ。


 頼むから。

 冗談だと言ってくれ……っ。


「俺はまだ希莉と一緒にいたいぞ……っ」


 震える声で吾郎は言った。


「……そう言ってくれるのは嬉しいよ、すっごく」


 希莉の声を耳にしながら吾郎の頭が次第に、熱を帯びていく。

 それこそ今までの人生で過去最高の熱さ。


(本当に彼女に伝えたい言葉はそんなことじゃないだろう?)


「……お前が来てから俺の日常はめちゃくちゃだ」

「あはは、ごめんね」


 違う。


「人間社会のことを全くわかっていないし、宿題の邪魔はするし、冷蔵庫のプリンは勝手に食べるし、学校で無断で出てくるし」

「うぐっ」


 違う、そうじゃないんだ。

 文句を言いたい訳じゃない。


「でも」

「……」


 それだけじゃない。


「それでも……俺は……っ!」


 もう一度彼女に会えたならば。


「楽しかった! お前が来てくれてからの日々は、本当に楽しかったんだ!!」 


 もう少しだけ。


「静かだった家の中がいつも騒がしくなって! 俺のご飯を美味しい、って言って食べてくれるお前がいて嬉しかった!」


 素直になると決めていただろう?


「俺の方こそ……お前にはすごく感謝しているんだ! もっともっとお前を楽しませてやりたい! お前が見たい物を見せてやりたいし、お前が望むことを一緒に叶えてやりたい!」


 3億年間。

 たった一人で地球上をさまよい続けてきた彼女が望むことを。

 悠久の孤独の果てに巡り会えた契約者である俺が。


 彼女の望みを。


「だから消えるな……っ!! お前にはまだまだ知らないことがいっぱいあるんだぞ!!」

「……吾郎」


 瞳に溢れる涙を隠すことなく少女は少年の瞳を見つめる。

 涙混じりの声は掠れ、すでに彼女の全身は向こう側が透けて見えてしまうほどまで消えかけていた。

 

 吾武希莉が――消えていく。

 

「俺は……」


 伝えたいことを伝えられないままにお別れをするのはもうたくさんだ。


 そんな思いはもう――2度としたくない。


 繋がりがどんどんと薄れ、彼女の存在が感じられなくなっていく。

 それでも伝えたい。


 ならば声を大きくすればいい。

 ここにきてヘマをするようでは男ではない。


 彼女に届くように。

 腹の底から。

 心の奥から。

 精一杯に息を吸い込んで。


 今――素直な気持ちを……っ!!



「俺は……お前のことが好きだ……っ!!」



 頭は沸騰したように熱く、頬は真っ赤に染まっていることだろう。


 だがもう止まらない。

 止まるつもりもない。


 驚愕の表情のまま、わずかに上気したような顔色の少女の瞳を強く見つめた。


「でも私は……精霊だよ?」


 人間に憧れる希莉の掠れ声。

 彼女の涙に滲んだ声が、さらにか細く消え入りそうなほど儚く響く。


「人間じゃ……ない」 

「精霊だとか……人間だとか関係なくっ!!」

 

 嘘偽りない本当の気持ち。


「俺は……っ!!」


 青臭い、と笑われてしまうような言葉なのかもしれない。

 しかし構うものか。

 笑う奴が居るならば、逆に笑い返してやればいい。


 青春なんて青臭いものだろう?


 誰が何と言おうと関係ない。

 これが俺の意志。


 それぐらいには彼女の事が――。

 

「郷田吾郎は!! 吾武希莉を!!」


 さぁ言ってしまえ。

 今の勢いならいける、いや今しかない!


 冷静さを欠いている、って?

 そんなことは百も承知だ。


 後先考えない馬鹿な男子高校生には、よくあることなんだ。

 細かい理屈を捏ね回すこともなく。

 ただその時の思いのままに。

 

 さぁ、声を大にして叫ぼうじゃないか!

 最高に恥ずかしい言葉に最高に熱い気持ちを乗せて!


 郷田吾郎、一世一代の大勝負!!


 

 「愛しているっ!!」



 高校生が口にするには重いフレーズかもしれない。

 けど彼女にはきっと伝わると思うから。


 否。



 『伝えたい』と思ったから。



 だから。

 

「吾郎……っ」

 

 僅かに残る彼女の温もりをこの腕にしっかりと抱きしめる。

 強く。

 もっと強く。

 吾郎は抱きついてきた希莉の身体を力いっぱい抱きしめ返した。


「離れたくない。一緒にいて欲しい」

「私も……だけど、だけど」

「わかってる」


 もうどうにもならないだろうことは、本当は吾郎にもわかっている。

 もはや彼女の気配はこれだけ傍に居ても感じられないほどに弱い。

 その力に逆らうことはおそらく出来ないだろう。

 吾郎も希莉も本能でそれを感じ取っている。


「ねぇ吾郎?」

「なんだ?」

「どうして」


 希莉は頬を染め、俯き気味に呟いた。


「どうして精霊が人間と契約するのか……わかった気がする」


 そう言いながら、彼女は吾郎の瞳を見詰めた。


「必要だからじゃないのか?」


 人間と契約しなければ顕現することが出来ない。


「もしかしたら、それもあるのかもしれない」


 吾郎の顔を至近距離で見つめながら。


「だけどきっと、本当の理由は……」


 希莉の言葉の途中。


「っ! 希莉っ!?」


 彼女の身体がもうほとんど視認出来なくなった。

 腕は何もない空間を虚しく切る。


「……ふふっ。こういう時は笑顔で別れるのがお決まりでしょう?」


 微かに見える彼女の笑顔。


「……ははっ、なんでお前がそんなこと知ってるんだよ」


 泣くな。


「えへへっ」

「くっ……!」


 泣くな……っ!


「笑ってよ、吾郎」

「ふ……っ、くっ!」


 瞼に涙を貯めながらも笑顔を絶やさぬ彼女を前に、男が泣いていていいはずがない。

 必死に涙を堪えた吾郎を見た希莉は一つ頷いた。


「うん」


 笑顔の彼女に向かって。


「希莉」


 最後にもう一つ。

 吾郎だって知っている、お決まりのセリフがもう一つあるんだ。

 こういった時、別れ際にはこう言うのだ。


「なに?」


「……『またな』」


「……うんっ」


 涙で滲んだ瞳で、必死に笑顔を浮かべた少年少女。


「またねっ、吾郎!」


 その言葉を最後に希莉の姿が完全に消え去った。


 そう思った矢先――。


「ん……っ!?」



 吾郎の唇が柔らかい何かに塞がれた。

 


 視認は出来ない。

 何も見えはしない。


 だが確かに感じた。


 

"私達精霊はきっと……"



 微かに響いてくる優しい声。

 


"『恋』を知りたいから……人間と契約するんだよ"



 ぼんやりとした意識の最中――そんな声が聞こえた気がした。






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