第十四話 父親
真夜中の三時半。
「くぅ……っ!」
尿意を催し、目を覚ました希莉は自室を出て(この前の事件以降、勝手に吾郎の部屋に潜り込むとめちゃくちゃ怒られる)、一階のトイレへと向かった。
それはいい。
用を足し、後は部屋へと帰るだけ、という道中で廊下に見覚えのない物体が転がっているのを見つけてしまったのだ。
まるで何かに誘われるかのようにして、ゆらゆらと廊下に設置されている箱のようなものに向かって歩き出す希莉。
そして気づいた時には、彼女は身動きを封じられていた。
戦慄の呟きが漏れる。
「これが……これがゴキブリ○イホイの力……っ!!」
驚愕し、驚嘆したよこいつには。
本能に導かれるまま、無意識の内にゴキブリの精霊である希莉は、小さな小さな箱に吸い寄せられてしまったのだ。
しかも顔から箱の中に突っ込んだものだから、べっとりと顎が粘着部分にひっついて、
「ぐぅっ! 取れ……ないっ!」
狭い箱の中に顎を引っ付けた間抜けな精霊がもがいていると、背後から声が聞こえてきた。
「なにやってんの、お前?」
「ひゃっ!?」
く……っ。
こんな時に限って吾郎も目を覚ますなんて!
「ふ……ふふっ。私の背後を取るなんてやるじゃないっ」
「そんな間抜けな姿勢の奴に言われても」
「むふーっ!」
じたばたじたばた。
「いやホントお前何やって……あっ」
そこでようやく希莉の状態を把握する吾郎。
「えっ、おまっ! もしかして!?」
手で口を押さえた吾郎は、思わず声を上げた。
「ぷっ、あっはっは! これ父さんが買ってくるゴキブリホイ○イじゃん!」
基本的に家の掃除は吾郎がやっているが、それでも学生の身分である吾郎だけでは、どうしても不備が出てしまうことは否めず、時々ではあるが、郷田家でもゴキブリの姿を見かけることがある。
吾郎同様に、大のゴキブリ嫌いである、吾郎の父親はよくこういった物を買ってきて家中に仕掛けるのだが……。
「あははっ」
今日の捕り物は実に大物である。
「むきーっ!」
じたばたじたばた!
「つーか別に床に固定されてるわけでもあるまいし……とりあえず立てよ」
「あっ、ホントだ」
廊下でもがいていた希莉は、顎先にゴキブリホイホイをくっつけたまま立ち上がり、吾郎へと視線を向けた。
その間抜けな姿ときたらもう。
「あっはっは!」
笑わざるを得ない。
「笑うな~っ」
「いや無理言うなって! つーか、ついつい忘れがちになるけど……」
やっぱり希莉ってゴキブリの精霊なんだなぁ、と吾郎はしみじみ実感する。
でなければ、こんな馬鹿げた事がありえようか。
「うぅ……取ってよ、吾郎ぅ」
涙目で懇願する希莉。
「う……っ」
その上目遣いは反則です。
反則級に可愛い。
だけど今だけは面白い。
「わ、わかったわかった。動くなよ」
赤く染まった頬を悟られないように吾郎は希莉の顎先にくっついた粘着部分を剥がすべく、引っ張ってみるが、
「いたたたたっ!」
じたばたじたばたっ!!
「動くな、っつってんだろ!」
「無理無理無理無理っ! 皮が……剥がれる……っ!!」
「怖いこと言うな! 我慢我慢っ」
「痛い~っ!! うわぁ~ん、おかあ~さ~ん!!」
「あんま騒ぐな! 今何時だと思ってんだ!」
つーか、希莉にお母さんなんていないだろうが!
ぎゃあぎゃあと騒いでいると案の定。
「吾郎? 一体どうし……」
寝惚け眼を擦りながら廊下へと歩いてきたのは吾郎の父親である、郷田幸宏だった。
「……」
「と、父さん……こいつはその……」
「むぅーむぅーっ」
己の息子と、見知らぬ少女を交互に見つめながら呆然とした表情の幸宏。
なにしろ、夜遅く帰宅し、昼前から出勤する幸宏は吾郎とは生活する時間が真逆と言っていい。
そのため常に吾郎と共にいる希莉とは面識がなかった。
とは言えさすがの吾郎も最近、自分の親は少し鈍感すぎる気がしており、なぜ気づかないのかが逆に不安だったが、ついに彼女の存在がバレてしまった。
「吾郎お前……」
「いや実はこいつは姉貴の……」
「それ、どんなプレイ?」
「おかしいだろ、その質問!!」
その「え、お前って変態だったの?」みたいな顔をやめろっ!
「あれ、ていうかこの子は誰?」
そっちの質問が先!
「あっ、いやこいつは」
「なるほどな」
「まだ何も言ってないけど!?」
「おっとスマンな、早とちりだったか」
「寝ぼけてるでしょ?」
「そう言えないこともなくもない感じだな」
「う、うぜぇ。つか父さん酒も入ってるな」
「とにかくもまぁなんだ」
いきなり真剣な顔を作った幸宏は深刻な声音で言う。
「明日聞くから、おやすみなさい」
「え、えぇ~……」
☆ ☆ ☆
翌朝。
「で? 彼女は?」
「いやその」
「吾武希莉ですっ!」
昨夜のゴキブリホイホイ事件については、あの後、一度吾郎の体内に入り実体を消したことで、容器だけを剥がすことに成功した。
こんな簡単な方法に中々思い至らなかった昨夜の自分が恨めしい。
「うむ、元気な娘さんだな、可愛いし」
「えへへ~」
「……可愛いな」
2回言うな。
「年甲斐もなくときめいてんじゃねぇぞ!?」
「ばばっ馬鹿を言うなお前ぇ。俺は母さん以外に心はゆゆっ、許さんぞっ」
「そういうセリフはもっとはっきりきっぱり言ってくれ!」
まぁ父さんも母さんが死んでから随分と経つし、もしかしたら再婚を考えているのかもしれないが。
「おおっ、俺のことはいいんだよ、この馬鹿。まったくもう、この馬鹿っ! で? この子はいったいどちら様?」
明らかに動揺している父親に対して。
「実は……」
吾郎は武夫や孝介達と同じように説明した。
幸宏は心の広い人物なので、これだけでも納得してくれるのでは、と淡い期待を抱いていたのだが、
「ふむ、それで彼女のご実家は?」
至極真っ当な質問が返ってきた。
「あ、いやその……」
さてなんと答えたものか。
「連絡先がわかるのならば、一度話をしたい」
真剣な表情で語る幸宏を前に、吾郎が必死に頭を働かせていると、隣に座る少女から予想外の言葉が飛び出てきた。
「わからないんです……」
(希莉っ!?)
突然、いつになく真剣な様子で俯く希莉。
それは寂しげで儚い、守ってあげたくなるような薄幸の少女を思わせる仕草だ。
彼女から何も話は聞いていない吾郎として、何故希莉が突然このような発言をしたのかが皆目見当がつかなかった。
「……」
しかしそんな彼女の表情を見た幸宏が言った。
「まさか……まさか彼女は……」
震える声でゆっくりと、驚愕の表情で言葉を紡ぐ。
「――記憶喪失だとでも言うのか?」
あ、なんか変な方向に勘違いをしてくれたぞ?
「そんな……漫画みたいな展開が?」
ホントだよ。
都合良く解釈してくれたのはありがたいが、少々父親の頭が心配になってきた吾郎は複雑な表情で椅子に腰掛けていた。
すると背後から。
「あれ? おじさんがいるじゃん」
「おっ、マジだ」
幼馴染2人の声が聞こえてきた。
「おう、いらっしゃい2人とも」
もはや勝手に2階の窓から侵入してきたことはスルーで幸宏は2人を歓迎する。
「珍しいね、おじさんがこんな時間にいるなんて」
何日かぶりに、幸宏の顔を見た響子が笑顔で告げた。
「久しぶりに休みをもらってね」
「3人で何してたの?」
「ん……孝介君達は彼女のことを知っているのか……?」
すでに希莉のことを知っている様子の孝介に彼女のことを尋ねようとした幸宏だったが、問いかける前に響子から答えが返ってきた。
「沙耶さんの知り合いなんでしょ? あれ、おじさん知らなかったの?」
「実はおじさん知らなかったんだよ、響子ちゃん」
「……いやいや父さんって普段家にいないから…………」
ジト目でこちらを見つめる幼馴染二人に吾郎がぼそぼそと言い訳をしていると、幸宏がやれやれ、といった様子で首を振った。
響子と孝介の乱入もあり、どうやら希莉の素性についての追求はここまでにしてくれるらしい。
幸宏は話題を変え、息子の友人に尋ねた。
「それで2人は何をしに来たんだい?」
「いや特に何、というわけじゃないんだけど」
「まぁ暇だったんで、遊びに行こうかな、と」
孝介と響子が、あはは、と笑いながらそう口にする。
「……そうかい」
二人の言葉に優しげな微笑みを浮かべた幸宏。
思えば昔からこの3人はそうだった。
特に何かがあるわけでもないのに、いつも一緒にいる3人組。
母が死に、今では沙耶まで家にはおらず、幸宏も毎日忙しく、吾郎と顔を合わせる機会はずいぶんと減ってしまっている。
親としては恥ずかしい限りだが、社会で働く人間である以上は、なかなか個人の都合を優先させることなど出来はしないのだ。
そんな家庭にありながら、息子が寂しさを感じずに毎日を過ごすことが出来るのは、間違いなくこの2人のおかげなのだと幸宏は思っていた。
高校生になっても、その3人の関係は変わらず、仲良く過ごす彼らを見ていると、自然と穏やかな気持ちになってくる。
幸弘は優しい表情のまま吾郎に言った。
「じゃあ吾郎。俺は2人と遊びに行ってくるから留守番よろし……」
「お前が行くんかいっ!!」
円満な家族関係を続ける秘訣は、お茶目さを忘れないことなのだ。




