第八話 朝日に向かって
真夜中の午前4時。
日は未だ昇らず、健全な市民が寝静まっている時分。
郷田家の屋根の上には二つの人影があった。
「お邪魔しま~す」
「うっひっひ」
楽しそうにひそひそと小声で話す二人の人影は言うまでもなく響子と孝介だ。
昨日は土曜日だったが、孝介はバイト、響子は部活。
二人とも一日中忙しかったために吾郎とは会っていなかった。
吾郎は普段から家事をこなしつつ、学校での成績を保つために勉強をしているので、土日は家で静かに過ごしていることがほとんど。
もちろん孝介達以外の友達と遊びに行くこともあるが、それでも休日は体を休めていることが多かった。
響子の所属する女子テニス部は基本的に日曜日は非活動日だ。
現在の顧問教諭の弁によれば体を休めることもアスリートの仕事であるらしい。
最近は孝介のバイトと響子の部活、それに吾郎の都合の折り合いがつかずに、休日を3人で遊ぶ機会がなかった(とはいっても2週間前に3人でバーベキューをしていたが)。
先週の始業式から2学期が始まり、暦も九月に突入した。
しかし太陽は未だに元気いっぱいであり、まるで秋の到来を感じさせない。
それどころか「あれ、なんか九月の方が八月より暑くね?」という感じの日々が続いており、吾郎達の学校も衣替えの期間ではあるが、冬服に身を包んでいる者などは皆無だった。
だから今日は3人でプールにでも行こう、という話をしていたのだがこの日に限って響子は凄まじく早い時間に目が覚めてしまったのだ。
時計を見ればまだ4時前。
二度寝をしてもよかったが、あいにくと眠気はどこかへと出かけてしまったようだった。
そしてなんとなく窓から吾郎の部屋の方を覗くと、明らかに変質者としか思えないジャージ姿の男が郷田家の屋根をよじ登っていた。
無論孝介である。
どうやら本当に珍しくこの変質者……もとい馬鹿野ろ……もとい孝介も目が覚めてしまったらしい。
それならば。
「さてさて吾郎の寝顔を激写してやるわ」
「響子……足音を立てるなよ」
不用心な話であるが、吾郎の部屋の窓は響子達がいつでも入ってこられるように基本的に鍵がかかっていない。
「わかってるわよ」
吾郎は毎日かかさずに早朝ランニングを行っているため、非常に起床時間が早い。
そのため、孝介と響子も中々吾郎を起こす、というイベントには遭遇してこなかった。
昔から一緒に遊んで、そのまま寝てしまっても、大抵吾郎が最初に起きてしまう。
そして吾郎がランニングから帰って来てからシャワーを浴び、ご飯の用意まで終わった頃になってようやく、吾郎の声で起こしてもらう。
それが日常。
だが今日先に起きているのは吾郎ではなく響子と孝介だ。
ニヤニヤと笑いながら、音を立てぬように慎重に窓をスライドさせる孝介。
「ふっふっふ」
写真でも撮ってやろう、とスマートホンを手にしていた響子。
「さ~って……吾郎の寝顔はいったいどん……な…………」
しかし。
「…………」
「…………」
響子の言葉は尻すぼみに小さくなっていき、あげくの果てには絶句していた。
そして隣で状況を理解した孝介も険しい顔をしている。
「みゅ~」
これは一体どういうことなのか。
可愛らしい声が吾郎のベッドの上から聞こえてきたではないか。
そう。
吾郎の腕を枕代わりにして寝ている美少女の寝息が吾郎のベッドから聞こえてくるのだ。
そしてその声の主が寝返りをうった拍子に曲げた肘が吾郎の顔に叩きつけられた。
「……んぁ」
寝ぼけ眼のまま吾郎が頭を動かす。
すぐに自分の右腕に何かが乗っているのを把握した吾郎が横を向くとそこには涎を垂らした希莉がいた。
「お前また……」
そう言った吾郎が希莉の頭をどかそうとするも、その途中であることに気がついた。
「え……」
自分を見つめる二対の視線。
「またってどういうことぉっ!?」
「ちっくしょう! 吾郎お前っ! お前ぇっこのぉっ!」
静寂を打ち破り響子と孝介の叫び声が吾郎の部屋に木霊する。
「んみゅ~?」
目を大きく見開いた吾郎は二人の侵入者に目を向け、そして隣で寝息を洩らす希莉の横顔を見て、
「……はぁ」
深い、深いため息をついた。
☆ ☆ ☆
「……吾郎の傍じゃないと落ち着かないんだもん」
「だもんじゃありませんっ!」
希莉には現在旅行で外出中の沙耶の部屋をあてがってある。沙耶がいつ帰ってくるのかはわからないが、他に彼女の寝る場所をすぐに用意できなかったからだ。
しかし希莉は毎日のように夜中になると吾郎の部屋までやってきて、吾郎のベッドに潜り込む。
彼女曰く、契約者の傍を離れられないのと同じ理由で、なるべく吾郎の傍にいないと不安になってくるらしい。
いやまぁ、美少女がベッドに潜り込んでくる、というのは男子高校生にとっては、とっても素敵なサプライズイベントであり、心躍るものがあることは否定しないのだけれども。
「はぁ……あの二人マジで誤解してたぞ……」
気が重くなってくる話である。
今朝、希莉と二人で寝ている吾郎を発見した響子と孝介はあの後、二人で顔を見合わせた直後に何も言わずに静かに吾郎の部屋から出ていった。もちろん窓から。
二人の表情には気遣いの色がはっきりと表れていた。
だって「吾郎は遠くに行ってしまったんだ……」って顔に書いてあったもん。
「今日のうちに誤解を解いておかないと……」
「私まだ眠いんだけどぉ……」
「おだまりっ!」
吾郎が今こうして頭を抱えているのは一体誰のせいだと思っているのか。
人の気も知らないでGの精霊は重たい瞼をこすっている。
客観的に見れば吾郎は誰が見ても美しいと評するであろう少女と同じベッドで寝ていたのだ。
吾郎だって思春期真っ盛りの男子高校生。
誤解されてしまうのも無理のないことではある。
希莉が人間ならば、の話であるが。
「おやすみぃ~……」
「あっ、お前まだ……っ」
話の途中で希莉はベッドへと倒れ込んでしまう。
さすがに吾郎はかちんときた。
時計を見ればすでに五時過ぎ。
「……」
ベッドで気持ちよさそうに眼をつぶっている希莉。
手早く身支度を済ませた吾郎は2階の部屋を出て、玄関へと向かっていく。
無論、早朝ランニングに出掛けるのだ。
靴を履き扉を開いた吾郎はダッシュで玄関から飛び出した。
「っ!? あわわわわぁ~っ!」
家を飛び出た吾郎が振り返るとそこには開きっぱなしの窓からベランダへとパジャマ姿のまま叩きつけられている少女の姿があった。
「いったぁ~い」
「馬鹿めっ! 少しは反省しろいっ!」
踏ん反り返って吾郎はベランダを見上げて希莉を指差す。
朝っぱらから、はっはっは、と大声で吾郎が笑っていると、自転車でやってきた新聞配達のお姉さんと目が合った。
「……」
「…………いや違うんですこれは本当にそのぉ」
「…………(にこりっ)」
「あぁっ! 待って本当にこれはなんていうかぁ……っ!」
忍者よりも素早く敏腕社長秘書(妙齢の美女)よりも無駄のない動きで新聞を郷田家のポストに突っ込んだお姉さんは、これからトライアスロンの大会に臨むアスリートのごとく真剣な表情で自転車に跨り、凄まじい速度で自転車を漕ぎだした。
その時の彼女は熟練の傭兵のような鋭い表情をしていた。
つまり密かに憧れていたお姉さまが今、並べられた万の言葉よりも重い笑顔を浮かべたかと思えば猛然と吾郎に背を向けエスケープしていったのだ。
「あぁ~……」
項垂れる吾郎。
先日のベランダ奇声事件の時に続いてまたしてもやってしまった。
いやしかし、よくよく考えてみればどちらも希莉のせいではあるまいか。
「吾郎っ! 私目が覚めたよっ! 一緒にランニング行くからちょっと待ってて!」
だが今朝の出来事と同じく希莉にはまったく反省の色が見えない。
まぁ先ほどの奇行に関して言えば吾郎にも責任があるのだが、今吾郎は少しだけ冷静さを欠いていた。
「誰がお前なんか待つかよぉおおおおっ!」
大人げなく吾郎はそう言い放つと朝日に向かって走り出す。
その後ろ姿はさながら昔の青春ドラマを連想させるのだが、
「ちょっ、吾郎いたいっ、私まだ立ってなっ! ……ぐぇっ!」
残念ながら背後15メートル付近に転がる、まるで何かに引きづられるように倒れ伏すゴキブリの精霊のせいで、シュールな絵を形成していた。




