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元川恵理子はキャンパス敷地内に設置されている喫煙所のうちの一つである本校舎外階段下で煙草に火をつけた。
本来ならば今日は講義も実習もないので恵理子がキャンパスに来る必要は無いのだが、来年度以降この大学を受験するかもしれない高校2、3年生の為の学校説明会の学生スタッフとして駆り出されていた。
恵理子の通う大学は所謂「専門大学」とも言えるものであり、最初の2年間は自分達の在籍している各学科の基礎課程を、その後の2年間は専攻コースという基礎課程で学んだ分野の中で更に専門的な知識・技術を養えるカリキュラムとなっている。
この大学の説明会は基本的に、各学科の主任教授や専攻コース主任教授とその助手、それに学内の全般的なサポートの役割を担っている「教務課」に在籍している教務員によって実施される。
しかし、それはあくまでも大学の全体的な説明に過ぎず、年に数回行なわれている説明会のうち約半分は恐らく他大学でも行なわれているが各専攻コースに在籍している生徒数名が自ら、高校生やその保護者たちにコースの学習内容を実践を用いて説明・案内する場が設けられていた。
正直に言うと恵理子は心底面倒に思っていたが、恵理子の在籍しているコースでは誰も説明会に参加してもいいと立候補する学生がいなかったので結局あみだくじで決めることになり、前回は逃れられたが今回は運悪くその一人に選ばれてしまったというわけだ。
他には3人、そのあみだくじで選ばれた同志がいる。
恵理子の在籍するコースは他のコースと比べると圧倒的に人口が少なく、およそ高校の1クラス程度しか人数がいない為、このような場面ではよくあみだくじが行なわれている。
(面倒だとは思っちゃいけないんだろうけど・・・やっぱ面倒だよなぁ・・・)
恵理子は煙をゆっくりと吐き出しながら思った。
高校生やその保護者に興味を持ってもらうことは大学側からすればデメリットなんてあるはずもなく、基礎課程を修了した後に選択するそれぞれのコース内容に興味を持ってもらうことはコースのより充実した学習へと発展するだろう。
それにより、不足している機材なりが増えるのであれば在籍している学生にとってもいいことだ。
けれども結論からして、休日を返上してこのようにキャンパスにくるということは、やはり面倒なのだ。
恵理子がフィルターに唇を寄せると一人の男が喫煙所の角からやってきた。
「あっ、リコやんお疲れー」
男が恵理子に気付き、気さくに挨拶する。
「うん、もっさんもお疲れー」
恵理子は煙を吐き出しながら返答したので、若干くぐもったような声になった。
もっさんこと牧口森哉はにこにこと笑みを浮かべながら、自身も煙草を取り出し錆色をしたジッポで火をつけた。
ちなみに「リコやん」とは牧口の作った恵理子に対する呼び方である。
一度牧口に何故「エリコ」ではなく「リコ」なのか、「やん」は何なのか聞いたことはあったが特に意味は無かったし、自身も別に気にしなかったのでそのまま定着していき、今ではほとんどのコースメイトからも恵理子は「リコやん」と呼ばれており、牧口も「もっさん」と呼ばれている。
牧口は深く煙を吸い込み、煙草は口に咥えたまま
「いやー、高校生って若いねー。おいたん疲れちゃったよ。」
と、左手で右肩をわざとらしく揉みながら言った。
それを見て恵理子は
「よく言うよー。私の方なんか機材説明してる時にまた接触不良が起こっちゃってどのスイッチ押しても反応なくてさ?説明してる子達から『えぇ・・・』っていう表情もらっちゃったんだからね!」
最後のほうではこちらもわざとらしく首と肩をがっくりと落とし、いかにも落ち込んでいますというように言った。
機材の接触不良は最近よく起こることで、原因は機材の古さにあるのだろうと思われる。
説明の最中にはせめてしっかり動くようにと前日にメンテナンスをしていたがやはり駄目だったらしい。
「それにさ、疲れたーなんて言ってるけどホントは女子高生を間近に見れてラッキーなんて思ってんじゃないのー?」
恵理子は上体を低くしてにやにやと牧口の顔を覗き込むようにして言った。
すると牧口は片眉を器用に持ち上げ、こちらもにやりと口に弧を描くと、
「バレた?」
何か悪いことでも企んでいたかのような声色を作って答えた。
牧口森哉は恵理子のふたつ年上の同学年だ。
もともと牧口は1年遅れで入学しており、恵理子が2年の時は別のコースに進んでいたが、そちらの内容が肌に合わなかったらしく、途中から休みがちになり遂には半年間の自主休講を経て恵理子の学年と共に現在のコースに入ってきたと恵理子は聞いている。
牧口は193cmと背が高く、がっしりとした体格、そのうえ視力が良い方ではないのに普段は裸眼で過ごしているからか目つきも細く鋭いので、初対面の人間には若干接しにくい相手だと思われることも少なくない。
恵理子自身も目つきがいいという人間ではなかったからか接しにくいという感情は発生せず、ただ
(この人でかいな。)
という感想しか持たなかった。
恵理子と牧口森哉がよき友人として接するようになったのは、ある講義での初授業でのことだった。
基礎課程で仲の良かった友人達はそれぞれ別のコースに進んでしまったので被っている講義が少なくなり、今までのように友人達と並んで講義を受けるということが中々出来なくなってしまった。
若干の寂しさを感じながら空いている前方の席へと座ると、講義の始まるぎりぎりの時間に慌ただしくやってきた牧口が入り口から一番近い席、あいていた恵理子の左隣に座ったのがきっかけだった。
この時に恵理子は牧口に対して先程の感想を、これまで学内で何度か遠目で見たことはあったが初めて間近で、しかも隣りあわせで見たので持ったのだった。
講義は事前に受講者に配布されていた資料が使われるというものだったが、牧口はその資料を忘れてきたらしく、途中で申し訳なさそうに恵理子に資料を一緒に見せてもらえないか頼んできた。
その時の牧口の表情を思い出すと、恵理子は今でも噴出しそうになる。
まっすぐとして無をかたどっているかのような眉は情けなくハノ字に下がり、細い目の中には申し訳なさそうな、不安そうな瞳の色が揺れ動き、薄い唇からはその目元とよく似た情けない声で助けを求める言葉が出てくる。
恵理子にはその全てが、実際にはそんなことはないのだが牧口の大きな体格を小さく見せているように思えてどうにもおかしくなり、噴出しそうになる自分をなんとか抑えOKを出したところ、今度は一変して嬉しそうな表情をし、礼を言う牧口を見て今度こそ噴出してしまった。
それ以降も同じコースということもあり、なんだかんだと共に行動することが多く、あみだで決まったはずのこの説明会人員にもこうして一緒に選ばれてしまったあたり、牧口と自分は何か奇妙な縁で結びついてしまっているのではないかとふと思ったりする。
もちろんその縁は赤い糸などというようなロマンチックというか痒くなりそうなものではないが。
牧口からは以前に在籍していたコースでは途中から休みがちになったと聞いてはいるが、現在のコースでは牧口が休んだことなど皆無なので、彼にとってこのコースは正解だったのであろう。
恵理子は牧口が同学年でありながら年上であることをはじめは知らなかったので、最初からくだけた口調で会話していた。
一見とっつき難い印象のある牧口だが、話してみるとそんなことはなく、むしろ表情豊かで気さくな青年であり、それがたった2つの違いではあるが年の差を感じさせない要因のひとつでもあった。
年下の恵理子や他のコースメイトがくだけた口調で話しかけても、それに対して難色を示された覚えが恵理子にはないので牧口も気にしていないのだろうと恵理子は勝手に解釈している。
事実、牧口は全く気にしていなかった。
1本目の煙草を吸い終わり、互いに2本目を楽しんでいると頭上から男性の声が降ってきた。
「おーい、そこの喫煙者2人組みー。そろそろ後半説明はじまるからきなさい。」
喫煙所の一つ上階の手すりから身を乗り出し、恵理子たちに呼びかけたのはコース主任の畠中教授だった。
教授とはいっても一般的にイメージするような小難しいようなタイプの人間ではなく、もともとこの大学内にはそのような教授は数少ないがかなりフランクで親しみやすく、学生のようなノリをもつ人物だ。
本人も堅苦しい物事を嫌い、学生の自身への呼び方を教授ではなく先生と呼ばせている。
畠中曰く
「教授って眉間にしわ寄せてハゲてる感じしない?そんなの俺は嫌だね。」
ということらしい。
別に教授とハゲはイコールにならないのではと思っているが、物事の捉え方は人それぞれ、そしてまだ年若い学生の大半も堅苦しいことが嫌いな人間が多いので畠中のような人物はみんな大歓迎なこともあり、この教授は他コースの学生からも人気がある。
「うへぇ!まだ半分いった位なのにぃ!」
牧口は顔を盛大にしかめた。
恵理子もまだまだ吸える長さだったので畠中に
「先生ぇー、これ終わったらすぐ行くからもうちょい待ってくださいよー」
と持っている煙草を畠中に向けてかざし懇願した。
恵理子はヘビースモーカーという程には吸わない人間だが、まだ吸えるのにさよならするのはもったいない、と思った。
そんな2人をよそに畠中教授は
「だーめー、今すぐ戻ってきなさい、というか煙草やめろ。俺みたいに禁煙しろよー」
最近の煙草の値上がりなどにより、喫煙者は今まで通り煙草を吸う者、はたまた禁煙する者に分かれたが、1日に2箱は軽く消費するヘビースモーカーだった畠中教授は後者の側だった。
特に畠中教授の場合は最近、初めての子供が2人も生まれたこともあり禁煙に専念している。
最後の悪足掻き、と恵理子と牧口は灰皿に煙草を押し付ける直前に深く煙を吸い込んだ。
恵理子と牧口は畠中教授の若干羨ましそうな表情を見てにやにや笑いながら
「いやー、値上がったとはいえまだ買えちゃう値段なんで俺は禁煙はまだまだ先ですね」
「私も。1箱五百円以上になったり他に何かしらのきっかけがあればやめますけどねー。妊娠とか?」
そんな二人の言葉に、特に恵理子の妊娠という単語に反応したのか畠中教授は顔をでれっと緩めながら
「おー子供はいいぞー。もう肌から何からピッチピチで柔らかいし、なんかいい匂いするし。俺の子供たちは将来絶対美しく成長するね!」
この台詞は畠中教授が双子の子供たちを自慢する時の代名詞と言ってもいいだろう。
「でも学生のうちに妊娠したら色々と大変だからまだしないほうがいいと先生は思うぞ。」
「いやしないですよ?例えですよ?」
そんな軽口を交わしながら恵理子と牧口は名残惜しい気持ちを抑えて煙草を灰皿に押し付け、喫煙所からの階段を上り畠中教授と合流し、説明会会場へと歩みを進めた。
ふと、恵理子は立ち止まって空を見上げた。
午前中には重そうな雲が横たわり、どんよりとした色をしていたが、今は青色がほとんどを占めていて雲は少ししか浮かんでいなかった。
空を見上げたまま、視線だけを前に戻すと、少し先で牧口と畠中教授が笑いながら何かを言い合っている。
どれほどの時間が経ったのかはわからないが、気付くと先程よりずいぶん離れた場所から牧口と畠中教授が自分を呼んでいる声が聞こえた。
二人の気の抜けるような笑顔を見たら、何故だか安心するような感覚がして、恵理子は早足で二人を追いかけた。