闇夜の訪問者
四部中、第三部となります。よろしくお願いします。
オレは一人で薄暗い校舎の中を歩いていた。辺りは静まり返り、響く足音はオレ一人分だけ。真夏だというのにさっきから背中に滲みるような寒気がさざ波のように押し寄せている。それは敵の殺気なのか、それともこの緊張した雰囲気にオレが負けているからかは分からない。
きっと敵は潜んでいるに違いない。オレはそう踏んで自分が囮になると土御門に告げた。当然土御門は猛反対したが、オレが標的である以上狙われているならそれを利用すればいい。つまり敵はオレを追い、土御門が敵を追う。きっと敵も一人で来た以上相当の自信家だろう、意表を突いてやればあるいは……。
長い廊下に差しかかる。日も落ちてしまい、月が照らす薄明りでやっと見える程度だ。すぐそこに敵がいるかもしれない、そう思うと今にも引き返して逃げ出したかった。でも多分、その行為事態が死亡フラグになってしまうだろう。立ち止まるわけにはいかない。
廊下の中ほどに差しかかった時、かつん、かつん、とどこからか足音が響いてきた。
尋常ではない量の汗が体中から噴き出した。こんなにも汗って出るのかと驚いてしまう。まるで頭の上から蛇口をひねったようだ。
敵か? いや、敵ならば普通は潜むはずだろう。もし敵が土御門レベルに強いんだったらお互い何かを感じているのだから、敵も土御門の存在には気付いているはずだ。つまり自分から居場所を教えるような真似はしないだろう。ということは学校の裏支配者と噂の用務員のおじさんか? その可能性は十分ある。となると好都合だ。敵も一般人を巻き込みはしない。このまま用務員のおじさんと学校外まで一緒についてきてもらって――。
もう廊下のすぐ先、曲がった先に階段がある。その階段をゆっくり降りてきている音がする。
オレは少し足早にその音の元に向かった。早くこの緊張から解放されたい、その一心で向かった――が、オレはある違和感に気付いた。懐中電灯を使っていない。いくら用務員のおじさんがこの学校を歩き慣れているからといって、あのトレードマークとも言えるべき懐中電灯を使わずにこの暗がりの階段などを行き来することができるのだろうか? あの用務員のおじさんはいつも首から懐中電灯をぶら下げて使っていた。……つまり、あの足音はオレを殺す――敵だ。
しかし時既に遅し、体中の薄皮を針で刺されるかのような殺気がオレを襲った。
「う、動けない!?」
あまりに禍々しく恐ろしい殺気に足が竦んだ。もう自分の意思でどうこうなる問題じゃなかった。自分の体が言うことを聞かない。その矛盾に筋肉だけ自分の体から離脱したのかと錯覚し、慌てて自分の体を見回す。しかしそこには小刻みに震えた細い体があるだけだった。そしてオレが顔を上げた瞬間、敵は曲がり角から姿を現した。
敵はオレの姿を確認すると廊下に剣を突き刺し、金属の反響の残る中口を開いた。
「我は正義の監督者、己の正義を貫き、我が主に寄り頼みて刑を執行する者なり。我が天秤は、一切の偽りを乗せることなく平等に下し、科人を一片残らず殺し尽くすことをここに誓わん。この剣を振り上げし時、我は科人に永遠の生を祈らん。さすれば汝血と肉を以て罪を地に流し、清められんことを」
一言一言発する度に辺りがビリビリと振動するほどの野太い声に心底驚いた。それもそのはず、二メートルは有に越す身長に、かなり大きめのコートの上からでも分かる丸太のような全身の筋肉、肺活量がないわけがない。虎のような目に逆立った髪の毛、逆十字のネックレス。一見悪魔崇拝主義のパンクバンドマンに見えなくもないが、その威圧感は正に悪魔だった。そして……オレを殺す武器であろう剣は、両手持ちの大きな剣で、何やら文字が書かれていた。残念ながらオレの英語成績は五段階中一だから読めないし、まずその文字が英語かすら分からない。さぞかし斬られたら痛いのだろう……いや、あの極太の腕が扱えばオレなんか真っ二つになるだろう。そして何より、無精髭を歪めながらずっと笑っている口が印象的だった。
「血の流れる夜に相応しいな、小僧」
唐突にその年配の大男は口を開いた。オレは後ずさることもできず、その大男が革靴を廊下でコツコツと鳴らしながら近付いてくるのを黙って見ているしかなかった。
「なるほど、確かにただの小僧だ、目にも覇気がない。私は貴様が何の罪を犯したのかは知らないが、大人しく地に伏せ首をこちらにもたげてくれるとありがたい」
足元近くまで覆うコートの裾はボロボロで、まるで剣先のように鋭い岩場を歩いてきたかのようだ。
「我は正義、正義とは己の中にあり。小僧、貴様にも正義の心はあるのだろう、しかしそれは他者には通用しない。私には通用しない。いくら貴様の正義を神が正当化しようとも、私の正義の前には通用しない。正義と正義がぶつかり合った時、証明できるものがあるとすればそれは力だ、力こそが己の存在の証明だ。だから小僧、大人しく諦め、己の正義の弱さを呪え」
「そ、それが正義だと?」
極寒の地にいるかのように、歯と歯がぶつかり合う中ようやく出せた言葉だった。
「ほう、そう私に問い掛けるか」
「ああ、力があるからそんなことを言えるんだ。あんたがいくら強かろうと、正義は正しいことをした人こそが語れるんだ。今あんたは、罪のないオレを殺そうとしてる。それでも正義だと言えるのか」
その大男の足音に乱れはない。ただ真っ直ぐにオレに向かっている。
「私は一切の分け隔てなく、私の目の前に立った者を残さず殺している。女でも子供でも、些細な矛盾を残すことなく己の正義を貫いている。それにだ、貴様は〝正義は正しいことをした人こそが語れる〟と言ったな。ではそれを決定する者は一体どこにいるのだね? 一体どこの誰が証明するのだね? 人間か? それなら私も人間だが? もしそんなことをのたまう愚か者がいるのなら私の前に連れて来なさい、公平に切り刻んでやろう」
ダメだ……完全にイカれてやがる。しかし、とても不思議なことにその大男の瞳はとても純粋に見えた。
「いいではないか、若いうちに死ぬのもまた一つの幸せの形だ」
もうその大男は、オレの触れる目の前にいた。足音も止まり、剣を振り上げ風を斬る音が聞こえた。
「さらばだ、小僧」
「させません――『怨伐斬!』」
大男の更に奥、廊下の端からその声は聞こえた。やった! 土御門はこの大男の背後を取れたのだ。
次の瞬間、凄まじい風が吹き抜けたかと思うと土御門はいつの間にかオレの背後にいた。腰を屈め、鞘に刀を収めた状態で抜刀の姿勢をとっていた。そして、後から金属同士が擦れる甲高い音が響いた。土御門はオレの襟首を掴むと、その大男から距離をとった。
「ほう、速いな……。なかなかやるではないか」
「あなたが……サー・ヒッチコック。どこかで聞いたことがあるかと思えば、『魂売り』じゃありませんの。とんでもない有名人がお越しになったものですわね」
「随分と懐かしい名だ。その名を知っているということは貴様、民間人ではないな。それにその力、並みの使い手ではないようだ……しかし、まだまだ未熟だな」
ヒッチコックは剣を上下に振り下ろした、その際床に点々と血が飛び散る。――一体、誰の血だ?
直後、土御門がぐらりと姿勢を崩す。オレは慌てて土御門の体を支えるが、ぬめりとした血がオレの手を染め上げた。
「申し訳……ございません善治くん、敵はどうやら私に最初から気付いていた模様、剣先を僅かに反らされ肩を負傷しました。ですが軽傷、傷は浅いです」
どうみても血の量からして軽傷じゃない。――オレは、女の子に戦わせて、一体何をやっているんだ!
「小夜子、刀を貸してくれ」
「いけません、善治くん」
「オレは自分のせいで女の子がこんな状態になって、黙ってられるほど心が寛大にできてねーんだ!」
「お黙りなさい! ……失礼しました。しかし、善治くんは確実に私より弱い、それでも向かっていくというのならアナタはただの馬鹿です。ただの馬鹿は何も生み出しません。それで上手くことを運べるのはアニメや漫画などだけです。精神論を押し付け道を切り開くというのは、想像の世界だけなのです」
嵐のような怒りが、完膚なきまでに打ちのめされる。確かにオレは……弱い、弱すぎる。
「さあ、お逃げ下さい。善治くんがここでやられてしまったら、私の生きている意味、存在価値がなくなります。それ即ち、私にとって死と同義。……善治くんは、女の子に死を強要させるのですか?」
土御門はこの上ない満面の笑みでオレを見詰めた。
どうして……どうしてそんなに笑顔でいれるんだ。これから死んでしまうかもしれないのに、どうして……。
「どちらがかかってくるとしても結果は同じだ。私は一切の分け隔てなく、平等なる死を与える」
ヒッチコックは首をコキリと鳴らし、口を三日月のようにひん曲げ、さも嬉しそうに笑みを浮かべていた。――きっとヒッチコックの言うことはその通りになるのだろう、それを知っているのだろう。その自信の表れなのか……いや、きっと彼のような男は、どんなに自分より強い敵に対しても同じように接するのだろう。
「さあ、対等に正義をぶつけ合おうではないか。正々堂々と、殺し合いをしよう」
なぜならヒッチコックには、意外にも一切の余裕が感じられない、容赦もない、オレ達を逃がす気もさらさらない……ただ、この凄惨な状況を、ただただ全力で楽しんでいるのをその笑顔が物語っていた。それは貧弱なオレと手負いの土御門に対してもだ。つまり、彼は兎を狩るにも全力の獅子。きっと彼はいつもこうなのだろう。いつもこうやって、気を張り詰めながら楽しんでいるのだろう。
「さあ、もう少しは楽しませてくれるのだろう? でなければせっかく日本に来たというのに酷い扱いじゃあないか。客人を楽しませんのは無礼極まりない」
「いいでしょう、客人の御持て成しは妻女の務め。命を燃焼し全力でお相手します」
……ん? さ、妻女!? さりげなく、しかし当然のようにはっきり告げられた言葉に、女子耐性がないオレの心臓はご丁寧に動揺した。しかし今はそんなこと気にしている場合じゃない。早く逃げる算段を――。
――次の瞬間、窓を叩き割る音と同時に廊下に何者かが転がり込んできた。明らかに着地をする気もなく、体を投げ出した状態で廊下に転がった。多分今ので骨の一本や二本折れてしまっているだろう。
「善治殿、小夜子殿! お逃げ下され!」
飛び込んできた主は、あの暗殺集団六地蔵の爺さんだった。体中血だらけで……あったはずの片腕が、見当たらなかった。
「じ、爺さん!」
「ほう、貴様は確か……。そうか、ファニー・ローが仕損じたのだな。よかろう、ならば私が相手をしてやらなくてはね」
ヒッチコックは剣を壁に擦りつけ、金属音と共に激しい火花を散らせた。同時に爺さんもあの巨大な大剣を片手で構える。
「お行きなされ、お二人で遠く遠くへ逃げなされ。この老いぼれ、お主らのような若者に命を繋ぐことを誇りに思う!」
「行きましょう! 善治くん!」
「ま、待って! まだ――」
土御門は嫌がるオレの服の襟を掴み上げると、爺さんの割った廊下の窓から飛び降りた。同時に、爺さんの最後の発声であろう闘志を燃やした咆哮が聞こえた。――学校からどれだけ離れても、あの爺さんの咆哮が耳から離れることはなかった。
*
土御門はどうやらオレの家へ向かっているようだ。相変わらず手を引っ張られたままオレは引きずられるように走っている。でも正直それが有り難かった。今手を離されたら、オレはきっとその場で石のように蹲って動かなくなってしまうから。
「ねぇ」
その時、不意に曲がり角から小さな女の子が声を掛けてきた。
「私迷子なの、お兄ちゃん」
暗がりの闇から唐突に、電柱の光を半身に浴びた色白の女の子が姿を現した。黒いエプロンドレスのような服を着ている。くしゃくしゃの髪は無理矢理ツインテールにしているようで、かなりのボリュームだ。それがくすんだ金色だから子供サイズの人形のようで不気味だ。その不気味さを助長するかのように胸には悪趣味な人形を抱えていた。目を表すはずの赤いボタンは片方しかなく、お腹は無尽蔵にあらゆる色の毛糸や細い糸で縫われている。そのせいかあちこちがほつれていて、人形自体がハンパなく恐い。自分の部屋に置いてあったら、間違いなく土御門の神社に持っていくだろう。
年齢は……まだ小学生くらいだろうか。確かにこんな暗がりで、一人でいるには少々危険かもしれない。それも迷子だと言うのだから放っておくわけにもいかないだろう。
「どうしたの? お母さんやお父さんは一緒じゃないの?」
「あのね、お父さんもお母さんもいないよ」
「そっか、じゃあ家族はお家にいるんだね」
「ううん、ずっといないよ」
少しマズいことを聞いてしまっただろうか。そう思いその女の子と視線を合わせるためにしゃがもうとした時、土御門に強く引っ張られる。
「善治くん、その子供……変です」
「変って? あんまり可哀想なこと言うなよ。まだ子供だし大丈夫だよ」
きっと土御門も今までのことで少々神経過敏になっているのだろう。確かに土御門の傷の具合も気になるけど、いくらなんでもこんな小さな子供を無視するわけにはいかない。
「小夜子、悪いんだけど先に帰って傷を――」
くいくい、と服の袖を引っ張られる感覚に視線を落とす。
「ねえねえ、お兄ちゃん。片腕がなくなっちゃったお爺ちゃん、知らない?」
ぞわり、と全身の毛が逆立つ。女の子は笑顔なのだが、目が笑っていない。
「あのお爺ちゃんどこ行っちゃったのかなあ。えーん、早く見付けないとシムド様に怒られちゃうよぅ」
その言葉には全く感情が籠っていなかった。あんな笑顔なら、口が笑っているのだから多少感情が籠っていてもいいはずなのに……。まるで無機質な機械音声だ。
「善治くん、その子供から離れて下さい」
「離さないよぉ、えへへ」
言われた通りに離れようとしたが、女の子はしっかりと服の裾を握ったままで、びくともしない。
「斬る……」
土御門は容赦がなかった。その子供の腕ごと斬ろうとしたのだろう――が、女の子はあろうことかオレを土御門の放つ剣筋に引き寄せたのだ。
後一ミリほどでオレの顔に刃が喰い込むところだったが、土御門はなんとか刀の動きを止めた。
「惜しかったね、お兄ちゃん! 私の名前はエンリコ・ファニー・ロー、あなた達が噂のターゲットかぁ、そこのお姉ちゃんは結構強そうだね」
とても無邪気な笑みだ。
「こんな……子供まで……」
「子供? 違うよ、天使だよ」
何だこの子供は……。そう思っていたが、どうにもオレにはそのファニー・ローという女の子よりも隣に立つ土御門の様子がおかしいような気がして仕方がなかった。さっきから独りでブツブツと何事か呟いている。少し耳を傾けてみると。
「私の刀を善治くんに向けた……私の刀を善治くんに向けた……私の刀を善治くんに向けた」
マズい、とてもマズい状況だ。このおかしな二人に挟まれたオレは一体どうしたらいいのだろうか……。少し成り行きを見守ってみよう。そうだ、おかしな者同士案外平和的解決をしてくれるかもしれない。
「あれれ~? お姉ちゃんさっきから変だよぉ?」
「――に向けた……ああ、早くこの子供を始末しなくては善治くんに顔向けできない」
「もしかして怒っちゃった? 怒っちゃ嫌だよぉ」
……会話にすらなってない。オレがこの状況を打破しようと口を開いた瞬間、ファニー・ローの持つ人形が不気味に膨張し蠢いたかと思うと、自身のお腹を裂き一本の触手をオレの首に巻き付かせ絞め上げた。
「っな!?」
得体の知れない感触が首に纏わりつく、まるで水分を全く感じさせないしわしわの老人に首を掴まれているようだ。
「これ、いいでしょ。五十人分の人柱でできてるんだぁ。コレットちゃんっていうんだよ」
ぎりり、と首に干からびた何かが喰い込む。それはオレの体を持ち上げるほど強く、一瞬で意識が遠のいてゆく。
「ぐ……う」
「あはは、いい声いい声」
しかし、土御門はそれを黙って見ているほど狼狽してはいなかった。即座にその触手を、豆腐を斬るかのように斬り落とした。同時にオレの体も地面に投げ出される。
人形は斬られたことに痛みを感じたのか、老若男女全ての絶望の悲鳴を混じらせたような叫び声を上げた。それは耳をつんざくような悲鳴で、オレは聞くに堪えず思わず耳を塞ぐ。
「あああ、私のコレットちゃんになんてことするのよぉ! 可哀想じゃない!」
「随分悪趣味な玩具を持っているのね、あなたみたいな子供が持つにはまだ早いんじゃなくって?」
「子供じゃないもん! シムド様が私は天使だって言ってくれたんだもん!」
「あらそう、天使……ということは例の実験も完成していたのね。……でもそれにしては油断していたのではなくって? その時間からタップリと仕込ませて頂きました」
土御門はにやりと微笑むと、ファニー・ローの視線を誘うかのように周囲を見回した。
「……結界?」
ファニー・ローの瞳が鋭くなる。
「この結界に囚われた者は全ての希望を捨てなければならない」
オレはなんとか呼吸を確保することに成功し、視線を辺りに巡らせる。いつの間にかいたる所に護符のようなものが張り付けられ、土御門とファニー・ローを囲むように青白く光っていた。
「あれれー? これって東洋術式……? まだ使える人がいたんだ」
「あの『魂売り』とは違い、あなたが隙だらけで安心しましたわ。例の実験も大した成果を残せなかったようですしね。成果と言えばせいぜいアナタの抱えているお人形さんくらいですか?」
「私のコレットちゃんを馬鹿にするなー!」
ファニー・ローは地団太を踏むと、再度口を開く。
「隙だらけなのはお互い様だもん。お姉ちゃんが術を発動させる前にさっさと逃げちゃうもん! ぷんぷんだもん!」
「この結界から出られると――」
ばちち、と火花が散るかのような音が聞こえ、ファニー・ローの体が発光したかと思うと、既にそこにファニー・ローの姿はなかった。あの土御門達を取り囲んでいた青白い結界もいつの間にか消えており、白かった護符も真っ黒の消し炭と化していた。
「次は殺すからね」
どこからともなく、そんな声が辺りに響いた。
「逃げた……のか?」
オレの問い掛けに土御門は黙って黒焦げになった護符を拾い上げる。するとそれは土御門の手からぼろぼろと崩れ落ちた。
「彼らは必ずまた来ます。しかし……まさか人工天使遺伝子が完成していたとは。私の結界を破るほどの力を……」
「人工天使遺伝子って、一体何なんだ?」
オレは全く会話が飲み込めず、深刻な顔で俯く土御門にそう問い掛けた。
「私達組織が阻止しようとしてきた実験でございます。通称『外道の天使計画』、遺伝子配列を強引に変換させ新たな遺伝子を組み込む、人間のまま神に近付こうとする愚かな行為です。それらをあのマイさん達のような、貧困層に投与する実験です。あのファニー・ローの抱えた奇怪な人形を見ましたか? あれは遺伝子を組み込む際に失敗した人間の『残骸』です。……そして、あのファニー・ローという少女、あの言葉から察するにきっと彼女は人工天使遺伝子の成功者……。能力は未知数ですが……私の結界を破ったということは……」
白石の言葉が脳裏に蘇る、――人体実験――。事実だったのだ、少しオレもその突拍子もない話に些か疑問を持っていたものの、今の光景を目の当たりにして確信した。
なんて……残酷な。
オレはその突拍子もない事柄に驚くことよりも、怒りの方が勝っていた。ふつふつと沸き上がるどす黒い感情が胸から込み上げてくる。それを口から一欠片もこぼすまいと、土御門が時折心配に思って問い掛けてくれるが、オレは口を開かなかった。
** *
シムドは爪を噛み、神城善治のことに頭を巡らせていた。彼は一体どういう男なのだろうか、自分より優れているのか劣っているのか。どちらにしろ、シムドには確固たる意志がある。人は生まれながらに平等ではなく、己はその中でも最上級の生まれを手にした。一見自分の技量や、才能、有能さなど一切関係ないかのように思えるが、それは違う。実際には必要なのだ。しかし全て必然、神がそれを王になるべき己に望み、己はそれをあるがままに受け入れる。即ち世の理の中に己は存在し、世界がそれを望む。それ以外の者、邪魔する者は立ち入ってはならない領域、王となる生まれと才能を持つ者のみの領域である。それなのに、彼は平民の神城善治を無意識に危惧していた。もしかすると……自分より有能であるなら、自分の出生の分を上回る才能があるなら、自分の存在価値が危ういと。
シムドの目の前に三人の女の子が姿を現した。その背後ではレイセンが恭しくお辞儀している。
「遅くなりましたシムド様、報告を――」
第一声、マイが頭を下げレベッカやシキがそれに続く。
「いらん、そんなことよりも父上より重大な通達がある」
シムドは跳ね除けるかのようにマイの言葉を一蹴すると「マイ、お前は席を外せ」とレイセンに目配せした。当然マイは困惑の色を隠せない、レベッカやシキも同様だった。
レイセンに連れられ、マイは何度かレベッカ達を振り返りながら部屋を後にした。そこに残されたレベッカやシキも少し居心地が悪そうに立ち尽くし、シムドが言葉を発するのをただただ待っていた。
「シキ、レベッカ、お前達に特別任務だ」
シムドは小さな体に反し、とても大きな椅子に腰掛けると頬杖をついた。
「――マイを殺せ」
部屋の空気が重く圧し掛かるように止まる。レベッカとシキは一体何を言われているのか分からず、ただその言葉を何度も何度も頭の中で繰り返した。時間を掛け、ようやく理解したのはシキよりもレベッカの方が早く、その流れで口を開いた。しかしそれも、たどたどしく言葉に詰まりながらやっと出せた言葉だった。
「一体……どうしてなんですか?」
「理由は言えない」
レベッカはその言葉にビクリを体を震わせると、喉の奥の嗚咽を押し殺しながら再度口を開いた。
「……言えよ」
レベッカの拳がわなわなと震えている。しかし頭では理解しているのだ、マスターの命令は絶対だと。しかしマイは自分の家族でもある。その双璧に圧され自分でも何を言っているのかは分かっていなかった。
「テメェ……ぶち殺すぞ」
レベッカは腰から拳銃を抜き放つ。しかしシムドはマスターの息子、彼に銃を向ければレベッカも殺害対象になってしまう。銃口がシムドを捉える一瞬、シキがレベッカの腕を止める。
「……レベッカ……落ち着いて。……シムド様」
「なんだい?」
シキとシムドはお互い視線を交える。シムドのオッドアイの瞳は、こんな残酷な言葉を使ったにも関わらず澄んでいた。シキも感情の見えない瞳でシムドを見詰める。
「……その命令は……絶対ですか?」
「絶対も何も、お前達マスター直々の命令だよ」
「どうして……私達なんですか?」
シキの無感情で浮き沈みのない穏やかな声が一瞬震える。
「お前達ならあのマイを殺せる、マイはお前達だけに対しては心を開いているみたいだしね。お前達に頼むのが確実な方法ということだ。こちらも無駄な損害を出したくないものでね」
この一言にレベッカは野獣のような咆哮を上げた。人間であることを忘れ、野生の本能をさらけ出したような、とても悲痛な咆哮だった。涙を流し、その場に崩れ落ちるように跪き天を仰いだ。それを包み込むようにシキがレベッカを抱きしめる。
「さあ、ヒッチコック先生と合流しろ。隙あらば今すぐにでもマイを殺すんだ」
レベッカはぶちぶちと血管が千切れてしまうのではないか、という形相でシムドを睨み付けていたが、再び銃を構えるようなことはなかった。それは組織への忠誠のおかげで自制できているのだろう。
シキに連れられ、レベッカと二人でよりそうように部屋を後にする。部屋を出る間際、シキがシムドに一瞥した。――その瞳は凍てつくかの如く深く暗く、冷たかった。今まで様々な恨みを買ってきたシムドだったが、その一閃には背筋に悪寒を覚えた。
「家族……か」
シムドはシキが立っていた場所に視線を移す。そこには強く拳を握り過ぎて、部屋の外まで血が点々と落ちていた。
「僕は……」
シムドは一瞬寂しそうに口元を歪めたが、すぐに表情を固めた。自分は王たる資質を持っている、それを自覚しなければならない。いつだって王とは何かを犠牲に、家族をも犠牲にしなくてはならないと歴史が証明しているからだ。
彼は王を目指し、王たる資格を求めていた。
** *
オレの家へ到着するなり、土御門は力尽きたようにへたりこんだ。
「さ、小夜子! ……早く止血しなくちゃ」
土御門の血は止まっておらず、今尚流れ出る血をオレは止血した。包帯の巻き方なんぞ知りもしないので適当に巻く。もちろん少し服をはだけさせて頂いたが緊急事態なので仕方ない。しかし不幸中の幸いか、傷は見た目よりは浅くオレの施す簡単な処置でも事無きを得そうだ。
「ああ、善治くんに介抱されるなんて……光栄の極み……」
「何馬鹿なこと言ってるんだ。さあ、少し安静にしてないと――」
「嫌ですわ善治くんたら、せっかく二人きりになれましたのに」
すっと土御門の両手がオレの首に回る。月明かりに照らされる土御門の唇は妖艶で、それが徐々にオレの顔に近付いてくる。介抱した後だから土御門の服は乱れたままで、たわわな胸がオレの薄い胸板に押し付けられる。そのあまりにも柔らかい感触と、押し付けられ今にも衣服からこぼれそうなほど艶やかな張りのある胸がオレの視線をくぎ付けにする。
自分の心臓の音が耳元で聞こえる。
「ちょ、さすがにマズいって!」
「……いいでは、ありませんか」
ヤバイ! もう後数ミリで唇が触れる――が、土御門はそのままオレの唇を通り過ぎ、力なくオレの肩に頭を押し付けた。
「え……と、小夜子さん?」
体を預けられたまま、土御門は小さな寝息を立て始めた。
「寝た……のか」
それもそうだろう、こんなになるまで戦い、傷付きながらもオレを護ってくれた。疲れていて当然だ。
土御門の体をそっと布団の上に寝かせ、タオルケットを掛けてやる。
「これでよしっと」
――後は、オレができることをする。土御門を巻き込むわけにはいかない。
オレは昔母さんに買ってもらった金属バットを部屋から引っ張り出した。これでどうにかなる相手とは到底思えないけどないよりはマシだろう。その場で二、三回素振りをすると不思議と勇気が湧いてきた。
「よし、行くか」
月の照らす薄明りの中をゆっくりと歩く。どこに向かえばいいものか見当もつかないが、こうして歩いていれば敵からオレを発見してくれるだろう。
案の定、オレが近所の空き地に差しかかった時、奴らは音もなく既にオレを取り囲んでいた。――後はオレがどこまでやれるか……だな。
電柱の上、屋根の上、両脇の道路、オレを取り囲むように行く道全てを塞いでいた。その中にはマイ、レベッカ、シキの姿も見える。
「小僧、諦めて首を差し出す気になったのかね?」
ヒッチコックは巨体を揺らしながら、こちらに向かって狂気の混じる笑顔を浮かべた。
「そんなまさか」
震える体を押さえ付け無理矢理でも笑ってみせようとしたが、平凡な高校生であるオレにできるはずもなかった。ただでさえおぞましい、押し潰されそうな雰囲気がより一層深まっていった。よく見ると、ヒッチコックの他にもファニー・ローやあの燕尾服を着た二枚目男もいる。
「なら一体何をしに来たというのだね? 貴様如きに我々がやられるとでも? その細い棒きれで私に殴りかかるのかね?」
オレは自分の持つ金属バットとヒッチコックを見比べる。確かに彼にとっては棒きれ同然だろう、多分指一本の一突きでヘシ折れるんじゃなかろうか。それでもオレは……こんなことに臆しているわけにはいかないんだ。オレができること――それは――。
「会話を……しようぜ」
――喋れ、プライドを捨てて喋りまくれ。一番最初だってマイはオレを殺そうとしたけど、なんとか喋りまくって今こうして生きている。オレはここにいる皆のように、土御門のように強くない。でも、もしこの状況を覆せるとすればそれは、唯一オレが持っている武器――言葉だ。
「オレは――」
そう口を開いた瞬間だった。突如ファニー・ローと二枚目男がアスファルドの地面の上に片膝をついた。
「キミが僕の兄さんか」
暗闇の中から銀色の小さな光が一つ浮かび上がる。それがその声の主の瞳、少年のものと気付くのにしばらくかかってしまった。もう片方は普通に黒く、目と気付きにくかったからだ。
「に、兄さん? オレに弟がいた覚えなんてないな」
妹はいたが、今はどこにいるか分からない。しかしそんなことよりも、あの少年が一体何者なのかということの方が重要だった。まだオレより一回りも小さなその少年に、二枚目男とファニー・ローが従者のように片膝をついている、ということは……噂の〝マスター〟だろうか。
マスター、という言葉を思い浮かべるとふつふつと怒りが沸き上がる。――人を物みたいに扱いやがって。
「お前がマイ達のマスターか?」
「僕はいずれマスターになる。でも残念ながらそこにいる大男と三人の女は違う、〝あれ〟は父様のものだ」
よく分からないが、どうやらこの少年は〝まだ〟マスターではないらしい。
「申し遅れたね、僕の名前はシムド。ザークロイツェフ・ノギ・シムド、初めまして兄さん」
「だからオレはお前なんて知らないって」
「だろうね」
癇に障る少年だ、相手の知らないことに漬け込み、あえてそれを言う。会話に置いて一歩リードするための技法だ。……分かってる、そんなことは分かってる、はずなのに……。
「でも兄さん、僕は安心したよ」
シムドはオレの顔を見ながら、余裕たっぷりの笑みを浮かべ見下すように言葉を続けた。
「なんてことはない、ただの塵のような人間で安心した。僕は一体何を焦っていたのだろうか、これなら僕が直々に会ってやる必要もなかった。では失礼させてもらうよ、口が汚れるので」
ぶちぶちと頭のどこかから何かが切れる音がする。
「そうやって、人間を物みたいに扱ってんのか」
「ん? まだ何かあるのかい? しょうがないな、付き合ってあげるよ。人間が物? 実にその通りだけど何か問題でも?」
「テメェも同じ人間じゃねーか!」
「違うね、一緒にしないでもらいたい。僕達は選ばれた人だ。選ばれざる者は僕達に使役される存在であり、僕達が使う人間は人にあらず。ほら、現に兄さんだって今どう見たって死にかけのただの人間だよ、僕が指一つ動かせば兄さんは今すぐ死ぬ」
シムドの人差し指がまるでオレを操るかのように空中でなぞった。その様はまるで、人の命(玩具)を弄ぶ子供のよう。
理性が先ほどから言うことを聞かない。頭の中では〝落ち付け、冷静になって会話のペースを掴み直せ〟と警告しているが、それ以上に、膿のように溢れだすどす黒い感情が〝あのクソガキを百発殴れ〟とそそのかしている。
「聞いただろ……お前ら。こんなクソみたいな連中についていくってのか」
込み上げる怒りを抑えながら、先ほどから顔を俯け黙り続けていたマイ達にそう問い掛けた。一瞬三人の瞳に動揺が走る。――そう、オレは最初からこんな馬鹿野郎と喧嘩をしにきたのではないのだ。マイ達を救うべく、こうしてここまで訪れているのだ。
「マイ、レベッカ、シキ。お前達はそんな生活でいいのか? 自分に嘘を吐いたまま、訳の分からない実験をして、人間を物みたいに扱う、扱われるところにいて満足なのか? 少なくともお前達はオレ達と一緒にいて楽しそうだったじゃないか」
これはイチかバチかの賭けだった。マイ達がオレを匿ったことをシムド達は知らない。もし知られれば処罰されるだろう。しかし、今ここでマイ達を奪還しなければ取り返すこともできずにオレは死ぬだろう。そうなれば、一生組織から抜け出せないかもしれない。
「あのバカ……バラしやがった」
レベッカの舌打ちの混じった小さな声が聞こえてくる。
「貴様等、我々に、組織に嘘を吐いたのか?」
ヒッチコックの刺さるような眼光が、小さく怯える三人に突き刺さる。
「私が悪いんです先生! 私が無理を言ってレベッカとシキを付き合わせてしまいました。処罰は私が……」
真っ先に名乗りを上げたマイが、目の端に涙を浮かべたまま叫んだ。
「マイ! そんな処罰受ける必要なんてないんだ、オレと来い! こっちに来るんだ!」
「無理よ! 私は組織を裏切れない……」
「この分からず屋!」
「分からず屋はゼンジよ! この状況で私達が裏切ったとして、逃げ切れる訳ないわ!」
オレは自分の持っているバットの柄を思い切り握り締めた。……だって……そんなのやってみなくちゃ分からないじゃないか……。
「なら……オレが証明してやるよ」
「な、何をする気? ゼンジ! やめて!」
オレは真っ直ぐに、正面に立つシムドに向かってアスファルトを蹴りあげた。この場で一番偉そうな奴をオレが殴れれば、マイ達も逃げ切れると感じてくれるかもしれない。それに何より、シムドというガキが許せなかった。
「うをおおおおお!」
今まで人を殴ったことなんかない、でもオレはやらなくちゃならない。マイ達を護るために――。
刹那、斬り裂くような銃の発射音と、耳元を銃弾が掠める音が通り過ぎる。そして持っていたバットが真ん中から半分に砕け散った。その衝撃のあまりオレは地面を転がる。その際壁に体が打ち付けられ、一瞬意識が飛びかけ口いっぱいに鼻を突く鉄の味が広がった。
「ふははははは、それが兄さんの言葉の限界? あろうことかシキに撃たれてるじゃあないか。どうした、僕を殴るんじゃなかったのか? 僕を一歩も動かせていないぞ!」
オレは酷く痛む頭を押さえながら、屋根の上にいるシキに目を移した。……そんな、シキがオレを撃つなんて。なんて……オレは惨めなんだ。
「シキィ……お前も、本当はこっちに来たいんだろ?」
……本当にそうなんだろうか? オレが彼女達を幸せにしてやれる保証なんて、どこにもありはしないじゃないか。彼女達は言葉通り地獄のような場所から、制限はあるものの今の何不自由ない生活を得た。それで、十分なんじゃないのか? オレがしていることは、ただのお節介なんじゃないか?
――なら、オレがここで死んでも、マイ達は幸せなんじゃないか?
オレは震える体を鞭打ち、なんとか立ち上がる。……せめて……マイ達に負担がないように。
「皆、頼む。頼むから、ずっと笑顔でいてくれ」
「さあ、兄さん、これでお終いだよ!」
シムドがあの二枚目男とファニー・ローにオレを殺せと命じるために、中指と親指を擦り合わせようと――。
「う、う、うあああ、あああああ!」
――銃声。一人の女の子の、あまりにか細い悲鳴と共に一発の銃声が鳴り響いた。
――静寂が辺りを包む。オレは一瞬何が起こったのか分からなかった。しかし、指を弾こうとしていたシムドの前に、立ちふさがるようにあの二枚目男が額の前で何かを握っていた。握りこまれたその手をゆっくり開くと、一発の弾丸が地面に音を立てて転がる。
「あなた……正気ですか……」
二枚目男は、呆れたように、馬鹿にしたように、驚いたように言葉を零した。シムドも落ちた弾丸を見て怒りのあまり顔を真っ赤にさせる。
「僕に……銃を向けたな。……よくも、僕に……」
ヒッチコックも表情は変わらないものの、引き締めた口から咎めるようにその名を呟いた。
「私は貴様をそのように育てた覚えはないぞ。――シキ」
屋根の上で、苦しそうに肩を大きく上下させながら、なんとか酸素を取り込もうと精一杯のシキがそこにいた。目には涙を浮かべ、狙撃銃を持つ手はブルブル震えている。
「シキ……」
オレは、シキが本当に正気なのか分からなかった。だから彼女の名前を呟いた。シキは、どうしようもなくなってしまった迷える子羊のように、縋る目でオレを見詰めた。とても悲しそうな瞳で、確かに〝助けて〟と言っていた。
「シキ! 今すぐオレの隣に来るんだ!」
シキは一瞬躊躇ったものの、すぐに屋根からオレの傍らに飛び降りた。
「自分で、選んだんだね」
シキは黙って頷くと、まだ体は震えているものの、この世の美しい感情の全てを集めたかのような笑顔で微笑んだ。それは今まであまり笑ったことがないためか少しぎこちなかったが、どんな笑顔よりも素敵だった。
「……私も、ゼンジの笑顔、もっと見ていたい。だから、私にも……ゼンジの笑顔を見せて」
「ああ、ああ。いくらでも笑ってやるよ」
オレは精一杯の笑顔でシキを迎えてやる。口から血を流し、体中傷だらけで格好悪かったけれど、確かな喜びで満たされていた。
「か、下等生物のクセに……! 僕達を裏切ってその下等生物に付く、というのか!」
シムドは怒りのあまり額の血管が浮き出ている。
「マイ! レベッカ! お前達もこっちに来るんだ!」
オレはシムドの言葉など無視し、再びマイとレベッカに呼び掛ける。
「私は……私も……。幸せでいたい」
マイも瞳に涙を浮かべながら、こちらに来ようと一歩踏み出した。――やった、やはりマイも幸せを望んでいたのだ。
「いかん! マイを捕えろ!」
――一瞬何が起こったか分らなかった。しかし、ファニー・ローの持つ人形から触手が幾重にも伸びたかと思うと、マイの体の自由を奪った。
「兄さん、僕はあなたを侮っていた。しかし僕も王を目指すもの、兄さん如きに足踏みしている時間はない。マイの命が惜しければ兄さんの命を差し出してもらおう」
一体、どういうつもりだ? マイの命が惜しければ? 何を言っているんだアイツは。
「……ゼンジ、組織は、マイを最初から殺すつもりだった」
すぐ隣に立つシキが、狙撃銃をファニー・ローに向けて構えた。
「なんでだ! あいつらは仲間なんだろ」
「……理由は分からない、私達のマスターからそういう命令が、下った」
またマスターだ、どれだけ卑劣な手を使えば気が済むんだ!
「レベッカ! 今すぐマイを助けてくれ!」
オレは最後の希望、マイを拘束している触手のすぐ近くに立っていたレベッカに問い掛けた。俯き、肩を小刻みに震わせている。
「アタシは……アタシは……」
レベッカの瞳は揺れていた。拘束されたマイ、オレの傍らに立つシキ、そしてシムドとヒッチコックに視線を何度も何度も向ける。中途半端に開いた口から、漏れるように掠れた声を発しては口を閉ざし、また少し口を開いては閉ざす。きっと触っただけで彼女は壊れてしまう、そう感じた。
「レベッカ……組織への恩を忘れたわけではあるまい」
ヒッチコックは相変わらずの、唸り声のような声でレベッカを諭す。
「あ、アタシは……」
「ええい! もういい! とにかくあの忌まわしい男を殺せ! レイセン、ファニー・ロー、行け!」
シムドはその状況に堪え切れなくなったのか、大きく手を振り上げる。それに従い、レイセンは腰を落とし、跳躍の姿勢を見せた。ファニー・ローもクスクスと笑いながら片腕をこちらに向ける。
絶体絶命だ。いくらシキでも二人相手には勝ち目はないだろう。それに何より……不気味に佇むヒッチコックだって控えているのだ。
「……ゼンジ、逃げて」
「ッ! できるか馬鹿!」
――クソ! せっかくシキも命を顧みずに裏切ってくれたのに、オレは何もできないのかよ! マイも、レベッカも助けることもできずに、ここで終わっちまうのか。
「あらぁ、善治、アンタ少し見ない間に大きくなったんじゃない?」
闇夜の住宅街に、突如吹き抜けるように声が響いた。真っ先に反応したヒッチコックが首をコキリと鳴らす。
オレはこの声に〝よく〟聞き覚えがあった。とてもよく知っている声だった。
「えらく状況は切迫しているのねぇ、まったく、あのおマヌケ理事長は一体何をしているのかしら」
その声は徐々にこちらに近付いて来る。それと同時に、とても懐かしい、昔を思い出す臭いが辺りに漂う。雲間から隠れていた月が顔を出し、まるで祝福するかのようにその姿を闇夜から映し出した。あの無駄な露出、見下すような目付き、一度も切ったことがないように思える足元まで伸びた髪。紛れもなく――。
「か、母さん!」
「久しぶりー、元気だった?」
この血反吐を吐いているオレに対してそんなことを言うんだから凄い。やっぱり母さんは相変わらずだ。
「久しいな……閃光のマリア」
「お久しぶり、サー・ヒッチコック」
ヒッチコックがその名を呟いた途端、ファニー・ローと二枚目男が殺気をより一層放った。そんなことに動じることもせず、母さんはヒッチコックに小さく手を振っている。
閃光のマリア? その名を土御門から聞いたことがある。でもそれが母さんのことだったなんて……。確かに母さんの名前は真理亜だけど……。
「とにかく、この場で一番偉い人は誰?」
母さんはまるで、魚屋で一番良い鮮魚を買い求めるかのように、並ぶ面々を見渡した。
「僕だ!」
真っ先に名乗りを上げるシムドだが、母さんはゾウリムシでも見るかのように目を細める。
「あなたが? ということはマスターなのかしら? にしては若すぎるわね。……ああ! あなたがシムドね。初めまして」
何かを思い出したかのように母さんは一人で頷いていた。
「私今来たばかりで状況がよく見えないの、説明して下さる?」
「知るか! お前達は今から死ぬんだ!」
「そんなはしたない言葉使っちゃダメでしょ坊や。まったく、どういう教育してるのかしら。と、に、か、く! 今はお開き! 私も帰国したばっかりで疲れてるのよ、少し休ませて頂戴。あ、善治、帰ったら肩揉みお願いね、こんな重いものぶら下げてるもんだから肩がこって仕方ないのよー」
母さんは殆ど出ている胸を腕で抱えながら自分の肩をトントンと叩く。
「――ぐっ! 殺せ! 今すぐだ!」
「シムド様、今は引くべきかと」
ヒッチコックからは笑顔が消えている。しかし焦りは感じられない。
「賢明な判断ね」
「なぜだヒッチコック先生! こちらには人工天使もいるんだぞ!」
「相手は『閃光のマリア』、何かしらの対策をしている可能性もある。仮に対策をしておらずに今やり合うとなろうが……我々もただでは済みますまい。何せあの陰陽師、それにシキまで吸収されましたからな」
「いい! こちらに被害がどれだけ出ようと相手を殺せば勝ちだ!」
オレの腸が煮えくり返りそうだった。絶対に、絶対にいつか殴る!
母さんはそんなシムドを見詰めていたが、やがてニコニコした顔で再び口を開いた。
「シムドちゃん、年配の人には従うのが賢明よ。それもあの『魂売り』の言うことなのだから、あなたは彼の半分も生きてないの。身のほどを弁えなさい」
「身のほどを弁えるのは貴様だ! この下等生物が! 貴様らのような脳味噌スポンジ、メディアに左右され蟻のように蜜に群がる大馬鹿揃いの人間如きに僕が足踏みしている暇はないのだ」
「随分勇ましいのね、でもね、坊やは一人で何かをしたことがあるの? この私の息子、善治のように。坊やは一人じゃ何もできないのかしら? 無能クン」
母さんは首をくくく、と曲げ、煽るかのようにシムドを見上げた。母さんと口喧嘩をして勝った人を見たことがない。
「き、さまァ!」
「さあ、身のほどを弁えたのならとっととお引きなさいな」
シムドは噛み砕かんばかりに歯を擦り合わせると、今度こそ腕を上から下に振り下ろした。
「――ッ! あの減らず口をブチころ――」
「引け小僧!」
圧倒的威圧の差、オレも母さんのあんなおぞましい声を聞いたことがない。心をわし掴みにされ、一瞬で凍てつかせるようなその威圧に、その場にいる誰もが動きを止めた。
――誰の呼吸も、衣服の擦れる音さえ聞こえない。――いや、その止まった空間の中で母さんとただ一人、唯一ヒッチコックだけがお互いを見据えていた。二人共この上なく愉快そうに、首を少し傾けながら狂気の笑顔を浮かべ続けていた。
*
「もー、善治! 善治!」
さっきから母さんがとてもウザイ。身をピッタリと密着させられ歩行の邪魔だ。しかも夜道で足元もおぼつかないというのに……。
「どうしてそんなに怒ってるのよー、久しぶりのお母さんでちゅよー」
「う、うるさい!」
飛び込んで来い、とでも言わんばかりに両手を広げていた母さんは、さっきのあのおぞましい一面など見る影もなかった。
あれから、怒りに喚くシムドを抱えたヒッチコック達は、拘束されたマイを連れ去り暗闇に消えた。レベッカもこちらを何度も振り返りながらも結局は行ってしまった。レベッカも気になるが、マイの今置かれている状況も不可解だ。どうして仲間なのに拘束されているんだ? それにマイが殺されるかもしれない? 一体なぜ? 考えても答えは出ない……というか、考えたくても母さんが先ほどから邪魔をしてくる。オレは怒っている。そりゃあシムドとか、マイ達のマスターとか、今にも殴ってやりたい奴への怒りもあった。でもオレは母さんにも怒っているんだ。オレが怒っている理由は単純だ、どうして今までオレに黙っていたか? という至極当然の疑問だ。
「大体、母さんは今までどこにいたんだよ」
「あー、やっとまともに話してくれた! ……うーん、もう隠してても意味ないみたいだから正直に言うけど、とある研究所の諜報活動をしてたのよん」
「研究所……?」
母さんはニコリと微笑むと。
「人工天使遺伝子、って知ってる?」
あのおぞましいファニー・ローの笑顔と、不気味なコレットちゃんとかいう人形の情景が思い起こされる。隣を歩いていたシキと同時に頷いた。
「えーっと、その前に自己紹介がまだだったわね。私は善治の母、神城真理亜デーッス!」
「無理すんな母さん、年齢を考えろよ」
ピースサインを顔の真横で構えながらの自己紹介に、息子の立場として言わせてもらったが当然殴られる。
「……シキ」
シキは相変わらず眉一つ動かさない表情のままで自己紹介を済ませた。
「シキちゃん、事情は大体把握してるわ。今回の決断、素晴らしい判断よ。人工天使遺伝子について今から説明するけど、シキちゃんも無関係ではないからしっかり聞いといてね」
母さんはシキが頷くのを待つと、咳払い一つで言葉を進めた。
「少し時間は遡るけど、十二年前、とある遺伝子がダヴィストック研究所という場所に持ち込まれた。それはどこから来たかも分からないし未だに手掛かりすら掴めてない。でもね、その日を境に、その遺伝子を元にある計画が始まったの、後の人工天使を生み出す〝天使の産声〟という計画。……当時私達はその非人道的かつ選民思想の危険性を主張し、必死に彼らと戦った。そしてそれは今も続いているわ。でももう既にその計画は人工天使を生み出すまでに成長してしまっていた。ゴメンなさい善治、本当はあなたを巻き込むつもりはなかったの」
突然母さんは悲しそうに俯くもんだから、オレとしても怒るに怒れなかった。あの強気で己の道を貫く母さんが……。意外だった。
「ま、まあ巻き込まれちまったもんは仕方ないし、そんな顔すんなよ」
オレが少し隙を見せると、母さんはあっという間にニコリと笑い抱き付いてくる。
「やっぱり私の善治は可愛い子!」
きっと、母さんもオレをこんな目に合わせたくて黙っていたわけではないのだろうし、これに関しては誰も責められないのだろう。
「それに……私達も指を咥えてただ黙っていたわけじゃない。何度も計画の邪魔をしたし、彼らの財布も軽くしてやったわ。それに……一部の技術も引っこ抜かせてもらったしね」
母さんは、嬉しそうだが、その表情の裏にオレの長年連れ添った勘が囁いていた、〝悔しい〟と。きっと母さんは本当に〝天使の産声〟を止めたかったのだろう。あの人柱となったコレットちゃんの悲鳴がまだ耳に残っている。きっと……母さんはそんな馬鹿げた計画を心底止めたかったのだ。
「その引っこ抜いた一部の技術、これをシキちゃんに渡しておくわね」
母さんは胸の谷間から透明の小さな瓶を手渡した。そこには数粒の錠剤が入っており、一見ただの風邪薬に見えた。
「これは〝バーサーカルロイド〟と呼ばれる薬よ。これには人工天使遺伝子は含まれていないけど、爆発的に肉体を強化させる特性があるの。まぁ少しこちらでも改良させてもらって、やっと投薬までこぎつけたんだけどね」
母さんの手から小瓶がシキへと移る。
「これはまだサンプルだから、正直に言うとシキちゃんには被検体になってもらう」
母さんの口から飛び出したその一言にオレは戸惑った。
「ちょ、ちょっと待てよ! そんな危険なものをシキにやらせるのか!」
「……あなた達は戦わなくちゃならない、それが自分達で選んだ道でしょう? 確かにこの薬は危険よ、副作用は計り知れない。……最悪死ぬ」
淡々と話す母さんに感情は見えにくく、組織のリーダーとしての器が垣間見えた。目的のため手段を選ばず、合理的に物事を進める。
「オレ達は戦うために、死ぬためにこの道を選んだんじゃない! 自分達の幸せを得るために、普通の日常を夢見てシキもオレについてきたんだ」
「とても愚かね、私の息子善治。幸せの定義は推し量ってもらうとして、シキはこのまま平安な、何の問題もない、善治の暮らしていたような生活にすぐ入れると思う? 答えはノーよ、シキの今置かれている状況と彼女の心を照らし合わせなさい。そうすると戦う以外の選択肢はない、戦うことによって幸せを得るのよ」
「そ……そんな、それじゃ今までと変わらないじゃないか……」
「理解なさい、幸せとは戦いの上に成り立つのよ、歴史がそれを証明してる。そして善治、あなた自身もその道を選んだ。これは母親としての忠告だけど、人を護るというものの重荷を知りなさい」
昔オレがガラスを割ってしまって自分で拾おうとした時の説教と同じような忠告だった。しかし厳しい目を急に柔らかくすると、シキに視線を移した。
「それに善治、戦うから不幸せ、というわけでもないのよ」
オレにはよく分からない。母さんの言う幸せの定義も、何もかもだ。
「なら……最低でもこのバーサーカルロイドとかいう薬はオレが使う、シキにそんなことさせられない」
「それは無理ね、肉体が善治のように貧弱だと逆にその薬に喰われるわ。……あー、でも人工天使に投与って上手くいくのかしら……こんな事態予測してなかったから分からないわね……こうなったら小夜子にだけ渡して……いや、そんなことしたら鬼蔵に何て言われるか……」
母さんは一人でブツブツ呟いていたが、シキがポツリと呟いた。
「私……人工天使……じゃない」
「へ?」
母さんは言葉通り目を見開き、シキを凝視した。
「えー? さすがに嘘でしょう? だってあなたマスターがいるのよね? マスターからの投与命令はなかったの?」
この事態がよく飲み込めない。でもとにもかくにも、シキにあんな危険な実験をされていないというだけで胸を撫で下ろす。
「……私も、レベッカも、マイも……ヒッチコック先生も人工天使……じゃない」
「ヒッチコックと一緒のチームなの!? てことは、あなた達のマスターってまさか……。……なるほど、なるほどね、そういうことかぁ。ヒッチコックらしいわね」
母さんは再度ブツブツ言うと、今度は溜め息まじりに口を尖らせた。
「あなた達のマスターって本っ当ムカツクでしょ!」
今度はまるで子供のように喚き始める。――一体母さんの頭の中はどうなっているのだろうか。どうしてあんなにも感情をコロコロ変えられるのか不思議で仕方がない。
「アイツほんとサイテー! 大っ嫌い! 善治もそう思うでしょ!」
「し、知らないよ。まだ会ったことすらないんだから」
「何で知らないのよ! アンタの父親のことじゃない!」
――父親のことじゃない――ことじゃない――じゃない。今、父親と言ったのか?
……何言ってんだろうかこの人は。少し早いがきっと更年期に入って少しばかりホルモンバランスが傾いたのだろう。全く、冗談も胸と格好と存在自体だけにしてほしいもんだ。そもそも世界の陰の組織? 母さんがその組織と戦う正義の組織? 人工天使だ? 馬鹿も休み休み言うどころか言い過ぎてそれが真実になっちまった感じだ。……つまり、最低の気分だ。
「理事長のバカに写真見せてもらったでしょー? あのインチキ大統領の後ろに映ってるやつ」
「……あぁ、あれ父さんだったんだ……」
理事長が不意に見せた新聞の切り抜きを思い出す。確か元大統領と研究者が握手をしていた背後に怪しい男が映っていたあの写真だ。
「あームカつく、あんなダラしない男が世界を牛耳る? とんだお笑い草だわ!」
母さんは夜道にも関わらずヒートアップが止まらない。
「――ねぇ善治! ……って、アンタさっきから全然喋らないじゃない」
「……当たり前だろ」
まだ頭の中がごちゃごちゃしていてまともな思考回路を持ち合せていなかったが、怒りと憎らしさと嬉しさとが混ざり合って、悔しいが涙が頬を伝った。
――家に父親がいればどんな生活になっていたのだろう、と幼心にも何度も考えたことがあった。別にだからといって母さんとの生活に不満を持っていたわけじゃない。ただ、友達のお父さんはとてもたくましく見えて、優しくて、頼れて、見るからに子供に愛情を注いでいるのがオレには分かっていた。切望してたわけじゃない、でも、あの光景、父さんが妹を抱き上げる眩しい姿が焼き付いて離れないのだ。心の奥底に張り付いていつまでも消えないのだ。――でも、オレはその幻の存在に殺されかけているのだ。
止めたくても涙が止まらない。長年押し殺してきた感情が今の現実と混じり合い、堰を切ったように溢れだした。
「善治、その様子だと聞いてなかったのね……。ゴメンなさい、私を責めてもいい……いや、これは親のエゴね、言い訳はしないわ。私は組織のリーダー、同時に親でもある、そして愛した男が世界を混乱へと導いてる。私、器用じゃないわね……」
「オレ……どうして父さんに命を狙われてるの?」
オレが父さん、と口にした瞬間母さんの瞳が波打つように揺れた。そして母さんもまた、一筋の涙を流した。
「あのシムドという子、あの子はあなたの腹違いの弟よ。あなたは……跡取り争いに巻き込まれたの。完全に私達の事情に巻き込んでいる」
「かぁ……さん」
「私の息子善治、ごめんなさい。でももう謝らない、その代わりあなたに殺されても文句は言わない。でも……それでも私にはやらなくちゃならないことがある、私達が始めたことだから」
母さんがそっとオレを抱き締めた。――オレは母さんの胸の中で、赤子のように声を上げて泣いた。そして、邪魔をすまいと気配を殺していたシキも、一筋の涙を頬から流しているのを月明かりが見下ろしていた。
*
家に帰るなり、土御門がけたたましくお出迎えをしてくれた。
「ぜ、善治くん! 一体どこに――私、いつの間にか寝てしまって――善治くんの身に何か起こったのかと思いまして一大事だと――起きたら誰もいなくて!」
余程慌てていたのか、彼女の言葉は支離滅裂な上に服ははだけたまま、刀も刀身を出したまま外に飛び出そうとしていたようだ。
「だ、大丈夫だよ。ほら、なんともなってない」
とは言ってみたものの、衣服はボロボロで口元には少し血の跡が残っている。
「――ッ! なんてこと! 私今ここで割腹する所存、善治くんの手で介錯を!」
「な、何言ってんだよ!」
「小夜子ぉ、久しぶり~」
玄関から顔を覗かせた母さんが片手を上げた。土御門はキョトンとしていたが、慌てた様子ではだけた服を直す。
「あ、アウア・レディ、いつ帰国なさったのですか?」
アウア・レディ……聞き慣れない単語が土御門の口から出た。母さんの組織での呼び名だろうか?
「ついさっきよ、今まで善治の護衛ありがとね。私お風呂入るから、それからゆっくりお話ししましょうか。あ、善治ご飯の支度よろしくねん!」
早口でそう言い終えると、さっさとお風呂場に入っていった。早くもシャワーの流れる音がする。
「ま、まぁ小夜子にはご飯の支度でもしながら今までの経緯を話すよ。それに新しい仲間も増えたことだしね」
オレの陰に隠れて気付かなかったのか、シキの姿に土御門は驚いたようだ。シキはオレの服の裾を掴みながら、土御門を警戒するかのように見詰める。
「な、何をしていますの! その薄汚れた手を離しなさい!」
「……嫌、ゼンジは……私の家族」
「斬り離しますわよ! わ、私だって善治くんの愛の家族なんですからァ!」
怒った土御門に手を引っ張られる。
「ははは、二人共やめなよ。さぁ、ご飯の支度をしよう」
一分後。
「ねぇ、腕が痛いって。二人共違う方向に引っ張るなよ」
更に三分後。
「いたたたたたたった! イタイイタイイタイ! ミシミシ言ってますよぉ!」
それでも口論をやめない二人、これ以上時間が経過すれば確実にオレの腕の骨が折れる。叫び声も痛みのあまり「ホゲェーッ!」以外出て来なくなってきた。
「それにアナタ! 本当に私達の仲間になったという保証はどこにありますの!」
「……それはゼンジが……一番知ってる」
「キィー! この新参風情が、泥棒猫! 横取りしようったってそうはいきませんからね!」
「……料理……対決」
そろそろ喉の奥からゴボゴボと何かが溢れかけた時、シキの一言に二人の力は同時に弱まった。息が合ってるんだか合ってないんだか……。
「いいんですの? 大和の乙女は料理の嗜みが夫を支える命、それを弁えている私に勝負を挑むおつもりかしら?」
「……私の料理は、ゼンジのハートを……狙撃する」
シキの一言はちょっと古臭かったが、本人は満足げに〝きまった〟とでも言わんばかりに腕を腰に据えていたので別にいいだろう。まぁオレも食事を作らなくて済むのなら万々歳だが、しかしシキはそんなに自信満々でいいのだろうか? 最初に一緒に料理を作った時なんて食材を空に飛ばす離れ業を見せつけてくれたというのに。
――結果は、シキは自信満々に軍用レーションを皿に盛り付けただけのものをテーブルに置いた。想定外といえば想定外だったが、度肝を抜かれたのは土御門だ。――これが思いの他ヤバい。
料理は一品物で、魚をメインに使った日本人ならではの煮物。ビジュアルは魚の口からシシャモが飛び出すという斬新なスタイル。更にシシャモの口からシラスが飛び出しているが見なかったことにしよう。オシャレポイントとしては高得点だが今は一般家庭基準に乗っ取って努力賞といったところか。さぁ、盛り上がってきたところで肝心のオレが食す身の部分を見ていこう。おや? 見る角度によって色合いが変わるぞ? まるでホログラムシールのように変わりゆく見た目は空のように鮮やかなスカイブルー、片方は深淵をイメージしたのか引きずり込まれそうなほどにどす黒い。この両極端の演出はアルファとオメガをイメージしているのだろうか、もしそうならばこの上ない芸術作品である。魚が故食物連鎖の輪廻に囚われ人間に食される、その命が奪われることと命を与える役割は正に始まりであり終わりである。
「違うよ」
満面の笑みの土御門の一言でアッサリと打ち砕かれたが、まだまだオレは食してすらいない。で、では箸を身の部分にブッ刺してみよう。
「えいッ!」
……あえて擬音語で表現するならば『ずる』という感触、そして一瞬、箸が魚側に引き込まれた!? いやまさか、ありえない。この魚を刺した瞬間部屋中に漂った瘴気に脳がやられてしまったらしい。――おや? 審査委員であるはずのシキさんの姿が見えませんねぇ……こうなったらオレ一人でこの局面を乗り切るしかない。やんわりと食べるのを断ろう。
「小夜子、この魚飾っとこう! 一生!」
「ま、まさか善治くん!」
まずい……食べたくないというのを暗に悟られたか……。
「食べるのが勿体ないというのですね!」
土御門は更にご機嫌になると、箸を喜び勇んで引っ掴むとあの魚か暗黒物質か分からないようなものをあろうことかオレの顔に押し付け始めた。――やばい……意識が……。
「クサッ!」
部屋に飛び込んできた母さんがバスタオル一枚でそう叫んだ。次の瞬間、土御門の持つ皿を見るなり「小夜子! 外に敵がいるかもしれない!」と叫んだ。
「て、敵! 迎え撃ちます!」
母さんは土御門が出て行くのを見計らい、皿ごと外に蹴り飛ばした。
「か、母さん! 敵ってどこにいるの?」
「あー、もうどっか行っちゃったみたいね。……それより! 善治、アンタ絶対小夜子の料理食べちゃダメよ。食べたが最後、死ぬ思いをする」
本当だろうか? もう既に半分ほど死ぬ思いをしたが……どちらにせよ胸を撫で下ろした。しかし結局オレが料理を作る羽目になったわけだ。
いぶかしげな表情を浮かべた土御門が帰ってきた頃には、食卓に全ての料理が並び終わった直後だった。しきりにオレに味の感想を聞いて来るものだから「新しい料理の新境地が見えた」と述べたら満足そうにオレの隣の席に座った。それを見たシキが向かいの席から椅子を持ってくる。四人掛けのテーブルになぜか片方に三人並ぶという変な陣形だったが、母さんはニヤニヤ笑いながら向かいの席に座った。
「じゃあ、新しい仲間と、私の帰国を祝ってかんぱーい!」
母さんはどこから出してきたのか、缶ビールを片手に腕を振りかざした。――母さんを交えた、騒々しい食事会が始まった。
「大体さぁ~あ、私はね、好きで組織に入った訳じゃないっつーのッ! 勝手に変な連中が集まって〝少し面白い〟かな~、なんて思ってたら皇帝と鬼蔵にそそのかされてこのザマよ。挙句旦那がまさかネオ・ワールド・オーダーの一員だったなんてさ……私ホンッ当に男運ないわ~。――って、アンタ達聞いてるの~!?」
顔を真っ赤に染め、肩肘を付きながらオレ達面々を見回した。シキは黙々と料理に箸を伸ばしており、オレと土御門がもっぱらの聞き役だった。
「アウア・レディ、少し呑み過ぎでは?」
「うっさいわねー、こんな時くらい呑まなきゃやってられないわよ! あー、小夜子、あの小うるさいジジイ、鬼蔵は元気? ッたく、昔っからやかましいったら。あーそうだ、話は変わるけどアンタ私の組織から抜ける?」
話が飛び飛びで要領を得ない上についていけない。土御門もさぞ驚いたろう――と思いきや、彼女は瞳の中に決意の色を灯し、口をきつく結んでいた。
「……はい」
「あっそ、じゃあ今日で解任」
そんなにアッサリとしているものなのか?
「小夜子はねぇー、アンタの護衛を随分昔からしてたのよ。私が留守にすることが多かったから助かったわー。でもゴメンね、善治に危険が及ばないようにずっと接触を避けてもらってたのよぉ。健気にもずっとその言い付け守ってくれてさぁ、善治愛されてるわぁー」
つまり、オレが母さんの組織や父さん達と関わらないようにずっと監視してくれていたというのだろうか。
「善治くんを遠くから見詰めている毎日は、後一寸で死んでしまうかのような拷問を受けているかのような感覚でしたわ。それがようやくようやく、こうして善治くんと一緒になれたのですもの。これからもずっと一緒ですわね、善治くん!」
土御門は口元に涎的なものを垂らしながらジワジワとオレに近付いてくる。しかし、逆方向から思い切り引っ張られ土御門と引き離された。
「……ゼンジは……あなたのものじゃない」
またシキと土御門の舌戦が始まったが、その中でオレは初めて訪れる感情に少しばかり困惑した。いや、ようやく少し落ち着いてきて実感が湧き出てきたというところか。あれほど夢見ていたはずの異性達と一緒にいるのだ、嬉しくないわけがない。……しかし実際女の子に囲まれる状況に投げ込まれると反応に困ってしまう。オレはそんなに人に好かれるほどの器を持っているとは思わないし、何より誰も傷付けたくなかった。人に好かれるのは嫌いじゃない、でもそれは同時にその人達を二度と傷付けてはならない、ピカピカに磨き上げられた信頼というガラス玉を傷付けてはならない、許されない。ということだ。
――好意を得るというものがここまで恐ろしいものなのか。
オレが俯いていると、母さんが小さく呟いた。
「それが人の上に立つ者の使命なのよ」
一瞬のことだった、口の動きを見る限りそう言ったようだが、定かではない。ただ、母さんの瞳は酷く脆く、儚く見えた。
「かあさ――」
「あー! お酒廻っちゃったぁ、久しぶりの我が家はやっぱり落ち着くわねー。今日はもう明日に備えて寝ましょうか。明日はメチャクチャ忙しいわよー。きっと敵が攻めてくるから体力を温存しておきなさい!」
母さんは大きく伸びをすると、千鳥足で自室に向かっていった。でもオレは見た、柱の陰に消える瞬間に背筋がちゃんと伸びていたのを、確かに見た。
昔から母さんは性格上、オレが自分で気付くまで放置するタイプだった。――つまり、今回も自分で気付けということだね、母さん。
「さぁ、オレ達も寝よう。母さんも言ってたけど明日はとにかく大変そうだ。オレ達には目的がある、マイを助けなくちゃならない」
シキが大きく頷くと、狙撃銃を皮袋から取り出しボルトを引いた。ガチャリと非現実的な重い音が嘘のように民家の中に響き渡る。初めてシキの狙撃銃を間近で見たが、かなり年季が入っていた。全体的に木製で覆われており一見古臭い印象を受ける。しかしそれとは対照的に、狙撃銃の引き金の上には黒いバッテリーのようなものが備え付けられていた。携帯電話の充電池ほどに小さく、そこからは同じく黒の細いコードが銃口に向けて伸びている。それを視線で辿ると、銃口をグルリと取り囲むように四つのカメラのレンズのようなものが備え付けられていた。
「……これは、私の翼」
シキは珍しく自分から口を開くと、ぎゅっと狙撃銃を抱きしめる。
「……命を啜る私の銃は、標的と共に常に動き、私は銃の動きに体を動かす。……私は引き金を引くだけ。五発の死神が弾倉に住まう間はいい、やがて薬室という抗えぬ道に入れば照準器は既に哀れな子羊(獲物)を捕え喰らい尽くさんと光り輝く牙を研いでいる。やがて私はいつしか引き金を引いていて、狂気の笑みを浮かべた三八式実包が銃身の歓声に讃えられながら敵頭部を粉砕する。九七式狙撃銃の栄光はまだまだ続く。私の改造との相性は抜群でありL115A3にも引けを取らない、むしろそれ以上。そして一番のネックであるマズルフラッシュは閃光抑制装置で解消される、これで夜間であっても私の位置が特定される心配も起こらない。つまり、後は逃げ惑う子羊を狩る光の翼。そして私は弾倉が空腹に飢えた頃に思い出す。自分の根底にあるものは日本の侍魂と和製狙撃銃が私を支えているということを」
「ああ……うん」
こんなに可愛らしい顔をしてるもんだから案外忘れがちだが、シキは変態だった。一通り話している間もずっと銃をナデナデしている始末。母さんもこんな癖のある人達に囲まれているのだろうか……。土御門も案外なんてことない顔してるのでこれが通常なんだろう……そういうことにしとこう。
「私も早めにお休みさせて頂きます。明日は万全では望めない可能性もあります故」
土御門が自分の肩の傷を確かめている。そうだ、料理対決なんてしていたけど、土御門は普段しないような怪我をしているんだ。
「ごめん小夜子……無理をさせてしまうかもしれない」
とは言ったものの、土御門は本当にマイやレベッカを助けることに賛成しているのだろうか。あれだけ反りが合わなかったのだ、レベッカとも何度も喧嘩していたのだ。本来マイやレベッカを助ける義理なんて土御門にはないはずだ。
「小夜子、無理に――」
「善治くん」
土御門は遮るようにオレの唇に人刺し指を置いた。
「何度も言っているじゃありませんの、私の目的は善治くんのための目的、善治くんの目的は私の目的」
そして、土御門は一間置くと、急激に顔を赤らめた。
「そ、それに、少しはあの子達と一緒にいても楽しいのかもしれませんね」
オレも、シキも、土御門を凝視した。
「な、慣れ合いは明日が終わってからです! それまではシキさん! あなたも善治くんの隣に座ることは許されてなくてよ!」
そう言い残すと足早に部屋から出て行った。その後ろ姿を見送りながらも、オレは正直嬉しかった。どんな理由にせよ、少しは土御門もマイ達を認めてくれたのだ。
――シキにもおやすみ、と告げ自室に向かっていると、二階の廊下奥に人影があった。酔っ払っていた――いや、そのフリをしていた母さんだった。あの思い詰めた表情を見るとやはり酔っ払ってはいなかったようだ。
「善治、私の部屋に来なさい」
呼ばれるがまま母さんの寝室に入ると、ベット脇にまたお酒が置いてあった。
「善治、今まで黙ってて本当にごめんね」
「だから、もういいってば」
オレはまだ年端もいかぬガキだ、でも……ガキでも分かる。きっと母さんもオレと一緒で脆く、弱いんだ。
「……善治に話しておかないといけないことがあるの。それは私の正体。でも絶対誰にも言っちゃダメだからね? この地球上でもこの組織のことを知っている人はほんの一握りしかいないの……というか、あなたのお父さんも、ヒッチコックも、私の仲間の一部ですら知らないことなの。でももし、もしも万が一善治が誰かに他言しようものなら、いくら私の息子でも始末しなきゃならない。でも善治は誰にも言わないのを私は知っている、それを信用しているから真実を言うのよ」
もう慣れた、と言いたいところだが黙っていると、母さんは納得したように頷いた。
「皇帝直轄情報機関『雅の夜』、俗にいうスパイ組織のようなものかしら。公安警察、防衛省、内閣のどこにも属していない、完全に独立した組織よ。機関長が小夜子のお爺ちゃん、土御門鬼蔵、そして私が副長よ。活動内容は……分かるわね? それを踏まえた上で善治に決断して欲しいことがあるの」
「な、なに?」
「私達の組織に入りなさい」
突然のとんでもないお誘いにひっくり返りそうになる。いきなりそんなことを言われてもすぐに「はい、入ります」と言えるわけもなく、母さんの言葉の続きを待つしかなかった。
「私が善治をスカウトした理由は三つ。あなたは今現在かなりの戦力を保有していることになっている、それを個人が持つことは許されないくらいにね。小夜子とシキちゃん、十分過ぎるほど脅威だわ。二つ目は強大勢力であるネオ・ワールド・オーダーから離反したシキちゃんの保護目的。彼女は持ち物、組織内での経験、多くの技術を組織から持ち出していることになっている、そんな彼女を敵が許すか? もちろん即消される。でも私達なら守ることができる。……一番の問題は三つ目」
母さんは面倒臭そうに大きな溜め息を吐くと、頭を抱えながら問題の三つ目を話し始めた。
「この街はねぇ……私の仲間兼、敵が集まっちゃってるの。理事長、六地蔵もそうだしあの駄菓子屋『ヤブキ』のお婆ちゃんいるでしょ?」
白石とアーサーとよく行く駄菓子屋だ。なぜか白石に冷たいあのお婆ちゃんもまさか……。
「あの人は『手配屋』『死の商人』つまり武器輸入業者ね。お互い利害関係が一致してるから古い付き合いでねぇ、石器武器からアパッチまで調達してくるやり手なのよ」
……ヤブキ――ブキヤ――武器屋! チクショー、あの婆さん。
「でもねぇ、皆が皆理事長や六地蔵みたいに今回の件で手を貸してくれるとも限らないのよ」
そういえば……理事長も『動かしにくい連中がいる』と言っていた覚えがある。
「私の息子だから助ける、という理由では連中動かないみたいねぇ。『知らねーよ』とか『俺と勝負しやがれ』とか『自分でなんとかするんじゃん?』とか言う連中ばっかでね。挙句の果てには『自分がネオ・ワールド・オーダーの代わりに殺してやろうか?』とか言う人もいる始末でね」
つまりは母さんのことは信頼しているがオレのことは特に知らない、ということだろうか。――オレの知らないところで随分有名に……。輝かしい普通の生活がどんどん遠のいているような気がする。
「つまりこの街には荒くれ者が大いにいるわけ。シキちゃんや私の組織から抜けた小夜子と一緒にいれば嫌でも目立つ。そしたら好戦的な連中がワンサカ寄って来るかもしれない。でも私の組織に入ればあの馬鹿共から守ることができる……無茶苦茶な理由よね。自分でも笑っちゃうわ。今だってもし私がこの街に帰ってきてると知られたら誰が来ることやら……」
母さんは自嘲気味に笑った。
「今すぐ答えがほしいわけじゃない、ゆっくり考えてくれればいいの。この決断は善治の人生を大きく狂わすものだと思うから」
――母さんの部屋を出て自分のベットに潜り込んだ後も、ずっとそのことについて考えた。もちろん皆を守れるのなら守りたい、でも……それが本当に彼女達の幸せなのだろうか。――睡魔と戦う内に意識が途切れていく。その夢現の狭間で誰かがオレを呼んでいるような気がした。その声には聞き覚えがある……。あの暗闇の中で泣いていた……マイがオレを呼んでいた。