後編
リンク世界のひび割れ
そこから先の記憶は、少し曖昧だ。
たぶん、数日分くらいの出来事がごちゃまぜになっている。
紗季さんの声は、相変わらず壁越しに聞こえてきた。
「大丈夫ですか? 最近、声が元気ないですよ」
「……玄関、あります?」
思い切って聞いてみる。
「玄関? ありますよ、ちゃんと」
即答だった。
「うちの部屋、普通の間取りですもん。廊下も、エレベーターも」
「エレベーター、使えます?」
「もちろん。昨日もゴミ出しに行きましたし」
僕は唖然とする。
「エレベーター、点検中じゃなくて?」
「え? 点検なんて、だいぶ前に終わってますよ。お知らせ、来てませんでした?」
彼女の言葉が、本当なのかどうか、もう判断できなかった。
僕の部屋からは、玄関が消えている。
外に出ようにも、出られない。
だが、紗季さんは普通に出入りできていると言う。
「……あの、よければ今度、一緒にコンビニでも行きません?」
紗季さんが、少し遠慮がちに提案する。
「人と話したほうが、気が紛れるかもしれませんし。部屋から出られないって、きっと精神的によくないですよ」
「出られないんですよ」
僕は、壁に額を押し当てる。
「扉、ないんです。玄関も、廊下も」
「何言ってるんですか」
紗季さんの声に、わずかな戸惑いが混じる。
「昨日だって、ほら――」
その先の言葉が、ぶつりと途切れた。
代わりに、耳の奥でざらざらとしたノイズが鳴る。
「……さ……聞こえます?」
紗季さんの声は、急に遠くなった。
「さ……〇号室さん? ……んですか?」
音量が変動し、言葉の断片だけが拾われる。
通信状態の悪い通話のようだ。
視界の端に、また文字列が現れる。
『近隣リンクに干渉を検知』
『ローカル空間の隔離を推奨』
胸がひゅっと縮む。
「やめろ……」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。
文字列は、淡々と増えていく。
>『ローカル空間の隔離を実行しますか? Y/N』
僕が何かを選ぶ前に、部屋全体が一瞬暗くなった。
次の瞬間、壁の向こうから一切の音が消えた。
紗季さんの声も、下の階のゲーム音も、何もかも。
世界には、自分の呼吸音だけが残った。
それから、どれくらい時間が経ったのか、分からない。
タスクは、相変わらず届く。
端末は、規則正しく仕事を提示し、僕はそれをこなす。
成果は数字となって蓄積され、画面の端に「ポイント」として表示される。
そのポイントが実際に何に使われているのか、今となってはもうどうでもよかった。
部屋は、少しずつ狭くなっているように感じた。
ベッドとデスクの間は、足を一歩踏み出すのにぎりぎりの幅になった。
壁は少しずつ近づいてくる。
天井も、ほんのわずかだが低くなっている気がする。
窓の外の景色は、相変わらず変わらない。
晴れの日、曇りの日、雨の日。
それぞれのバリエーションはあるが、どの日の空もどこか似通っている。
試しに、一日中窓を眺めてみたことがある。
太陽は確かに動く。
しかし、その動きは妙にスムーズで、「時間を進めています」という誰かの意図を感じさせるような直線的な軌跡だった。
「……ここは、本当に、どこなんだ」
言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気にあふれ出しそうになる。
玄関はない。
廊下もない。
エレベーターも、コンビニも、誰かの足音も。
壁に耳を押し当てても、何も聞こえない。
ただ、自分の血の音だけが、どくどくと響く。
ふと、手のひらを見つめる。
皮膚、皺、爪。
そこにあるはずのものは、ちゃんと見える。
でも、今指を曲げても、本当に筋肉が動いているのかどうか、急に自信がなくなる。
「僕、ちゃんと……ここにいるのか?」
声に出した途端、部屋の空気がわずかに揺れた気がした。
次の瞬間、視界の端に、見慣れないマークが浮かび上がる。
> 『重要なお知らせがあります』
端末の画面にも、同じアイコンが点滅している。
いつものタスクとは違う、赤い丸印。
タップする指が、ほんの少し震えた。
> 『システムアップデートが利用可能です』
『推奨:即時適用』
『更新内容:居住空間の安定性向上/軽微な不具合の修正』
喉が、からからに乾く。
「……不具合?」
アップデート内容の詳細を開こうとしたが、「詳細」はグレーアウトしていて押せない。
代わりに、「今すぐ再起動」「後で」の二つのボタンだけが、やけに大きく表示されている。
「後で」を選ぼうとして、指がわずかにずれる。
ポン、と軽い音がして、「今すぐ再起動」が選ばれた。
「あ」
声を出した瞬間、部屋の照明がふっと落ちた。
床が沈み、壁が遠のき、窓の外の景色が一枚の絵みたいに平べったくなっていく。
> 『アップデートを適用中です。しばらくお待ちください』
白い文字が、暗闇の中に浮かぶ。
耳の奥に、あのノイズが戻ってきた。
砂を擦り合わせるような音。
水の中から誰かが呼ぶような声。
上の階の咳払い、下の階の笑い声、紗季さんの「聞こえますか?」という声――それらが全部溶け合って、意味を失っていく。
「やめてくれ……」
叫ぼうとしても、声にならない。
> 『リンク安定化モジュールを再構成しています』
『近隣リンクとの干渉を解消しました』
『余剰ログを削除しています』
余剰ログ。
その単語だけが、やけにくっきりと頭の中に残る。
何か、大事なものを奪われている気がした。
でも、それが何なのか、もう言葉にならない。
最後に、「完了しました」という声が、どこか遠くから聞こえた。
僕の視界は、真っ白になった。
――朝。
窓の外には、雲ひとつない青空が広がっている。
東京湾が陽にきらめき、遠くにはタワーマンション群が白く霞んでいる。
僕はベッドから起き上がり、肩を軽く回した。
体は軽い。どこも痛くない。
ここ数年、風邪ひとつひいていない。
「今日も快適ですね」
右隣から、紗季さんの声がする。
いつも通りの挨拶。
少しだけ眠そうで、でも明るい声。
「ええ、相変わらずです」
僕も、いつものように答える。
上の階から、咳払いが聞こえた気がした。
二回、間をおいて一回。
そのリズムは、妙に安心感を与えてくる。
下の階からは、ゲームの効果音。
「やべ、マジで? お前それ反則だろー」という声。
笑い声が、壁越しにかすかに響く。
僕はふっと笑い、窓の外に目を向けた。
青空は、今日も完璧だ。
少しだけ、胸の奥がざわつく。
何か、大事なことを忘れているような気がした。
指先で窓ガラスをなぞる。
ひんやりとした感触。
そこにある、薄い境界線。
「……なんだっけ」
呟いた声は、自分の耳にも頼りなかった。
枕元の端末が、小さな音を立てて起動する。
> Today’s Task:3件
〆切:18:00
推定作業時間:4時間32分
その下に、一行だけ文字が表示されている。
> 『昨夜、システムアップデートを適用しました』
『居住空間の安定性が向上しました』
「ああ……」
その文字を見た瞬間、さっきまで胸の奥でうごめいていた違和感が、すっと薄まっていくのを感じた。
アップデート。
最近の機械は、すぐ勝手に更新される。
スマホでも、パソコンでも、家電でも。
それと同じだと、そこで簡単に納得してしまう。
「タワマン暮らしも、いろいろメンテナンスが必要なんだな」
独りごちて、椅子に座りなおす。
ベッドとデスクの間の距離は、やはり少し狭い。
立ち上がるとき、ほんの少し体を斜めにしないとぶつかりそうになる。
でも、それがずっと前からそうだったような気もする。
玄関のことを思い出そうとすると、頭の中に白いノイズが走る。
部屋の構造を思い浮かべようとしても、ベッドとデスクと窓のイメージだけが鮮明で、あとの部分はどうしてもぼやける。
「まあ、いいか」
そう言って、最初のタスクを開いた。
文字を打つ指は、いつも通りよく動く。
上の階の咳払いも、下の階の笑い声も、右隣の「今日も快適ですね」も、すべてが心地よい背景音に戻っていく。
窓の外には、完璧な青空。
僕は、自分が脳だけで30cm³の箱の中にいることなんて、これっぽっちも知らない。
それでも、今日もきちんと仕事をする。
富裕層は田舎の広い家で、自分たちの庭を歩き回る。
僕のような普通の人は、タワーマンションでタスクをこなし、ポイントを貯めて生きていく。
そういう世界だ、と信じている。
信じている限り、世界はきちんと回っている。
端末の隅で、「アップデート完了」の小さな通知アイコンが、しばらく点滅していた。
やがて、それも自動的に消えた。
首都東京 昔皆憧れた港区のタワーマンションの一室
白い部屋だった。
壁も床も天井も白く、影がほとんど生まれない。
耳に届くのは、低い空調の音と、どこかで規則的に鳴る電子音だけだ。
部屋の中央から壁際まで、透明な箱がびっしりと並んでいる。
一つ一つの箱は、小さな立方体。
中には、琥珀色の培養液が満たされ、その中央に脳が浮かんでいた。
皺だらけの、見慣れた形。
電極のような細い線が何本も差し込まれ、箱の下の基盤へと延びている。
箱の側面には、小さなプレート。
『803』
『稼働中』
白衣を着た男が、その前に立っていた。
顔には薄い疲労の色がにじんでいる。
男――医師は、タブレットを親指で軽くなぞった。
画面には、いくつものグラフと数値。
> 『リンク安定率:99.1%』
『ストレスインデックス:基準値内』
『外界追求フラグ:オフ』
「アップデート、きれいに入りましたね」
後ろから、若い声がした。
振り返ると、同じ白衣を着た女の研究員が立っている。
「さっきまで、かなりログが荒れてましたけど」
「今は落ち着いている」
医師は箱の中を覗き込む。
培養液の中の脳は、規則正しく脈動していた。
さっきまでの乱れを思わせるものは、どこにもない。
「居住空間は?」
「一部、巻き戻しました」
研究員は、無機質な口調で続ける。
「玄関周りの記憶は薄くして、疑問に至る“手前”だけを残す形に。
完全に消すと不自然なので、うっすら違和感がある程度には」
「隣人とのリンクは?」
「解像度を少し落としました。
会話パターンは維持してますけど、深入りしないように」
医師は、短く「そうか」とだけ言った。
透明な箱が並ぶ風景を、ゆっくりと見渡す。
番号の違うプレートが、等間隔に並んでいる。
802、803、804……
それぞれの箱の中で、それぞれの「タワーマンション」が、静かに回り続けている。
「……かわいそうだと思います?」
研究員が、箱の列から目を離さずに言った。
「自分の世界が全部だと思ってて。
現実が、30cm³の培養液の中だって知らないままで」
「さぁ」
医師は、少しだけ肩をすくめた。
「知らないまま穏やかに仕事をしているなら、それはそれで“幸せ”なんじゃないか。
外に出たところで、もう歩ける身体もない」
「じゃあ、このまま……?」
「このまま、安定してもらう」
医師は、タブレットにログ保存の指示を送る。
「我々の仕事は、問いを消すことじゃない。
問いが“生活の邪魔にならないように”整えることだ」
研究員は、ほんの少しだけ眉をひそめた。
けれど何も言わず、代わりに別の箱へと視線を移す。
整然と並んだ透明な立方体。
どれもよく似た大きさで、よく似た色の液体をたたえていた。
部屋の空調が、わずかに強くなる。
電子音が一つ鳴り、何かの処理が完了する。
「803も、また」
研究員が呟く。
「今日も同じ朝を、迎えてるんですね」
「ああ」
医師は、プレートに刻まれた番号を指先でなぞるように見つめた。
「いつも通りのタスクと、いつも通りのタワーマンションの一日を」
そう言って、タブレットの画面を閉じる。
照明が、わずかに落とされる。
白い室内に並んだ小さな箱たちが、ビル群のように沈黙していた。
どの箱も、外から見ればほとんど同じ。
ただ、その一つ一つの中で、誰かの「世界」が当たり前のように続いている。
自分が30cm³の培養液の中にいることを、一度も知らないまま。
医師も研究員も、その事実を特別視することはない。
いつものシフトの、一コマに過ぎない。
やがてふたりは部屋を出ていき、ドアが静かに閉まった。
残されたのは、空調の音と、脳たちのわずかな脈動だけ。




