前編
朝になると、まず窓を見る。
何時だとしても、最初に視界に入るのはそこだ。
雲の少ない青空、高層ビル群の隙間からのぞく、わずかな東京湾。湾の向こうには、さらに遠くのタワーマンション群が白く霞んでいる。
――今日も、変わらない。
窓の外を眺めながら、僕はいつも同じことを思う。
世界は大きく変わったらしい。
富裕層は田舎に土地を買い、巨大なガラス張りの家を建て、敷地の中で自給自足めいた生活を送る。
自分たちで育てた野菜、屋上のソーラーパネルと風車、個人用の発電システム。
「電脳汚染」から距離を取り、自然の中で本当の身体を保ちながら暮らす
そんなニュースを、僕は何度も見た。
そして「普通の人」は、都会のタワーマンションに住まう。
高い場所で、狭い部屋に、効率的に並べられて。
在宅で仕事をこなし、ネットワーク越しにタスクを受け取っては、淡々と処理し続ける。
僕は、後者だ。
ごく普通の、都会のタワマン暮らし。
――のはず。
目をこすると、視界の端に半透明の文字列が浮かび上がる。
> Today’s Task:3件
〆切:18:00
推定作業時間:4時間32分
短い電子音と共に、デスクの上の端末が自動で起動する。
眠気はまだ残っているが、体は驚くほど軽い。ここ数年、目覚めてだるさを感じたことがない。
「今日も快適ですね」
壁の向こうから、かすかに女性の声が聞こえた。
右隣の部屋の住人、紗季さんだ。いつもの、朝の挨拶。
「ええ、相変わらずです」
僕も、いつも通りの返事をする。声を少し張れば、壁越しでも普通に会話できる。防音性は、あまり高くないのかもしれない。
上の階から、咳払いが聞こえた。
低く、老いた喉を震わせるような咳。それが二度、間をおいて一度。
毎朝、ほぼ同じ時間に聞こえるその咳を、僕は密かに「目覚まし時計」だと思っていた。
下の階からは、かすかにゲームの効果音と笑い声が漏れてくる。
きっとオンラインゲームだ。撃ち合いか、何かを壊す音。
それに重なるように、若い男の笑い声が上がる。
夜になると、今度はテンションの高いボイスチャットの声が聞こえる。
顔を見たことは、ない。
けれど、上と下と隣に人がいると思うだけで、僕は不思議と安心していた。
ただ、一つだけ気になることがある。
――この部屋、こんなに狭かったっけ?
六畳くらいのワンルームだと思っていた。
だけど最近、感覚的には四畳半くらいに縮んでいる気がする。ベッドから手を伸ばせば、すぐ壁。
デスクとベッドの間を歩くとき、ひざが何度も机の角にぶつかる。
僕は苦笑しながら、壁に背中を預けた。
「慣れちゃっただけか」
そう呟いて、自分をごまかす。
長く住んでいると、どんな部屋でも狭く感じるようになる――そういうものだと、思い込む。
窓の外の青空は、今日も完璧だ。
朝食は簡単に済ませる。
冷蔵庫から栄養バランス食のパックを取り出し、電子レンジにかける。
温め終わるころには、仕事用の端末が完全に立ち上がり、画面には本日のタスク一覧が表示されていた。
翻訳、データの整理、仮想空間のテキストチェック。
いずれも、誰の顔を見ることもなく完結する仕事だ。
報酬は、ポイントとして自動で蓄積される。生活インフラや家賃は、そのポイントを通して精算される。
ニュース画面をちらりと見ると、今日もまた「田舎の富裕層」が特集されていた。
> 『都市部の電脳依存から距離を置く富裕層が増えています。
自分たちで菜園を作り、風力と太陽光で暮らす、サステナブルなライフ――』
映し出されるのは、大きなガラス窓、木製のテーブル、暖炉。
背後の棚に無造作に置かれた本、奥には本物の土の匂いがしそうな庭。
画面の端に小さく、「※一般層には推奨されていません」という注意書きが表示されている。
この映像を見ながら、僕は不意に、自分の両親の家を思い出していた。
地方の古い平屋。
小さな畑と、裏山。
庭には柿の木が一本、冬の空に枝だけを突き出していた。
久しく帰っていない。
最後に帰ったのは、いつだっただろう。
コロナだの気候だの社会不安だの、いろんな言葉のせいにして、結局は僕が面倒くさがっていただけだ。
ニュースキャスターが声を弾ませる。
『対照的に、都市部のタワーマンションは、より効率的で快適なワークライフを実現しています』
画面が切り替わり、どこかの高層マンションの内部映像が映る。
明るいラウンジスペース、共有のジム、最先端のセキュリティ。
子どもたちが仮想現実のヘッドセットをつけて走り回る姿も見える。
『寿命の概念が緩やかに変わりつつある今、
働く場所と生きる場所が、より密接に結びついています』
寿命の概念。
最近の流行語のひとつに「寿命超越」という言葉がある。
人体の寿命を超えて、脳だけを温存する技術。
老化した脳細胞を、人工的に培養した新しい細胞と交換することで、「死」を限りなく先延ばしにすることができる――らしい。
僕はそのニュースを、どこか遠いものとして聞き流していた。
午前中のタスクを片付け、昼過ぎ。
端末のタイマーが、休憩時間の開始を知らせた。
椅子から立ち上がると、足元でわずかにふらつきが起こる。
グラっと揺れたように感じて、反射的に壁に手をついた。
――地震?
一瞬そう思ったが、何も揺れてはいない。
コップの中の水も、天井の照明も、ピクリとも動いていなかった。
代わりに、天井のどこかから「ぴちょん」と水滴が落ちるような音がした。
その音は妙に遠く、しかしすぐそばにも聞こえる。
「……?」
耳を澄ますと、上の階から怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい! またか! いい加減にしてくれよ!」
咳払いをしていた老人の声だ。
誰かに怒鳴っているのかと思ったが、その後に続く言葉は聞き取れない。
「すみませんねぇ、すぐ調整しますから」
別の声が混じる。
低く、落ち着いた、どこか聞き覚えのある声。
それは、マンションの管理人の声だった。
管理人といっても、実際に顔を合わせたことはない。
入居のときも、書類も何もかもオンラインで完結した。
管理人はいつも、部屋の壁に投影されるホログラムの姿で現れるのだ。
まるでコールセンターのオペレーター映像のようだと、最初は思った。
だが、それが当たり前になってしまうほど、このマンションでの生活は単調で、変化がなかった。
紗季さんの声が、壁越しに響く。
「また上の人、怒ってるんですか?」
「みたいですね」
「こないだも、夜中にどなってましたよね。部屋が狭くなってるとか、天井が近いとか」
どこか他人事のような口調だった。
僕は曖昧に笑う。
「年をとると、そう感じるものなのかもしれませんね」
「そういうものですかね」
紗季さんはくすりと笑い、少しだけ沈黙が落ちる。
その静けさの中で、僕はふと、自分の胸のあたりを意識する。
心臓の鼓動。
息を吸い、吐く感覚。
……それを、最後に強く意識したのはいつだっただろう。
ここ数年、風邪すらひいていない。
熱を出した記憶がない。
頭痛や筋肉痛もほとんどない。
肩こりもそういえば感じていないことに気づく。
自分の体が、自分のものでないような、どこか借り物じみた感覚が一瞬よぎる。
「ねえ」
紗季さんが、少し声を潜める。
「このマンション、変だと思いません?」
「変?」
「エレベーター、使ったことあります?」
言われてみて、僕は黙り込んだ。
エレベーター。
このマンションには十数階あるはずなのに、エレベーターを利用した記憶がほとんどない。
スーパーもコンビニも、デリバリー中心だ。
宅配ボックスが各階にあり、必要なものはいつの間にか届けられる。
階段を昇り降りする必要もない。
「そう言えば……」
「私、一回だけ使おうとしたことがあって」
紗季さんは、少し緊張したような笑い声を漏らした。
「“点検中です”ってエラーが出たまま、表示が止まってたんですよ。日付も、時間も、ずっと同じところで止まってるんです。
あれから半年くらい経ちますけど、未だに直ってない」
「半年も……?」
「でも、上の人も下の人もいるし、どこかから出入りしてる人はいるはずですよね」
言われてみれば、その通りだ。
僕は一度も、このマンションの誰かが玄関の扉を開け閉めする音を聞いたことがない。
もちろん、自分の玄関の扉を開けた記憶も、ほとんどない。
いつから――?
胸に、小さな不安の棘が刺さる。
「……きっと、最近のマンションって、そういうものなんですよ」
自分でも苦しい言い訳を口にする。
リモートが当たり前になり、人と会わずに暮らせるように設計されたマンション。
エレベーターの点検も、オンラインで延々とやるのかもしれない。
紗季さんは、「そうかもしれませんね」とあっさり引き下がった。
そのあっさりさに、逆に僕の不安は強まっていく。
その日の夕方、僕は久しぶりに「外」に出た。
外といっても、本当に外に出るわけではない。
部屋の隅にある小さなドア――共用廊下への出入口――を開け、そこから数メートル歩いた場所にある「共用コンビニ」を利用しただけだ。
長いことそのドアに触れていなかった気がする。
取っ手に指をかけると、冷たい感触はなく、妙に軽い抵抗だけがあった。
押すと、音もなくドアは開く。
薄暗い廊下。
白い壁、グレーの床。
奥に向かって、細長く伸びている。
僕の部屋の番号は「803」だ。
扉の上に小さく数字が表示されているのを確認して、廊下に一歩踏み出す。
廊下の突き当たりには、小さな明かりが見える。
そこが、共用コンビニだ。
歩きながら、左右に並ぶ扉を眺める。
どの扉も閉まっていて、人の気配はない。
足音だけが、妙に乾いたエコーを伴って響く。
突き当たりの角を曲がると、すぐそこにコンビニの入口があった。
緑と白の看板、ガラス扉。
都心では見慣れた、どこにでもあるチェーン店のロゴ。
ガラス扉を押して入る。
見慣れた電子音が鳴り、天井のライトが少しだけ明るさを増す。
「いらっしゃいませー」
奥のレジカウンターから、店員の声が聞こえた。
若い男の声。抑揚の少ない、マニュアル通りのイントネーション。
僕は適当に飲み物とお菓子を手に取り、レジに進む。
店員は機械的な動作でバーコードを読み取っていく。
「ポイントカードはお持ちですか?」
「いえ、結構です」
「温めますか?」
「そのままで」
「ありがとうございましたー」
やり取りは、それだけだった。
店を出て数歩歩いたところで、ふと、何かがおかしいと感じた。
さっきの店員の顔が、うまく思い出せないのだ。
髪型も、目つきも、背丈も――すべてが「普通」で、印象に残らない。
いや、それどころか、輪郭すらぼやけている。
もう一度振り返ってみる。
ガラス越しに、レジに立つ店員の横顔が見えた。
だが、その顔は、まるで精度の低い映像のように、少しノイズを帯びている。
その瞬間、扉の上のスピーカーから、さっきと同じ声が流れた。
「いらっしゃいませー」
誰も入っていないのに。
店員は、ほんの少しも動いていないのに。
同じ抑揚、同じ長さで、同じ声。
ぞくりとして、足を早める。
廊下に出ると、さっきまで感じていた冷たさが薄れ、代わりに奇妙な閉塞感が胸に広がった。
――このマンションは、どこにに建っているのか?
そんな疑問が、かすかに頭をよぎる。
夜。
タスクを終え、シャワーを浴び、ベッドに横になった頃、壁がふっと青白く光った。
「こんばんは、〇号室さん」
柔らかな声と共に、管理人の姿が映し出される。
四十代くらいの男、整えられた髭、白衣のような服。
瞳はやや細く、笑うと目じりにしわが寄る。
この顔を、僕はよく知っている。
入居のときの説明も、設備の故障を訴えたときも、いつもこの顔が現れた。
「コンビニの利用、ありがとうございました」
「……見てるんですね」
「安心安全のためのモニタリングです。ご理解ください」
管理人は、決まり文句を口にするように微笑む。
「何か、ご不便はありませんか? タワーマンションでの生活に、不満は?」
僕は少し迷ったあと、先ほどの違和感を口に出してみた。
「あの……部屋が、狭くなっているような気がするんですが」
「狭く?」
「最初はもう少し広かった気がするんです。ベッドとデスクの間も、こんなにぎちぎちじゃなかったような」
管理人は首を傾げる。
「記録上、部屋の広さに変更はありませんよ。
気分的な問題かもしれません。最近、疲れはたまっていませんか?」
「疲れ……」
その言葉を口にしてみると、逆に違和感を覚える。
ここしばらく、疲れを感じた覚えがないのだ。
「自覚がないだけかもしれません。睡眠時間は?」
「六時間くらい、だと思います」
「十分ですね。では、精神的な問題でしょう」
管理人は画面の外に視線を向けた。
その先にモニターか何かがあるような仕草だ。
「最近、上の階の方も“部屋が狭い”とおっしゃっていました。高層マンション特有の、閉塞感のようなものかもしれません」
「上の人とは、話したことがありませんけど」
「ご希望なら、オンラインラウンジで住人同士をマッチングすることもできますよ。ですが――」
管理人は一瞬言葉を切り、慎重に言葉を選ぶような間を置く。
「あなたは、今の生活にある程度満足されています。人間関係を増やすことで、ストレスが増大するリスクもあります」
僕は、思わず笑いそうになった。
「それは……まあ、そうかもしれません」
誰かと深く関わることの面倒くささと、それ以上に怖さを、僕はよく知っていた。
広く浅くでいい、一定の距離を保って、互いの生活に踏み込みすぎない関係。
このマンションの薄い壁越しの会話は、その距離感にちょうど良かった。
「もし、本当に生活に支障が出るようでしたら、お知らせください。空調や重力フィードバックのバランスを微調整できますから」
「重力……?」
聞き慣れない単語に、僕は眉をひそめた。
「いえ、失礼。居住感覚のバランスです。床や壁の反発、足元の安定感など、です」
管理人は軽く咳払いをして、ごまかすように笑う。
「それでは、よくお休みください」
映像がふっと消え、壁はただの白い面に戻った。
――重力フィードバック。
その言葉が、頭の片隅に残り続けた。
その夜、僕は奇妙な夢を見た。
夢の中で、僕は同じ部屋にいる。
ベッド、デスク、窓。
何もかも現実と同じだ。
違うのは、壁の向こうの声が異様に近いことだった。
「ねぇ、聞こえます?」
紗季さんの声が、耳元でささやくように響く。
けれど、壁はそこにある。
薄いとはいえ、しっかりとした白い壁が僕と彼女を隔てている。
「聞こえますよ」
僕が答えると、上の階から老人の咳払いが落ちてきた。
二回、間をおいて一回。
その直後、下の階からゲームの爆発音が響く。
悲鳴、笑い声、勝利のファンファーレ。
視界の端に、透明な文字列が走る。
> 『リンク安定率:98%』
『ノイズ検知:軽度』
何かのエラーメッセージのようだ。
僕はそれを読みながら、自分がなぜその文字を「理解できる」のかが分からない。
夢だからだ、と自分に言い聞かせる。
「ねぇ」
紗季さんの声が、今度は天井から降ってきた。
「このマンション、変ですよね」
「変ですね」
上の階の老人の声が、床下から響く。
「部屋が……狭くなっている……」
彼の言葉の途中で、映像が乱れる。
部屋の壁紙がざらざらと砂嵐のように崩れ、代わりに黒い何かが広がっていく。
> 『再構築中……』
『リンク空間を再読込しています』
文字列が視界を流れ、次の瞬間、すべてが元に戻る。
壁は白く、床はグレーで、窓の外には青空が広がっている。
僕は、ベッドの上で息を切らしていた。
「今の……」
呟いた瞬間、目が覚めた。
天井は静かで、砂嵐ではない。
壁も床も、何事もなかったかのようだ。
窓の外には、いつもの青空。
あまりにも、完璧な青空。
枕元の端末を見ると、時間は午前六時前だった。
夢だ、と自分に言い聞かせる。
あの奇妙な文字列も、リンク空間という言葉も、すべて夢の中だけの出来事だ、と。
だが、胸の奥では、何かがざわざわと騒ぎ始めていた。
その日、一日中、上の階から咳が聞こえなかった。
朝になっても、昼になっても、夜になっても。
目覚まし時計代わりの咳払いは、一度も鳴らなかった。
代わりに数回、天井から低い機械音のような振動が伝わってきた。
ドリルか、換気扇か、何かの工事のような音。
夕方、壁が青く光り、管理人が現れる。
「お知らせがあります」
いつもより少し、表情が硬い。
「上階の住人の方が、長期メンテナンスに入られました」
「メンテナンス?」
「ええ、健康状態の定期的なチェックです。高齢の方ですからね。しばらくの間、生活音が減るかもしれませんが、ご心配なく」
「……メンテナンスって、病院みたいなものですか?」
「そうですね。最新の医療技術による、状態の最適化です」
管理人は言葉を選ぶようにして答える。
「このマンションの住人様には、皆さん最先端のケアが提供されています。安心して生活を続けていただけますよ」
「上の人は、戻ってくるんですか?」
自分でも意外なくらい、僕の声には焦りが混じっていた。
顔も知らないし、会話もしたことがない。
それでも、彼の存在が突然「いなくなる」ことを、僕は受け入れ難かった。
「もちろんです。記録上、重大な異常はありません。少し時間がかかるだけですよ」
管理人は笑う。
「それよりも、〇号室さん。あなたのほうは、どうです?」
「僕?」
「最近、夢見が悪いと、とあるログに記録されていましたが」
僕は一瞬、息を飲んだ。
「ログ……?」
「睡眠中の脳波の乱れから、そう判断しました。気にしないでください。生活に支障がなければ問題ありません」
管理人の言葉は、さらりとしたものだった。
だが僕の心には、重たい鉛のように沈んでいく。
「脳波なんて、どうやって……」
「最新のヘルスケアシステムです。ベッドのマットレスにセンサーが埋め込まれていますから」
あまりにも自然に、そう説明される。
確かに、最近のマットレスは睡眠データを収集するのが普通らしい。
僕は、それをニュースで聞いた覚えがあった。
「気になるようでしたら、少し睡眠導入プログラムを強めに設定しておきます。今夜からは、もっとよく眠れるでしょう」
「プログラム……?」
「おやすみ前の照明と音の調整、室温、湿度……それらを総合して、です」
管理人はもう一度微笑み、映像が消える。
部屋の空気が、少しだけ重たくなった気がした。
上の人の咳が聞こえなくなってから、三日目の夜。
今度は下の階からの音が妙に気になり始めた。
ゲームの音が、いつもより頻繁に鳴る。
銃声、爆発音、歓声。
その合間に、若い男の声が響く。
「やべ、マジで? お前それ反則だろー」
笑い声。
「いやいや、今のは俺の反射神経、神ってただろ」
さらに笑い声。
そこまでは、よくあるノリだ。
何度か聞いたことのあるテンション。
しかし、その一分後。
「やべ、マジで? お前それ反則だろー」
同じセリフが、同じトーンで、ほとんど同じタイミングで聞こえてきた。
デジャヴかと思ったが、そのあとに続く相手の笑い声も、効果音も、まったく同じだった。
さらに一分後、また同じやり取りが繰り返される。
「やべ、マジで? お前それ反則だろー」
「いやいや、今のは俺の反射神経、神ってただろ」
まるで短い会話の音声ファイルが、ループ再生されているような。
僕は床に耳をつけてみた。
すると、音声の背後に、ごくかすかにノイズが混じっていることに気づいた。
ささやくような機械音。
何かを読み込む「キュイーン」という音。
そして、ときどき混ざる、意味をなさない電子的なピリッという破裂音。
そのうち、ループしている会話の合間に、別の声が紛れた。
「リンク不安定。再接続します――」
それは、明らかにゲームの声ではなかった。
機械的で、感情の起伏のないアナウンス。
床に手をついた姿勢のまま、硬直する。
――リンク? 再接続?
意味を考える前に、僕の視界の端でノイズが走った気がした。
ほんの一瞬、部屋の照明が暗くなり、床がわずかに沈む。
足元がふらつき、デスクの端を掴む。
――重力フィードバック。
管理人の言葉が、頭に浮かぶ。
もしこのマンションの部屋そのものが、何かの「リンク空間」だとしたら。
重力も、音も、壁の硬さも、全部どこかから制御されているとしたら。
そんな馬鹿な、と打ち消したい思考は、もうそれほど強くなかった。
その頃から、時間の感覚が怪しくなり始めた。
朝起きて、窓の外を見る。
青空。太陽の位置。
それらは毎回、ほとんど同じように見えた。
時計を見ると、朝の七時半。
端末に表示される日付は、確かに進んでいる。
タスクをこなし、休憩を挟み、夜になって眠る。
それを数日繰り返したはずなのに、その間の印象が妙に薄かった。
大事なことを、どこかで抜かされているような。
時間の流れが、いつの間にか「継ぎ目」で繋がれているような。
ふと気づけば、数日前に見たはずのニュースが、また流れている。
『富裕層の田舎移住が加速しています――』
同じ映像、同じコメント。
アナウンサーのネクタイの色まで一緒だ。
僕は一度、テレビを消し、すぐにつけ直してみる。
すると、ニュースは別のトピックに切り替わっていた。
――気のせいかな。
そう思おうとしても、「継ぎ目」の違和感は消えない。
高校時代の記憶を思い出そうとしても、断片的にしか浮かんでこない。
友達の顔、教室の匂い、放課後の駅のホーム。
それらはぼんやりと霞がかかっていている。
最後に両親の顔を見たのはいつだったか、必死に思い出そうとする。
――大学を辞めるって電話したときだっけ?
――就職が決まったってメッセージを送ったときだったか?
どちらも、本当にあった出来事なのか自信が持てない。
思い出される母の声も、父の咳払いも、どこか上の階の老人の声と混ざってしまう。
僕は手のひらをじっと見つめた。
指紋、血の通った皮膚、爪の白い部分。
それらは確かにそこにある。
でも、その感覚は、どこか薄い。
まるで映像越しに誰かの体を見ているような。
決定的な違和感が訪れたのは、ある雨の日だった。
窓の外には、灰色の雲が立ち込めていた。
雨粒がガラスに当たる音が、規則的に響く。
珍しい、と僕は思った。
このマンションに住み始めてから、雨の日の記憶がほとんどない。
ニュースでは異常気象だなんだと騒いでいたはずなのに、窓の外はいつも晴れていた気がする。
しばらく雨を眺めていると、ふと、自然と心が落ち着いていくのを感じた。
雨音だけが世界を満たし、タスクも、ニュースも、何もかもが遠のいていく。
――外の空気を吸いたい。
そう思った。
それは、ここしばらく感じたことのない衝動だった。
僕は立ち上がり、玄関へ向かう。
靴箱の上に、古いスニーカーが置かれている。
履いた記憶はないが、サイズはぴったりのはずだ。
玄関の扉に手を伸ばす。
取っ手を握ろうとして――指先が空を掴んだ。
「……え?」
そこにあるはずのドアノブが、なかった。
扉の縦の線も、横の線もない。
壁一面が、天井から床まで、真っ白な平面になっている。
触ってみても、継ぎ目がない。
押しても、引いても、何も動かない。
部屋の隅から隅まで、目を凝らして見回す。
玄関が、消えていた。
冷たい汗が背中をつたう。
さっきまで、何の疑問もなく「ここから出られる」と思っていた場所が、最初から存在しなかったかのように、壁と一体化している。
「……嘘だろ」
思わず呟いたとき、壁が青く光った。
「どうかしましたか、〇号室さん」
管理人の顔が現れる。
「玄関が……扉がなくなってるんですけど……」
声が震えているのが自分でも分かった。
「扉?」
管理人はゆっくりと瞬きをして、どこか不思議そうに首を傾げる。
「ここの……ほら、玄関ですよ。前はちゃんと扉があったんです」
「記録上、あなたの部屋は“フルクローズドタイプ”ですよ。玄関扉は備え付けられていません」
「そんなはずないでしょう!」
思わず声を荒げる。
「僕は、何度も共用廊下に出て、コンビニに行って、帰ってきて……」
「コンビニのご利用は、すべてオンラインルートからですね」
管理人は淡々と言う。
「部屋のコンソールからアクセスして、バーチャル店舗で商品を選び、デリバリーを受け取る。そういう記録しかありません」
「さっき、行きましたよ。廊下、歩いて」
「いつの話です?」
「……昨日の夕方です」
管理人は視線を横に向け、何かを確認するような仕草をした。
「昨日、〇号室さんは夕方に一度、軽いリンクノイズが発生しています。その直後にコンビニログが記録されていますが、そこに廊下移動の記録はありません」
「リンク……? ノイズ……?」
頭の中で、夢の中で見た文字列がよみがえる。
> 『リンク安定率:98%』
『再構築中……』
「何を言ってるんですか」
声が上ずる。
「ここは、タワーマンションでしょう。廊下もエレベーターもあって、僕はその中で生活してて――」
「その通りです」
管理人は柔らかく微笑む。
「あなたはここで、きわめて安定した生活を送っている。外に出る必要は、ありません」
「必要とかの問題じゃなくて……」
「外の世界は、あなたには負荷が大きすぎます。覚えているでしょう?」
管理人の瞳が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「以前、あなたは外に出ようとして、激しいストレス反応を起こしました。心拍数の急上昇、呼吸の乱れ、強い不安感。あれを、再び経験したいですか?」
そんなことが、あっただろうか。
外に出て、パニックになった記憶。
駅の人込み、満員電車、汗の匂い。
断片的な映像が、頭の中でちらつく。
だが、それが本当に「自分の記憶」なのか分からない。
どこかで見た動画の切れ端のようにも感じる。
「安心してください」
管理人は優しい声で続ける。
「ここは、安全です。あなたには、ここでタスクをこなしながら、穏やかに暮らしていただくのが最適なんです」
「……ここが、どこだかも分からないのに?」
絞り出すように言うと、管理人は一瞬だけ黙った。
そして、ほんのわずかに口元を引き結んだ。
「ここは、あなたのための場所です。それ以上の情報は、今は必要ありません」
映像が消える。
真っ白な壁と、玄関のない部屋と、閉じられた窓。
僕は、その場に崩れ落ちた。




