祈られたフェンス 其ノ陸
午後三時、太陽の威勢はまだまだ旺盛なれど、後数時間もすれば大人しくなるだろうという希望が見えてくる頃のはずだが。
今のこの、静かで、息の詰まるような、陰陽課羽柴班のオフィスでは、そんな希望も遠のくように感じた。
『佐々木、前も話したが、早く頼むぞ?南條が資料として使う可能性があるから早くしろとせっついてる』
この、警察のオフィス、怪異と戦う集団の部屋というよりは、科捜研だとか研究室だとかといったような趣が似合うこの部屋の主、羽柴希千佳班長のやや神経質そうな顔と声音で言われていると、その感覚はますます実感を伴ってくるというものだ。
『綾音に書かせるのは骨が折れるだろうが、改めて頼んだぞ?』
ほぅっと愚痴っぽい息を吐き、やれやれといった風に首を振るが、そこに嫌悪や悪意や苛立ちといった物があるかと言われると、そうでもない。
まるで、不出来な娘、反抗期の娘に手こずる母親のような、どのように接したら良いのか掴みあぐねているような、何とも言えない顔であった。
「……はい、善処します」
羽柴と机を挟んで座る、かつてしっかりと鍛えていたのであろうことの伺える、歳の割にはガッチリとした体の、佐々木新が絵に描いたような苦笑いで、そう応えていた。
◇◇◇
出立の決意を後押しするかのように、ゴォーっという音を立てて、エアコンのクーラーが部屋を冷し始めた。
護符やら独鈷やら大幣やらを荷物にまとめた禰宜原がデスクから離れようとすると、ギシィっと音がした。
『おっ?どっか行くなら着いてってやるぜ?』
先程まで、いつものよれた薄緑色のソファを更に疲れさせていた猪熊カレンが、まるで、遊びの気配を察した動物のように、ムクリと体を起こしていた。
つまらない事件だと聞いたが、本当にそうか?
つまらない事件にはつまらない顔がつきものだが、今のネギ坊の顔は本当にそんな顔か?
気合の入った顔をしている。
ならば、つまらない事件ではないのかもしれない。
よっこらせっと立ち上がり、ソファがギシィっと悲鳴を上げる。
何しろ身長二メートル。
しかも、よく見るとモデルのような彫りの深い顔立ちをしているのに、その首から下には到底不釣り合いな、重厚で、分厚く、そしてしなやかな筋肉が体を覆っていた。
であるならば、体重もまたそれ相応。
天井につきそうな、もしかしたらそのまま天井を押し上げてしまうのではないかと思うような大きな伸びをすると今度は。
『そんなら私もついてったるわ〜。ホンマになんかおるかもしれんしなぁ』
先程まで、ガチャを回すのにも周回をするのにも飽きて、ファッション誌をパラパラと退屈そうにめくっていた祝部が、スタスタと自分のデスクに戻り、手早く鈴やら糸やらをポーチに纏め始めていた。
『良いんですか?場合によっては遅くなるかもしれませんよ?』
どういう風の吹き回しだろうか?
あの、遅刻に定時退社に早退に、事後報告や直行直帰の常習犯の、あの物臭な先輩が、自分からついていくなんて。
「まぁまぁ、えーからえーから」
と、口をついて出てきた疑問をそそくさと受け流すと、すり抜けるように出て行ってしまった。
何か企みがあるのかも……しれない。
そうかもしれないが、一緒についてきてくれるなら、これほど心強いことはない。
何しろ、一度は見逃してしまった案件。
同じ轍を踏むわけにはいかない。
ならばこの加勢も、天の助けというやつなのかもしれない。
◇◇◇
勝手知ってる我が城に、ようやくの思いで帰ってきたのだが、そこにいるべき奴らがいなかった。
羽柴班のオフィスは広かった。
なにせ、俺や黛の班と違って、あそこは呪詛の解体やら、術や結界の研究やらの、陰陽課の知の総本山のようなものだ。
対してうちは、他で持て余された問題児やら、憑霊だとかで飼い殺しになっていたような奴らを集めた少数精鋭の便利屋部隊。
そこにいるべき奴らがいないとなると、小ぢんまりとしたいつものオフィスが余計に広く見えた。
カタカタと車椅子の月島が、いつものようにパソコンに向かっている。
『月島、祝部はどこいった?』
もう一度見回しても、やはりいない。
『禰宜原くんと外回りに出ましたよ。“例のフェンス”の再調査です』
つい先程会っていたばかりの、羽柴の顔が思い浮かぶ。
さっきとは違って、眉間に皺を寄せた顔で。
『……ったく。書類仕事から逃げやがったな、あいつ』
積み上がった書類の束が鎮座するごちゃごちゃとした机に書類を追加すると、家族の写真の待つ自分のデスクの椅子にどっかりと腰を下ろした。