九十九折町山神祭事事件:ええ日じゃあ 其の拾弐
まるで小突くような、衝撃や攻撃とはほど遠い、軽い一撃。
「.....あ?」
つい数瞬前まで、死を覚悟していた佐々木の口から、間の抜けた声が漏れる。
よく見れば、視界を埋める拳が小刻みに震えている。そして、佐々木の吐く荒い呼吸に、唸り声のような、うめき声のようなものが重なり始めた。
ふぅふぅと、徐々に大きくなる。気が付けば佐々木の出す呼吸の音よりも大きく、荒く、強く。獣のような唸り声から、人の声へ。
ギギギ.....と、佐々木の顔面に寸止めされた拳が遠ざかる。その先、引き戻された拳の持ち主。猪熊カレンの額には血管が雷鳴の如く浮かび上がり、食いしばられた口が憤怒の形相を形作る。
山がザワザワと動いた。さざめいていた動物たちが押し黙った。大気が、ぶるると震えたように思えた。
猪熊カレンの目はもはや佐々木を捉えていない。眼前に持ち上げた何かを、万力のような握力で潰すように睨み付けている。
筋肉が膨張し、眉間には皴が海溝のように深く刻まれる。
時折ビクンと顔が跳ね上がる。
一瞬の静寂が蘇る。
.....ボタリ、ボタリ 。
水の落ちる音がした。
猪熊カレンの整った鼻から色黒の血液が流れ出た。
それでも、握った何かを離さない。
プパァ!!
勢いよく鼻血が噴き出した。
「カレン!!」
佐々木が叫んだ。
一際大きい、獣の声がした。食いしばられた口が開かれ、限界まで力の込められた怒号が響く。
「殺すぞテメェ!!!!!!!」
咆哮と共にバチン!!と手が打ち合わされた。
「あのクソ野郎!!逃げやがった!!」
ドボドボと鼻血を流し、目をかっぴろげ、未だ額にビキビキと血管を走らせた猪熊カレンが吠える。仕留め損ねた獲物を探しきょろきょろと辺りを見回す。周囲にはより一層、獣臭が濃く立ち込めたが、流れ出る鼻血で塞がれたカレンにはそれは分からなかった。
まだ終わっていない。この祭りはまだまだ終わっていない。猪熊カレンに取り付いた山神は、彼女に追い出され、握りつぶされる前にヌルリと、空気に溶け込んでしまったのだ。
「.....カレン。どうなった?」
荒かった佐々木の呼吸は既に整えられていた。
「おっさん.....ごめん」
声を掛けられ、自分の遙か下に座り込む佐々木に気がつくと、先程まで髪を逆立てて激昂していたのが嘘のようにしゅんとなり、まるで親に叱られた子供みたいにしおれてしまった。
「でもあいつ、ぜってーまだここにいるって!!どこだよマジで!!そんで姉御とネギ坊は!?」
「まだいるんだな?祝部と禰宜原には、どうにかしてこの酔っ払いを帰す方法を考えさせてる」
佐々木が次の言葉を続けようとしたそのとき、地面がぐらりと揺れた。獣臭が渦を巻き始めた。何かが変わった事を二人が察知した。
風が吹いた。強い風。突風が吹いた。
バキバキと音を立て、パイプ椅子が、机が、テントが宙を舞い始めた。




