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警視庁陰陽課異聞禄:東京怪奇譚  作者: 渋谷直樹
九折町山神祭事事件:ええ日じゃあ
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九十九折町山神祭事事件:ええ日じゃあ 其の拾

 ドォン!!


 猪熊カレンが着地する。ステージの床板が断末魔を上げ、木片が爆ぜる。荒い息を吐き、四つ足で這う獣と化した彼女と、目が合う。


「....最悪や。出世なんて興味ないんやから....二階級特進なんて勘弁やで、ホンマに」


 鈴を構える手に、じわりと汗が滲む。まだ夏の暑さの残る蒸し暑い夜だというのに、白い背中を伝う汗は冷水のように冷たい。ジリジリと、ほんの少しずつ、摺り足で下がる。


 きっかけ一つ。


 ほんの些細な刺激一つで、目の前の獣は飛び掛かってくる。言うなれば今の状況は、何の防具も持たずに、空腹の虎やライオンの檻に放り込まれたようなもの。


「....何とかして、猪熊さんから山神を離さなければ....」


「はっ、こんなん、どないしてひっぺがすねん。ちんたらしてる間に殺されてまうわ」


 この状況を抜け出す方法を必死に思案する。儀式? 祈祷? はたまた祓い?

 無理だ。考えうるどれも、手順が多すぎる。巫女と神職の二人だけでは不可能。いつもの鉄火場ならば、その「時間」は猪熊カレンが稼ぐのだ。それが今、目の前で牙を剥いている。


「....あ....ぅぅ」


 息が詰まるような睨み合いを破ったのは、うめき声だった。ステージに倒れた古山亜希の微かな生存の合図。祝部の視線が、反射的にそちらへ逸れた。均衡が崩れた。睨み合った獲物に出来た隙。それを獣は見逃さない。視線を戻した時には既に死が迫っていた。


 まるでひぐまの掌。一息に振り下ろされた拳が、軽薄なEDMを孕んだ空気を切り裂く。ほんの数瞬、静寂が産声を上げた。ハラリと黒髪が中空に舞い落ちる。


 ――死んでいた。

 避けなければ間違いなく死んでいた。


 視線を落とせば、ステージの床板には、たった一撃でぽっかりと巨大な風穴が空いている。バクバクと乱打される心臓が、まさに曲のビルドアップのように隙間なく打ち鳴らされ、会場を支配する正確無比な電子ドラムの四つ打ちとズレて重なり、致命的な不協和音を奏でていた。


 地べたに倒れ、起き上がろうとする祝部に、再び獣が牙を剥く。飛び掛かろうとした、その刹那。前傾姿勢になった巨体が、バチリッ! と弾かれたように痙攣した。見えない壁に阻まれたのか、それとも痛みによるものか。驚いたように、闇雲に拳を振り回して暴れ始める。


 その背中。丸太のような筋肉の隆起には、一枚の符が張り付き、グズグズと嫌な煙を上げて焼け焦げていた。


「サンキュー、ネギちゃん。ホンマに昇進するとこやったわ」


「僧侶じゃないんで、お経はあげたりしませんからね」


 禰宜原の符術により隙は作った。しかし、猪熊カレンの体から、憑依した山神を引き離すには全くもって足りていない。状況は依然として変わってはいないのだ。せいぜいが、死を先送りにしたくらいか。


「今のうちに距離を取りましょう。怪異には効いても、猪熊さん相手にあの符がどこまで保つか....」


「せやな、早う......!?」


 言いかけた祝部の顔が引き攣る。効いていないわけではない。焼けるような痛みはあるはずだ。だが、憑依した山神はお構いなしに、カレンの背筋を異常なほど膨張させた。


 ビリィッ!!


 筋肉が山のように盛り上がり、貼り付いた符を引きちぎる。舞い散る紙片。拘束から解き放たれた獣が、この不快感を与えた輩を叩き潰すべく、祝部と禰宜原の二人を視界に収めた。


 二人が叫ぶよりも早く、カレンの大木のような腕がうなりを上げて横薙ぎに振るわれた。

 死を覚悟し硬直した、その時。


 まるで合気道の演武のように、猪熊カレンの体が中空に浮き、ズザァっと音を立ててステージを転げ回った。


 恐る恐る目を開けた二人の前に、背中を丸めた男の影が割り込んでいた。


「無事か!? 全くめんどくせえ事になりやがって」


 見覚えのある猫背。警視庁陰陽課・佐々木班班長、佐々木新であった。彼の手には、一本の武骨な棍が握られていた。それを両手で構え、カレンの豪腕を絡め捕り、受け流してみせたのだ。


「佐々木さん!」


「悪いが時間稼ぎしか出来ねぇぞ?その間にお前ら、なんか考えろ!」

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