九十九折町山神祭事事件:ええ日じゃあ 其の玖
宙を舞っていた。
取り押さえるべく飛び掛かった猛獣が、狂ったように踊る舞手に殴りかかろうとした刹那。まるで磁石の同極を無理矢理近づけたかのような不可視の反発。触れることすら叶わず、猪熊カレンは高く高く弾き飛ばされていた。
わっと声が上がる。誰もが上を見た。人体が回転しながら、ありえない速度で投げ出される奇怪な光景。思考が停止する。目の前で起きたいくつもの出来事を脳が処理しきれずに、ただただ狼狽えるばかり。
次の瞬間、空中高く投げ出された巨体が重力加速度を身にまといながら地面に叩きつけられた。逃げ遅れた観客を圧し潰し、男に女に若者に、色とりどりの悲鳴が上がる。
「猪熊さん!!」
禰宜原が目を見開き叫ぶ。当然だ。陰陽課佐々木班最強の暴力装置・猪熊カレンが、いともたやすくあしらわれたのだ。投げ飛ばしたのでもなく、吹き飛ばしたのでもなく、如何様な力を用いてなのか、百キロを超える筋肉の塊を空中高く弾き飛ばした。速さも重さも関係ない。この祭りに降りてきた何某かは、人の理など知ったことかと笑っているのだ。
「いってー....」
悪態をつきながら、猪熊カレンが瓦礫のようになったパイプ椅子ごと、下敷きにした観衆を雑に引っ張り起こす。 そのタフネスに呆れつつ、禰宜原が視線をステージへ戻す。
舞は止んでいた。
ステージ上の、はだけた巫女装束の少女はぼんやりと立ち尽くしたかと思うと、次の瞬間、全身の骨を失ったかのようにばったりと倒れた。
禰宜原が顔をしかめ周囲を見回す。視界の端で、影が走る。祝部だ。彼女は既に、倒れた少女の元へ駆け寄っていた。 声をかけ頬を叩く。しかし、何の反応もない。微かにビクビクとした痙攣を返すだけ。 死んではいない。だが、相手は「神」として祀られた存在だ。正式な手順を踏んでもいないその降霊に、ただの人間が耐えられる保証などどこにもない。
「ネギちゃん!この子たちはうちが、あんたは『お客さん』を!」
「はい!!」
祭りの主賓は舞手の少女から抜け出た。では次は?一体どこへ?禰宜原が思考を巡らせるその隙を縫うように、今度は客席から絶叫が上がった。
見れば、先ほどまで逃げ惑っていただけの若者の一人が、白目を剥き、天を仰いで咆哮していた。あの舞手と同じ、獣の如き雄叫び。それを皮切りに、あちらで悲鳴、こちらで絶叫。大音量で垂れ流され続けるEDMの重低音に、人々の阿鼻叫喚が不協和音となって溶けていく。
「どないなってんの!?」
「....これは!次から次へと……器を求めて『試着』しています!! 」
その直後。それまでの悲鳴をすべて搔き消すような、一際大きな咆哮が轟いた。
猪熊カレンだ。山神は脆い只人を脱ぎ捨て、この場で最も頑丈で、最も強力な器を選んだのだ。禰宜原と祝部の顔にさっと戦慄が走る。鈴を握り、符を構え、重心を低くする。戦うためではない。いつでも逃げられるように、だ。
カレンは、ふぅふぅと荒い鼻息を吐きながら立ち尽くしている。襲ってくる。そう身構えたのも束の間、彼女の巨体が弾かれたように再び宙へ浮いた。まるでバネ仕掛けの玩具か、あるいは重力を忘れたかのような、助走なしの跳躍。そのひとっ飛びで、カレンは遥か頭上のステージへと舞い戻っていた。




