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警視庁陰陽課異聞禄:東京怪奇譚  作者: 渋谷直樹
祈られたフェンス
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祈られたフェンス 其ノ壱

 低く、落ち着いた、穏やかな声が響く。


 誰へ向けて、どこへ向けてなのか。


 あるいは誰でもなく、どこへ向けているわけでもないのか。


「善意とは、空白を許さない信仰だ。そこに“誰かの死”という物語を当てはめ、人々は祈る。……救われるべきは“死者”ではない。祈ることでしか救われない、か弱き“生者”なのだ」


 ◇◇◇


 犬が吠える声が、湿り気を帯びた夏の夜に響いた。

 団欒の温かみはとうに寝静まり、起きているとしたら、二人だけの時間を睦まじく楽しんでいる夫婦や恋人、若しくはそう言った相手のいない独り身者が、静かに己を慰めているか。


 この線路沿いの住宅の、どこかの住人なのか、はたまたただの通りすがりか。

 包装に包まれた一輪の花を持ち、湿気ったシャツの胸元を開け、ヨタヨタ、のたのた、といった風に、男が右へ左へ揺れている。


 擦り減った革靴に張り付き、カピカピに乾いた吐瀉物の飛沫が、この千鳥足の酔っ払いが数刻前までどれだけの量の酒を飲んでいたのかを、無言で語っている。


 じっとりとした夏の夜。

 どこから歩いてきたのか、手に持っている、角が丸くなり、金具のメッキが剥げ始めたカバンを持つ事すら億劫になってきたのだろう。

 重心を右側に傾けさせる長年の相棒に、忌々し気な視線を送った。


 転んだ。


 ほの温かいアスファルトが、男を出迎えた。

 ふぅふぅと吐く息には、鈍色をした嗚咽が入り混じっていた。

 男は立ち上がろうとするが、まるで、7日間鳴きつくした蝉のように、ジタバタともがいているようにしか見えなかった。


 立ち方を忘れたように這いずって、やっとの思いでカバンと花を取り戻し、フェンスにぐったりと体を預けた。


 小刻みに震えているのは、寒いからではないのだろう。

 悲しいだけでも、嬉しいだけでも、やはり無いのであろう。

 虚しい、のかもしれない。


 遠くで聴こえていた犬の声も静まり、辺りにはズルズルと鼻をすする音と、時折せき込む音のみとなった。

 呼吸が落ち着き、濡れてテカテカになった男の顔は、ほんの数分前よりも、いささか憑き物が落ちたようにも見えた。


 下腹の出た体をのろのろと引き起こすと、長年の相棒を大事そうに抱きかかえて再び、ヨタヨタ、のたのたと歩いて行った。


 包装された、「一輪の花」だけが、フェンスに残された。


 ◇◇◇


 缶のジュースが置かれた。

 祝いの気持ちを込めて渡された事が、もう随分も前で、何のために渡されたのかも忘れられてしまったみたいな、一輪の花の前に。


 フェンスの前に供えられたように、寂しそうに佇む、花の前に。


 お菓子の箱が置かれた。

 花へ向けて。

 渡された役割を終えてしまった、一輪の花へ。


 新しい、花が供えられた。

 どこへ向けてか、誰へ向けてか、はたまた誰もしらないのか。

 兎にも角にも供えられた。


 プリクラが、貼られた。

 主張するように、見えやすいように、何かの証明かのように、ここに誰かがいたかのように。


 その日から、増えた。


 酒が増えた。

 ぬいぐるみが増えた。

 千羽鶴が増えた。

 手紙が増えた。


 増えた、物が増えた。


 手を合わせ、祈る人が、増えた。

 誰もいないのに、誰もいなかったのに。


 人が増えた、祈りが増えた。


 誰かがここに収まることを、祈り始めた。

 誰かがここに、収まらねばならぬ、この空白を埋めねばならぬ。


 この祈りは正しい祈り、この善意は正しい善意。


 そうである。

 そうでなければならない。


 祈り、そして善意とは、清く、美しいものだから。

「誰かの」ためのものだから。


 年季の入った商店街からしばらく歩いた、住宅街にほど近い、線路沿いのフェンス。


 誰かが、祈られ始めた。

 何かが、祈られ始めた。

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