祈られたフェンス 其ノ拾壱
ボリボリ、グビグビ、パキ、カシュー。
「やっぱうめー」
猪熊カレンがぷはぁっと缶から口を離すと、先程までの倦んだ空気から一転して間の抜けた、日常のダラけた空気がむっくりと、頭をもたげ始めた。
「ほれ、これとか姉御の好きなやつじゃん、やるよ」
と、プラスチックのボトルに入った未開封のあたりめを差し出すが、「いらんわ」とそれを押しやる。
「もう!アンタのそういうとこが一番怖いわ!霊とかよりずっと怖いわ!!お腹痛なってもホンマに知らんで!?」
止めようにもどうしようにも、先ほどまで打つ手なしだった自分がどうこう言えないとでも思っているのか、驚きやら怒りやら、呆れやら心配やらがゴチャゴチャに絡み合った感情を、どこへどう向けたらいいのか分からずに地団駄を踏んでいる。
「けどよぉ、誰かが“こんなとこにゴミ捨てんな”って、最初に言わなきゃ終わんねぇだろ?」
この一言で、押し黙ってしまった。
ギャアギャアと喚いたり、ソワソワと心配をしたりして、言い返す言葉をなくした祝部が、カレンの周りをうろうろしながら、自分の想定をいとも簡単に超えた振る舞いに悔しそうな顔をしながらふくれっ面を膨らませる。
禰宜原が地蔵のように機能を停止していると、それまでじっと無言を貫いていたスマホが、思い出したように鳴り始めた。
「....月島さんからです。ちょっと出ます」
少し大きめの声で今も騒いでいる二人に告げ、耳をスマホに押し当てると、凛とした、清涼感のある声が通り抜けた。
「お疲れ様です。こちら霊盤から確認できました。霊場構造が、“現在も進行形で構築され続けています”。恐らくですが、既に“実際の死者”を引き寄せてもおかしくない段階に至っています」
やはり推測した通り、既に危険水域に達していた。であるならば、禰宜原も祝部もカレンの行動にはギョッとしたが、今のこの状況では彼女の行動が最適なのかもしれない。少なくとも、まんじりともせず手をこまねいているよりははるかにマシだろう。しかし問題は同じことをしても「猪熊カレンだから大丈夫」なのか「誰でも大丈夫なのか」だ。
前線に立つような陰陽課員は多かれ少なかれ、一般人よりも高い霊的耐性を持つ。禰宜原も祝部も、その例に漏れずそれなりにはある。が、その中でも猪熊カレンは飛びぬけている。他のどの陰陽課員と比べても破格ともいえる耐性を持っているのだ。
故に、彼女以外が口にした瞬間に、何某かの霊障なり呪詛が発動する、などということもありかねない。
「黄泉戸喫」死者の食べ物を口にすると死者となる。陰陽課員ならば、いや、怪異だの霊だのと関わりあう生業をしている者ならば、当たり前の知識。だからこそ、禰宜原も祝部もこれだけ取り乱しているのだ。
通話をしながら薄靄に覆われた思考の海に漂っていると、そこに灯台の光が差した。
「────警視庁の事件・事故の全データベースを照合しました。この座標上では、ここ十数年、何も起きていません。完全に“無根”の祭壇です。霊場は形成されていますが、核もない、文字通りそこには何もありません。
……ただ一点、気になったことが。この近辺で過去に小規模な“集団幻聴”の通報が数件記録されています。いずれも、原因は下水管の工事の際に祈祷を怠ったこととあるので、関連性は……恐らく、ないと思いますが」
些か気になる部分はあったものの、なるほど、ここは本当に誰も死んでいない、本当に誰もいない、事実無根の祭壇か。
「ありがとうございます。助かりました」
ふぅっと息を吐く。
主観的にも客観的にも「何もない」、そして、供物を食べても「何もない」、本当に、「何もない」
「....何や?ネギちゃん、悪い顔してへん?」
いつの間にか近くに来ていた祝部が、珍しいものでも見たかのように、不思議そうな顔をしている。
「そうですか?月島さんからの報告で、ここには本当に何もなかったそうです。“何もなかった”というのなら....“なかった状態に戻す”だけです。
祀り自体を否定する。いや、そもそもここには最初から何もない、そう”再解釈すれば”──“場”も崩れる」
....あっ、な~るほど。と祝部が一切合切納得したというように手をポンとたたいた。
「なんやそれ~、結局めっちゃ単純なことやったやん」
「はいはい、アホくさ~、時間損したわ~」
ボヤくボヤく。
さっきまでうんうん唸っていたのが嘘のように怒涛のボヤきの洪水だ。
「祝部さん、念の為、境界に結界を張ってください。この場の“構造”を分断します」
地面に結界符をダルそうに置きながら、
「こんなんちゃちゃっと終わらそうや~、ほんでまたお焼きでも買って帰るで~」
ぶつくさとボヤきながら手際よく進める祝部を後にし、カレンにリヤカーを借りて来るように指示を出すと、さてさて、皆様お立合いとでもいうように、商店街だか住宅街から、チャイムの音を風が運んだ。




