第一譚 欲の坩堝
────生温い、空気が動いた。
埃とカビの臭いが充満する、西新宿の雑居ビル。
取り壊しが中止されたその廊下に、もう一つ。
獣のような、腐乱臭のような、生臭い匂い。
割れた誘導灯だけが、床に散らばるガラス片を緑色に鈍く照らしている。
『みなさん、霊盤に反応があります。警戒してください』
凛とした、少女のような声がした。
『はいはい、でもまぁカレンちゃんおるし平気やろ』
鈴を転がすような声がした。
『おう! 任せてくれていいぜ? 姉御!』
粗野な声が、高い位置から響いた。
『ピンサロにホストクラブ……で、消費者金融。こんなん淀むに決まってるやんなぁ、欲望ハッピーセットやないの』
鈴を転がすような声の、髪の長い女が、腰に手を当ててボヤいた。
『早くなんか出ねぇかな〜。お嬢、まだ出ねぇの?』
粗野な声をした身長の高い女が、肩をぐるぐると回して聞いた。
『……霊盤の反応、強まりました。そろそろ出ます』
四階の、ピンサロの入っていたフロア。
そこに女が二人。
寄せるには、充分だった。
◇
生温い、風が動いた。
生臭い、饐えた臭いが蠢いた。
『出よったな』
『おう、出たな』
髪の長い女が、ヴィトンのポーチから、神楽鈴を取り出した。
背の高い女が、背負っていた筒から、札やら護符やらがベタベタと貼られた、鉄の棒を取り出した。
ピンサロの跡地に女が二人。
獣の臭いと、精液のような生臭い臭い。
殺到した。
モヤのようだった影が、ハッキリとした形になった。
女と男と男と、無数の肉が混ざり合ったような塊が。
噎せ返る悪臭の中、ピンサロの跡地に場違いな、柑橘の匂いをした鈴の音が鳴り響く。
髪の長い色白の女を中心に、まるでそこが社や祠であるかのように、ここは神聖な場所であると決めつけるかのように。
香木のような匂いが広がっていく。
獣が動いた。
生命の塊のような。
人の形をした、肉食獣のような。
命の悦びを爆発させるような。
粗野な声の女の振るった鉄の棒が。
肉の塊にめり込んだ。
白い液体が噴き出る。
生臭い悪臭が広がっていく。
柑橘の音が、掻き消す。
『祝部さん! 廊下から増えます!』
神楽鈴を打ち鳴らす髪の長い女のヘッドセットから、緊迫の色を帯びた声が告げる。
『ほんま、欲望って尽きんもんやな~』
くわばらくわばら、とヘッドセット越しの緊迫感とは裏腹に、のんびりとした声。
『姉御〜、そっちも私がやろうかぁ?』
肉塊を滅多打ちにしながら、噴き出す液体を気にもせずに告げた。
『ええってええって、入る時に符を貼ってるから、何とかなるやろ』
ムワっとした臭いが、入り口に立ち込めていた。
◆◇◆
『お疲れ様でした。後は禰宜原くんに浄化を引き継ぎましょう』
ピンサロ、ホストクラブ、消費者金融の、色褪せた看板が掛けられた西新宿の雑居ビル。
その前に停めた黒のハイエース。
後部座席には、色白でショートボブの車椅子の少女がいた。
雑居ビルの地図やら、磁石やおはじきが取り付けられたボードの前から、労いの言葉を述べた。
『疲れた〜、エレベーターが使えないってほんま不便やわぁ』
髪の長い女、祝部綾音が両手を組んで、うんと伸びをした。
『菓子ばっか食べて運動しないからだぜ〜? 姉御はさ』
ゲラゲラと笑いながら、金色のウェーブのかかった長い髪と、モデルのような彫りの深い顔にベッタリとついた白い液体をタオルで拭いながら、背の高い女、身長およそ2メートルの女。
猪熊カレン(いのくま かれん)が、チョンチョンと祝部の頬をつついた。
『お前ら、この後報告書書くの忘れんなよ? 特に祝部、お前はバックレるなよ?』
やや疲れた中年の男の声がした。
運転席に座る男からだった。
初夏の夜。
春の穏やかさはとうに過ぎ去り、じっとりと粘ついた湿気が街を覆っていた。