第三場面:庭園・午後の光と“嘘の終わり”
邸宅の裏手には、小さな日本庭園が広がっていた。
竹の柵で囲まれたその一角には、古い石灯籠と、今はもう枯れてしまった池の跡があった。水の流れは止まり、かわりに風の通り道がその痕跡をたどるように、そよそよと草を揺らしていた。
「……こっちは、あまり誰も来ないの」
西園はサンダルのまま縁側を歩き、そのまま庭の石畳に降りた。佐々木もつられるようにあとを追った。
彼女が立ち止まったのは、丸く苔むした飛び石の脇だった。そこからは応接間の窓も、道路も、塀越しの隣家すら見えない。
完全な、視界の外。
「こっちに来るの、今日が久しぶり」
彼女は、そう呟いた。
「東京って、ずっと見られてる場所じゃない? ガラスみたいに透明で、でも曇らされてて、誰が本当に見てるのか分からない」
彼女の視線はまっすぐ池の跡に向けられていた。
佐々木は答えず、しゃがみこんで飛び石を一つ撫でた。
「ここは……見られてないって感じがする」
「うん。ここだけが、誰からも観察されていない」
そう言ったあと、彼女は不意に振り返り、彼を見た。
「さっき、言ってたよね。“賭けだった”って」
佐々木は顔を上げる。彼女は、まっすぐに立っていた。
「でも、本当は知ってた。わたしの名前も、所属も、全部」
「……」
「でもそれを、“知らなかった”ことにした。なぜか?」
彼は答えなかった。
「それが、優しさだったのか。それとも、自分を守りたかったのか。どっち?」
沈黙の時間が、石の間の風に流れた。
「たぶん……どっちも、なんだろうな」
佐々木は立ち上がった。視線は彼女の額と目のあいだあたりにあって、言葉が届くぎりぎりの距離にいた。
「最初から君のことを知ってて、“それでも選んだ”って言えば、きっと……怖かった」
「何が?」
「……その言葉の重さが」
「なるほど」
西園は笑わなかった。代わりに、一歩近づいてこう言った。
「でも、わたしはあなたを選んだの。その事実は、どんな嘘でも覆せない」
彼女の声は穏やかで、しかし鋭かった。
「あなたが嘘をついた理由も、わかる気がする。でもそれを、もう一度繰り返すなら、きっとわたしは選ばない」
佐々木は小さくうなずいた。そして、言った。
「もう、嘘はつかない」
庭の隅で、木の葉が揺れた。どこか遠くで車のクラクションが聞こえた。
だが、それらは二人のあいだには届かなかった。
「ありがとう」
西園の声は、それだけだった。
午後の光が斜めに傾いて、二人の影が庭の飛び石に重なった。その形がゆっくりと伸びていく。
佐々木は、彼女の手に触れた。彼女はそのまま、まばたきを一つしただけで、拒まなかった。
そのまま顔を近づけていくと、彼女はゆっくりと目を閉じた。
唇が触れたのは、わずかな時間だったが、それ以上に確かな質量を持っていた。
それは、言葉よりも先に、約束よりも深く、合意としての“行為”だった。
キスの後、彼女は一歩引いて、小さく笑った。
「これで、合意ね」
彼はうなずく。やっと理解した。“私が選ばれる”のではなく、“彼女が私を選んだ”のだと。