表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

第一場面:首都高速4号線・車内

日曜の午後。空はどこか埃っぽい灰色をしていた。東京の夏の終わりは、空気の粒子が重たく、光の輪郭を溶かしてしまう。晴れているのに、どこか鈍い。佐々木は、港区の地下立体駐車場のスロープをゆっくりと上がっていた。


無音のまま立体駐車機が回転し、黒いセダンが小さく咳き込むように動き出した。

運転席に座る彼の手は、ステアリングを握るには微妙に不自然な位置にあった。少し緊張していることを、本人だけが気づいていた。


助手席のドアが開いたとき、都市の騒音が一瞬入り込んだ。

「お待たせ」

西園は、白いロングコートを羽織っていた。首筋には薄くパウダーが乗せられており、マスク越しにその肌は整って見えた。東京の街を歩くには、少しだけ季節を先取りしすぎた服装だった。

「……いや」


彼はわずかに言葉を漏らし、視線を前に固定したまま、ギアをDレンジに入れた。

車は静かに滑り出した。冷房の送風がカチリと音を立てて強くなり、ナビが冷たい声で曲がる交差点を告げる。渋谷方面へと向かうその道は、午後の街並みにまぎれた匿名性で満ちていた。

「今日は、どこへ?」


佐々木の問いは、社交辞令以上のものではなかった。

「うちの祖母の家。青山の、ちょっと奥のほうにあるんです。古い家なんだけど……誰もいないから、今日は使っていいって」

「ご実家?」

「まさか。違います」


返ってきたその言葉は、期待も否定も含んでいなかった。ただ、区切られていただけだった。

信号に引っかかり、停車した。佐々木は、サイドミラーに映る車の列を確認するふりをしながら、ちらりと助手席を見た。


彼女は、窓の外を見ていた。ピンクのスマホを膝に置いたまま、手を膝に重ねていた。その手は動かず、しかしどこか確信に満ちていた。

「昨日のこと、覚えてます?」

唐突だった。その声には、抑揚がなかった。まるで、時間がその一点だけループしているような響きだった。

「……ああ、ええ。もちろん」


「本気にしちゃったんです、わたし」

彼はステアリングに意識を向けた。信号が青に変わる。

「“東京まで送ってくれたら、結婚する”って……あなたが言った」

「いや、あれは……」

「冗談ですよね。わかってます」

「……」


「でも、あなたが笑わなかったから。わたし、冗談でも受け取ってもいいって、そう思ったんです」

彼女の声は、むしろ穏やかだった。怒りも、期待もなかった。だからこそ、彼の胸を打った。

「僕、正直……その、ちょっと逃げようと思ってたんです」


言葉にするのは初めてだった。誰に対しても。自分自身にすら。

「車で迎えに行くって言って、でも途中でやっぱり用事が入ったって言って帰って……そしたら、それで終わるかなって」

「ふふ」


西園が笑った。短く、静かに。でも、空気が変わったのがわかった。まるで、その笑いが都市の音を一瞬だけ吸収してしまったかのようだった。

「でも、来た」

「ええ」

「つまり、それだけの理由が、あったってことですよね」

彼は言葉を失った。たしかに、彼は来た。理由は、自分でもわからなかった。ただ、そうしないといけない気がした。


車は、外苑西通りを左折する。周囲の高層ビルが陰を落とし、街の光が斜めに差し込んでくる。交差点をいくつか過ぎ、彼女が言った。

「ここで、曲がってください」

ナビには載っていない細い道。ひとつ角を曲がると、視界が開けた。背の低い住宅と木々の隙間から、古い石塀が姿を現した。


「ここ……?」

「ええ。祖母の家」

車をゆっくりと停める。彼女は静かにドアを開けた。外気が一気に流れ込む。

「ちょっとだけ、時間もらっていいですか?」

「ええ、もちろん」


彼女は立ち上がり、正面の門を見つめた。

「ほんとは……ずっと、こういうの、待ってたのかもしれないなって」

その言葉が誰に向けられたのか、彼は訊けなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ