第一場面:首都高速4号線・車内
日曜の午後。空はどこか埃っぽい灰色をしていた。東京の夏の終わりは、空気の粒子が重たく、光の輪郭を溶かしてしまう。晴れているのに、どこか鈍い。佐々木は、港区の地下立体駐車場のスロープをゆっくりと上がっていた。
無音のまま立体駐車機が回転し、黒いセダンが小さく咳き込むように動き出した。
運転席に座る彼の手は、ステアリングを握るには微妙に不自然な位置にあった。少し緊張していることを、本人だけが気づいていた。
助手席のドアが開いたとき、都市の騒音が一瞬入り込んだ。
「お待たせ」
西園は、白いロングコートを羽織っていた。首筋には薄くパウダーが乗せられており、マスク越しにその肌は整って見えた。東京の街を歩くには、少しだけ季節を先取りしすぎた服装だった。
「……いや」
彼はわずかに言葉を漏らし、視線を前に固定したまま、ギアをDレンジに入れた。
車は静かに滑り出した。冷房の送風がカチリと音を立てて強くなり、ナビが冷たい声で曲がる交差点を告げる。渋谷方面へと向かうその道は、午後の街並みにまぎれた匿名性で満ちていた。
「今日は、どこへ?」
佐々木の問いは、社交辞令以上のものではなかった。
「うちの祖母の家。青山の、ちょっと奥のほうにあるんです。古い家なんだけど……誰もいないから、今日は使っていいって」
「ご実家?」
「まさか。違います」
返ってきたその言葉は、期待も否定も含んでいなかった。ただ、区切られていただけだった。
信号に引っかかり、停車した。佐々木は、サイドミラーに映る車の列を確認するふりをしながら、ちらりと助手席を見た。
彼女は、窓の外を見ていた。ピンクのスマホを膝に置いたまま、手を膝に重ねていた。その手は動かず、しかしどこか確信に満ちていた。
「昨日のこと、覚えてます?」
唐突だった。その声には、抑揚がなかった。まるで、時間がその一点だけループしているような響きだった。
「……ああ、ええ。もちろん」
「本気にしちゃったんです、わたし」
彼はステアリングに意識を向けた。信号が青に変わる。
「“東京まで送ってくれたら、結婚する”って……あなたが言った」
「いや、あれは……」
「冗談ですよね。わかってます」
「……」
「でも、あなたが笑わなかったから。わたし、冗談でも受け取ってもいいって、そう思ったんです」
彼女の声は、むしろ穏やかだった。怒りも、期待もなかった。だからこそ、彼の胸を打った。
「僕、正直……その、ちょっと逃げようと思ってたんです」
言葉にするのは初めてだった。誰に対しても。自分自身にすら。
「車で迎えに行くって言って、でも途中でやっぱり用事が入ったって言って帰って……そしたら、それで終わるかなって」
「ふふ」
西園が笑った。短く、静かに。でも、空気が変わったのがわかった。まるで、その笑いが都市の音を一瞬だけ吸収してしまったかのようだった。
「でも、来た」
「ええ」
「つまり、それだけの理由が、あったってことですよね」
彼は言葉を失った。たしかに、彼は来た。理由は、自分でもわからなかった。ただ、そうしないといけない気がした。
車は、外苑西通りを左折する。周囲の高層ビルが陰を落とし、街の光が斜めに差し込んでくる。交差点をいくつか過ぎ、彼女が言った。
「ここで、曲がってください」
ナビには載っていない細い道。ひとつ角を曲がると、視界が開けた。背の低い住宅と木々の隙間から、古い石塀が姿を現した。
「ここ……?」
「ええ。祖母の家」
車をゆっくりと停める。彼女は静かにドアを開けた。外気が一気に流れ込む。
「ちょっとだけ、時間もらっていいですか?」
「ええ、もちろん」
彼女は立ち上がり、正面の門を見つめた。
「ほんとは……ずっと、こういうの、待ってたのかもしれないなって」
その言葉が誰に向けられたのか、彼は訊けなかった。