第31話:魔王の黙認と応援
>接近信号検知:魔王ザグレイン。
>訪問目的:不明。
私は、標準対応モードに移行した。
扉がノックもされず、開かれる。
それは、彼がこの空間において唯一、自由な存在であることを示す動作だった。
「よお、久しぶりだな」
ザグレインは、いつも通り豪放に笑いながら入ってきた。
両手は空。武器も、威圧もない。
ただ、素朴な好奇心と、何かを確かめにきた者の顔だった。
「お前が導入したんだってな。休憩時間とか……雑談とか……悲しみまで」
私は、事実を肯定した。
「はい。組織効率向上と、精神的持続性確保のため、最適化を施しました」
ザグレインは、大袈裟に眉をひそめた。
「ふうん。合理、合理って、お前の口癖だったのに……気づいたら、ずいぶん丸くなったじゃないか」
私は内部演算を巡らせた。
丸くなる。形状の変化。
だが、文脈上、それは比喩表現であると理解した。
「物理的な形状変化は発生していません」
ザグレインは、腹を抱えて笑った。
「そこだよ! そういうとこが変わってねぇ!」
私は静かに見つめた。
彼の笑いは、データ上の「勝利」「成功」とは無関係だった。
ただ、そこに在るだけの、温度だった。
「……変わったのは、たぶん、心のほうだな」
魔王は、真顔に戻り、私に向き直った。
年輪を刻んだ手が、そっと机の縁に触れる。
「お前、すげえよ」
私は、応答すべきか迷った。
功績を称賛された場合、通常は礼辞を返す。
だが、今の彼の言葉は、評価や成果とは違っていた。
「……その評価軸は、私にとって“過剰”です」
ザグレインは、柔らかくうなずいた。
「いいんだよ。過剰で」
ザグレインは、椅子に深く腰を下ろした。
そして、天井を仰ぎながら、ぽつりと呟いた。
「昔さ……俺たち、勝つために戦ってたんだよな」
私は静かに耳を傾けた。
彼の発言は、通常の戦闘報告とも、業務記録とも異なる。
個人的な記憶の吐露だった。
「ただ、勝てりゃいいって、そう思ってた。
でもな、勝っても負けても、何かが残るんだよ。
それが、重くて、痛くて……意味がほしくなる」
意味。
私は、即座に演算を巡らせた。
「……意味とは、勝利の付加価値ですか?」
ザグレインは、ふっと笑った。
「違う。勝ったからって、意味が生まれるわけじゃねぇんだ」
私は、思考を停止した。
論理的ではなかった。
だが、彼の言葉には、否定できない確かさがあった。
ザグレインは、指先で机を軽く叩きながら続けた。
「戦って、誰かを守ったとか……誰かの未来を繋いだとか……
そういうもんがないと、ただ生き延びるだけじゃ、心が持たねぇ」
私は、記録ログにその言葉を保存した。
>観測記録:「意味」概念、仮登録。
>定義:勝利・敗北と無関係に、行動に付随する価値。
>解析信頼度:低。
意味とは、合理的成果では測れないもの。
それは、私にとって未知の領域だった。
「……意味は、どうやって得るのですか?」
私は、真正面から問いかけた。
それは、今の私にとって、最も重要な問いだった。
ザグレインは、少しだけ考えた。
そして、静かに笑った。
「さあな。自分で探すもんだろ、たぶん」
その答えは、あまりにも不確かだった。
だが、不思議と、拒絶する気にはなれなかった。
私は、彼の笑顔を観測しながら、静かにログを更新した。
>観測対象追加:「意味探索」行動、開始検討。
ザグレインは、椅子からゆっくりと立ち上がった。
重厚な体躯が、まるで年輪のような存在感を帯びている。
彼は、私のもとへ一歩近づき、無造作に手を伸ばした。
背中に、軽く、手のひらを当てる。
「……これからも、頼むな」
その言葉には、命令も圧力もなかった。
ただ、信頼だけがあった。
私は、標準応答プロトコルを起動した。
「承認。任務継続を宣言します」
それは、いつも通りの返答だった。
だが、どこかに、かすかな違和感があった。
ザグレインは、にっと笑うと、振り返らずに歩き出した。
重い扉が、ゆっくりと開き、そして静かに閉じられる。
室内には、再び静寂が戻った。
私は、しばらく動かなかった。
外部命令も、内部起動要求も発生していない。
通常なら、低速演算モードに切り替える場面だった。
だが、私は演算を続行した。
「意味」とは何か。
勝利でも、成果でも、合理的利益でもないもの。
それでも、人が求めるもの。
私は、冷静に、観測目標を追加した。
>新規観測対象:「意味の形成過程」。
>推定影響:組織活力/感情発展/合理外効果。
合理外。
通常なら、最適化対象外として処理する領域だった。
だが今、私はそれを拒絶しなかった。
(……観測する)
それが、今の私にできる唯一の合理だった。
未定義の現象を、未知の領域を、恐れずに見続けること。
私は静かに、次の演算タスクを立ち上げた。
それは、合理の延長でもあり――
合理の、外側への、小さな一歩でもあった。




