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☆書籍化やコミカライズ☆

【8/25電子書籍配信】騎士団長! 私は不審者ではありません!

いつもお読みいただきありがとうございます!

楠結衣先生による「騎士団長ヒーロー企画」の参加作品です。

 よもやよもやである。


 間違えた。なぜ昨日読んだ歴史小説のヒーローのような口調で喋っているのだろう。脳内だから大丈夫だけれど、それほど動揺しているのか。


 まさかまさかである。


 夜会の最中に涼みに出た庭園で婚約したばかりの婚約者の不貞現場を目撃することになるなんて。ねぇ、婚約したばかりの婚約者って重複表現?


 まぁ、そんなことは今どうでもいい。見た瞬間、思わず逆方向に走り出してしまった。そう、アイレット・べインズは現在吹き抜けの廊下をどこに向かうかも知らずに、令嬢らしからぬ速度で走っているのだ。


 ドンッ!


 最悪なことに曲がり角で誰かにぶつかって盛大に跳ね飛ばされかけて、腕を掴まれて踏ん張ることになった。痛い。足ではなく、腕が。痛みに顔をしかめていると、すぐに腰に手が回る。


「失礼した」

「こちらこそ申し訳ございません」


 顔は見ていないが、王宮警備の第五騎士団の服装だ。腰を抱えられて跳ね飛ばされず、アイレットは体勢を戻すことができた。痛みに支配されていたが、明らかに走っていたアイレットが悪い。


「レディー。廊下を走るのは危ない」

「はい、申し訳ございません。以後気をつけます」


 そんなこと知ってます。お母さんみたいなこと言わなくても。アイレットだって婚約者の不貞現場なんて目撃しなければ走っていない。自分が悪いのは分かっているが、誰かに八つ当たりしたい気分だ。


「レディーに何かあったのだろうか」


 ぶつかりかけたその人はアイレットの腕を掴んだまま、顔を覗き込んでこようとする。すぐに顔をそむけた。アイレットだって矜持はあるのだ。泣き顔をどこの誰とも知らない男に見せるつもりはない。


「顔を見られたくない理由でも?」

「痛い!」


 男性がアイレットの腕を掴む力が強くなる。アイレットが痛みに悲鳴を上げると、少し緩んだ。


「申し訳ないが、レディーは怪しい。服装は乱れていないから襲われたわけではないようだ。だが、庭園から走って来たところをみると……不審者である可能性もある。しかも夜会参加者が用のないこちらにまで来ていたとなれば、事情を聞かねばならない」


 婚約者と他の令嬢の盛っている現場を目撃しましたと言えと?

 泣いていることも忘れて、さらに自分が悪いことも棚に盛大に上げて、アイレットはその男性を睨んだ。男性も睨み返してくる。


 庭園で不貞をしていた婚約者とは違って、日に焼けた肌に黒髪の長身男性だ。婚約者は全体的にナヨナヨして色素が薄いが、さすが騎士様である。威圧感が段違いだが、アイレットだってこれ以上負けるわけにはいかない。さっき、尻尾を撒いて不貞現場から逃げ出してしまったのだから。


 睨み合うことしばらく。鳥の鳴き声でアイレットは我に返った。


「事情を説明するよりも、見ていただいた方が早いです」

「どういうことだ?」

「いいから、ついて来てください」


 アイレットは半ば自棄だった。

 どうでもよかった。なかなかの美男子に泣き顔も見られてしまったことだし、レディーと呼ばれながらもハンカチさえ差し出してもらえないのだ。不審者扱いされている。


 アイレットが今度は男性の腕を掴んで引きずる。

 体格的には絶対無理なのだが、彼はついてきてくれた。


 庭園の一角からはご令嬢の悩まし気な声が聞こえる。そして婚約者の声も。

 その声が近付くにつれて騎士様は無言になった。アイレットが掴んでいる彼の手は緊張気味だ。


「あー……もしやあれはレディーの妹で、レディーの婚約者を奪ったのだろうか」


 妄想がたくましいな、この騎士様は。どうしてそんな修羅場の妄想が瞬時にできるの?


「いえ、婚約者は婚約者なのですが。相手は知らないご令嬢で私の妹ではありません」

「そ、そうか。良かっ……いや、良くないな。失言だった」

「いいえ。とりあえずですね、婚約したばかりの婚約者の不貞現場をこの通り、会場の熱気から逃げてきたら目撃して動揺してしまいました」

「……そうか。不審者扱いして申し訳ない」

「なんなら、あれは本当にあなたの婚約者なのかと疑っていただいて構いません」


 むしろ、そのくらい疑って欲しい。さあ、もっと不審者扱いをしろ。もう自棄だ。


「いや、ああいうことはよくある。ただ、レディーが走ってあの立ち入り禁止区域ギリギリまで来ることは珍しい」


 それは疑われても仕方がない。大変申し訳ない。思わずシュンとなりかける。

 しかし、よくあるとは? まさかさっき妹が婚約者を奪った発言は実際にあった事例?


「お手数をおかけしました」

「いや……傷ついているレディーを不審者扱いしてしまって、しかも腕まで掴んでしまって申し訳ない」

「大丈夫です。今なら婚約者以外の男性は全員、どんな老人でもカッコよく見えそうです」


 騎士様はハンカチを差し出してくれる。まだ自分は泣いているのだろうか。ここに来るまでに涙はカピカピに乾いた気がするが。ハンカチを受け取って、アイレットはちょっと落ち着いた。そして、湧き上がってきたのは怒りだ。


 ちょっと待って、なんで私がこんな目に、というやつである。


「ちょっと、私。婚約者のズボンを取ってきます」

「すまない、話が全く見えないのだが」

「騎士様は私が彼らに害を与えていないと証言していただけますか」

「いやいや、待て待て。何をする気だ」

「婚約者が明らかに悪いのに、私だけ泣いて逃げて騎士様にぶつかって不審者扱いされてもう一度現場を見るなんておかしいです」

「それは申し訳ない」

「いえ、騎士様にはほとんど八つ当たりです。元凶はあんなに良い思いをしているのに不公平で不平等です」

「良い思い……」


 騎士様は若干遠い目をした。


「ということで、私は婚約者のズボンでも奪わないとやっていられません。事が終わって下着姿でウロウロして見つかればいいです」

「もうどこからツッコミを入れればいいのか分からないが、ひとまずレディーの婚約者はズボンを脱いでいないがどうやって奪うんだ? 力ずくか?」

「え?」

「え?」

「脱いでいないのですか? 畳んでおいてませんか?」


 現場を見ようとする私を騎士様は慌てて止める。


「こんなところなんだから、脱いで畳んでおいてあるはずがないだろう」

「え? そうなのですか?」

「あー、あー……そうだ。それにそれをやったらレディーまで罪に問われる可能性がある」

「え、不貞をする婚約者が悪いのに?」

「レディーが痴女扱いされるかもしれない」

「なんでですか、たかが婚約者のズボンを奪ってその後、彼の家と仲が悪い家の人を呼んで目撃させようとしているだけなのに」

「清々しいほどの計画をありがとう」


 騎士様は顔の半分を手で覆った。


「婚約者の不貞に関しては私も証言する。そうすればレディーも慰謝料がもらえるだろうし……そちらの方が良くないだろうか。レディーの計画を遂行したらレディーにまで傷がつく」

「でも……」


 それじゃあ、この怒りはどうしろと。穴にでも向かって叫べと?


「これから注意しに行って、証拠を取ってこよう。レディーを不審者扱いした謝罪になればいいのだが……それでいいだろうか。ここは王太子妃殿下のお気に入りの庭園だ。そこでこんなことに及んでいると知られれば、妃殿下は間違いなくお怒りになる。そして王太子殿下は妃殿下を愛していらっしゃるから同じくお怒りになる。ズボンを奪うよりも良いと思うが」


 一介の騎士様がどうやって妃殿下の耳にそれを入れるのだろうか。

 しかし、アイレットも痴女扱いされるのは嫌なので渋々頷いた。騎士様はさっさと彼らのところまで歩いて行くと声をかけている。彼らの悲鳴が聞こえた。


「他の騎士を呼ばれたくなければ今すぐ立ち去ることだ」


 慌てて彼らは服を整えている。騎士様は婚約者に近付くと服を整えてあげていた。なにあれ、腹立つ。


 彼らを追い払ってから、騎士様は私が隠れていた場所まで戻って来た。


「証拠だ」


 彼の手にはカフスボタンが載せられている。今日、婚約者がつけていたものだ。


「衣服を整えるフリをして取っておいた」

「ありがとうございます」

「これで私の証言もあればいけるだろう」

「騎士様は第五騎士団ですよね? 最近、新しい団長が就任したという」

「そうだな」


 なぜか騎士様の声は先ほどと比べて沈んだ。


「えっと?」

「レディーは私の証言の信ぴょう性を疑っているのだろうか」

「どうやって妃殿下のお耳に入れるのかなと思っておりました」

「私にもそのくらいの権限はある」


 騎士様の声が冷たい。なぜだろうか。

 第五騎士団は最近、新しい団長が就任した。その就任の際にひと悶着あったのだ。元々別の騎士が騎士団長に就任する予定だったが、直前で不正が発覚。そして違う騎士が団長になったのだ。その不正を暴いたのが新しく騎士団長になった人だったので、でっちあげだの、嵌めたに違いないだのといったウワサが出回っていた。


「別にウワサで疑っているわけではありません。不正をする方が悪いのですから。ただあの、騎士様の報告を上が握りつぶしたりとか……」


 一介の騎士様がどうやって妃殿下の耳に入れるのですかと問おうとして、さすがに失礼なのでうまくごまかしたつもりだ。しかし、そこまでアイレットは口にして止めた。


 嘘でしょ? この人の騎士服、ラインが入ってない。

 普通の騎士服には袖口にぐるりとラインが入っているのだ。そこだけちょっとダサいデザインである。しかし、ラインが入っていないカッコいい騎士服がある。それは騎士団長の騎士服だ。それに今更ながら気付いた。


「え、まさか。第五騎士団の団長様?」

「気付いていなかったのか」

「はい。あの、動揺していたので」

「そうか……だが、これで私の証言に信ぴょう性が出ただろう」

「あ、はい」

「不正を暴いて騎士団長に上り詰めた私なのだから、妃殿下も聞いてくださる」


 騎士様は自嘲気味に笑った。


「はぁ、しかし不正はする方が悪いので、なぜ暴いた方が悪く言われるのでしょうか。そもそも前の方は不正さえしていなければ騎士団長になれたのですよね?」

「そうだな」

「じゃあ、バレるような不正をするのがダメでしょう。もちろん不正もダメですが。私の今日の状況だってそうです。私、悪いところありますか?」

「ズボンを奪っていたらダメだったが」

「していませんけれど」

「……レディーは何も悪くないだろう」

「じゃあ、騎士団長様も何も悪くないではないですか。あなたは不正を暴いただけ、私は婚約者の不貞現場を見てこれから婚約破棄してお金をがっぽりもらうだけです」


 彼はしばらくアイレットの言葉を咀嚼して、笑った。


「それは、ありがとう。酷いウワサには辟易していたが、騎士団など関係なくレディーにそう言っていただけてなによりだ」

「こちらこそカフスボタンをありがとうございます」

「これは証拠品として預かるので、レディーはまず家で婚約破棄の話をせねばならない」

「大丈夫です。信じてもらえなかったらそのカフスボタンと団長様の証言があるので」

「今更だが、レディー。あなたのお名前を伺っても良いだろうか。私は第五騎士団の新しい団長、ルパート・ヒューイットだ」

「べインズ伯爵が娘、アイレット・べインズです」

「ではべインズ嬢。近日中に伯爵にきちんと私の証言をしよう」

「ありがとうございます」

「いや、元はと言えば私が不審者扱いをしてしまったからだ。騎士団長に就任したばかりでウワサもあってピリピリしていたようだ。会場に戻るだろうか? それともあんなことがあったから……」

「帰ります」

「では、そこまでお送りしよう」


 そっと手を差し出されて、その手を取った。

 そこまでは良かった。しかし――。



「どうして夜会では皆、暗がりでいちゃついていやがるんでしょうか」

「道を変えよう」

「何でこちらが譲らないといけないんですか」

「レディー、その意地は今は要らないと思うのだが」

「なぜ、空気も読まない野生動物に道を譲らなければいけないんです?」

「先ほどより辛らつになっていないか?」


 今から歩こうとしている廊下の柱の陰でいちゃついている男女一組。何組もいたら困るけれど。アイレットはさっきの婚約者を思い出してイライラした。


 アイレットは騎士団長にエスコートされながら、足はのろのろと重くなる。しかし、負けたくない。一体何と戦っているのか分からないが、負けられない。


「レディー、遠回りになるが道を変えよう」

「いいえ、私は譲りません。さっき譲ったんですからもう譲りません」

「頑固なレディーだ。夜会ではこういうことにはよく遭遇する」


 クスクス笑いながら彼は慣れているようで道を変えなかった。


「あのカップル、おかしくないですか?」

「レディーは人の情事を覗く趣味でもあるのか?」

「あちらが大っぴらに見せてきているんです。だって、男性が粉か薬みたいなものを女性のドレスの胸に放り込みました。さっきから口付けをしているだけですし、手つきが先ほどの婚約者みたいにいやらしくないですし。ほら、指についた粉を舐めさせています」

「何?」


 彼の雰囲気が変わった。

 すぐに周囲を確認して厳しい顔をする。


「女性騎士を連れてくるからレディーは違う道から帰るんだ」

「何ですか、急に」

「違法薬物の取引の可能性がある」

「あぁ、いちゃついているように見せかけての薬物取引ですか。よく小説でありますね」

「そんなに落ち着き払って言われるのもどうかと思うのだが。ひとまず、私は……」

「女性騎士を呼んでいる間に逃げられたらどうします? 女性騎士を呼ぶのはあのご夫人かご令嬢の胸元に突っ込まれたであろう薬物を回収するためですよね?」

「その通りだ。もし無実なら大変なことになるからな」

「じゃあ、私がやります」

「は?」

「酔ったフリをしたら何とかいけるでしょう」

「は?」

「男性の方は押さえていてくださいね。私、誰かに八つ当たりしたい気分なんです」

「おい、やめっ」


 騎士団長を押しのけてから、カップルに駆け寄った。


「お、叔母様!」


 誰か知らないがショックを受けたような声をアイレットは出す。叔母様って誰だよ、という気分ではある。


「こ、こんなところでそんなはしたない姿で! 誰ですか、この方は! 浮気なんて! 最低です!」


 カップルに誰?という目で見られながらも女性に向かって突進して腰に抱き着く。いちゃついていた男は勢いに気圧されて離れた。そこに騎士団長が近付く。騎士団長を見た男は逃げ出そうとしたがすぐに捕獲されている。


 アイレットは躊躇なく女性の胸元に手を突っ込んで、包みに入った粉を取り出した。

 男を縛ってから、騎士団長はその粉をそうっと確認する。


「彼が……痩せてもっと綺麗になる薬だって……」


 ご令嬢だったが、泣きそうになりながらそんなことを口にしている。いや、そんな薬ないでしょ。あったら正規ルートで爆発的に売れるって。


「ひとまず二人を連行する。レディーも来てくれ」


 目撃者兼胸元に手を突っ込んだ人物としては行かなければいけないでしょうね……。



 その後は騎士団長である彼には怒られ、しかし他の騎士たちには大変感謝された。男性の方がずっと追っていた違法薬物の売人だったらしい。彼の取り調べをすれば芋づる式に他も捕まえられそうなんだとか。


 結局、騎士団長に家まで送ってもらい彼の口から婚約者の不貞は父に説明された。違法薬物関連で忙しくなるからわざわざ今日送ってくれたのだろう。


「ありがとうございました」

「レディーには肝が冷えた。あんなことは二度としないでくれ」

「不貞現場を目撃しない限りは」


 彼ははぁと息を吐くと、なぜかアイレットの頭を数度軽くぽんぽんと撫でた。なんだろうと首をかしげると、かしゃんと足元に何かが落ちる。髪飾りが地面に落ちていた。


「す、すまない。妹にやるようにレディーの頭を撫でてしまった! しかも髪飾りまで壊してしまった。弁償する」

「いえ、いいですよ。私も女性にタックルをかましたり、不貞現場を見て走ったりしたので今壊れたわけではないでしょう。しかもこれは婚約者がくれたものなのでもう要りません」


 私は地面に落ちて壊れた髪飾りを踏んづけた。婚約者に見立てて。


「っ!」


 なぜか騎士団長が潰れたような悲鳴を上げる。


「レディーは恐ろしいな」

「違法薬物の取り締まり、頑張ってくださいね」

「我々は王宮警備が仕事だから王宮内で起きたことにしか対処できない。だが、レディーのおかげで他の騎士団に恩が売れそうだ」


 騎士団長はそっと私の手を取る。


「勇敢なレディーに感謝を」


 手袋越しだが口付けが落とされた。不貞現場を見た一日の終わりがこれなら悪くない。ほんの少し、そこに熱が集まっていた。



 父は騎士団長の証言があったせいか、張り切って婚約破棄を進めてくれた。我が家は慰謝料をかなりせしめることができた。

 王太子妃殿下の叱責も婚約者と不貞相手にあったらしく、貴族の間ではかなりウワサになっているようだ。

 アイレットもそれだけでは黙っていない。あの二人が結婚できたらいいのに、なんて夜会で喋って回っている。


「いいのか、あの二人が結婚して」


 夜会でアイレットをエスコートしながら、父は複雑そうな顔だ。


「もちろんですよ、お父様。王太子妃殿下のお気に入りの庭園で盛るくらいなのですから、お互いしか目に入っていないではないですか。聞けば、私との婚約前から恋人関係だったんですよ? これはもう結婚していただかないと」

「アイレットよ、本音はすでに聞いている気がするが、さらなる本音は?」

「令嬢が修道院に入るか、どこかの後妻に入るなんて生温くてつまらないですし。元婚約者の方も数年経ってほとぼりが冷めたら戻って来るのは嫌ではないですか。ああいうバカな男ほど『あの時は若かったな~』で済まそうとするのです。それならくっついていただいて、ずっとあの庭園で盛っていたお二人と言われる方が楽しいです。社交界もきっと賑わうことでしょう」

「妻に似て苛烈なアイレットをもらってくれる人がいるだろうか……」


 父は亡くなった妻、つまりお母さまを思い出すように遠い目をする。失礼な。アイレットだって不貞現場を目撃した時はさすがに普通の令嬢のように動揺した。泣いて走るくらいに。


「あら、あれは……」


 私は謎の人だかりに視線をやった。頭一つ周囲より身長が高い男性に見覚えがある。


「第五騎士団長か、夜会に出席とは珍しい」

「今日は王太子殿下の誕生日ですから、団長は全員参加ですか」

「騎士団長で未婚は彼だけだろう。ご令嬢が群がっている」

「お父様、集まっているという表現にしてください。彼に婚約者はいらっしゃらないのですか」

「いなかったはずだ」


 へぇと見ていると、目が合った。

 なぜか彼は令嬢たちを丁重に避けてからこちらに向かってくる。


「アイレット、何かやらかしたか」

「私、まだ何もやらかしておりません。そもそもあの日だけです」

「じゃあ、なぜ団長がこちらにやって来るんだ?」

「知りません」


 そんなことを父と話していると、彼はとうとうアイレットの前で立ち止まった。


「べインズ伯爵、べインズ嬢。その節はお世話になりました」

「いえ、こちらこそ」


 父がヘコヘコしている。彼にべインズ嬢と呼ばれると変な気分だ。レディーと呼ばれる方が好きだ。


「べインズ嬢をお借りしても?」

「どうぞどうぞ」


 アイレットは安売りされた果物ではないのだが。

 しかし、父に許可を取られては仕方がない。もしかしたら違法薬物取引の話かもしれない。団長にエスコートされてご令嬢方の視線を背中に浴びながら会場の外に出た。


「何かありましたか?」

「レディーのおかげで違法薬物製造のアジトまで潰すことができた」

「それは取り調べをされた騎士団の方々のおかげでしょう」

「しかし、レディーがあの男を捕まえるのに突進してくれなければこうはいかなかった。あと半年はかかっていただろう。あんな真似は二度としてほしくないが」

「以後気をつけます」

「そのセリフは以前にも聞いた覚えがある。廊下は走っていないだろうか」

「お母様じゃないんですから。もう走っていません」


 彼は笑いながら、ポケットから箱を取り出した。


「これをお詫びに」

「何でしょう」

「壊してしまった髪飾りを今日渡そうとレディーを探していた」

「あれは元婚約者の負の遺産ですから気にされなくていいのに」


 それでも贈り物にはちょっとドキドキした。不貞を行った元婚約者のことがあるから余計に。許可を取って箱を開ける。中に入っていたのは黒真珠が花の形に配置された髪飾りだった。


「こんな高価なものはいただけません」

「私がつけるわけにはいかない」

「黒髪に似合うかもしれませんよ」


 そこまで口にして、ん?と思う。ルパート・ヒューイット騎士団長は黒髪だ。そして箱の中にあるのは黒真珠。彼の髪を思わせるようなものだ。こういう、自身の色を連想させるものは婚約者に贈るのが普通だ。


「まさか、意中の方か婚約者様にお渡しするものと間違えたのですか? 騎士団長ともあろう方が不注意でいらっしゃいますね。では、見なかったことにします」

「いや、間違えてなどいない」


 婚約者はいないという情報だった。でも候補くらいいるだろう。箱を突き返したのに、彼は手を出そうともしない。


「レディーの銀髪に似合うと思った」

「あら、それはありがとうございます」

「ここを引き抜けば、ほら、武器にもなる」


 まさかこの人、髪飾りを護身具だと考えている? ありがたいけれども、黒真珠のような高価なものを使う必要はないわよね?


「すまない、気に入らなかっただろうか?」

「いえ、ありがとうございます。次に不貞現場を見たらこれで目を突けということですね」

「取り締まりは強化している。目を突く必要はないだろう。今日も部下がすでに二組発見した」

「まぁ……」


 素敵な髪飾りを手に呆れてしまった。


「レディーは新しい婚約者が決まっただろうか」

「いえ、父からは何も聞いておりません。せっかく団長様が私を胸に手を突っ込む痴女ではなく、逮捕に協力した功労者にしてくださったのに」


 ブブッと彼は吹き出した。


「これだから私はレディーのことをあの夜から忘れられない」

「痴女のことなど忘れられないでしょう」

「ズボンを奪おうと計画するレディーも、躊躇なく他人の胸に手を突っ込むレディーも忘れられない」


 団長はアイレットの片手をそっと取る。


 アイレットでもいい加減に気づいていた。これはそういう雰囲気なのだ。しかし、惚れられる要素が自分にはどこにもない。あの夜は特に。

 まず、泣いて廊下を走ってぶつかって睨み合って。不貞現場に連行してズボンを奪おうとして止められて、その後はカップルに八つ当たりしたら違法薬物にたどり着いただけだ。ほら、どこにも恋に落ちる要素がない。


「団長様は趣味が悪いのですか?」

「黒真珠はダメだっただろうか。妹には反対されたんだ。『重すぎる』と。確かに黒は重い色だな」


 それはそういう意味じゃない。婚約者でもないのに自分の色を贈るな、重い男めという意味だ。


「反対されたのに、どうしてこれを贈ってくださるんですか」

「レディーに似合うと思ったからだ。レディーはあの夜、私が止めなければなんでもできそうだった」


 怒りですね。えぇ、不貞現場を見せられた怒りですね。怒りで何でもできそうだった。


「そんなレディーに私はこれが似合うと思った。後から婚約者になれば別に関係ない」


 この人、意味が分かっていてやっているのか。自分の色を贈る意味を。妹に重いと言われながら。アイレットは眉を顰めた。


 彼はその表情変化に気付いたようで、軽く握っていたアイレットの手にそっと口付けた。あの夜と同じようにそこに熱が集まるのを感じる。こういうの、女性は絶対に弱いはずだ。アイレットだってもれなく弱い。


「アイレット・べインズ嬢。私だけのレディーになってくださいませんか」


 今度は頬に熱が集まる。急に丁寧な喋り方になるからだ。アイレットは思わず俯いた。あの日のように顔を見られないように。


「レディーは押せ押せのタイプかと思ったら、押されるのは弱いのか」


 緩く片手を握られ、俯きながらもアイレットは手を振り払えなかった。美男子の騎士団長に言い寄られて悪い気などしない。でも、男はどうせ不貞をするんじゃないかなんて頭の中で囁く声もある。


 それにしても人気がないものだ。さすが王宮警備担当だ。穴場をしっかり分かっている。


「不貞をするつもりはないが、レディーには別の意味でズボンを奪われてもいい」


 アイレットは恥ずかしくなって思わず手を振り払った。


「からかうなら他を当たってください」

「からかってなどいない」

「では、なぜ? 団長様ならあの人だかりからも分かるように引く手数多でしょうに。うちは取り立てて何もありません」

「レディーがいる。それに、ウワサに振り回されたのに私が功績を上げたら群がってきたのが先ほどの人だかりだ」

「だから、なぜ私なのかと聞いています」

「ウワサに振り回されずに私を見てくれたから。それに、あの夜のことが忘れられない」

「それは誤解を受けそうな言い回しです」


 彼はアイレットの片手を再び握りながら、今度はもう片手で垂らした銀髪をクルクル弄んだ。


「レディー、あなたは返事をくださらないのだろうか。私だけのレディーになってくれませんか?」


 急に接近され、耳元で囁かれた言葉にアイレットは処理しきれなくなった。彼の手を振り払って廊下を走る。あんなことを言われたことがないからだ。


 しかし、相手は騎士団長だ。すぐに追いつかれて、後ろから抱きしめられた。片側にマントが付いた礼服で空気抵抗がありそうなのに足が速いことだ。


「廊下は走ってはいけない」

「団長様はもっと真面目な方かと思っていました」

「誰に聞いても私の評判は真面目な騎士団長だと思う」


 アイレットは何を言っても意味がなさそうなので、抱きしめられたまま沈黙した。


「そういう風に振舞ってきた。ただ、騎士団長に選ばれると思っていたら公爵家の縁者になりそうだったから、不正が暴かれるタイミングは調整した」

「え?」


 初耳の内容に思わず振り返る。団長はアイレットを自分の方に向けさせて笑っていた。


「そのくらいの政治はする。でも、レディーは予想外のことばかりだ。確かに不正はする方が悪い。バレる方が悪い。不貞もする方が悪い。そこは気にしていないが、まさかズボンを奪おうとしたり、タックルして胸元に手を突っ込んだりするなんて。そんなレディーは初めてだ」


 なんだか嫌な予感がする。好青年そうな騎士団長がどうもきな臭くなってきた。不貞男の次は一体何を引き寄せたのか。


 アイレットは慌ててまた廊下を走って逃げだした。今度は追いつかれなかった。でも、起こしてはいけない猛獣を起こしたような気もしていた。


 この後、髪飾りをしっかり持って逃げていることに気付いてアイレットは自分でも激しく動揺することになる。


☆2025年8月25日 電子書籍がコミックシーモア先行配信☆

「騎士団長! 私は不審者ではありません! まして、婚約者になんてなれません!」(リブラノベル)

挿絵(By みてみん)


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