第16話 失われてしまったものを
■2026年(9年前)
2026年当時、シン――天宮晋は小学1年生だった。
幼馴染の楓や、妹の円とも仲が良く、両親との仲も良好。
素直で、好奇心旺盛で、優しい少年。
何も問題はないはずだった。
しかし、ある日のこと。
晋は自らの特異な力に気づくこととなる。
学校からの下校中、車に轢かれそうになっていた少女を救ったことがきっかけだった。
当時、晋は小学1年生。
それにも関わらず、少女を抱えたまま迫ってきた車を飛び越えたのだ。
小学生男児にしては異常な脚力。
仮にアスリートでも、同じ状況で少女を助けられたかは分からない。
少女やランドセルを抱えながら、車高を飛び越える脚力。
それに加えて、ジャンプのタイミングを間違えれば、大人でも死ぬ危険があった。
あわや事故の犠牲者が2人になるところだったが、晋と少女に怪我はなかった。
また別の日には、友達と鬼ごっこをしている時に、地面に対して直角に反り立つ壁を走ることもできた。
可愛いと思った野良猫を捕まえたいと思い、全速力で逃げる野良猫を捕まえたこともあった。
幼少期の晋には、他にも常人離れした行動が散見された。
身体の強さ・反射神経・ボディコントロールに至るまで紛れもなく天才――いや異常だった。
反面、晋の好奇心は人並みだった。
普通の小学生らしく色々なことに興味を抱いた。
たとえ興味の対象が危険なものでも、晋は好奇心のままに動いてしまう。
――だから晋の両親は対策を打たざるを得なかったのだ。
このまま晋を放っておけば、取り返しのつかない大事故が起こるかもしれないと。
両親は晋が好奇心のままに動き、危険に巻き込まれてしまうことが怖かった。
いくら晋に異常な身体能力があろうとも、何かのきっかけで死んでしまうかもしれない。
晋が少女を救った交通事故の一件もそうだ。
両親は晋が少女を救ったことを誇らしいと思っている。
しかし、晋が事故に巻き込まれて死んでしまうくらいなら、少女が死んで晋が生きている方がいいと思ってしまった。
――両親の願いはただ一つ。
晋に危険行為をさせないことだ。
異常な身体能力を有していることなど関係ない。
危険なことはせずに、生きていてほしいというのが両親の願いだった。
晋の両親が最初に頼ったのは精神科医だった。
晋の身体能力を他者が制限できない以上、晋の考え方を変える必要があったのだ。
好奇心旺盛で、困っている人のために率先して動く――優しくも危うい性格を変えなければならなかった。
しかし、精神科医が両親の願いを叶えることはなかった。
元より両親から晋に『危険行為を行ってはいけない』という教えは行っていた。
精神科医も両親が行っている以上の助言をできなかったのだ。
そもそも晋本人は自身の思考・精神性を変えたいとは思っていない。
両親や精神科医であろうと、思考の変化を望まない他者へマインドコントロールや洗脳じみた手段を取れば、法に触れてしまう可能性がある。
――ならばどうするか。
両親は考え抜いた末に精神科への通院を辞め、より強引な手段に出ることに決めたのだ。
即ち、刷り込み。
暗示、洗脳、マインドコントロールと言ってもいい。
子供の精神を故意に歪める禁忌にして非道な所業。
両親もそんなことは百も承知だった。
それら全てを飲みこんだうえで、両親は晋に刷り込みを始めた。
両親は事ある毎に、晋に『シンは普通だ』と言い聞かせた。
――普通の人をよく見てごらん。
――普通はそんなことしないんだよ。
――普通はそんなことできないんだよ。
そして晋も徐々に分かっていく。
自分が普通でいないと両親が悲しむのだと。
刷り込みを行う時、両親が苦しんでいることを晋も子供ながらに分かっていた。
だから両親の言うことをよく聞いて、胸のうちで繰り返した。
――普通の人を見てみよう。
――普通の人は危険なことはしないんだよね。
――でも危険なことって……なんだろう?
――早く普通にならなきゃ、父さんと母さんを悲しませたくない。
――普通の人ができないことって何だろう?
――早く普通の人にならなきゃ。
――普通の人みたいに、何かをできないようにならなきゃ。
――おれは普通。
――普通以上のことはできない、しちゃいけない。
――普通。普通。普通。普通。普つう。ふつう。フつう。フツウ。フツウ。フツウ。フツウ。フツウ…………
『自分は普通だ』と、普通の基準も曖昧ながらに刷り込んでいく。
それは晋の人格を大きく変えるものだった。
刷り込みによって無意識にセーブをかけたのか、身体能力は人並みに落ちた。
興味の幅も狭まり、積極性も影を潜めた。
結果、自分に自信を持つこともなくなった。
ただし、素直さと優しさは変わらずに、晋の中に在り続けた。
晋が素直さと優しさを失わなかったのは、両親が晋を理不尽に怒ったりしなかったことにあるだろう。
だからこそ、晋は両親が自分のために刷り込みを行っているのだろうと信じ切れた。
晋の中で両親への反発心が生まれなかったのだ。
とはいえ、子供の精神を歪めてしまった両親の罪が消えることはない。
――そうして9年が経ち、2035年現在。
晋は誰に心配をかけることもなく生活している。
幼少期、両親によって、あるいは自らによって刷り込みをした記憶はなぜだか消えて――
その代わり『自らが平凡である』という先入観を抱えて生きている。
晋が刷り込みの記憶を失ったのは、晋自身が刷り込みの記憶を無意識にトラウマ化したからだろう。
トラウマに対し、心の防衛機構が働いた結果、刷り込みの記憶は消え去ったのだ。
「――ねぇねぇ! 高校受験も終わったしさ~、新しくゲーム始めない?」
そんな折、幼馴染の楓に誘われたのがブイモンだった。
ちなみに、楓は晋の刷り込みに加担していない。
それでも一時期の晋の変わりようや、晋の両親の様子から、何が行われていたのか今は理解していた。
理解したからこそ、かつて自らを救ってくれた晋に寄り添えなかったことが不甲斐なかった。
楓は晋を幸せにしたいのだ。
これからの人生の全てを捧げて。
――ブイモンの世界なら、シンが無理をしても大丈夫。
楓はそう考えた。
晋ももう高校生。
刷り込みが解けたとしても、小学生だった時とは違い、自らの気持ちのままに無茶をすることもないと楓は考えた。
ブイモンをプレイするうちに、晋が刷り込みによって失ってしまった自主性や好奇心、自信を取り戻しても良し。
取り戻せずとも、晋に楽しい思い出を作ってもらえれば楓としては良かった。
「いいよ。やってみよう」
晋は楓の提案を二つ返事で快諾し、2人はブイモンへログインしたのだ。
□棍棒巨人の集落近辺
「シンっ……! 起きてよぉ……!」
メイクは涙を流しながら、身体が千切れかけているシンを見やる。
背後ではインフィニット・バラエティ・スライムを食い止める数多のプレイヤー達。
メイクが緑オールバックの仲間に救援を頼んで以降、プレイヤーが続々とこの地に押し寄せている。
しかし、インフィニット・バラエティ・スライムは救援に来たプレイヤーすら飲みこみ、急激に力を伸ばしている。
インフィニット・バラエティ・スライムがシンの元へ辿り着くまで、プレイヤーがどれほど足止めできるか分からない現状。
次の瞬間に、シンとの距離を一気に詰めてくる可能性だってある。
「お願いっ……! 死なないでよ……!」
それでも、愛する人の無残な姿を前にメイクは涙を止められない。
思えば、シンがインフィニット・バラエティ・スライムに挑戦したいと言ってくれた時、メイクは嬉しかった。
『自身が平凡である』ことを疑わず、刷り込みの果てに作り出された普通を生きる――そんなシンが変わるきっかけが訪れたと思ったから。
だからこそ、メイクはここで終わってほしくなかった。
シンがインフィニット・バラエティ・スライムに挑むと決めた時点で、シンの心に変化が起きたことは分かっている。
シンは無意識にだが、自分に課した『普通』もしくは『平凡』という殻を破りたいと思っているのだ。
だからブイモンを始めて、シンは強者に挑戦したいという自分らしくない感情に悩まされてきた。
泣きながらメイクは思う。
この戦いは単なるゲームではない。
シンの失われてしまった気持ちを取り戻すための戦いなのだと――
されど、シンの出血は止まらない。
パーティ欄に表示されているシンのHPは継続的に激減し、完全回復するのを繰り返している。
回復役を買ってくれている金髪青年のMPが尽きれば、回復も間に合わなくなるという現状だ。
「目を覚ましてよぉっ……シン……!」
シンの手を握りながら叫ぶ。
その時、不意にメイクは思い出した。
――絶対勝とう、メイク!
この戦場に来る前にシンが発した言葉。
それを思い出して、メイクは反射的に手を杖に伸ばしていた。
(そうだよね……泣くのがウチの仕事じゃない)
この戦いが始まる前、シンと約束したのは勝利だけだ。
そのためにできることは……まだある。
「きみは回復辞めないでよ!」
金髪青年にそう告げて、メイクはシンの身体に手を這わす。
「【ファイア・コントロール】」
メイクとてやったことはない――傷口を焼き、出血を止めるという荒療治を。
しかし、ブイモンはゲームだ。
多量の出血さえ止めてしまえば、スリップダメージは減少するはず。
【ファイア・コントロール】による少しの火傷は致命傷にはならないと考えた。
なにより緑オールバックの仲間に、氷操作スキルを使えるメンバーがいたことをメイクは記憶している。
シンに火傷を負わせても、氷操作スキルで火傷を治療できるという算段だ。
「我慢して……」
その言葉はシンとメイク自身への言葉だった。
ブイモンに痛覚がなくとも、やはり目を瞑りたくなる。
それほどにシンの身体を焼くというのは、彼女にとってショックが大きかった。
しかし、メイクは魔法の出力も間違えず、ゆっくりとシンの傷口を塞いでいく。
そうして出血が止まった時、目論見通りスリップダメージの勢いは弱まっていた。
火傷も軽度であり、問題視する必要はなさそうだった。
――そうしてメイクは迷う。
戦うか、シンの目を覚まさせるか。
後者の場合、本当に目を覚まさせることができるか分からない。
気絶状態に陥っているプレイヤーは時間経過によってしか起きないというのが一般的な見解だからだ。
――その2択なら。
メイクはシンの頬をそっと撫でてから立ち上がった。
「絶対勝つんだからね、シン」
メイクは戦うことを選んだ。
シンが目を覚ますまで戦線を保つために。
そしてメイクは背後を振り返る。
そこには大勢のプレイヤーを蹴散らし、飲みこむ巨大な黒い塊があった。
その塊はプレイヤーを次々に食い荒らし、徐々にその姿を変じさせていく。
それこそは人の身体に鷲の頭部・翼・爪をもつ怪鳥――ガルーダをベースに作られた巨体。
しかし、その禍々しい威圧感と黒一色の身体は獣というよりも異形の悪魔そのもの。
『KYURUUUAAAAAAA!!!』
耳をつんざかんばかりに吼えるのは、無限の変化が生み出した漆黒の悪魔。
「絶対ウチらが勝つ……!」
悪魔に対するは、愛する者の帰還と勝利を信じる駆け出しのルーキー。
戦闘の余波で一帯の木々が拓け、戦場に日が差し込む。
メイクとインフィニット・バラエティ・スライムは互いに視線を交錯させた後、戦闘を開始した。