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蛍は優しく灯り続ける

作者: 甘茶

あなたが連れてきてくれたこの場所に、私は再びやってきた。夏の夜、鈴虫の音色だけがそこらじゅうから聞こえる森の中。

 蒸し暑い夜のはずなのに、ここは何だか空気がとても澄んでいて、大きく息を吸うと新鮮な空気が身体中を血液のように駆け巡る。

「逢いにきたよ」

 そう口にした私のすぐそばに、蛍が一匹、私の来訪を知らせるかのように草むらからゆらゆらと姿を現した。その蛍を追いかけるように、徐々にたくさんの光が集まり、だんだんと群れを成す。

 川の流れる音、風が草を揺らす音、飛び立つバッタの羽音が耳をくすぐった、その時。

「逢いにきてくれて、ありがとう」

 どこからか、確かにそう聞こえた気がして。

 地面に、ぽたりと涙が落ちる。

 私は光に手を伸ばし、笑顔で言った。

「久しぶり」






「蛍は優しく灯り続ける」






「あれを読み終わったら、死のう」

 ふいに思い立ったのは、それだけだった。

 読み納め、とでも言っておこうか。

 表紙がくたびれるまで何周もした、お気に入りの小説。これを読み終えたら、何もかもにお別れをして、私は自分とさよならをする。

 最後に好きなことをして死ねるなんて、なんて良い終わり方なんだろう。事故に遭うとか、誰かに殺されるとか、自分が望まない死に方をすることにならなくて本当に良かった。

 ……だけど。

 だけどやっぱり、自分で決めたことなのに、何だかずっと寂しく感じた。

 いや、もういいんだ。吹っ切れよう。

 どうせ死んだら、この物語の内容なんて覚えてすらいられないんだから。

 こんな風に、寂しい思いをしたことなんて忘れて、私は私の人生を終えるだけ。

 雨上がりの夏の夜、河川敷の坂に座り、湿った草の上に乱雑に置いていた通学鞄を見る。そして、その中から、ボロボロの教科書でも、筆箱でも、スマホでもなく、お気に入りの小説を取り出して開く。唯一近くにある街灯が、薄く私の手元を照らした。すーっと息を吸って、吐く。夏の夜の湿気と匂いが、私はどうにも好きにはなれなかった。

 坂の下に流れる川の音も、風が草を揺らす音も、今の私の耳には心地が悪い。

 

 家にも学校にも、私の居場所はない。ふと目を閉じれば、周りからの罵声やため息が私の脳内を嫌というほど駆け回る。そういう時は決まって小説の世界に逃げることで、今まで私は、私を保ってきた。

 嫌がらせなんて言葉で片付けられるのだったら、私は今頃、こんなところで死のうなんて思わない。

 

「こいつ、産みの親に捨てられたらしいよ」

 根も葉もない噂をクラス中に流されたのは、妹が私の高校に入学してきた時だった。

 私と姉妹だなんて考えられないほどの容姿端麗に育った妹は、やっぱりすぐに学校中で人気者になった。そしてもちろん、姉の私は比較されてしまうわけで。

「あんたは私の姉じゃないから」

 そう言って、私を蔑んだ妹ばかりを贔屓して可愛がった両親や、妹に群がる人たちは全員、私を除け者にした。

 それからは、毎日が地獄のような日々だった。家族にはもちろん相談できないし、心を預けられる拠り所が、この世界にはどこにもないのだと実感し始めてからは、だんだんと、心も体も限界を迎えていた。

 けれど、そんな日々も今日で終わりだ。

 

 背後を時折、自転車や、犬の散歩をする人が通り過ぎていく。誰も、日が落ちてこんなに暗い中、河川敷の坂で一人、小説を読んでいる女子高生になんか見向きもしない。

 制服のスカートが、濡れた草のせいでじわりと湿っていく感覚。でも、今更そんなことを気にしたってしょうがない。私はもう、二度とこの制服を着ることはないのだから。

 ページを捲る手の先が、夏なのに冷たい。早く続きを読みたいのに、次に進むのが何だか惜しい。読み終わったら、私は目の前の川に飛び込むんだ。きっと冷たいんだろうなぁ。

 どく、どく、と鼓動が強くなる。

 夏だから、逆に気持ちが良かったりするのかな。息ができなくなったら、苦しいんだろうなぁ。痛くないだけ、まだマシか。屋上から飛び降りる勇気はないし。

 そんなことをつらつらと考えてしまい、私は目の前の文字が「形」にしか見えていないことに気づいた。

 集中できていなかった。続きを読まないと。

 

 早く、先にいかないと。

 

 湿気を含み、ページを捲るのも一苦労だ。破かないようにそっと捲ろうとしたその時。

「どうして泣いてるの?」

 背後から突然、低いけれどほんの少し高く、柔らかい声がした。

 弾かれるように振り返る。もしかしたら違う誰かに言っているのかもしれないと思ったけれど、話しかけてきた男性は、明らかに私の目を見据えていた。

「泣いてる?誰が?」

「君だよ。悲しいことがあったの?」

 優しく畳み掛けるようなその声に、私は自分の右目を片手で触れてみる。すると、雨は降っていないはずなのに、手には水滴が滲んだ。自分が涙を流していることにすら気づかなかったのか。

「あ……ほんとだ。教えてくれてありがとう」

 私は涙を拭いながら、適当に愛想笑いをする。

 けれど、彼は引くわけでもなく、不思議がることもせず、ただ私の顔を見つめていた。それから、ゆっくりと私の方へ近づき、静かに隣へ座る。草が、くしゃりと音を立てた。

 驚いてほんの少しだけ距離を空ける。彼は躊躇うことなく、雨に濡れた草の上に座ろうとした。

「……濡れてるよ、ここ」

 そう言うと、彼は「君だって」と笑いながらあぐらをかく。

「制服が濡れちゃうよ」

「私は……いいの、別に」

「どうして?」

「……」

 再び本を開こうとした手が止まる。これから死ぬんです、なんて、さすがに初対面の人には言えない。そもそも、この人は一体誰なんだろう。年齢は憶測だが、私と同じか、一つ下のように感じる。けれど、どこか大人っぽくて、話し方も声も優しい。例えるなら、保育園の先生や、小児科のお医者さんのような雰囲気だ。顔も整っているし、今も夏なのに、羽織っているベージュのカーディガンが大変よく似合っている。

「あの……あなたは?」

 聞かれた質問をうまく交わしつつ、私は彼に聞き返す。

「あ、ごめんね。俺の名前は慧。十八歳。君の名前は?」

 何となく、「俺」が似合わないなこの人、と思った。小説で言う一人称は「僕」の方がぴったりだ。そんなことを思いながら、私は無意識に、答えていた。

「私は……柚月。同じく十八歳」

 きっと今、この人の記憶に私の名前や年齢が刻まれているのは、世界一無駄な時間だと思う。

 もうすぐこの世から消える人のことなんて、むしろ教えてしまったのが馬鹿みたいだ。

 けれど、そうさせたのは彼の優しい声、柔らかい表情だ。

「同い年なんだ。なんか嬉しいね。名前の字はどう書くの?」

 そんなことまで知ってどうするのだろうか。変な人がいる、ってネットで呟いたりするのかな。名前付きで。いや、そんなことをするような人には見えないな。私は今、正常な考えができなくなってるんだ。

「えっと……柚子の柚に、月」

「なるほど、いいね。いつも何て呼ばれてる?」

「……ゆず、とか、柚月、とか?」

 そう言ってはみたけれど、ここ最近は誰ともまともに話していないせいで、名前すらも呼ばれていないような気がする。ゆず、と可愛らしく呼ばれたのだって、小学生の頃の話だ。

「じゃあ……柚月ちゃんって呼んでいいかな」

 優しい声に、名前を呼ばれた。

 私は視線を逸らしつつ、「お好きにどうぞ」とだけ呟く。

「俺のことは、慧って呼んで」

「……慧」

「うん。よろしくね」

 この人は一体、何をしたいんだろう。これは前置きで、まだ本題には入っていないような気がする。小説も途中までしか読めていないせいで、何だか死を先延ばしにされているようだ。

「……慧は、ここにはよく来るの?」

 私の質問に、慧は月の浮かぶ真っ暗な空に向けていた顔をこちらへ向けて、「ううん」と首を横に振った。

「滅多に通らないんだけど、何となく今日はこっちを通ってみようと思って」

 さらさらと夜風が頬を撫でる。彼の黒く柔らかい前髪の毛先が、風でふわりと浮かんだ。

 滅多に通らない道を通ったら、今から命を絶とうとしている人に話しかけてしまったなんて、運がいいのか悪いのか。

「そう、なんだ」

 相槌しか打てず、静寂が訪れる。いつしか、会話のキャッチボールが下手になっていた。人とまともに話さなくなったからだろうか。こんな風に、自分に対して興味を持ってくれる人に会うのが、久しぶりだったからだろうか。

「柚月ちゃんは?ここでよく本を読んでるの?」

 彼はそう聞いて、私が手に持っている文庫本に目を向けた。

「あ……いや。今日は何となく、ここで読みたくなって」

 言葉が詰まり、喉の奥が熱くなる。何かに背中を押されているようで、早く行けと言われているようで。焦燥感に下唇を噛んだ。

 このまま彼と話していたら、私はもう、勢いのまま決断できないかもしれない。私は慧の横で、座ったままローファーを脱いだ。靴さえ脱いでしまえば、家に上がるのと同じ感覚であっちの世界へ行ける気がした。

 そんな私を、慧は何も言わずにただじっと見ている。

「……あ」

 左足のローファーを脱いだその時、手が滑ってコロコロと下の方へ転がっていった。

 けれど、拾いに立ち上がる元気が、私にはもう残っていない。このまま、先に川へ落ちていてくれてもいいな、と思う。どうせ私も、後からそっちにいくのだから。

 はは、と自分を嘲笑するように小さく笑い、膝を抱えてうずくまる。ぎゅうっと手に力を入れたせいで、スカートがくしゃっと皺を寄せた。

 すると、私の隣でカサカサと草の音がした。

 どうやら、慧が立ち上がったようだ。

 やっと、私と話すことで時間を無駄にしていることに気づいてくれたのかな。私なんかと話していても、楽しくないと思ってくれたのかも。顔を上げることなく、私はそのままうずくまっていた。

 けれど、後ろではなく前の方へと草を踏む足音が遠のき、やがて再びこちらへと近づいてきた。ゆっくり顔を上げると、慧は転がっていった私のローファーを大切そうに両手で持ち、右足の方のローファーと揃えて草の上に置いた。

「なんで……」

 震え出した、掠れた声でそう言うと、慧は再び私の隣に座ってから、優しく微笑んで口を開いた。

「今から二人で、逃避行しようか」


 それから、何があってこうなったのかはよく覚えていない。ただ、慧に連れて行かれるまま、私はバスに乗っていた。もう二度とバスに乗ることはないと思っていたのに。たった今出会った人と二人きりで、誰も乗っていない静かなバスの最後部座席で揺られている。

 窓際に座っている慧は、私に話しかけるでもなく、ただ窓の外を見ていた。

 時折、ガタン、ガタン、とバスが小さく揺れる。

 夏で日が落ちるのは遅いが、それでも今は多分、夜の九時はとうに過ぎている。そのくらい、外は普通に暗かった。

「……あの、どこに行くの」

 バスの中が静かで落ち着かず、私は慧に尋ねた。すると「港に向かってるよ」と返ってきた。

「え?港?」

「そう。これから船に乗るんだよ」

「船⁉︎」

 確かに、今住んでいるこの街は、少し行けば景色が田舎に早変わりする。そのため、港や森、川も近くにありすぐに辿り着ける。

 港には何度か行ったことがあるが、実際に船に乗ってどこかに行くという経験をしたことがなかった。だから、唐突に船に乗るなんて言われてもすぐには言葉が出なかった。

「あ。連れ出しておいて今更なんだけど、お父さんやお母さん、柚月ちゃんのこと探して警察に行ったりしちゃうかな」

 慌てたように慧は言う。本当に今更だ。けれど、私の両親は私のことなんて眼中にもない。これがもし妹だったら、警察を動かして必死に探しているんだろうけれど。

「……大丈夫。今日はもう……帰るつもりなかったから」

 そう言うと、慧は少し間を空けてから「そっか」と呟いた。

 そして再び窓の方を向こうとした慧に、私は「ねえ」と声をかける。

「あの……ひとつ、聞いてもいい?」

「ん?」

「どうして、私が今から死のうとしてたこと、分かったの?」

 何となく、彼は私が今からやろうとしていたことをすでに察しているのだろうと思っていた。こんな突拍子もない行動を始めたのも、それだと合点がいく。

 私の質問に、慧は「何でだろうねぇ」とわざとらしく呟いた。

「それより、どうして訳も聞かずに付いてきてくれたの?」

「……普通だったら、見知らぬ人にあんなこと言われたら、警戒して絶対についていかないけど。どうせ死ぬつもりだったし、煮るなり焼くなり好きにされてもいいかなぁって思って」

 斜め下に視線を落とす。実際、もしあの場所で誰かに強く止められていたとしても、私は無理やり川に飛び込んだだろう。ありきたりな言葉を並べられたって、もう全て投げ捨てて死のうとした私には全く響かなかっただろうから。

「……慧は、帰らなくていいの?」

 足元を見ながら尋ねた。

 私なんかとは違って、慧は雰囲気から育ちも良ければ、言葉遣いや仕草から、家庭環境も良さそうに感じる。なのに彼は、こんな私に構って「逃避行」しようと言った。

「一緒に住んでる父親には、知り合いと旅行してくるって嘘ついて出てきたんだ。本当は一人だけどね」

「嘘ついて、って……。じゃあ、本当は一人でこんな時間にどこかへ行こうとしてたってこと?」

 無意識に、慧の顔を覗き込むように見つめていた。何だか、彼からも私と同じものを感じた。置かれた環境や性格は真逆だったとしても、どこか共通点があるような。

 私の問いに、慧は小さく息をついた。

「そうだね。本当は一人で船に乗って、どこか遠くに行こうとしてた。でも、途中で泣いてる君がいたから、放っておけなくて」

 慧はそう言って柔らかく微笑んだ。

「わっ!」

 突然、バスがガタンと大きく揺れ、重心が慧の方へと大きく傾いてしまう。肩と肩がぶつかってそのまま数秒傾き、体重が慧にのしかかってしまった。どうやら、大きなカーブに入ったようだ。

 けれど、なぜか触れ合った彼の体温が一切感じられない。カーディガンは薄いのに。

「あ……ごめん」

「大丈夫だよ」

 姿勢を直して謝ると、慧はまた、優しく微笑んだ。

 慧が一人でしようとした逃避行の理由や、異変を感じた体温のこと、他にも色々疑問はあるが、今はまだ触れないことにした。

 しばらくして、バスは港近くのバス停に停車した。降りてから、雲がかかってぼんやりとした月の光が照らす海岸沿いを、慧の少し後ろについて歩く。波の音がいつもより少し荒いが、他に阻む音もなかった。

「あそこに船の待合小屋があるんだ。夜は船が出ないから、そこで朝まで待とうか」

 慧が指さした方を見ると、そこは船の着く港のすぐ近くで、ぽつんと木でできた古びた小さな簡易小屋があった。人が四、五人ほど入れるような小さな小屋だが、窓もあり、雨も凌げそうで、少し休むにはちょうど良さそうだ。

 その中に入り、置かれたベンチに二人並んで、少しだけ距離を空けて座る。

 これまでに起きた一連の出来事が一瞬すぎて、感情の振れ幅が大きすぎたのか、何だかどっと疲れが押し寄せた。少しずつ、眠気が襲う。

 うとうとし始めた私に気づいたのか、慧は「横になる?」と立ち上がった。

「あ……座ったまま寝るから大丈夫」

「いいよ、横になっても。俺は座って寝れるから」

 そう言って、慧はよいしょ、と床にあぐらをかいた。さすがに申し訳ないと断ろうとしたけれど、どうしても眠気が勝ってしまう。河川敷にいた時から、ずっと気を張ってしまっていたのだろう。ここは言葉に甘え、私はローファーを脱いでベンチに横になった。

 流石にベンチも古く、窓から入ってきた潮風によって錆びた部分もあるからなのか、体重をかける度にギギギ、と不気味な音を立てる。

 横になってからは、すぐに瞼が重くなり、意識が遠のくまでに時間はかからなかった。


 誰かが激しく咳き込む音で目が覚めた。

 来ないと思っていた明日。起き上がると、窓から朝日が差して眩しかった。

 ぼんやりとした視界が、次第にはっきりとする。起きてすぐは、今自分がどこにいるかわからなかった。周りを見渡していくうちに、じわじわと昨日の夜の記憶を思い出してきた。

 咳き込む音がする方を見ると、昨日の夜に出会ったばかりの彼、慧が私に背を向けて、床に座ったまま激しく咳き込んでいた。

「あの、大丈夫?」

 そう訊くと、慧は私の声に気づいてぱっと振り返った。

「あ……おはよう。ごめん、起こしちゃったかな」

「いや……」

「喘息持ちでね。海の近くだし、朝は冷えるから多分そのせいだ」

 少しずつ落ち着いてきたのか、慧は深呼吸をした後にゆっくりと立ち上がり、私の隣に腰掛けた。

 少しだけ、重みで座面が下がる。

「おはよう。柚月ちゃん」

「……おはよう」

 慧に微笑まれて、私もつい口角が上がりそうになった。慧はいつも、春風のような温かい笑顔をくれる。けれど私は、最近ずっと笑っていなかったせいで、変に顔がひきつってしまう。

「あ、船。もうすぐ出るみたいだよ」

 窓の方を振り返った慧が立ち上がって言う。

 私も立ち上がって窓の外を見ると、人が十人ほど乗れるくらいの小さな船が見えた。

 小屋を出て、船のある場所まで歩く。

 朝日の眩しさに、思わず目を細めた。

「あれに乗るの?」

「そうだよ」

 果てしない海を前にぽつんと浮いている小さな船。行く先はどこか、別に気にはならなかった。元々、私はこの世界から出て行こうとしていたわけだし、水のない砂漠でも、危険な生き物しかいないジャングルだって、捨て身な私にとってはどこだってよかった。

 船着場に着くと、慧は船を運転するのであろうお爺さんに「すみません」と声をかけた。

「大人二人、ここから近い島までいくらですか?」

「ここから近い島ねぇ。……あぁ、あの半島までだったらタダで乗せてってあげるよ」

 お爺さんは目を細めて海を見ながら、ここから少しだけ見える島の方を指差した。

「あそこはそんなに遠くないし、朝イチだから、あんたらしかお客さんいないみたいだし」

 そう言われて後ろを振り返ってみるが、小屋にも港にも、人の気配はない。それもそうか。今日は平日だし、朝日が昇り始めたばかりだ。

「いいんですか?ありがとうございます」

 慧は笑顔でお礼を言った。私も少し後ろで、ぺこりと頭を下げる。

 慧が先に船に乗り、手をこちらに差し伸べてくれた。その手を取ってゆっくりと船に乗り込むと、重心が不安定になり少しふらつく。けれど、すぐに慣れた。

 簡易的な屋根が設置されているため、小雨程度なら大丈夫そうだ。

「船酔いしそうだったら言ってね」

「……うん」

 完全に、慧に心を開いたわけじゃない。けれど、彼からは悪いものを一切感じなかった。最初こそ少し疑ったものの、慧は私を丸ごと優しく包み込んでくれるような、いつもたれかかっても優しく肩を抱いてくれそうな、そんな雰囲気ばかりを感じている。

 だから、疑おうにも疑えなくなっていた。

 船が出航し、風が強く吹いて髪をなびかせる。上下にゆっくりと揺れ、なんだか心地よかった。朝日と、青い空に広大な海の景色。

 心がまるごと綺麗に洗われるような気持ちになっていく。

「柚月ちゃん、大丈夫?船酔いしてない?」

 船のモーター音と波の音で、船の中の音自体が聞こえづらくなっているからか、慧は海の方を見ていた私の肩を軽く叩いて、少しだけ声を張り上げて訊いてきた。

「大丈夫。多分私、船酔いしないと思う」

「ならよかった。風、すごく気持ちいいね」

「そうだね」

 ふと、船の上を飛んでいくカモメを目で追いかけた。その目に、朝日を受けてきらきらと光る海面が映る。ぬるい海風が、優しく頬を撫でた。

 波の音と、心地よい揺れ。昨日の自分には想像のできなかったであろう、あったかくて穏やかな気持ちになる。

 しばらくして、船はだんだんと速度を落とし始めた。船の向く方を見ると、そこには名前の知らない半島の港が見えた。

「もうすぐ着くよ。お嬢ちゃん、そこのお兄ちゃん起こしてあげな」

 運転していたお爺さんがこちらを振り返って言った。ずっと景色を見ていたせいで、慧が寝ていることに全く気づかなかった。

 そっと、顔を覗き込む。長いまつ毛、さらさらな髪。寝ている顔ですらも綺麗で、朝日に照らされていて尚更美しく見える。

 起こすのが何だか申し訳なくなってしまうが、あと少しで港に着きそうだ。私は慧の肩を軽くトントン、と叩いた。けれど、よほど熟睡しているのか、起きる気配がない。昨夜、やっぱり眠れなかったのだろうか。

 何度か名前を呼びながら、二の腕をそっと掴み軽くゆすった。やっぱり、触れた二の腕からは体温を全く感じない。

「ん……」

 ふと、小さく呻いた後で、慧がゆっくりと目を開けた。何度か瞬きをしてから、私の方を見る。

「慧、もう着くみたいだよ」

「……あれ……どこ」

 もごもごと呟きながら、慧は目を擦って腕を真上に上げながら、うーんと思い切り伸びをした。

 やがて船は少し大きく揺れて、港に着いた。

 慧が立ち上がるのに続いて、私も立ち上がる。先に慧が船から降り、私に手を差し出してくれた。

「あ……ありがとう」

 その手をそっと借りて船から降り立つと、さっきまで揺れていたせいか安定しすぎて違和感を感じてしまう。けれど、少し歩くと慣れた。

「あの、今からどこに行くの?」

「とりあえず、今日泊まれる宿でも探そうかなって思ってる」

「あ……私、お金持ってなくて……」

「俺が払うつもりだったから大丈夫だよ。この辺は安く泊まれる民宿がたくさんあるらしいから」

「そんな、出してもらうなんて……」

「いいって、気にしないで」

 慧はそう言って微笑んだ。

 しばらく歩いていると、古風な家がぽつぽつと立ち並んでいる通りに出た。人はあまり歩いておらず、蝉の鳴き声がひたすらにうるさく、照りつける太陽も相まって蒸し暑くなってきた。前を歩く、慧の着ているカーディガンでさえ、見てるだけで暑くなって海の方に目を向ける。今頃、家族は私のことを探しているのかな。いや、探してなんていないだろうな。授業は今、二限目くらいか。妹や、クラスの人たちはどう思っているのかな。私がいなくなって清々としてるかな。あの海の向こうでは、昨日と変わらない、いつもの日常が流れているのだろうか。

 自分から切り離したのに、なぜだか心がぎゅうっと苦しくなる。どうして私は、こんな風になってしまったんだろう。小さい頃思い描いた未来は、こんなに無惨なものじゃなかったはずなのに。

「……柚月ちゃん?」

 名前を呼ばれ、はっと前を見る。すると、慧が私の顔を心配そうに見て言った。

「また、泣いてるよ」

「え……」

 気づいた時には、私の足元に水滴がぽた、と落ちて地面に染み込んでいった。

 泣きたかったわけじゃないのに。色んなことが頭を駆け巡るたび、いつも熱いものが込み上げてきて抑えられない。

「っ……ごめんなさ……」

 立ち止まったまま、泣き顔を見られたくなくて両手で顔を覆う。視界が真っ暗になり、そのせいで心臓の鼓動が速くなる。泣き止みたいのに、止まらない。

 すると、何かがそっと額に押し当たった。ゆっくり開けると、慧の胸のあたりが目に入る。

 それと同時に、背中をゆっくりとさすられた。

 トン、トン、と子供を寝かす時のように、優しく背中を叩く手。それが何だか心地よくて、もたれかかるように慧の胸に頭を預ける。

「……う……っ……」

「大丈夫、大丈夫」

 そう囁く声が優しいせいで、涙が次々と溢れた。

 今までの人生の中で、こんなふうに優しく慰めてくれたのは、慧が初めてだった。否定も罵声も、何もかも全部まるごと包み込んでくれているようで、やっと地に足がついたような気持ちになる。肩の力、腕の力と、色んなところの力が自然と抜けていく。少しだけ重心が傾いた私を、慧は、しっかりと受け止めていてくれた。

 

 しばらくして落ち着いた私は、慧に連れられてすぐ近くにあった小さな民宿に入った。

 この民宿は後払い制らしく、慧が手続きを済ませてくれた。何泊ここにいるか決めていなかったから、帰りたい時に帰ることができる自由な民宿で助かった。

 築年数が長そうな、瓦屋根の家。私は手続きを終えた慧と共に、部屋へと向かう。

 二階にあるらしいその部屋は、広さも、二人ならちょっと狭いかもしれないと女将さんが言っていたけれど、自分の部屋よりはそこそこ広い。正直、寝られればどの広さでも関係ないと思っていた。

「二部屋あるらしいんだけど、一部屋は今改装中らしくて。一緒の部屋になっちゃったんだけど大丈夫?」

 私が部屋を見渡していると、慧は少し立て付けの悪い窓を開けながら訊いてきた。

 世間が見ればあまりよろしくない状況なのだろうけれど、私はもう、身を投げ出す思いでここに来たのだ。そんなこと、どうだっていい。

「大丈夫。気にしないよ」

 さらっと返すと、慧は「ならよかった」と微笑んだ。

「ねえ見て。オーシャンビューだよ」

 明らかに建てられて数十年経っているであろうこの宿に、オーシャンビューという言葉は少し似合わないなと思いつつ、私は慧の隣へ行き窓から外を眺めてみる。確かに、邪魔な建物や木も無く、海が一面に広がって見える。部屋中に、ほのかに潮の香りが漂った。



「浜辺に降りてみようか」

 慧のその提案で、私たちは宿を出てすぐ目の前の通りを挟んだところにある階段から、浜辺に降りた。

 しゃりしゃりと、砂の上を歩く音。履いているローファーはサンダルよりも重いし厚みがあるため、思いの外一歩一歩が沈んで少し歩きにくかった。

 少し歩いたところで、立ち止まって海の方を向く。ざぁっと波がこちらに押し寄せては、すぅっと引いていく。それをただ、慧の横に立って見ていた。

 すると慧が突然、履いていた紺色のスニーカーを脱ぎ始めた。靴下も脱いで、露わになった足は驚くほどに細く真っ白だった。

「柚月ちゃんも入ろうよ、海」

「私は……遠慮しとくよ」

「そう?冷たくて気持ちいいと思うよ」

 慧はそう言うと、一人で海の方へと歩いていった。太陽に照らされて輝くその海に、何だか慧が吸い込まれていってしまいそうに見えた。だんだんと小さくなる背中。私はただ、それを見ているだけだった。

 無邪気な子供みたいに、履いているズボンを膝上まで捲ってから、足に触れた水に感嘆の声を上げたり、ばしゃばしゃと足踏みをしてみたり。まるで初めて海に入った子供のようなその行動に、思わずふふ、と笑みが溢れた。気づけば、慧は膝あたりの深さまで足を進めていた。

 すると突然、ふらつき始め、そのままゆっくりと後ろへ傾き始めた。

「慧⁉︎」

 私は思わずローファーを脱ぎ捨てて靴下のままばしゃばしゃと海に入り、慧の元へ走った。間一髪のところで、背中を支える。

「っ……大丈夫……?」

 さすがに、男性の体は重い。支えたけれどやはり重さには耐えきれず、ゆっくりと滑るようにその場に座らせた。

 慧の顔を見ると、さっきまで無邪気に笑っていた顔が嘘のように青白くなっている。

「慧、慧‼︎」

 肩を掴んで体を揺らしながら声をかける。どうやら意識はあるらしく、慧は閉じていた目をゆっくりと開ける。

「あ……ごめんね、波に足を取られちゃって」

「立てる……?一旦宿に戻ろう」

 慧の肩を支え立ちあがろうとすると、慧はそれを阻止して、逆に私の腕を引いて海に浸からせようとした。

「え、慧?な、何してるの?」

「一緒に浸かろう。隣に座って」

「でも……慧、顔色が……」

「……大丈夫」

 慧の、少し枯れた声にそう言われる。結局、私はそれ以上何も言えず、私は慧の横で、海に浸かり座る。制服が濡れるのは、やっぱり気にならなかった。

 前方から寄ってくる波が、こちらに近づくにつれてだんだんと高さを増す。けれど、直前で波は勢いを使い果たし、私たちに触れる時には海面をただ揺らすほどに小さくなった。

 五分くらいだろうか。二人、何も話さずに海に浸かって座り、水平線を眺めていた。いつしか太陽は真上にあって、もう一日の半分が過ぎたんだと驚いてしまう。

「これぞ、逃避行って感じだね」

「……そうだね」

「ねえ、柚月ちゃん」

「何?」

「……昨日、どうして死のうとしたの?」

 唐突に、自然な流れで投げかけられた質問に、心臓が跳ねる。ごくりと唾を飲み込んで慧の顔を見た。その顔はあまりにも優しくて、思わず目を逸らして俯く。

「……私はもう、誰からも必要とされてない。自分をただ卑下してるとかじゃなくて、本当に……必要とされてないんだ」

 家族からも、クラスメイトからも。私自身からでさえ、私がこの世にいることは迷惑だという感情がひしひしと伝わってきていた。自分でも分かっていた。根暗だし、特技も何もない。容姿も、自分が一番嫌っている。性格も、長所をいくら探したって一つも見当たらなかった。

 生きがいなんて、どこにもない。

「それが理由で、死のうとしたんだね?」

「……うん」

 答えると、慧はそれ以上何かを訊くことなく顔を前へ戻した。そのまま、沈黙が流れる。

 波の音が、再び鼓膜に囁いた。

 きっとくだらない理由だと思ったんだろうな。呆れられただろうか。こんなことで死にたいなんて、人生を甘く見過ぎだって怒られちゃうかな。それならいっそ、この海に一人残して帰ってくれたっていい。

 膝に顔を埋める。慧と最初に出会った時も、こんな状況だったっけ。つい昨日のことなのに、今の今まで色んなことがありすぎて、慧と出会ってからすでに何日も経っているような気がしてしまう。

「そっか」

 慧はまた、そう返したきり何も言わなくなった。少し顔を上げて慧の方を見ると、ただ、目を細めて水平線を眺めていた。

 その横顔は、やっぱり綺麗だった。

「おーい!すまない、捕まえてくれ!」

 突然、背後から男性の叫ぶ声が聞こえて振り返る。すると、私たちのすぐ後ろに、浮き輪も何も持っていないまま海に入ろうと、三歳くらいの水着姿の女の子が走ってきた。

 もしこのまま一人で海に入ると、下手すれば溺れてしまうかもしれない。浅いとはいえ、小さい子にとっては大海原も同然だ。私は咄嗟に立ち上がり、走ってきた女の子を正面から受け止めた。すると、その女の子は不思議そうに私の顔を見上げる。ほっと胸を撫で下ろし、私はその子の前にしゃがんで目線を合わせた。

「危ないから、パパとママと一緒に入ろうね」

 そう話しかけると、女の子は私の顔をくりくりとした目で見つめた後、大きく頷いた。

 女の子が後ろを振り返り、急いで海に降りてきた両親の元へと駆け寄っていくのを見ながら、私は安心と同時に何かつっかえたような気持ちに襲われた。あの子はきっと、両親に大事にされているんだろうな。たくさんの愛を貰って、毎日が幸せなんだろうな。そう思うたび、胸が痛くなる。悪い癖だとはわかっているけれど、どうしてもやめられなかった。

 海岸から、女の子の両親が私たちに向かってぺこぺこと頭を下げた。私も会釈で返した後、女の子がお母さんに抱きついている様子をじっと見てしまう。

 そんな私の横に、同じように立ってその光景を見ていた慧が、「いいなぁ」と呟いた。

「え?」

「幸せそうだよね、あの子」

「……どうして、そう思うの?」

 見た目だけで判断するのはあまり良くないと思っているけれど、慧もあの子のように周りに愛されて、大切にされてきたんだと思っていた。だから、あの子を羨ましがっている慧に、疑問が湧いてくる。

「俺もね、周りの人に愛されるっていうのがよく分からないんだ。それっぽく接してくれる人もいたけど、本心はやっぱり違くて。周りに人はいたんだけど、今までずっと孤独に生きてきたから」

「そんな風には……見えなかった」

「あはは、だよね。もう開き直ってるからかな」

 慧はそう言ってから、浜に上がってカーディガンの裾を絞った。

「……だから、逃避行しようと思ったの?」

 私もゆっくりと浜に上がりながら訊く。

「まぁ、そうだね」

 どこか含みのある言い方だったけれど、「そろそろ宿に戻ろうか」と言われ、それ以上何かを訊くことはできなかった。


 宿に戻り、濡れた服を干すためと、海水のついた体を洗うためにそれぞれシャワーを浴びに行った。それから浴衣を着て、私たちはどこかに行くわけでもなく、何かを話すわけでもなく、ただぼうっと、部屋に敷かれた布団の上に仰向けに寝転がった。何もかもがある意味新鮮で、後のことなんて何も考えずに、ただやりたいことをやりたいようにしている開放感が、心を少しずつ軽くさせた。大きく深呼吸をする。開けている窓から入ってきた風が、とても心地よい。

 んーっと言いながら大きく伸びをすると、慧がこちらを向いて、微笑みかけてくる。

「気持ちいいね」

「すごく気持ちいい……」

 目を閉じて、手を横に広げる。ゆっくりと深呼吸をすると、だんだんと瞼が重くなり始めた。

 あくびを一つ溢す。

「夕飯まで時間あるし、寝てていいよ」

「うん……」

 慧は横になっている私に布団を掛けてくれた。その優しさが嬉しくて、私はぎゅっと目を閉じた。


「……月、柚月」

 聞き覚えのある苛立ち声に、私は目を覚まして飛び起きた。

 ボロボロになった通学鞄と、眉間に皺を寄せたお母さんの顔が視界に入り、私の心臓は恐怖に鼓動を速めた。

「ほら、早く学校行きな」

 吐き捨てるような言い方に、背筋がぞくりとする。私を見る目は鋭く、優しさなんて少しも含まれていなかった。

「……あれ、慧は……?」

「何寝ぼけたこと言ってんの。いいから早く起きて。また家族に迷惑かけるつもり?あんたのせいで、ご近所から私がどういう目で見られてるか分かる?」

「……っ」

 通学鞄を乱雑に胸元に投げつけられる。お母さんは踵を返して舌打ちをし、部屋を出てドアを勢いよく閉めた。

「……っ、はぁっ、はっ……」

 お母さんがいなくなってすぐ、呼吸が苦しくなってパジャマの胸元をギュッと掴む。どうしよう、上手く呼吸ができない。この場所にいるのが、とてつもなく怖い。

 起き上がっているのさえ辛くなって、私は再び仰向けのままベッドに倒れ込む。それでも呼吸の乱れは治らず、私はただひたすら、必死に息を吸っては吐いて、を繰り返した。意識が朦朧としてくる。その中でふと、頭の中に浮かんだのは、慧の柔らかい笑顔だった。

「慧……っ、慧……!」

 掠れた声で、名前を呼ぶ。助けてもらえるわけでもないのに、私はただひたすらに、浅い呼吸で名前を呼び続けた。

 ただ、ひたすら。



「……月ちゃん、柚月ちゃん!」

 はっ、と目を開けると、目の前には慧の顔があった。心配そうな顔で眉を寄せ、私の両肩を掴んでいる。

「あ……夢……」

 ゆっくりと起き上がると、全身に汗をかいていてやけに蒸し暑かった。着ているのが浴衣だから、尚更だ。それに、呼吸もまだ少しだけ荒い。とてつもなく恐ろしい夢を見てしまった。周りを見渡すと、そこは私の部屋ではなく、慧と一緒に泊まっている民宿の部屋だった。窓を閉めているから微かだが、波の音がする。私の住んでいる家では絶対に聞こえない音だ。

 何となく部屋の中がやけに明るいなと思っていたら、外はもう暗かった。あれからいつの間にか、長い時間寝てしまっていたようだ。

 夢で良かった、と胸を撫で下ろしていると、慧が「よかった……」と安堵の息を吐いた。

「あ……私、何か言ってた……?」

「苦しそうに、俺の名前を呼んでたよ」

 一瞬にして顔に熱が集まった。それは恥ずかしすぎる。

「ごめんなさい!」と勢いよく謝ると、慧は「大丈夫だよ」と優しく笑った。

「何か……悪い夢を見てたんだね」

 慧はそう言いながら、汗をかいて目元にかかった私の横髪をそっと耳にかけてくれた。

 慧を見ていると、いつの間にか呼吸は元に戻っていて、心臓の鼓動のリズムもいつも通りになっていた。手を開いたり、閉じたりしてみる。やっぱり、こっちが現実だ。そう実感して、安心感に包まれた。

「そういえば、お腹空いた?」

 慧がゆっくりと立ち上がって、窓を閉めながら訊いてきた。

「すごく空いてる」

「だよね。じゃあ、そろそろ下に降りようか。女将さんが用意してくれてるんだって」

 そういえば、私たちは昨日の夜から何も食べていなかった。とはいえ、ここに来るまでに気を張りすぎていて、食事のことが頭から消えていた。

 身だしなみを整えてからドアの方へ向かうと、慧はすでに浴衣の上に羽織を着ており、ドアを開けて待っていてくれた。

 部屋を出て階段を降りると、ふんわりと焼き魚の匂いが漂ってきた。縁側のある廊下を通り、大部屋の障子を開けると、すでに二人分の夕食が用意されていた。ふくよかな女将さんが、炊飯器から炊き立てのご飯をよそってくれている。

 このほくほくとした雰囲気は、私の家には一切なかったもの。そして、すごく憧れていたものだ。肩の力が、自然と抜けていく。

 すると、こちらに気づいた女将さんが振り返り、笑顔で口を開いた。

「あら、いらっしゃい。ご飯はもうできてるからね。今日の献立は鮎の素焼きと、紫蘇とトマトの和物、夏野菜の味噌汁だよ。デザートには日向夏のゼリーを置いてるからねぇ」

「わあっ、美味しそう!」

 思わず駆け寄ると、女将さんは嬉しそうに「ありがとう」と笑いかけてくれる。

「今日は二人しかお客さんいないから、中庭が見えるように障子を開けておくね。鈴虫の音色でも聞きながら、ゆっくり過ごしなねぇ」

「ありがとうございます」

 炊飯器を抱えて立ち上がった女将さんは、「ごゆっくり」と丁寧にお辞儀をしてからキッチンへと戻っていった。

「優しいよね、ここの女将さん」

 障子の方を見ながら、慧が言う。

「そうだね」

 二人、向かい合って座る。寝起きで機能していなかった胃が、あっという間に空腹を知らせる。

「それじゃあ、食べようか」

「うん。いただきます」

 手を合わせてから、鮎に箸を伸ばす。

 口に運んだ瞬間、ふわふわした食感と新鮮な海の塩気が、口の中全体に広がった。

「美味しい!」

 慧も私のすぐ後に鮎を口にして、同じことを思ったのか何度も大きく頷いた。

「こんなに美味しい料理、生まれて初めて食べたかも……」

 あまりにも真顔で呟く慧に、思わずクスッと笑いが溢れた。

 空腹と美味しさに、私たちは会話を挟むことなく黙々と食べ続けた。そのおかげで、あっという間に綺麗さっぱり完食してしまった。

 中庭を見ながら、温かいお茶を飲んで、ほっと息をつく。静けさの漂うこの場所に、鈴虫の綺麗な音色だけが響いた。誰も、何も急かしてこない、ゆっくりと時間の過ぎていくこの空間に、私は多分、今までで一番の幸せを感じていた。あの時、慧について行かなかったら、感じられなかったこの気持ち。見られなかったこの景色。

「……ありがとう、慧」

 思わず言いたくなって、私は慧の方を見た。鈴虫の音に耳を傾けていたのか、慧は閉じていた目をゆっくり開けて、顔を私の方に向けた。

「……それは、何のありがとう?」

「私……慧と出会って、慧に連れられてこの島に来て、今まで知らなかった幸せを感じることができたような気がする。だから……ありがとう」

「それは、よかった。……今は、死にたいと思ってる?」

 慧が体ごとこちらを向いて訊いてきた。

 まだ否定はできなかった。家に戻ったら、きっとまた死にたいと思うだろう。けれど、今この瞬間は、死にたいという感情は少しも湧いていなかった。むしろ、もっとこの気持ちのまま、色んな場所を、慧と一緒に巡ってみたいとさえ思っている。もっといろんなところに逃避行して、現実を忘れたまま、二人でどこか遠くへ行ってみたい。これからも、慧と一緒にいたい。慧といると、自然と心が軽くなるし、何もかもを忘れさせてくれて、私の存在をまるごと肯定してくれるようで。今ではもう、いつの間にか、慧は私の心の拠り所になっている。出会ってたった一日でそういう気持ちにさせてくれた慧に、最初の頃には想像もしていなかったような、感謝してもしきれないくらいの温かい気持ちを抱いていた。

「今、慧といるこの時間だけは、死にたくない。慧がいてくれるから、死にたいって思わなくなった」

「……俺が、いるから?」

 私の言葉に、慧は驚いた顔で目を丸くした。

「うん。だから、これからもずっと一緒にいてほしいよ」

「……そんな風に言われたのは、生まれて初めてだよ。すごく……嬉しい」

 慧は私の思いを少しずつ飲み込むように言葉を詰まらせながらも、少しだけ目を潤ませて、嬉しそうに微笑んだ。

「俺も、柚月ちゃんのおかげで……今まで縛られてたものから解放されたような気がするよ」

「私のおかげ……?」

「そうだよ。こんなに誰かと心置きなく話せて、楽しいと思えたのは柚月ちゃんが初めてだよ」

「……嬉しい」

 そっと、涙が込み上げてきた。今まで誰にも言われたことのなかった言葉。誰かに必要とされる未来がくるなんて、思ってもみなかった。

 空に浮かぶ月が、淡白い光で中庭を照らす。私たちはしばらく、鈴虫の住む中庭を静かに眺めていた。


 翌朝。眠りから覚めると、すでに起きて窓から海を眺めている慧が目に入った。

「……おはよう」

 華奢な背中にそう声をかけると、慧はぱっとこちらを振り返り笑顔になった。

 昨日と同じカーディガンを羽織り、髪にも寝癖ひとつついていないから、私よりも早く起きたのだろう。

「おはよう。柚月ちゃん」

「何してるの?」

「海を見てたんだ。夜の海も好きだけど、朝日が少し顔を出した時の海は絶景だね」

 ほらほら、と手招きをされ、私は軽く手で髪をときながら布団を這い出て、慧の隣に立ち窓から海の方を見た。

 様子を伺うように水平線から見える朝日の頭が、水面をオレンジ色に染め上げていた。

 まるで、朝日なのに夕空を眺めているみたいだ。

「綺麗……」

 思わず感嘆の声を漏らすと、慧も同じように窓の外を見ながら「綺麗だね」と呟いた。

 それから、慧は私の方に顔を向けた。

「ねえ、柚月ちゃん」

「ん?」

「帰りたい?」

 突然、慧に真面目な声で言われ、心臓が少しだけ跳ねる。

「……な、んで」

 思わず辿々しい口調になってしまう。

 慧はそんな私を見てか、「あぁ」と宥めるように言った。

「心配しないで。柚月ちゃんが帰るって言わない限り、俺も帰るつもりないから」

 その言葉は、無意識に硬直しかけていた私の心を優しく溶かした。

 慧はそう言って微笑んだ後に、再び窓の方を向いた。

 人生で初めて、こんなに私のことを優先して、心配して、優しくしてくれる人に出会った。私の居場所が、心の拠り所が見つかったような気がする。

 それもこれも、慧のおかげだ。

 慧が、私の居場所でいてくれる。

 そう思ったら、今なら何でもできそうな気がしてくる。自分が少しだけ、好きになれそうな気がした。

 私は慧の隣で、大きく深呼吸をする。

「慧、あのさ」

「何?」

「……話を、聞いてほしい。私の」


 慧と二人で、昨日降りた砂浜に向かった。誰かに自分の傷を話したことがなかったから、砂浜に繋がる階段を降りる時に緊張で躓きそうになってしまった。

 けれど、前を歩いていた慧が瞬時に支え、起こしてくれた。

 眉を八の字に下げて笑いながら「大丈夫?」と手をとってくれた。

 そんな慧の当たり前のような優しさが、次第に私の心の傷を癒してくれているのかもしれない。

 砂浜に着くと、慧は地面から一角顔を出している、少しごつごつとしているが滑らかな岩に、宿から持ってきたタオルを敷いて「ここに座って」と促した。

 私は「ありがとう」と言いそこに座る。

 慧は汚れることをあまり気にしていないのか、そのままの状態で私の隣に座った。

 私はまた、大きく深呼吸をする。

 慧は急かすことも、何かを話しかけることもせず、ただ、私が話し出すのを海を眺めながら待っていてくれた。

「……あのね」

 少しずつ鼓動を早めていく心臓に、膝に置いていた手をぎゅっと握りつつ口を開いた。

「私、一つ下の妹がいるんだ。妹は私なんかと違って、顔も良ければ頭も良いし、明るいし、みんなに好かれるし、多分両親が一番望んでいた子供として生まれたんだろうな、って思うくらいに出来のいい子なの。そんな妹をやっぱり両親は可愛がって、私と比較して、それに比べてあんたは、って毎日のように言ってた」

 これはもう慣れたことだし、と思って、私は軽い口調で話し始めた。けれど、私の目を見ながら話を聞く慧の表情は、どこかだんだんと苦しそうに歪んでいった。

「最初は家族の中だけでしか言われてなかったし、ずっと耳を塞いで過ごしてたんだ。だけど、一年経って妹が私の通ってる高校に入学してきてから……生活がまるで変わっちゃって」

「どうして……?」

「妹は小さい頃から親にちやほやされまくってたせいで、私のことを姉として見てなくて。だから、やっぱり学校中で人気になった妹は、私と姉妹だって思われたくなかったのか、周りの人に嘘をついて、私とは一切関わろうとしなかった。それがだんだんと変な噂に変わっちゃって、私は産みの親から捨てられた孤独な奴だって言われて、いじめられるようになったんだ。親からも、妹からも暴言や暴力が毎日続いてて」

 ひどいよね、と同情を求めて半笑いで空を仰ぐが、慧はそれに対して何も口にしなかった。ただ、俯いて口を引き結んでいるだけだった。

「まぁ、妹みたいに親に愛されるよう、姉として努力しなかった私も悪いんだけどね。実際に妹は可愛いし、美人で何でもできるし。小さい頃はやっぱり嫉妬もしたんだけど、こういう風に扱われるようになってからは、私はもう、比べられる価値もないんだなって思うようになって。そう思ったら、何だかちょっと気が楽になってさ。はいはい、私はブスで頭も悪いし何も取り柄なんてないですよ、って」

 何とか笑い話にしたくて、私は笑みをなくすことなく話し続けた。

 そんなことないよ、と否定されたいわけじゃない。昔はそう言われたかったのかもしれないけれど、今はもう、生きてる価値のない自分がこの世界にのうのうと存在していることに、自分で腹を立てているくらいだ。

 だから、私はあの日の夜、自分の存在をこの世から消そうとした。最後に、お気に入りの、唯一の私の逃げ道だった小説を読み終わってから、余韻に浸りながらあの世にいこうと思っていた。

 けれど。

 私はちら、と横に座る彼を見る。

 私が今こうやって、今まで通りに息をして、この世界の景色をこの目で眺めていられるのは、紛れもなく慧がいるからだ。

 もしかしたらこの先、あったかもしれない幸せな未来を一瞬にして断ち切ろうとした私を、そっと引っ張り上げて優しく包み込んでくれた。そんな彼は今、私の方を向き、眉を下げ何かを懇願するような瞳で私の目を見つめていた。

 少しだけ掠れた声で、慧は言う。

「……柚月ちゃんは、可愛くて、優しくて、何でもできる強い子だよ」

 その声はとても真剣で、お世辞なんかには全く聞こえなかった。

 けれど、それが本当だったとしても、今まで自分が置かれていた環境のせいでそれらが全部、本心だと思うことができなかった。

「……ありがとう、慧。でも私、やっぱり強くなんかないよ。可愛くもないし、私は何もできないダメなやつだよ」

 生暖かい夏の風が、波に乗って正面から吹いた。鼻にかかった横髪を耳に掛けながら言う。

 すると、突然慧が立ち上がった。シャリ、という音が足元で鳴る。慧はその場でくるりと向きを私の方へ変え、正面に向かいあってから、私の目の前にしゃがんで目線を合わせた。

「俺が柚月ちゃんに声をかけたあの日の夜、俺がただ、興味本位で声をかけたって思ってる?」

 突然何を言い出すのかと思えば、慧はいつもの優しい表情とは真逆の、真剣な目つきで私にそう問いかけた。

「え……と、まぁ、うん。正直、多分あそこに一人でいたら、いずれ誰かが不審がって声をかけてくるんじゃないかなとは思ってたから」

 私は慧から視線を逸らしつつ答える。すると慧は「違うよ」と答えた。

「え?」

「全然違う。俺は、柚月ちゃんだから声をかけたんだよ」

 言っている意味がよくわからない。

「え……どういうこと?」

 訊くと、慧はまた風で顔にかかった私の横髪を優しく耳に掛けながら、微笑んだ。

「柚月ちゃんが何だか、俺と同じ場所にいるような気がしたからだよ」

 私はその瞬間、はっとした。

 慧に連れられてバスに乗っている時、私も全く同じことを思っていたからだ。

 慧のことはよく知らないはずなのに、初めて会うはずなのに、私は慧の雰囲気から、なぜか同じような境遇を感じ取った。

 私は何だか嬉しくなった。胸の中が、じわりと温かくなる。

 私たちは、出会うべくして出会ったのだろうか。そうだったら、何だか嬉しい。

 あの時、急いであの世へいかなくてよかったと、改めて心の中で思った。

 こんなことを思うなんて、自分でも驚いている。

「ねえ、柚月ちゃん。聞いて」

「ん?」

 慧は立ち上がって、再び私の横に腰掛けた。そして、

「柚月ちゃんは、この世界で一番可愛いし、女神様みたいに優しいし、誰よりも強い心を持ってるよ」と言った。

 慧は、私がそんなことないよ、と笑って否定できるようなお世辞とは遥かに大きさの違う言葉を、強い眼差しで口にして微笑んでくれた。その辺に落ちているような綺麗事じゃなくて、慧は本心からそう思ってくれているのだろうな、と感じた。

「……嬉しい」

 初めて言われた言葉。それは、今までの自分をまるごと洗い流してくれるような、魔法の言葉だった。慧の優しい声が、それを尚更温かく色付ける。

 思わず溢れそうになった涙を、ごくりと唾を飲み込んで堪える。

「慧といると、自分のことをあっという間に好きになれそうで怖いよ」

 へへ、と笑うと、慧は「俺は好きだよ」と目を細めて笑う。

 その曇りない眼差しに、私は「え?」と思わず聞き返した。

「俺は好き。柚月ちゃんが」

 そう言って、慧は柔らかく微笑んだ。

 多分慧の言う「好き」は、恋愛的な意味ではないのだろう。ちっとも照れている様子がないし、多分、人として、という意味なのだろうとすぐに分かった。それでも、私にとってはすごく嬉しかった。今まで、私そのものを見て、好いてくれる人なんて周りに一人もいなかったから。

「あ、ありがとう。私も好きだよ。慧のこと」

「ふふ、ありがとう」

 慧は海に目を向けて、嬉しそうにうわずった声でそう言った。

 ざあっと大きな波が、こちらに向かってやってくる。風が、波に乗ってびゅうっと吹いた。

「……ねえ」

 私は少しの沈黙の後で、慧に声をかけた。

「ん?」

「慧のことも教えてよ。どうして一人で遠くに行こうとしたの?」

 慧は私の問いに、すぐに何か答えるわけでもなく、ただ私の方を向いた。目が合うが、どちらかが逸らすこともなく数秒見つめあった。

 それから、慧は小さく息をついてふと目を足元に向ける。

「そんなに真剣な目で見られたら、話すしかないね」

 慧は観念したように頭の後ろ掻きながら言った。

「そうだよ。教えて」

 私は慧が話し出すまで、目を逸さなかった。

 慧はそんな私を見て、なぜか「ええと」と照れたように俯く。

「実はそんなに大した理由じゃないんだ。生まれつき体が弱かったから、あまり外で遊ばせてもらえなくて。入退院も繰り返していたから、常に周りに人がいる環境が苦しくなっちゃってね」

 慧が言ってることが、嘘か本当かは分からなかった。笑ってもいないし、悲しい顔もしていなかったからだ。

 私と慧の心に抱えているものを天秤にかけると、どっちが傾くのかはまだ分からない。

 何か、他に隠していることがあるような気がしたけれど、あまり深掘りされたくないのかもしれない。私は岩に置いていた手についた砂をぱんぱんと払いながら口を開いた。

「何だ、もっと深刻な理由なのかと思った」

 私の言葉に、慧はいつもの笑みに戻った。

「だから、別に俺のことは気にしないでいいからね。柚月ちゃんがやりたいことには何でも付き合うし、変に心配させちゃった罪滅ぼしをさせてよ」

「罪滅ぼしって、大げさ。でも、話してくれて嬉しかったよ」

 私はそう言って慧に微笑む。

 

 それから、私たちは砂浜を後にして、特に当てもなく道を見つけては進んだ。私が「こっちに行ってみよう」と言うと、慧は絶対に否定せず、「いいね」と着いてきてくれた。歩みを進めるたび、所々に私たちが住んでいる街にはない植物や虫もいて、何だか新鮮な気持ちになった。

 この島は、木や植物が生えっぱなし、というわけではなさそうだった。きちんと整備されている場所もいくつかあり、山に続く道も、登山客が入りやすいようにある程度整えられている。

 十分くらい歩いた頃だろうか。気づいたら太陽が真上にあって、海から離れたからか風もあまり吹かなくなった。熱さがさらに度を増して、息が無意識に荒くなる。

 木々の密集する林の間に作られたこの道は、風が吹くたびに葉を揺らす音がそこら中で鳴った。蝉の大合唱が、耳を突き刺すように響く。

 ふと、私は隣を歩いていた慧の歩くスピードが遅くなっていることに気づいて、歩く足を止めて振り返る。

「ごめん、慧。大丈夫?」

 謝ると、慧は額に滲んだ汗をカーディガンの袖で拭いながら「全然大大丈夫だよ」と微笑んだ。

 そして、ふと右の方へ視線をずらした慧は、何かに気づいたように、向いた方へと近づいていった。

「どうしたの?」

 慧が歩いていった方へと近づくと、そこには古びた白樺の看板があった。

 それは地面に刺さっていて少し傾いているが、緑の塗料で「ほたるの森 この先」と丁寧な字で書かれていた。

「蛍?」

 顔を上げ、看板の先に続く道を見る。

 まだ昼間だからか、その道は木漏れ日にきらきらと輝いていた。

 けれど、さらに奥の方を見ると、太い木々が密集しているせいで薄暗い。

「蛍がいるのかな、この森」

 ふと、慧が静かにそう言って林の奥を見据えた。

「いるのかなあ。慧は、蛍って見たことある?」

「実際には見たことないけど、テレビでならあるよ。一匹や二匹だけどね」

 慧は再び白樺の看板に視線を落とし、「柚月ちゃんは?」と聞き返してくる。

「私も、実際には見たことないかも。この森に入ったら、いっぱい見れるのかな」

 そう言って二人で看板とその奥を交互に見ていると、

「お二人さん、そこで何してるんだい?」

 と背後からお婆さんの声が聞こえて振り返った。

 そのお婆さんは押していた手押し車を止め、こちらを見て不思議そうな顔をしている。くりくりした目が特徴的な、可愛らしいお婆さんだった。

「あ、ええと……」

「散歩中にこの看板を見つけたので、ちょっと気になって」

 言葉に詰まってしまった私の代わりに、慧が説明してくれた。

 すると慧の言葉を聞いて、お婆さんは「この森のこと、知らないのかい?」と尋ねてきた。まるで、知らないことに驚いているような表情をしている。

「えっと……はい。俺たち、この島の者じゃないんです」

 慧がそう言うと、お婆さんはふっと目を細めて「そうかいそうかい」と微笑んだ。そして、この奥の森の方を見据えながら、おばあさんは何かを懐かしむように口を開いた。

「この森にはねぇ、この島で亡くなった人たちの魂があるって言われているんだよ」

「魂……?」

「そうだよ。この森には蛍がたくさんいるんだけどねぇ、とても優しい子たちで、亡くなった人たちの魂をいつまでもみんなで守ってくれているんだよ」

「へえ……なんか素敵ですね」

 私がそう溢すと、お婆さんは嬉しそうに「そうでしょう」と微笑んだ。

「今の若者は、こういう話をしても信じない人が多いから、この森に来る人もだんだんと減ってきているんだけどねぇ。ここは、亡くなった大切な人といつでも逢える場所だって言われているんだよ」

 優しい風が、私たちのいる一本道を通り抜ける。かさかさ、と落ちている葉が何枚か踊った。

「教えてくれてありがとうございます」

 慧がお婆さんにお礼を言って微笑んだのに続いて、私もぺこりと頭を下げた。

 お婆さんは「いえいえ」と目尻に皺を作って優しく微笑んだ後で、再び手押し車を押して先へと歩いていった。

「蛍、見てみたいね」

 お婆さんが見えなくなってから、慧が再びほたるの森の方を向いてぽつりと言った。

「そうだね。少し気になるかも」

 幽霊とか、オカルトなんてのは信じない方だったが、正直少し怖いとは思っていた。けれど、あまりにもお婆さんが優しそうな顔をして話すから、私も一度は行ってみたいと思った。

 けれど、当たり前だが蛍の光が綺麗に見えるのは夜だ。疲れた顔になってきた慧にゆっくりと歩幅を合わせながら、私たちは宿に戻った。

 

 宿に着いて部屋に入った時には、慧は飛び込むように敷かれた布団に倒れ込んだ。

「慧、何か飲まなくていい?」

「大丈夫……ごめん、ありがとう」

 慧はゆっくりと顔だけこちらを向けて返事をした後、そのまますぐに意識を失ったように眠りについた。よほど歩き疲れたのだろう。

 私も窓を開けてから、汗を流そうとシャワーを浴びに行った。

 部屋に戻ってから、慧がカーディガンを着たまま、汗ばんだまま寝ていることに気づいて、近くにしゃがみ込んでそっとカーディガンに触れる。こんな暑い季節なのに、カーディガンの下に一枚白いティーシャツを着ていた。さすがに暑いだろうな、と私はうつ伏せで寝ている慧を何とか仰向けに姿勢を直し、カーディガンを脱がそうとする。

「っ……!」

 その時だった。ちら、と、ティーシャツの袖の隙間から見えた真っ白な右腕に、まるで虎にでも引っ掻かれたかのような太い切り傷がいくつもあった。あまりにも生々しく、見ていられなくなって私はめくれたティーシャツの袖をそっと元に戻して、カーディガンだけを脱がせてからハンガーにかけた。

 それから私は、夕食の時間まで何をするでもなく、ただ悶々とした気持ちのまま窓から海を眺めて過ごした。

 

 一時間くらい経った頃だろうか。ふと、ごそごそと布団が擦れる音がして振り返ると、慧が布団から起き上がっていた。そして、自分の着ている服の異変に気付いたのか、辺りを見回し始めた。

「……ん……あれ」

「あ、ごめん、慧。カーディガン暑そうだったから、勝手に脱がしちゃった」

 様子を窺うようにそう言うと、慧は自分の右腕を左手でさらりと撫でてから、私の方を向いて「そうなんだ、ありがとね」と微笑んだ。

 もしかしたら、この怪我を隠すために長袖を着ているのだろうか。もしそうだとしたら、あまり詮索するのもよくないと思い、私は慧に「もうすぐ夕飯の時間だよ」とだけ言い、あとは何も聞かなかった。

 

 下に降り昨日と同じ部屋に行くと、女将さんがちょうど準備を終え、座布団を整えているところだった。

 私たちに気づくと、女将さんは「いらっしゃい」と微笑んだ後で、私と慧の顔を交互に見て「あら」と目を丸くした。

「二人とも、ちょっと焼けた?」 

「え、顔赤いですか?」

 私が自分の頬を両手で覆うと、女将さんはくすくすと笑った。

「赤くなってるよー。今日は二人でどこに行ってたの?」

 気さくな女将さんは、湯呑みにお茶を注ぎながら訊いてきた。

 私は座布団に座りながら、「山の方まで歩いてきました」と返す。

 すると女将さんは眉を上げ「かなり歩いたんじゃない?」とお盆を抱えながら言った。

「そうですね。結構歩いたので暑かったです」

 私はそう返してから、ふと、ほたるの森のことを思い出した。

 この島に永く住んでいる人なら、もっと詳しく知っているんじゃないか。

 私は「あの」と女将さんの方を向いた。

「ほたるの森って知ってますか?」

 女将さんは私の問いに、間を空けることなく「ああ、知ってるよ」と納得したように言う。

「あそこがどうかしたの?」

「今日、歩いてる時にその、ほたるの森って書いてある看板を見つけたんです。そこで、ちょうど通りかかったお婆さんが、ほたるの森にはこの島で亡くなった人たちの魂があるんだよって教えてくれたので、女将さんももしかしたらそのことについて知ってるかなと思って」

 私が「ね」と慧の方を見ると、慧はこくこくと頷いた。

 女将さんは私たちのやりとりを見た後で、ふと瞼を伏せて、ほんの少し寂しそうに微笑んだ。

「もちろん知ってるよ。でもまさか、こんなに若いお嬢ちゃんの口からそのことを聞かれるなんて思ってなかったから、びっくりしたよ。今の若い人たちなんて、ホラースポットだとか言ってる人もいるみたいでねえ」

「そのお婆さんも言ってました。今の若者はそういうのを信じない人が多い、って」

 そう言うと、女将さんは何度か頷いた後に、正座している膝の上に置いたお盆を見つめながら口を開いた。

「信じる、信じないは人それぞれだと思うけどね。少なくとも私は信じてるよ。実際にこの目で見たことがあるからねえ」

 女将さんの言葉に、「え」と目を見開いた。

「見たことがあるって、どういう……」

 すると、女将さんはにこりと笑って「ちょっと待っててね」と言い、ゆっくりと腰を上げた。そして、隣の部屋からあるものを手に戻ってきた。

 女将さんを待ってまだ一つも目の前のご飯に手をつけていない私たちを見て、「ああ、ごめんなさいね」と戻ってきた女将さんは笑う。

「食べながらでいいからね。ちょっとだけおばちゃんの話に付き合ってちょうだいな」

「もちろんです」

 私たちは手を合わせて、それぞれ食事をしつつ女将さんの方を向いた。

 女将さんが手に持っていたのは、木枠の写真立てだった。そこに飾られているのは、一人の白髪のお爺さんの写真だった。こちらを向いて、優しい笑みを浮かべている。

「この人はね、私の旦那なの。二年前に持病が悪化して亡くなったんだけど、ここで一緒にこの民宿を経営してたんだよ」

 そう言って女将さんは、指の腹で優しく写真立ての表面を撫でた。その懐かしむような、寂しそうな、愛おしそうな表情を見ていると、何だか胸がぎゅうっと締め付けられる。

「旦那が亡くなってすぐは、本当に何も手につかなくてねえ。いっそ、私も旦那の元にいこうか、なんて考えた夜もあったんだ。でもある日、ほたるの森のことを思い出してね。旦那の命日に、一人で夜に森の中に入ってみたんだよ」

 私は女将さんの話に、無意識に箸を止めて聞き入っていた。慧も同じく、茶碗に手を添えたまま女将さんの顔をじっと見ている。

「そうしたらねえ、私が来た途端に、数えきれないくらいの蛍が私の目の前に群がってきたんだよ。それはもう、綺麗な光景だった。それにね、私には確かにそれが、旦那の魂なんだなあって分かったの。旦那が生きている時、私が落ち込んでたら旦那はいつも、私の目の前で大丈夫だぞって頭を撫でてくれる人だったんだけどね。その時もまるでそうされているように感じて。それが分かった瞬間、一人で大声を上げて泣いちゃってねえ」

 女将さんは笑い飛ばすように話してくれたけれど、当時は大事な人を失って、悲しくて、苦しかったんだろうと思うと、相槌すら打てなかった。

「この光景を見てから、私はほたるの森のことを完全に信じるようになったんだ。あそこに行けば、いつでも旦那と逢えるからねえ」

 女将さんは明後日の方を向いて呟くように言った。それから、何かを思いついたという風に「そうだ」と声を上げて私たちを見た。

「二人とも、あの森のことが気になるんだったら、明日にでも車で連れて行ってあげようか?」

 そう言われ、私は慧の方を見た。もちろん、行ってみたい気持ちはあった。けれど、慧の体のこともあるし……と思っていると、慧は大丈夫だよ、とでも言うように私の目を見て微笑みながら頷いた。

 それを見て、私は女将さんに向き直る。

「はい。是非お願いします」


 翌朝。差し込む朝日に目をこじ開けられる。大きく伸びをして起き上がり横を見ると、未だに慧はすやすやと寝息を立てていた。

 壁掛け時計を見ると、時刻は朝の七時半。夏だからか、やっぱり日の出は早く、部屋中を朝日が明るく照らしていた。慧を起こさないようにそっと布団から立ち上がり、部屋を出て海に下りてみる。

 ざあっと波の立つ音を聞きながら、砂浜の上をゆっくりと歩く。少し歩いたところで立ち止まり、水平線を一人、眺めた。

 この島に来たのはいいけれど、さすがにここで、このままの状態で何もしないわけにはいかない。

 帰りたくはないけれど、ここに来る前の私とは違う。

 私には今、慧がいる。

 慧がいてくれると思うだけで、心がすうっと軽くなるし、落ち着ける。慧が、私の居場所になってくれる。そう思うと、何だか強くなれる気がした。

 大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。つんとした潮風が、肺の中を巡った。

 今日は女将さんが、ほたるの森に連れて行ってくれる日だ。楽しみ半分、未だに慧の右腕の傷が鮮明に脳内に残っていて、何だかもやもやしている部分もある。本人も体が弱いと打ち明けてくれたし、これからは今まで以上に慧のことを気遣おうと思った。

 しばらくしてから、慧を起こさないようにとそっと階段を上り部屋へ戻ると、慧はすでに起きていた。けれど、私に気づくわけでもなく、ただ布団の上にぺたんと座ったままぼうっと窓の方を見ている。

「慧?」

 私が声をかけると、慧はゆっくりと振り返る。そして、どこか虚な表情で微笑んだ。

「おはよう」

「……?」

 その声に、雰囲気に、何だか胸がざわついた。

 朝日が逆光になって、表情がよく見えない。

 何だか、そのまま光の中に溶けてしまいそうだ。

「……慧?」

 もう一度名前を呼ぶと、少し間が空いてから「ん?」と返ってくる。

「ねえ、大丈夫?具合でも悪い?もしそうなら、無理してほたるの森に行かなくても……」

 慧と目線を合わせるようにしゃがんでそう言うと、慧はふるふると首を横に振った。とても、ゆっくりと。

「……大丈夫。今日、行きたい」


 夕方まで慧の調子を見つつ宿でのんびり過ごし、ほどよく暗くなってきたあたりで、私たちは女将さんの運転する軽自動車に乗せてもらい、ほたるの森へと向かった。

 車で行くと、私たちが歩いた道では通れないから、三十分ほどかかると言われた。少し眠そうな慧は、車に乗ってすぐ窓の方へ寄りかかると、数分も経たないうちに眠りに落ちてしまった。宿にいた時もうつらうつらとしていたし、よほど昨日の疲れが残っているのだろう。私も少ししてから、車の揺れが心地よいせいでだんだんと瞼が重くなる。やがて、すうっと意識が遠のいた。






 しばらくして、車内がガタゴトと大きく揺れ出したのに気づいてふと目を覚ます。

 どうやら、あまり整備されていない道を走っているようだ。窓の外を見ると、まるで群衆のように木々が立ち並んでおり、隙間から月明かりがちらちらと顔を出した。

 昨日もこんな感じのところを歩いたなあと思いつつ、ちら、隣に座る慧に視線を移すと、相変わらずすやすやと寝息を立てていた。

「おはよう、お嬢ちゃん」

 起きた私に気づいたのか、女将さんがミラー越しに私に話しかけてくる。

「あ……おはようございます。すみません、運転してもらってるのに」

「いいよいいよぉ」

 明るく笑う女将さんに、どこか温かい気持ちになる。

「そういや、ずっと気になってたんだけど……お嬢ちゃんの制服、このあたりの学校のじゃないよね?」

「あ、えっと……」

 言葉に詰まる。実は逃避行中なんです、とは流石に言えない。大人から見れば、学校に行かず遊び歩いているように見えてしまうかもしれない。何て返そうか目を泳がせていると、女将さんは特に急かすこともせず、ただ「無理に言わなくていいよ」と優しく咎める。

「知られたくないことは誰にでもあるからねぇ。あたしだって、旦那に知られたくないことなんてたくさんあったし」

 女将さんはミラーの位置を少しずらしながら言った。再び車がガタンと揺れる。

 女将さんは少し間を置いてから、静かに口を開いた。

「違ってたらごめんね。実は、二人が宿に来る少し前にね、お嬢ちゃんが泣いてるのが見えたんだよ」

「え……」

「だから、ずっと心配してたの。こんなおばちゃんの言葉が励ましになるかわかんないけどさ、何か辛いことがあったんなら、逃げてもいいんだよ。誰もお嬢ちゃんを責めないし、警察に逮捕されるわけでもない。息苦しくなったら、息をしに行かなきゃねえ」

 そう言いながら運転をする女将さんの後ろ姿が、何だかすごく頼もしく見える。

「っ……はいっ。ありがとうございます」

 女将さんの優しい口調とその言葉に、涙が溢れてきてしまう。なんとか下を向いてこっそり拭った。

「さてと、もうすぐ着くからね」

 その言葉に窓の外を見ると、月明かりに照らされて、きらきらと水面の輝く川があった。側にはほどよく草が茂っている。おそらく、ここがほたるの森の中なのだろう。

「慧、もうすぐ着くよ」

 肩をポンポンと叩くと、慧は少ししてからゆっくりと目を開け、私の顔を見る。その目は相変わらず綺麗だったが、やはりどこか虚で、焦点が定まっていないようにも見えた。


「蛍はねぇ、ここからさらにちょっと歩いたところにいるんだよ。川の幅が広くなってる場所があるから、そこを目指して歩いてごらん」

 少しひらけた場所に車を停めた女将さんは、積んでいた懐中電灯を私に一つ手渡しながら言った。

「女将さんは行かなくていいんですか?」

 そう訊くと、女将さんは少しだけ寂しそうに目を細めたけれど、すぐにいつもの笑顔に戻った。

「あんまりたくさん逢いに行くと、うざがられちゃうかもしれないじゃない?だから、命日に逢いに行くようにしてるの」

 まるで恋する乙女のように頬に手を当てながら言う女将さんが、何だか可愛く見えて、「久しぶりに逢った方が、嬉しさも倍増しますもんね」と返すと、「そうでしょう」と微笑まれる。

 そして、「それじゃあ」と切り替えるように女将さんは私たち二人の顔を交互に見た。

「あたしは車に乗って待ってるから、ゆっくり蛍、見てきてねえ」

「はい。運転、ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 慧と共に女将さんにお礼を言い、後ろのドアを閉めて川の広い方へと歩いていく。

 

 鈴虫が、所々から綺麗な音色を響かせている。夜は日が出ていないし、森の中だからか風が心地よかった。

 慧は、私の後ろをゆっくりとついて歩いていた。最初に出会った時は私の前を歩いていたのに、いつの間にか立ち位置が逆になっている。草を踏む音の速さも、私よりずいぶんと遅い。私は思わず、立ち止まって振り返った。

「慧、大丈夫?」

「……ん?」

「やっぱり、具合悪い?」

「……」

 慧は何か答えるわけでもなく、少ししてから、立ち止まっている私の横をゆっくりと通り過ぎた。そして、すぐそこまできていた川の広い場所で立ち止まった。すると、ちょうど慧の近くから、黄緑色の淡い光の粒が一つ、ゆらゆらと飛んでいく。その光を追いかけるように、次々とたくさんの光が草むらから姿を現した。

 まるで高いビルから街を見下ろしているような、幻想的な光の世界。その中に佇む慧は、儚くて、とても美しかった。

「……ごめん」

 ふと、慧がこちらを振り返らずに口を開く。

「柚月ちゃんに、謝らなきゃいけないことがあるんだ」

 一つの光に手を伸ばした私は、慧のその言葉に、そっと手を下ろす。

 慧のことをもっと知りたい。その気持ちは今でも胸の中で燻っている。良いことでも悪いことでも、私は慧のことを知れるのなら何だってよかった。けれど、そんな軽い気持ちは、慧の放った言葉によって一瞬にして消え去ってしまう。

「俺、もうすぐ死んじゃうんだ」


「……っ、え……?」

 心臓の鼓動がおかしいリズムを刻み始める。

 どういうこと?もうすぐ死ぬ……?

 何を言っているの?冗談だよね?

 頭の中が混乱して、何か言おうとしても言葉がうまく出てこない。

 そんな私の方を見ていた慧は、私からそっと目を逸らした。

「この前話した、体が弱いっていうのは本当のこと。でも、単に弱いだけじゃなくて、歳を重ねるにつれてだんだんと弱っていってるんだ。体温も人より随分低いし、体力だって無い。幽霊みたいだねって、同じ病院にいた子達から言われたこともあったよ」

 慧は話し終わると、少しだけ躊躇う素振りを見せたあとで、左手で右腕のカーディガンの袖をそっと捲り始めた。

「……!」

 それは、私が見てしまった傷だった。一度見たはずなのに、自分でも分かるくらいに顔が強張った。思わず呼吸を忘れ固まっていると、慧はそんな私の顔を見てそっと袖を元に戻した。

「……周りには気味悪がる人も結構いて、それでも何もできない、変われない自分が嫌で。傷つけるとすっきりすると思って今まで散々傷つけてきた。それがこの傷なんだ。いっそのこと、もっとめちゃくちゃに傷つけて死んじゃおうかな、なんて考えてた時に、主治医から、もう体が永く保たないことを伝えられたんだ」

「っ……そんな……」

 蛍が、慧を囲むように飛ぶ。ついたり、消えたり、またついたと思ったら、さっきより光が弱い。それはまるで、慧の心臓の鼓動を表しているようで。

 あの傷は、慧自身がつけた傷だった。

 あんなに穏やかで、いつも優しく微笑んでくれる慧が、心の中ではこんなに自分のことを、殺したいくらい憎んで嫌っていたなんて。

「……それが理由で、ここまで逃避行しようって言ったの?」

 泣きそうになるのを必死に抑えながら訊くと、慧は静かに頷いた。

「父の近くで……あの場所で、死にたくなかったんだ。父はどちらかというと、こんな体で生まれた俺のことを嫌ってるんだ。きっと、母が俺のことばかり構って過労で亡くなったから、俺を恨んでるんだろうな」

 慧は、何か嫌なものを見るような顔、刺す眼差しで自分の腕を見た。

「だから……遠い知らない土地で、誰にも知られずに、一人で最期を迎えようって思ったんだ」

 蛍の光が逆光になり、慧の顔がよく見えなくなる。何だかそのまま、消えていなくなってしまいそうで。

「……でも」

 そう言って、慧が私の顔を見る。絞り出すような声はかすかに震えていた。

「柚月ちゃんと出会って……俺のおかげで、生きていたいって思えるって言ってくれたのが……嬉しくて」

 慧の目に、少しずつ涙が溜まっていく。

「っ……!」

 私は何かに背中を押されたように、気づいたら慧の元へ駆けていた。そして、慧の体をぎゅうっと抱きしめる。

 その瞬間、近くにいたたくさんの蛍が、ぱあっと弾けるように飛んでいった。

 慧の体に巻いた腕の力をさらに強める。

 やっぱり、その体には体温を感じない。

「……柚月ちゃん」

 慧は、私の肩にそっと触れた。そして、私に縋るように、強く強く抱きしめ返した。

「死にたくない……っ」

 絞り出すような掠れた声。蛍が舞う中、私たちはただ、抱き合っていた。

 私たちはいつの間にか、お互いがお互いを必要としていたのかな。お互いの存在が、生きる意味になっていたのかな。

「……っ」

 突然、慧は力無くふらつき、私が支える間もなく地面に尻をついた。

「慧‼︎」

「……ごめん……もう、立てない」

 そう言って、慧は力無く笑った。

 慧の背中を支えながら、私もその場にしゃがみ込む。

 朝見たあの顔とそっくりだ。もう体力が限界を迎えているのに、最後まで私を連れ出してくれた。最期が近いことは分かっていたのに。最後までそれを隠して私と一緒にいてくれた。

「……っ、なんで……慧なの……」

 神様がここにいるのなら、私は後先考えずに問い詰めていたかもしれない。どうして、慧なの。どうして……。

「不平等すぎるよ、神様……」

 鈴虫の声が、辺りの静寂をより引き立たせる。

 私は泣き崩れてしまいそうなのをぐっと堪え、足に力を入れて何とか立ち上がる。そして、女将さんを呼びに車の方へと走った。






 それから、女将さんと二人で慧を抱え車に乗せ、山を降りた。

 道中、私の肩にもたれかかった慧の、夏なのに冷え切った手を両手で包み込み、目を閉じて浅い呼吸をするその顔を見ていた。

 この島には、少し大きな病院はあるけれど数は少なく、延命治療など大掛かりな処置ができる病院はないらしい、というのを車の中で女将さんから聞いた。

 とりあえずこの島の病院に向かったほうがいいのか、けれど慧の主治医は離れた島の向こうにいるし、今更病院に行ったって、してもらえることなんてないのかもしれないとも思った。

 どうしようと焦っていた私の手を「このまま宿に降ろして」と、すっかり冷たくなった手で触れながら、か細い声で慧に言われた。

「っ、でも」

「……病院に行っても、良くはならない。それよりも……柚月ちゃんといたいよ」

「慧……」

 訴えるような慧の声は、少し涙声になっていた。

 すると、その会話を聞いていたのであろう女将さんが「私の部屋が一番広いから、そこでしばらく休みな」とミラー越しに言ってくれた。

 その言葉に、遠慮するほど心の余裕がなかった私は「ありがとうございます」と返し、宿に着くまでの間ずっと、慧の手を握っていた。


 宿に着くなり、女将さんと一緒に、慧を一番広い部屋まで運んだ。布団の上に寝かせてから、女将さんはコップに水を一杯持ってきてくれた。そして「何かあったらすぐ言うんだよ」と言ってそっと部屋を出て行った。

 二人になり、広い部屋に聞こえるのは、慧のゆっくりとした呼吸音と、鈴虫の音色だけだった。

「慧……」

 慧の弱々しく目を閉じる表情と、すっかり青白くなった顔色を見ていると、自然と涙が溢れて止まらない。

 どうやら、布団の上に横になったことによって少し落ち着いたのだろう。眠りについたのか、さっきよりは表情に涼しさが窺える。

 慧は、自分の命があと少ししか残っていないことを知っていた。その命を、時間を、見ず知らずの私にかけてまで。

 私の居場所になろうとしてくれたんだ。

 勝手に死のうとしている人のことなんて放っておけばよかったのに。そもそも、もし私が慧の立場だったら、自分の余命なんて、自分のためだけに使っているはずだ。

 それでも。

 きっと慧のことだから、そんなことを抜きにしてでも人のために尽くしたかったんだろうな。私なんかの、ために。

「……慧の、バカ」

 込み上げて止まらずに溢れ出した涙に、下を向いて地面についた拳をぎゅっと握る。

「……柚月、ちゃん」

 ふと、名前を呼ばれ、慧の目を見る。

「慧?」

 けれど、慧は目を閉じたまま私の顔を見ていなかった。その後にも「柚月ちゃん」と何度か連呼している。どうやらうなされているようだ。

 額には、少し汗が滲んでいる。

 その姿はまるで、悪夢にうなされたあの日の私のようで。

 だから私は、居場所をなくした私を、引っ張り上げてくれたあなたのように。

 強く、強く抱きしめた。

「慧……っ、私、ここにいるよ」

 覆い被さるように抱きしめると、少ししてふっと慧の体の力が抜けたように感じた。

 荒くなっていた呼吸が元に戻っていく。そっと体を離すと、慧はさっきよりも涼しそうな顔で眠っていた。

「……よかった」

 私も慧のすぐ側に横になり、慧の手を握って目を閉じる。その手は冷たかったけれど、だんだんと、私の体温が伝わって温かくなった。


 零時を回った頃だろうか。私はなぜか覚醒して目を開けた。眠さとか、だるさは一切感じない。

 目の前に広がる天井から視線をすぐ隣にうつしてすぐ、私は慧がいなくなっていることに気づいた。

「……っ、慧⁉︎」

 勢いよく起き上がって、部屋を見回す。けれど、どこにも慧の姿はなかった。布団は、なぜかここに運ばれてくる前のように綺麗に敷いてあった。

 ふと窓の方を見ると、窓から見える海の浜に、見たことのある後ろ姿が小さく立っていた。

「慧‼︎」

 私は靴を履かずに勢いよく宿を飛び出し、砂浜へと走った。

 慧の元へと近づくにつれて、さっきまで弱々しく呼吸をしていた慧からは想像もつかないほどに、出会った頃のようにしっかりと立っていることに気づいた。一人、風に髪を揺らしながら海を眺めている。

「慧……何してるの?体は?なんで……」

 切れた息のまま問うと、そんな私と目を合わせた慧は、何も言わずに再び海の方を向いた。

 顔色も元に戻っていて、目もしっかりと開いている。

「柚月ちゃん、いくつか質問してもいいかな」

 慧はそう言って、私と目を合わせないまま砂浜にゆっくりと腰を下ろした。

「え……う、うん」

 私は何が起きているのか分からないまま、とりあえず慧の隣に座った。

「今は……死にたいって思う?」

「……慧がいてくれるから、死にたくない」

「生きていたいって思う?」

「……慧と一緒に、生きていたいよ」

「……はは。死ねないね、俺」

「死なないでよ」

 力強くそう言うと、慧はやっと私の目を見てくれた。

 ざあっと、波の音が一際大きく響く。

「柚月ちゃん」

「……」

「……最後までずっと、そばにいてくれる?」

 震え始めた、か細い声。

「最後も何も、出会ってからずっとそばにいるよ」

 そう言った私の目から溢れた涙を、慧は親指で優しく拭ってくれた。

 そして慧は安心したように「よかった」と呟いた。

「……!」

 ふと、私の視界にたくさんの蛍が映った。何十匹、いや、何百匹いるのだろう。

 いつの間にか、慧を取り囲むように群れている。

「なんで……こんなところに」

 慧を見ると、驚きも、不思議がることもせずに「綺麗だね」と微笑んだ。それから、名残惜しそうに立ち上がった。

 私にはそれが何を指しているのか、すぐにわかった。

 ほたるの森のことを思い出したからだ。

「……慧を……迎えに、きてくれたんだね」

 私は、だんだんと溢れ出してきた涙を拭いながら言った。

 慧はたくさんの蛍に囲まれながら、私の目を見た。その目は最後まで優しかった。

「柚月ちゃん」

 光の色に染まりながら、慧は私の名前を呼んだ。愛おしそうに、涙を流して。

「君に出会えてよかった」

「っ、私も……慧と出会えてよかった」

「……柚月ちゃん」

 あと少しで、消えてしまう。

「あの森に、また逢いにきてくれる?」

「……っ、うん」

「ずっと、ずっと側にいるからね」

「……うん……」

「柚月ちゃん」

「……っ」

「大好きだよ」

 ゆっくりと、儚く消えていくその姿を、私は瞬きせずに眺めていた。それは私が今までの人生で見てきた綺麗なものとは比じゃないほどに、美しかった。

 私はその光の中にゆっくりと手を伸ばす。

 けれど、それは何も掴むことなく空を切った。

「……慧……っ」

 慧を連れて行った蛍の光は、星空に吸い込まれるように、上へと静かに昇って消えていった。

 私はしばらくの間ずっと、波の音を聞きながら、流れる涙を拭うこともせず、ただ、光の消えた空を眺めていた。


 翌朝。私は窓から差してきた朝日で目を覚ました。何だか、とても長い夢を見た。

 隣を見ると、そこには穏やかな顔をして眠っている慧がいた。ここに運ばれてきた時と、全く同じ体勢のまま動かない。

 触れていた手はすっかり冷たくなり、鼓動も、体温も感じない。呼吸音も一切聞こえない。

 私は昨日、慧に最後の別れを告げた。

 けれど、きっとまた、あの場所に行けば逢えるから。

 だから、悲しいけれど、私は慧に「おはよう」と微笑みかけた。

 ゆっくりと起き上がり、部屋から出る。

 すると、偶然廊下にいた女将さんとばったり会った。

「おはようございます、女将さん」

 私の表情を見て察したのか、女将さんは「おはよう」と言いながら私を優しく抱きしめてくれた。

「私……家に、帰ろうと思います。お金もないし、多分、今の自分なら帰れると思うので」

 そう言うと女将さんは「そうかい」と静かに呟いて、抱きしめたまま私の背中をぽんぽん、と叩いた。

「また苦しくなった時は、いつでもおいでね。あの森に、あの子に、逢いにおいでね」

 その言葉に、私の目に溜まっていた涙が一粒、頬を伝った。

「……っ、はい。本当に、お世話になりました」

 女将さんと向き合ってそう言うと、女将さんはただ、優しく微笑んだ。

 その瞳は、微かに濡れていた。

 

 

 

 

 

 女将さんは、宿代はいいよと言ってくれた。けれど、私はまたここに来た時に必ず払うことを女将さんに約束してから、この島まで乗ってきた船に、私は慧の遺体を入れた棺桶と共に乗った。

 見送りにきてくれた女将さんに精一杯のお辞儀をして、だんだん小さくなる島を、私は船に揺られながら見ていた。

 慧の身体はここにあるけれど、慧はここにはいない。慧の魂は、あの島にあるのだ。

 でも、私の心の中には、ずっといてくれるから。

 だから私は、強くなれる気がした。

 カモメが弧を描くように船の上を鳴きながら飛んでいく。

 潮風に吹かれて顔にかかった髪を手でどかし、私は元いた場所に着くまでずっと、島の方を眺めていた。



 港に着くと、慧と一晩過ごしたあの小屋がひっそりと建っていた。船から降りて、そっと小屋に足を踏み入れる。

 ギギ、と床板が軋み、相変わらず潮の香りが小屋じゅうに充満していた。

 ベンチに座ると、ふと、あの夜の景色が脳裏に浮かぶ。

 何もかもを諦めていた私を、邪魔をするものが何もない、見たこともない景色に連れ出してくれた。夢でも見ているのかと思わせるくらいに、来ないと思っていた明日を、違う世界で一緒に過ごしてくれた。

 座っているすぐ隣の座面を、指の腹でそっと撫でる。

「っ…、ふ……うっ……」

 大粒で溢れ出す涙は、止まることを知らない。大事なものすら流してしまうくらい、私はそこで大きな声をあげて泣いた。




 慧、帰ってきたよ。

 心配してる?

 慧のことだから、私が一人で生きていけるか心配してるかな。

 でもね、私には慧がいてくれるから大丈夫なんだよ。

 これから先、辛いことがあっても、慧がそばにいる。そう思うだけで私は頑張れる。

 だから、安心してね。


 また、絶対に逢いにいくから。

 その時まで。


 またね。

はじめまして。甘茶と申します。この度は「蛍は優しく灯り続ける」をお手に取って頂きありがとうございます。

 

 この作品を書こうと思ったきっかけは「居場所づくり」です。

 自分もそうだし、これを読むことによって読者の皆様自身も現実逃避を体感できるような内容にしたいと思って書きました。

 この世界から断絶されたような、自分だけ別の世界にいるような気持ちは一般的にはマイナスに捉えてしまいがちだし、私も実際にそう思っていました。だけど、慧がどこか旅行に行こうかみたいなテンションで「逃避行しようか」と誘っていたり、女将さんが「逃げてもいいんだよ、警察に捕まるわけじゃないんだし」と言っていたように、辛いことに対して自分の首を絞めてまで向き合う必要なんてどこにもないし、むしろ少しでも嫌だなと思ったらその事実から目を逸らしたっていい。逃げることは決して悪いことじゃない、むしろ必要な時があるんだよというメッセージを込めました。

 分かる人にしか分からない気持ちはやっぱりあって、それを少しでも共感してもらえる誰かに届くといいなという思いも込めて書きました。

 

 冒頭の柚月がしていたように、この小説も読者の皆様の逃げ場所、いずれは慧みたく、温かい居場所のような存在になっていたら嬉しいです。

 ありがとうございました。

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