第二章
その翌日、またラインの通知がうるさくて目が覚める。そこには涼真や尾田から『もうニュース見た?新情報!』といった内容のメッセージが届いていて、急いでテレビをつける。
天気予報がちょうど終わり、次のニュースに移るところだった。
「歌手・女優であり、現在失踪中の山那恵美さんに関して、新情報がはいりました。恵美さんの所属する事務所に今朝、恵美さんから手紙が届きました。内容です。【探さないでください。もう疲れました】この内容から、恵美さんは自殺した可能性があるとして、警察は捜索を行っています」
ギョッとしてチャンネルを変えると、どのチャンネルも、山那恵美自殺疑惑の話題で持ちきりだった。
そうしているうちに、ふと、ラインの電話が鳴った。
画面を見ると、尾田からの着信だった。
通話ボタンをスライドして、耳にあてる。
『おはよう井岡クン。もう今朝のニュースは見た?』
「はい、自殺の可能性があるそうですね。正直、そこまで予想してなかったので、驚きです」
『そうか。・・・キミなら、実は何か知っているんじゃないのかい?』
突然、尾田の声が険しくなる。
「はい?なぜそうお考えになったんですか」
そう尋ねた尾田の答えは、さらに自分を混乱させた。
『だって、井岡クンとえみりんは一緒にファミレスに行くほど仲良かったんだろ?』
一瞬、何を言われたのか理解できず、固まった。なぜこの人が、そんなことを知っているんだ。謎の恐怖で、うまく次の言葉が出てこない。
『何も言わないってことは図星か。別に、脅して何かを聞こうってわけじゃないんだ。ただ、知っているのなら教えて欲しくてね。えみりんは、今もどこかでちゃんと生きているのかい?』
耳元で聞こえる尾田の声は、ひどく心をざわつかる。
「わからないです。なんで僕と恵美さんが一度だけファミレスに行ったことを、尾田さんが知っているのかわかりませんが、それっきりです。僕はただの一人のファンで、恵美さんは憧れの人です」
『ああ、そんな警戒しなくていいよ。僕がそのことを知っているのは、たまたまそのファミレスの前を通った時に、君たちを見かけたから知っているだけさ。でもそうか、君は知らないのか』
と、尾田が落胆したように言う。すいません、と電話の先に謝り、電話を切った。
驚くことが、朝から一度に起こりすぎた。一度気持ちを落ち着かせようと、シャワーを浴びに行く。
シャワーのお湯を頭から浴びながら、ぼんやりと、尾田との電話の内容について考えていた。
彼が、自分と恵美さんが一緒にファミレスに行ったことを知っていたのも驚きだったが、何より、それを知っていながら、何故今までそのことに触れてこなかったのか。
彼は一体、何を考えて、古くからの友人のように自分を扱い、近くに自分を置いていたのだろうか。
シャワーから出て、髪を乾かす。頭に遺った古傷が、今も見ていて痛々しい。腕にも縫い跡があり、詳しく覚えていないが、確か幼いころ遊んでいてガラスに突っ込んだのだろう。母が泣き叫んでいた記憶があるが、よく覚えていない。
服に着替え、歯を磨く。その間ずっとCDプレーヤーで、彼女からもらったCDを聴いていた。
失踪の前日に、彼女から送られてきた「たすけて」のメッセージ。あれから何度も、彼女からのCDを聴き返したが、ヒントになるようなものは全く分からなかった。
「ゲボマズジュース」と自分が称した彼女の曲は、幸福の絶頂期にあった女性が、突如彼に別れを切り出され、絶望の渦に落ち、その時出会った男性と、また新たな恋に走り出す。というラブソングで、その曲調の明暗の使い分けがとても上手だ、といつも思っていた。
どういう感性をしていれば、ここまで心を揺さぶるメロディーが奏でられるのだろうか。もしかしたら彼女は、失恋のショックから自殺に走ったのだろうか?そしたら相手は誰だ?もしかして、一時期熱愛報道された池田晃なのだろうか。
考えていくうちに、何か重大なことを見落としているのではないか、とどんどん不安になって怖くなり、しばし、考える事を放棄した。
翌日、山梨県にある富士河口湖町にある樹海で、彼女の服が見つかった。
警察はいよいよ自殺の可能性が高いと判断し、大掛かりな捜索活動が始まったと、ニュースで報道していた。元々、山梨県を捜索していた理由は、彼女が送った手紙が、山梨県にある地域で消印を押されていたからである。
『探さないでくれ』という内容の手紙なのに、なぜ彼女は、わざわざ居場所がばれる方法で事務所に伝えたのか。本当は何かの事件に巻き込まれたのではないか、とニュースのコメンテーター達がまたしても、あれこれ騒いでいる。
スマホが振動し、通知を見ると、尾田から『昨日は疑ってすまなかった。本当に、えみりんは死んでしまったんだね。僕はこれから、何を生きがいにすればいいんだろう』といったメッセージが届いていた。
その日、事件が起きた。バイト中に、お客さんからクレームが入った。後輩がコーラに入れるスライスレモンに、カビが生えていたことに気が付かず、提供してしまったらしい。
店長を呼んでも来る気配がなかったので、自分がひたすら頭を下げた。幸い、そこまで大事にはならず、ドリンク代をサービスする形で許してもらえた。
後輩はまだ入って一週間未満で、慣れていないとはいえ、まさかのミスに唖然としていた。本人は全く気が付いておらず、その事についても、「あ、すいませーん」と言った程度で、気にも留めていなかった。
食材の確認をしっかりしなかった自分にも、責任はあるので、そこまで追求することはできなかった。
その後事務所の前で店長に頭を下げる。店長は鼻で笑うと、
「芸能人なんかに、本気で片思いしているから、仕事に支障が出るんだよ。やっぱり、父親がいなくて、遊び人の母親に育てられた奴は、ろくな人間じゃあないな」
と言い放った。まさかここまで言われるとは思っておらず、驚いて見上げると、蔑むような目で、こちらを見ていた。
「ああ、母親はとっくに死んでるんだったな。それと山那恵美な。あんな顔だけの女がそれなりの歌を歌って、それなりの演技をしただけで、賞だなんだと騒いでよ。まあ、俺は観た事も、聴いたこともないんだけどな。一体、何が楽しくて、自殺したやつのニュースで盛り上がってるんだか」
そう言うと店長は、自分の肩を叩いてこう言い放った。
「おい井岡、罰として今日俺の代わりに、最後まで残業して帰れよ。俺はもう帰るから」
そう言って事務所に入っていった。
怒りで殴り掛かるのを、必死で抑え込んだ。自分の事を言われるのならば、まだ許せる。しかしあの男は、大好きだった母親、そして恵美さんまでも・・・よりにもよって、自分の中で、なくてはならなかった二人を、あの男は侮辱したのだ。
母が死ぬ間際、「こんな母親でごめんね」と、何度も頭を下げて泣いたことを。恵美さんに、支えると約束した時、「嬉しい」と言って泣いたその涙を思い出し、何も知らずに彼女達の事を貶した男に、気を遣うような心は、既に残っていなかった。
手に、水の入ったコップを持って、事務所の扉をくぐる。着替え終わった店長の前に立ち、思い切り顔に水を浴びせた。バシャッと音を立ててはじけ、これ高いんだ。と自慢していた服が、徐々に濡れていった。
一瞬、彼は何をされたのか分からず呆けていたが、徐々にその瞳に、怒りの色が滲んでいく。
すぐに彼の胸ぐらを掴み、怒りと驚きがごちゃ混ぜになった、何とも言えない表情をしている彼に言い放った。
「あんたが、あの人達の何を知ってるんだよ。俺の母さんを貶しただけでなく、恵美さんまでも。ただ顔がいいだけの女だ?あの人の歌を聞いた事ないのに、よく言えるな。あの人が、デビューするまでにどんなに苦労して、自分の中の恐怖と闘ってきたのか、お前は知っているのかよ。いつも仕事を下のやつに押し付けて、へらへらと笑って、奥さんのとこにも帰らず遊んでいるような奴にな、母さんや恵美さんの事は悪く言わせねえよ」
そう言い放ち、押し飛ばすようにして、手を放す。
「お世話になりました。今日限りでやめさせていただきます。制服は後日、洗濯して郵送でお返しします」
そう伝え、事務所を後にした。
しばらくスマホの着信が鳴っていたが、それらをすべて無視して、何とも言えない解放感を味わっていた。
どんなにつらくても、死ぬほどきつくても、恵美さんが頑張っているんだから自分も負けるな、と思い、続けてきたバイトだったが、母を、そして彼女を貶された瞬間、こんな所にこだわっていた、自分自身が馬鹿らしくなった。
途中のコンビニに寄り、制服を着替える。
鏡に映った顔を見て、ふと頭の中に“彼”の声が鳴り響いた。
『お前はあいつに、彼女の何を知っている。って言っていたが、お前こそ、彼女の事どれだけ知っているんだ?助けを求めた彼女を、助ける事すらできずにいたくせに。何も知らないのはお前の方だろう』
その声が徐々に大きくなり、頭の傷の痛みも、声の大きさに比例して増していく。
必死で、黙れ!黙れ!黙れ!と叫んでいると、店員がやってきて
「大丈夫ですか?できれば、他のお客さんの迷惑なので静かにしてもらえませんか?」
と、嫌な顔を隠すこともせず言われたので、素直に謝り、コンビニを出た。
帰路に就く間、ずっと頭の中で、あの声の内容が、自分をぐちゃぐちゃにかき回していた。
確かに自分だって、彼女の事を何も知らない。嬉しい。と言って泣いた、その理由だって、CDを渡す相手を聞いた時、『両親』というワードを聞いて、彼女がわずかに顔を顰めた理由すら、何も知らないではないか。
「寧ろ、生半可に知っている分俺のほうがたちが悪いな」
そう呟き、ぼんやりと歩く。ふと、渡されたティッシュに、「黒羽探偵事務所」と書いてあるのを見て、雷が落ちた。
思わず配っていた人に、どこに事務所はあるのか。と尋ねると、すぐ横のビルの二階を指さした。
事務所の中に入ると、三人しかいなかった。
受付であろうおばさんが、要件を訪ねる。調べて欲しい人がいる。と伝えると、後ろに向かって、「烏間さんお客さん!」と叫んだ。
顔の上に、雑誌を載せて寝ていた男が、ピクンと跳ねる。
のそっと起きて自分のところまで近づいてくる。
「いらっしゃい。どういったご用件ですか」
その問いに、受付の人が、誰かの身辺調査みたいですよ。と伝えると、
「なるほど。詳細は中で伺わせていただきます。こちらへどうぞ」
と言って、奥にあった茶色いソファーを自分に勧め、彼は手前にあった椅子に腰かけた。
「どうも、わたくし黒羽探偵事務所の、烏間哲治と申します」
そう言いながら、烏間が名刺を差し出す。
「それで、身辺調査とのことでしたが、具体的にはどのような間柄の方でしょうか」
「どのような間柄、と言われると、ちょっと返答に困るのですが、今何かと話題になっている、山那恵美さんについて調べていただきたくて」
「あー、なるほど。彼女のファンの方ですか?」
顎に生えた無精ひげをいじりながら、烏間が問う。
「そうです」
「なるほど。実の所、芸能人の方の身辺調査は、基本的に行っていないんですよ。特に、依頼人がファンの方だと、個人情報やプライバシーの問題なんかが、色々シビアなので。ちなみに、どのようなことを調査したいのですか?」
まずい、このままでは断られてしまう。急いでスマートフォンを取り出して、彼女とのトーク画面を見せた。
怪訝な顔をして、烏間が画面を覗き込む。
「僕は、彼女のインディーズ時代に、初めて歌を聞いた人間で、その縁で彼女と少し、交流があったんです。LINEを交換する機会があって、連絡先を持っていたのですが突然、彼女が失踪する前日にこのようなメッセージが届いて。だから僕は、彼女の身に一体何が起きたのか。それが知りたいんです」
と伝えると烏間は、ちょっと失礼。とスマートフォンを受け取る。
「この相手が実際に、本物の山那恵美さんだと仮定して、『私が初めて作った曲。そこに書かれたところまで』という、このメッセージについて、何か心当たりは?」
「ええ、あります。おそらく彼女が、インディーズ時代に僕にくれたCDの事かと。その中に彼女のデビューシングルと同じ『あなただけ』というタイトルの曲があるんですが、歌の内容が全く違うんです。おそらく、事務所の人によってテコ入れされたのだと思うんですけど、もし彼女が伝えたかったメッセージが隠されているのなら、そのオリジナルの方だと思います」
そう伝えると烏間は、なるほど。とつぶやき、こちらを射抜くように見て尋ねた。
「その言葉に嘘偽りはありませんね?」
一瞬その眼力にひるみ、生唾を飲み込む。それからしっかりと頷き、答える。
「事実です。何なら、そのCDをお持ちしてもいいです。今も家にあるので」
「・・・なるほど、わかりました。その依頼お引き受けします」
烏間はそう言って、笑顔で右手を差し出した。
「いいんですか?まだ証拠も見せていないのに」
「大丈夫です。この仕事をしてきて、それなりに嘘をついている人は勘でわかるのです。それを、あなたには感じなかった。あと、今回の彼女の自殺は何か怪しい、と個人的に感じていたんです。だから、個人的な興味を兼ねて、ご協力させてください」
と彼は言い、おずおずと差し出した自分の手を、がっちりと握った。
「ちなみに、それなりの額がかかりますけど、お金、大丈夫ですか?」
「・・・大丈夫です。今、それなりに貯金があるので」
そうして、夢のマイカーは遠のいていった。
あの日からずっと、母の事を思い出していた。
あまり気持ちの良い記憶ではないので、奥底にしまっていたのだが、店長の言葉によって記憶の蓋が外れたように、母と過ごした日々が思い出され、古傷がそのことを責めるように痛む。
シングルマザーだった母。自分が小さいころ、彼氏がよく遊びに来ては自分に暴力をふるった。頭の傷は、その時にできたものだ。それがきっかけで、母は彼氏と別れ一人で自分を育てた。
そんな母は、自分が中学一年の頃に病気で亡くなった。母親しか知らない自分は、母が大好きで、そんな母に迷惑をかけないように生きるのが、自分の生きる目標だった。
そんな母が亡くなった日、その日以降の事が全く思い出せない。
生きる意味がなくなって死のうと思っていた記憶はある。しかし、今もなぜこうして生きているのか。その重要な部分にモヤがかかり、記憶の輪郭がぼやけてしまう。ある日以降、何かに取り憑かれたように、必死に毎日を生きてきたのは覚えている。何か自分にとって、重要な事があったのは確かなのに。しかしそれだけが、どうしても思い出せなかった。
烏間から「中間報告があるから、一度事務所までお越しいただけますか?」と連絡が来たのは昨日の事だ。
烏間に調査を依頼してから、一週間が経っていた。今日は新しいバイトの面接があり、事務所に着いたのは、十五時過ぎになった。
事務所に着くと、まだ昼ごはん食べていなくて。と烏間に連れられ、近くのカフェへ向かう。奥にある人目に付きにくい席に座り、自分はサンドイッチを、烏間はナポリタンを注文する。
セットで頼んだアイスコーヒーがすぐに届き、烏間はテーブルにあったガムシロップを三つ入れる。ガムシロップがモヤっとまんべんなく広がり、さっとかき混ぜてそれを飲み、満足げな顔をした。内心「ゲッ」と思いながら、何も入れずにストローをさす。
「身辺調査と言うことで、まず恵美さんの家族構成などを探ってみましたが、残念ながら彼女に関する情報が全くと言っていいほど出てきませんでした」
「と言うのは、事務所にも彼女は全く身元の詳細を明かしていなかった、ということですか?」
「ええ。事務所の書類にも、両親のサインは無く、マネージャーに聞いたら『両親とはとっくに縁が切れているから』と」
ふと、以前両親と言う単語を聞いた途端の恵美さんの怪訝な顔を思い出した。
「縁が切れているってことは、大喧嘩でもして家を飛び出してきたんですかね。その両親とかはわからなかったですか?」
「はい。調べたんですが、どういうわけかどこを調べても彼女の両親はわからなかったです。事務所も、彼女が両親の話をするのを凄く嫌がったみたいで、彼女が嫌がることをわざわざ調べたりはしなかったようです」
「そうですか。となると全く手掛かりがつかめないですね」
そう言って落胆すると、烏間が、いえ。とつぶやく。
「ただ、一つ。彼女との繋がりがある人物が見つかりました」
そう言って、ある建物が写った写真を取り出す。
「これは神奈川県の関内にあるBARなんですけれど、ここのオーナーだった人が、当時インディーズで活動していた彼女を事務所に紹介したらしくて、マネージャーさんによると、彼女が家出したときに面倒を見てくれていた。自分にとっては親のような人だ。と言っていたそうです」
「親のような人ですか」
「ええ。その写真は今のBARのもので、既にオーナーは変わってしまって全く違う店なんですけどね」
そう言って、「失礼」と烏間は懐から煙草を取り出す。黒い箱に緑色のラメがかかったロゴが特徴的だ。彼は箱から一本取り出し口に咥えると、「吸われます?」と差し出してきたので「いえ、結構です」と答える。彼は頷いてそれをしまい、コンビニで見かけるターボ式のライターで火をつける。目を細めて旨そうに煙を吐き出す烏間に、自分は尋ねた。
「ちなみに、その前のオーナーさんはどなたか分かったのですか?」
「ええ。すでに目星はついています。一度お会いして、お話を伺う予定なのですが、よろしければ井岡さんも同席されますか?」
と尋ねた烏間に、自分は身を乗り出して
「はい!」
と答える。烏間は少し驚いたように身を縮め、
「わかりました。またアポイントが取れましたらご連絡いたします」
と言うと、また旨そうに煙を吸った。
料理を食べて店を出ると、辺りはすっかり日が暮れかけて、一面が真っ赤に染まっていた。学生に高いお金もらって仕事させてもらっているから、と食事代を烏間が出してくれた。
店前で烏間と別れ、ぼんやりと恵美さんと話していた時の事を思い出した。『俺が支えになる』と伝えた時に見せた涙や、両親の単語を聞いたときに垣間見えたしかめ面。彼女は親と喧嘩してほとんど周りに頼る人がいなかったのだろうか。自分も親を早くに亡くし、一人ぼっちで生きてきたので、周りに頼れる人がいないという辛さは、身に染みて理解している。
果たして、「親のような人だ」と言ったオーナーとは、どんな人なのだろうかと想像し、一人夕暮れの道を歩いた。
烏間から再び連絡が来たのは、中間報告を受けた次の日の夜だった。
『昨日お話ししたオーナーの方とアポイントが取れました。明日の十二時に川崎で待ち合わせになりましたが、予定は大丈夫ですか?』
電話の先で、烏間が尋ねる。
「大丈夫です」
『わかりました。十分前にJR改札前で合流しましょう』
と言って電話が切れた。
やっと、恵美さんの知り合いに会える。これできっと、何かメッセージのヒントが見つかるはず。
まだ見ぬ相手に期待を寄せ、布団に潜った。
翌日、十分前に川崎駅の改札に着くと、烏間の姿を見つけたので声をかける。
「烏間さんこんにちは。相手の方、思っていたよりもすぐに連絡が着いたんですね」
「ああ、井岡さんこんにちは。事務所の人が、その方の連絡先を知っていましたからね。実はすぐに連絡は取れる状態で、井岡さんに報告したんですよ」
「そうだったんですね。ちなみに相手のお名前は、何という方なんですか?」
「そう言えばまだ、相手の方のお名前をお伝えしていませんでしたね。緒方明弘さんという方で、電話で話した感じだと、すごく人の良さそうな雰囲気でした」
烏間が顎髭をいじりながら言う。
その後向かった緒方さんとの待ち合わせの場所は、駅にある商業施設の中のお洒落なカフェだった。
店に着くとまだ相手は来ていなかったため、烏間と共に、奥のテーブル席の下座に座る。
五分ぐらいして、烏間のスマートフォンが鳴った。内容から察するに、相手が駅に到着したらしく、自分たちがいる場所を伝えていた。
しばらくして、一人の男性が現れた。肩の先まで伸ばした髪にハットをかぶり、一目でオシャレに気を遣った人だ。という印象を持った。
「あなたが烏間さんですか?」
と男性が尋ねたので、烏間が席を立ち挨拶をするのに遅れて、自分も席を立つ。
烏間がフリージャーナリストとしての名刺を彼に渡し、自分を紹介しようとして、ああ、と言う緒方さんの言葉に遮られる。
「あなたが井岡さんですね。あなたの事は恵美からよく聞いています。あなたが初めて、彼女の歌を立ち止まって聞いてくれた事や、一緒に食事に行ったことも、彼女は楽しそうに話してくれましたよ」
「彼女が、僕の話をしていたんですか」
「ええ、それはもう本当に楽しそうに」
と、目を細め懐かしそうに語る。烏間が席を勧め、緒方が座った後、着席する。
「それで、恵美の事について聞きたいのでしたね。具体的にはどのようなお話でしょうか?」
「まず先に、こちらの井岡さんとは取材の一環で知り合い、井岡さん本人の希望もあって、同席させていただいています。実は今、恵美さんの自殺についての記事を作っていまして、今回の自殺に何か裏があるのではないか、と思い取材をしていたところ、緒方さんを『親のように思っている』と恵美さんが言っていたと聞きまして、本日機会を設けさせていただきました」
緒方はそれを聞き、なるほど。とつぶやく。そして緒方は身を乗り出し烏間を見つめ、射抜くような目つきになり尋ねる。
「それで、今回の本題は何ですか?探偵さん」
と、緒方が語尾を強調して言う。
すぐに探偵だと見抜いた緒方に、焦って隣を見るが烏間は特に動じた様子もなく
「やはり気づかれていましたか。では改めて、私黒羽探偵事務所の烏間と申します」
と本職の名刺を差し出した。
「マスコミが彼女の事を調べるといっても今まで家族関係まで調べようとはしませんでしたからね。それにわざわざ、ほとんど関係のない井岡君を同席させるとなると、ますます怪しい。おそらく井岡君が恵美の失踪に関して、何か依頼したんじゃないですか?」
と、緒方が問うたことに烏間は、契約に関する話なので、守秘義務があるのだろう。自分の顔を伺うように見る。
自分が代わりに、その指摘に答える。
「その通りです。僕が、彼女の事をもっと知りたくて、烏間さんに依頼しました」
「なるほど。実際には彼女と君には関りがあったとはいえ、ほとんど赤の他人のはず。彼女は“天才”とまで言われたカリスマ芸能人で、その素性を知りたい人はごまんといるはず。烏間さん、よく依頼を引き受けましたね?」
「それは一つとして、私が個人的に今回の事件に対して、興味があったことが理由にあります。また、彼の依頼を引き受けた理由はもう一つありまして」
そこで言葉を止め、烏間が視線をこっちに向ける。自分は頷くと、スマートフォンを取り出して、彼女とのトーク画面を開く。
「これは、彼女が失踪する前日に送られてきたメッセージです。突然助けを求められたのですが、何が何なのか、全く自分にはわからなくて。それで、もっと彼女の事を知らなければいけない。と思い、烏間さんに依頼しました」
そう伝えると、緒方はトーク画面を見て、そうか、君がそうだったんだね。とつぶやいた。
その意味を問おうと、口を開きかけたとき、
「わかりました。彼女のことについて、お話しいたしましょう」
緒方はそう言って、深いため息をついた。
俺が彼女に会ったのは、もう六年も前のことだ。
朝方に店を閉め、家に帰ろうとした時の事だった。高校の制服を着て、あちこちに傷やあざを作った女の子が道に倒れていてね。しかもその日は大雨だったものだから、雨に打たれて、ずぶぬれになっていた。
声を掛けたらかろうじて返事があったから、急いで店に運んで、ヒーターをつけ、店の奥から泊まり込みの時に使っているバスタオルで、彼女の髪を拭き身体をくるんだ。
その後、毛布を持ってきて彼女にかけ、しばらく様子を見た。はじめは冷たかった身体も、徐々に体温が戻って、突然彼女が目を覚ました。
きょろきょろと周りを見渡して
「ここは?」
と尋ねた彼女に、君が倒れていて看病していたんだ。と答えると、彼女はお礼を言って、かわいいくしゃみをした。
自分の服を貸すから。と、彼女を更衣室で着替えさせ、俺は残っていたもので簡単なスープを作った。ダボッとしたシャツを着て帰ってきた彼女は、「大きい・・」とつぶやいたので、
「女の子用の服なんて持っているわけがないから、それで我慢してくれ」
と答えた。彼女が客席に座り、俺が作ったスープを口にする。
「あったかい。温もりのある料理なんて、久しぶりに口にした。それに、お皿からものを食べるのって、人として認められている。って感じがするね。いつも私のご飯は、床の上に捨てられていたから」
そう言って笑う彼女の言葉にびっくりして、その姿をまじまじと見た。
シャツから覗く彼女の肌には、欲情など微塵も感じさせないぐらい、痛々しい痣があった。何より、両手の手首にくっきりと付いた痣を見て、もしかして手錠の痕なのか、と戦慄した。
「ご馳走様でした。ご飯ありがとう。ところでおじさん、名前はなんて言うの?」
と首をかしげて聞く彼女に、凄く美人な子だ。と今更ながら気づく。
「緒方明弘だよ。お嬢ちゃんは?」
「恵美」
「恵美ちゃんかいい名だな」
「でしょ。私自分の名前は大好きなの。そういえば、名前で呼ばれたのなんて私久しぶりかも。いつも、『ゴミ』とか『売女』とか違うあだ名で呼んで、誰も私を、私と認めてくれなかったから。名前があってこそ、本当の私なのにね」
暗い笑みを浮かべる彼女に、俺は返す言葉を失った。こんなにつらい内容の言葉を、笑顔で話す彼女を見て、ああ、誰にも打ち明けられずに、自分だけしか自分を認めてもらえなかったのだな、と思った。
「恵美ちゃんは帰る家あるの?」
「ううん。この傷だらけの体に気付いた上で聞いているよね。私の帰る家なんてない。私の居場所は、この世界のどこにもない」
そう言った彼女の瞳には、今までとは違った悲しみの色が、深く映っていた。
今にもあふれ出しそうなほど、ギリギリまで張りつめられた感情と、溢れ出さないように、押し殺し、自制している彼女とが、ギリギリのバランスでせめぎ合っていた。
「なら、ここに帰ってくればいい」
そう言ったのは、自分でも意識していないことだった。そんな言葉を言った、自分に驚き、彼女も大きな目を真ん丸に開いて、こちらを見つめている。
「嬉しい。ここを、私の居場所にしてくれるなら」
彼女がそう答えるまでに、そこまでの時間はかからなかった。
元々個人経営でやっていたBARだが、仮眠をいつでもとれるように、奥に居住スペースを作っていた。
彼女はその部屋に入ると、何もないね。と言って、ベッドに寝転ぶ。その姿があまりにも無防備だったので、彼女に尋ねた。
「恵美ちゃんは、二人きりで、会ったばかりのおじさんと同じ部屋にいて、危機感はないの?」
「ないよ。そういう事されるのなんて、もうとっくになれたし。私、中学生の時に両親を亡くしていて、叔父さんの家に引き取られたの。でも、いきなり来た私はその家にとっては異物で、躾のなっていないペットのように、繋がれ、罵られ、暴力を振るわれた。おじさんが私を求めてきたときだけ、私の居場所を感じられて、私は犬みたいに、依存して、そこに縋るしか、生きる道は無かった」
だから緒方さんもしたいならいいよ。私に居場所をくれる人だから。そう彼女が笑顔で言うので、ただ首を横に振って、遠慮の意思を示した。
軽口のつもりだったが、彼女が語るのが、あまりにもつらい内容で、空気中の酸素が薄くなってしまったかのように、ひどく息苦しかった。
しばらくして、すぅすぅと寝息を立てて寝た彼女に、毛布を掛けて、『また明日きます』とだけ書置きをして、家に帰った。
ここまでの話を聞いた自分と烏間は、想像していた以上の内容に、開いた口がふさがらなかった。『両親』そのワードを聞いた瞬間の、彼女の複雑な顔を思い出し、不用意にその話をした過去の自分に、腹が立った。
「それで恵美さんは、次の日もそこにいたんですか?」
と烏間が尋ねると、緒方は首を振り「いいや」と言った。
「次の日朝早くに店の仮眠室に行ったときにはすでに彼女はいなくてね。夢かと思ったよ。でも綺麗にたたまれた毛布や服が置いてあったから現実なんだって理解したけどね」
「その後恵美さんはその、義父の家に帰ったのでしょうか?」
「いや、それがその日の夜に彼女は帰ってきた」
そう話す緒方はふうとため息をつき、
「場所を変えましょう。ここではこれ以上の話をしづらくてね」
と言ったので、烏間は頷き会計に向かった。
残った自分に緒方は
「あの子にはずっと居場所がなかった。だからだろうね。彼女が歌を始めた理由は。歌を歌って誰かの中に自分という存在を認めて欲しかったんじゃないかな。そして才能が味方して芸能界という自分の居場所を彼女は手に入れた。そして井岡君。君が一番初めに彼女の居場所になったんだ」
と緒方は言葉を繋ぎ、
「あの子はきっと、今も君の中に居場所を求めている。あのメッセージはきっとそういう事だ」
そう彼は言った。
その後店を離れた翔弥達は一番話が聞かれない場所ということで烏間の事務所に向かうことになった。
事務所に着くと事務のおばさんにお茶を頼み、部屋の一室を貸し切りにするよう伝える。烏間は「いいですか?」と聞き胸ポケットから出したものを見て、自分と緒方が頷く。「失礼」と一本取り出し火をつけと「それなら私も」と緒方も、鞄から英語で『平和」と書かれた箱を取り出した。
トントンと蓋を叩くと一本煙草が箱から飛び出す。それを咥えるのを興味深げに見ていると「井岡君は吸わないんですか?」と尋ねたのに対し、「彼は吸わないみたいで」と烏間が答える。すると緒方は一本抜き出し、
「君も吸ってみると言い。スッと気持ちが落ち着く。今日みたいな日は特にね」
と言ってウィンクをした。ウィンクが似合う男の人を初めて見たな。と思いながらそれを受け取ると横にいた烏間がライターをつけて差し出す。「息を吸いながら火をつけるんだ」とアドバイスしながら緒方がマッチで火をつける。それに倣って差し出されたライターで火をつけた。
息を吸うことを意識しすぎて深呼吸するように吸い込んだため、濃厚な煙が一気に肺を通過してむせこんだ。吸い込みすぎると先ほどの二の舞になるので、口の中に煙をためて緒方たちのようにゆっくりと吸う。今度は先程のように息苦しくならず何とも言えない心地良さが身体をめぐる。「初めての子にピースは少し重かったかな」と緒方が烏間に話しかける。
ゆっくりゆっくり時間をかけ吸っているうちにお茶が届いて、烏間と緒方の二人は火を消してお茶に舌鼓を打っていた。自分も火を消してお茶をすすると今までとは違いほのかに鼻の中に残る煙さとお茶の苦みがうまくマッチして「旨い」とつぶやいた。
「さて、先程の続きを話しますか」
と緒方が切り出したので自分と烏間は姿勢を正す。
「先に結論から話してしまいましょう。皆さん神奈川県で六年前に高校一年生が誘拐された事件がありましたよね?」
その問いに頷きつつ、つい最近同じ話を涼真がしていたことを思い出した。
「その誘拐事件の犯人。それは私なんです」
そう彼が宣言した。