第一章
パソコンで執筆したものを貼り付けてるので読みづらいとか要望あればコメントお願いします。
新聞を公園のごみ箱に捨て、コンビニで夕食の弁当を買って帰る。十一月になりどんどん肌寒くなって、息が白く染まる。ふと、頭に遺る古傷が冷えて痛んだ。
アパートの階段を上がり、明かりの灯っていない、暗い部屋に一人帰る。
明かりをつけると、部屋いっぱいに並んだ、恵美さんに関するグッズが、さらに胸を締め付ける。新聞は驚きのあまりに握りしめてしまったが、今はどのグッズにも当たり散らすほどの怒りは沸いてこなくて、カーペットの上に横たわる。
テレビをつけると、大体どのテレビ局も“天才”失踪事件の話題で持ちきりだった。
理由がはっきりしていないのに、あれこれ理由をつけて騒ぎ立てる芸能人達。俳優の池田晃がゲストで出演しており、しきりに、心配そうな顔で意見を述べていた。
どこも同じような内容で、うんざりして七チャンネルをつける。ニュースではなくて、若者に人気のアニメをやっていた。主人公が剣をもって、悪者を倒す。何人も切り倒して、周囲から感謝される。
明確に誰が悪か分かって、強い力をもって、それを倒すことが出来る。今思えば、凄く幸せなことなのだ、と気が付く。
この世の中は、何が悪で、何が正義なのか。明確な基準が存在していないだけ、残酷だ。現に今、恵美さんに裏切られた、とは思っていても、怒りをぶつけることが出来なくて、気持ちを持て余している。
ぼんやりとアニメを見ながら、彼女の事を考えていた。
彼女がまだ売れ始める前、路上や小さいライブハウスで公演をした時も、全て応援に駆け付けた。
目を見張るほどの美人でありながら、どこかはかなげな印象を与える彼女は、そのルックスと歌唱力の高さから、一日ごとに集まる人は増えてゆき、デビュー前の最後の方には、人が集まりすぎて、交通整理に警察が出てくるほどの騒ぎになった。
そんな彼女に初めて会った時のことは、今でも鮮明に覚えている。
二年前の冬、バイトで人手が足りなかったため長々と残業させられ、いい加減新しいバイトを探そうか、と駅の一角にある、求人雑誌を取りに行ったときの事だった。
女性にしては背が高く、すれ違った人が思わず振り返ってしまうほどの美人。黒いPコートに身を包み、背中には、身の丈の半分ほどはあるギターを担いで、彼女は目の前に現れた。
彼女は、駅の一角で立ち止まると、いそいそと準備を始め、アコースティックギターを担ぐ。
気になって、足を止めていた自分と目が合うと、彼女は一瞬、驚いたように目を見開いた。
知り合いだっただろうか、と記憶を探ってみたが、彼女ほど美人な知り合いは思いつかなかった。
その様子を見て、彼女は少し寂し気な表情をした後、自分の事を見つめ、
「ぜひ、私の歌を聴いていってください」
と、彼女は笑いかけた。
「すうっ」と息を吸い込む音が聞こえ、次の瞬間、空気が一変した。
なんと儚げで綺麗な声なのだろうか。今にも消え入りそうなのに、放たれる言葉は力強く、心の隙間に入り込んで響く。自然と落ち着くような、それでいて心を揺さぶられる歌声。気が付けば、彼女の歌声、容姿、そして放たれるオーラに圧倒され、そこから動けずにいた。
一曲目はCMでよく聴く、有名歌手が歌っている曲のカバーだった。彼女の歌声がホームに響き渡り、自然と周りを歩く人の足が止まる。気が付けばずいぶんの人が彼女の歌に聴き入っていた。
曲が終わると、間髪入れずに二曲目に移る。次に歌った曲は、有名なアイドルグループの曲だった。
原曲は若い女の子たちが集まって、ワイワイ歌っている印象を受ける曲だったが、彼女が歌うと、ひどく哀愁漂うバラードになり、聴いている者がうっとりとさせられる。
この曲は、こんな意味が込められていたのか、と初めて気付かされるほど、放たれた言葉の一つ一つが粒となり、響き渡っていく。
観客が通行人の邪魔になりそうなほど集まり、皆彼女の歌に聴き入っている。
さらに五曲ほど歌って、彼女の演奏が終わる。彼女がお礼を言うが、聴き入っていた観客が余韻で呆けていて、一瞬静かになった。
彼女が不安そうな顔をした、その瞬間、割れんばかりの拍手喝さいが沸き起こった。
駅の中、その一角だけが、彼女のためのコンサートホールであるかのように、異様な熱気に包まれていた。
周囲の人が徐々に解散していく中、彼女が片づけをするのを、ぼうっと眺めていた。
彼女が、ギターをケースにしまって、背中に担ぎ、ふいにこちらを見て、近付いてきた。
何だろう、と彼女の顔を見る。彼女は大きな瞳で、じっと自分の目を見つめると、
「実は今日、初めて人前で歌ったんです。私、歌うのは凄く好きなんですけど、知らない人に聞いてもらうのは、とっても緊張して、ずっと不安でした。でも、最初に足を止めてくださったあなたが最後まで聴いてくださって、とても嬉しかったです」
そう言って彼女は、ペコっとお辞儀をする。
「歌っている間、すごく支えになりました。ずっと聴いてくださって、ありがとうございました」
顔を上げると彼女は、思わず見惚れてしまうほどの、満面の笑みを見せた。
美人で大人びている、というイメージの彼女が見せた、無邪気な少女のような笑みに、思わずドキッとして、咄嗟に返事を返すことが出来なかった。
では、と彼女が去ろうとする。その背中を見た途端、なぜか、彼女がどこかに行ってしまうのではないか、と不安が胸をよぎる。
「あの!!」
気が付けば、彼女を呼び止めていた。
彼女がビクッと肩を揺らし、顔だけこちらを窺うように振り返る。
「次、いつ歌いますか。歌、凄くよかったです。かっこよかったです。こんな心に響く歌声初めて聴いて、大好きになりました。僕なんかで支えになれるのなら、毎回来ます。どんな日も、あなたを応援に来ます」
言い切ってから急に冷静になって、口をつくようにして出た言葉に、一気に恥ずかしくなった。彼女も、目を大きく見開いて固まってしまっている。
一瞬の沈黙が耐え切れなくて、言い訳をしようと口を開きかけた時、彼女が先に口を開いた。
「嬉しいです。また明日、今日と同じ時間にここで歌うので、待ってます」
「わかりました。絶対また明日ここに来ます。もしよかったら、お名前、聞いてもいいですか?」
そう聞くと彼女は、名前を言うのすっかり忘れてた、とつぶやく。
「山那恵美です。山に那覇の那でやまな、恵みに美しいでえみ。あなたは?」
「井岡翔弥。翔るに弥生の弥」
「翔弥さんですね。また明日、ここでお待ちしています」
そう言うと彼女は、またペコっとお辞儀をして、去って行った。
それが自分と、“天才”山那恵美さんとの初めての出会いだった。
食べ終わった弁当箱に、割りばしを折って入れ、レジ袋に入れてからゴミ箱へ投げ捨てる。
「今思えば、初めて会った時よく、名前なんか聞けたよな。我ながらグッジョブ」
そう言って、シャワーを浴びに行く。
あの日、盛大に口走ってしまった自分に、彼女が嬉しい。と言った時、彼女の目には、涙が滲んでいた。
だが、その理由が今でも、全く分からないでいた。
翌日、スマホの通知がうるさくて目が覚める。朝から迷惑だな、と思って通知を見ると、メッセージが百件以上溜まっていた。
普段頻繁に連絡を取る友人などいない為、誰だろうか、とメッセージを開く。
通知は全て、【山那恵美応援の会】のグループからだった。
彼女のデビュー直後から出来上がったグループで、参加者は百人以上もいる。今は、グループリーダーである尾田を筆頭に、山那恵美失踪について、あれこれ議論を交わしていた。
このグループを作成した尾田も、初めて恵美さんが路上で歌った時にいたらしく、「ボクはあの子が絶対に特別な存在だってわかっていたんだ。なにせ、あの子の才能はボクが最初に見つけたのだから」と口癖のように言っていた。
議論を交わしている尾田は最初、かなりお怒りの様子で、「裏切られた」だの「今までの時間が~」などと怒っていたが、今はなぜ失踪したのか、今どこにいるのか、といったことを、探偵よろしく推理していた。
『おはようございます。自分もニュース見ました。全くそんな予兆なんてなかったので、いきなりの事に驚いています。』
とメッセージを送る。白熱しているグループの会話は、すぐに二十以上の既読が付き、口々に『井岡氏おはよう』やら、『井岡クンはこの失踪どう考える』と言ったメッセージが送られてくる。
井岡クンと呼ぶのは尾田で、彼は誰に対しても呼称にクンをつける。
なんでこの人はこんなに偉そうなのだろう、と思うのは、毎度の事だ。
『わかりませんね。少なくとも、二度目の紅白出場が決まって、絶好調だったのは間違いないですけど。まさか面倒になって逃げだすような人ではないと思いますし』
『うむ。えみりんは、そんな弱い子じゃないさ。でもだったらなぜ、失踪などしたんだろうね』
そんな事、本人にしかわからないだろ、と思ったが、確かに気になっていたのも本心だった。
今日はバイトが休みなので、家でゆっくりしよう、と心に決め、目に入った一冊の本を手に取る。
お気に入りの夏目漱石先生の『こころ』、その表紙をめくると、鳥の羽をモチーフにした、木製の栞が挟まれていた。これは彼女がお礼に、とくれたものだった。
あの日、彼女と初めて会って以降、彼女がライブをするときは必ず、見に行くようにしていた。
なぜか彼女の声を聴くと、心が落ち着くのだ。それに、彼女を支えると言った以上、その約束を守りたかった。
彼女のライブは、回を重ねるごとにギャラリーの数が増えていき、ついに駅のホームの一角では邪魔になるから、と駅前の大きく開けた部分が、彼女の定位置になった。
いつからだったか、観客が演奏後にお金を渡すようになり、はじめは遠慮していた彼女も最近は、ギターケースに入れてもらうようにしていた。
自分も、こんな素敵な曲をタダで聴くのは申し訳ない、と思っていたので、わずかながらお金を入れに行く。
ギターケースの中身はお札ばかりが入っていて、彼女の歌はやはり凄いんだ、と再認識させられる。五百円を入れようとした手を止め、財布から千円を取り出して中に入れた。
家に帰ろうと、駅前を歩き出す。特に用事もなかったので、のんびりと歩いていると、不意に焦ったような靴音が聞こえ、突然、ガッと肩をつかまれる。
驚いて振り返ると、大きなギターケースを担ぎ、息を切らした恵美さんと目が合った。
「追いついてよかった、いつも、演奏を聴きに来てくださっていたのに、終わったらすぐに帰ってしまうから、なかなかお礼を言う機会がなくって」
と息を整えながら、彼女が言う。
「あ、ごめんなさい。いつもたくさんの人とお話ししているので、入る隙がなくって。いつも、最高の歌をありがとうございます」
お礼を言うと彼女は、顔の前で両手をブンブン振って、
「そんなことないです。こちらこそ、いつも来ていただいてありがとうございます。お金も入れてくださったみたいで、恐縮です」
と申し訳なさそうにする。
「それだけ、あなたの歌は価値があると思っていますから」
と笑うと、彼女は「そんな事ないです」と縮こまった。
「それが理由で、わざわざ追いかけてきてくれたのですか?」
そう尋ねると、彼女はスッと真面目な顔を作り、「いえ」と言葉を繋ぐ。
「この後、ご飯でも行きませんか?いつも来てくださっている井岡さんにお礼がしたくって」
と、想定外の言葉を彼女が言う。突然の事に一瞬、何を言われたのかが分からなかった。
「え!いや、暇ですけれど、大丈夫ですか。僕みたいな凡人と一緒にいたら、雑誌とかスキャンダルとかになりませんか」
そう伝えたが、内心では彼女と食事に行きたくて、ワクワクしていた。
「そんな、私だって駅前で歌っているだけで、ただの凡人ですよ。テレビの中の人みたいな、キラキラした人たちとは違います」
そう言って、彼女がほほ笑む。
いや、あなたは十分キラキラしているよ、と思いながらも、食事に行けそうなことに、見えないところで小さくガッツポーズをとった。
「じゃあ、お言葉に甘えてご一緒させていただきます。でも、この辺ファミレスとかしかないですけれど」
そう言うと、彼女は迷わず頷いた。
「ファミレス行きたいです。私、ドリンクバー大好きなので。昔よく、いろんな味混ぜて、私だけの特製ドリンクとか作って遊んでいました」
「ああ、自分もやりました。たまに失敗して、変な色のジュースとかできた時は、逆にワクワクして。意外と見た目は最悪でも、飲んでみたらすごくおいしいんじゃないか、って。実際は激マズで捨てちゃいましたけど」
「あ、そうそう。私も、見た目は悪いんだけどそういうのが実はおいしいんじゃないか、って思っていた時期がありました・・・結局全滅でしたけど」
そう言って、ガックリとした仕草をする彼女が可愛くて、思わず吹き出すと彼女も、つられたように笑い出した。
彼女とこうして話すのはニ回目なのに、随分と懐かしい感じがした。
そうして、他愛もない話をしながら到着した深夜のファミレスは空いていて、二人で座るには少し広い席に案内された。
店員に、ドリンクバー二つと軽い料理を注文する。
「何飲みますか?持ってきますよ」
と言うと、彼女は少し驚いた顔をする。
「井岡さんって、とても気が利くよね。椅子もわざわざソファーの広いほうを譲ってくれたし」
「いや、そんなことないです。よくマンガやドラマで主人公が、そうしているのを見て、勝手にそういうものだと思っていました」
「それを、本当に実行できるのは凄いと思うけど。私も、もっと気が利く人間にならなきゃな」
そう言って唇を尖らせる彼女が可愛くて、しばし見惚れてしまう。
私も行く、彼女がそう言って、席を立つ。
「さっき、ドリンクを混ぜる話をしていたら、急に懐かしくなっちゃって。昔みたいに、冒険したやつは、作ろうと思えないけれど」
と言いながら、彼女はオレンジにカルピスを混ぜる。オレンジジュースに、もやっとカルピスが広がり混ざり合う。
席に戻ると、注文していたサラダが届いていたので、取り分けようと小皿を寄せる。
銀色のトングを持つと、
「あ、私がやる!気が利く女になる修行をしないと」
なんて言って、彼女がいたずらっぽい笑みを浮かべるので、自分は快諾して、トングを彼女に手渡す。
分けられたサラダは、ドレッシングが少なかったのか、あまり味がしなかった。
「私今度、ライブハウスで演奏しようと思うんだ。ライブハウスだったら、人が集まっても邪魔にならないし」
と彼女が笑う。
「いいと思います。ライブハウスだったら音響、外でやるよりもしっかりしているし。確かに、人の邪魔にもならないし」
そう言って笑い返す。ライブハウスでのライブは二週間後にやるらしく、次の路上演奏の際に告知するという。
「実はその時に、CD販売してみよう思っているんだ。作詞作曲を、初めて自分でしてみたの。三曲しかないけれど、路上ライブを見に来てくださっているお客さんに、CDが欲しい、って結構言われるから。知り合いにCDの作成に詳しい人がいて、作ってもらったんだ」
彼女が鞄から、一枚のCDを取り出し、手渡す。
「あげる。私の歌を、初めて聴いてくれた人限定で特別に、タダってことで」
「いいの?お金ちゃんと払うよ」
と、財布を取り出しながら言うと、いいから貰って、と言うので、お礼を言ってありがたく頂戴する。
「他には誰かにあげないの?例えば、ご両親とか」
そう言った途端、彼女の表情が凍りついた。あまりに変化が大きかったので、聞いてはいけないことだったのか、と焦る。
「あの・・・」
と、声をかけると彼女は俯き、小さい声で
「あげないよ」
と答えた。その声があまりにも固くて、それ以上何も言うことが出来ず、静かに食事が進んだ。
しばらく会話がないまま、気まずい空気が流れる。普段は気にならないナイフやフォークが皿にぶつかる音が、やけに大きく二人の間に響く。何か話さないと、そう思うのに、言葉は表に出てこない。
「・・・作詞作曲って楽しいけれど、凄く大変だった。あれも入れたい、これも入れたい、ってあれこれ変えていくうちに、何だかどんどん不格好になっちゃって」
そう彼女が話し出してくれたことに、内心ホッとして、相槌を打って先を促す。
「それでね。さっき、ドリンクバーの話をしたでしょ?渡したCDの一曲目が、『あなただけ』っていう曲なんだけど、それがまるで、ゴチャ混ぜになったドリンクみたいで。見た目は悪いし、味も最悪。でも、初めて自分で一から作った曲だから、思い入れが強くて、どうしても入れたくって、思い切って入れてみたんだ」
他の曲は整理整頓してきれいに作ったから自信作だよ、と彼女が笑顔を見せた。
「じゃあ、楽しみに聴くね。君の自信作もゲボマズジュースも」
そう言うと、彼女は
「ゲボマズジュースは酷いネーミングだ」
と言って笑うので、つられて一緒に笑った。
彼女が、ふと思い出したように、そういえば!と手を叩く。
びっくりして、急にどうしたの、と尋ねると、彼女はスマートフォンを取り出して
「ねえ、LINEやってる?今度から他の駅前でもライブやってみようかな、って思っていて、決まり次第、井岡さんに場所を教えたい」
「うん、やってるよ。待ってね。今QRコード出すから」
突然の連絡交換に、ガッツポーズをしたい気持ちを全力で抑え込み、表面上は冷静を装って、彼女と連絡先を交換する。
ありがとう。と彼女はお礼をして
「絶対に来てね。来ないと不安で泣いちゃうかも」
と言って、いたずらっぽく笑った。
【恵美】と書かれたプロフィールの写真は、彼女がいつも使っているアコースティックギターが写されていた。
会計を済ませ、店を出ると、私から誘ったのに奢ってもらっちゃってごめんなさい。と、彼女が頭を下げた。
「私がトイレに行ってる間に、お会計終わらせてるとか反則だよ」
と彼女が、小さく頬を膨らませる。
「家はこの辺?夜遅いし、もしよかったら送っていくよ」
そう伝えると、彼女は首を横に振る。
「ううん。ここから歩いて10分ぐらいだから大丈夫。今日はありがとう」
「そっか、こちらこそありがとう。楽しかった」
またね、と手を振ると彼女も、ではまた、と手を振り返す。
しばらくの間、離れていく彼女を見つめていると、あっ!と彼女が声を上げた。何かギターケースから出したかと思うと、こちらに戻ってきて、包みを目の前に差し出す
「すっかり忘れてた。いつもライブ見に来てくださって、ありがとうございます。お金もいただいちゃって、なにかお礼を、と思って。いつも待っている間、ずっと本を読んでいたから。これ、よかったら使ってください」
差し出された包みを受け取って、その場で開けると、鳥の羽を模った木製の栞が入っていた。
「井岡さんの名前に、翔って字が入っているから、羽のモチーフにしてみたの」
「ありがとう。大事に使うね」
「うん。今度こそ、おやすみなさい」
彼女は軽くお辞儀をして、家に帰っていった。
突然の憧れの彼女との食事、連絡先交換に更にはプレゼント。幸せで浮かんだ気持ちが、宇宙旅行できそうなほどだった。
このまま時が止まって、自分と彼女、二人きりになればいいのに。そう思ったが、彼女がそんなこと嫌がるな、と思い直して笑う。
家に帰って、さっそく聴いた彼女の『あなただけ』は時間が十分に渡る超大作だった。
確かに、言いたいこと言いまくって、メロディーも、明るかったり暗かったり、時に儚げに時にやさしげに。まるで、彼女のような曲だ。と思った。
翌日、『君の曲聴いたけど、1曲目はやっぱ、ゲボマズジュースだったよ』と送ると、『ひどい(笑)』と返ってきた。
彼女が歌った曲で一番好きだと思ったことは内緒だ。
その後彼女は、ライブハウスに来ていたスカウトの人に声をかけられて、いきなりデビューが決まり、そのゲボマズジュースな曲が収録されたCDは、世に出ることがなく終わった。
そして気が付けば、彼女は自分の手の届かないところに行ってしまった。
“伝説”の幕開けとなった、山那恵美デビューシングル「あなただけ」は、自分の知っている曲ではなかった。恵美さんのように、いろんな味のするジュースのような曲ではなく、シャンパンのように透き通って、はじけて綺麗な、“山那恵美”を表すような曲だった。
「【山那恵美応援の会】緊急集会」と題された、飲み会のお知らせが来たのは、ラインが沸いていた日の事だ。
尾田から『井岡クンもくるよね?バイト終わってからでもいいから来てよ。インディーズ時代から、一緒にえみりんを応援していたキミの、貴重な意見を聞きたいな。』と、いつも通りの、上から目線なメッセージが届いた。
一緒に応援してないだろ、と思いながらも『行きます。バイト早番なので集合時間には間に合うと思います。』と返信した。
自分は高校を卒業し、独り暮らしをしながら、ずっと飲食店でバイトをしている。四年間も務めていると、バイト内でも自然と上の立場になり、後輩の指導などの仕事が増える。・・・つまり結果として、予定より一時間遅れて飲み会に参加することになった。
横浜駅で降りて、見栄っ張りな尾田らしい少し気取った感じのお店に入る。
「【山那恵美応援の会】で予約した者の連れです」
予約でその名前を使うなよ、と突っ込みたい気持ちでいっぱいになりながら、店員に伝える。「ああ、お連れ様ですねご案内します」と奥の座席に案内された。
途中、自分と同じ年齢ぐらいに見える店員に「山那恵美さん突然いなくなってびっくりですよね。特にデビューシングルのあなただけが大好きで、よく聞いていただけにちょっとショックです」と言われ、「そうですね、僕も突然の事で驚きを隠しきれないです」と
返した。
【山那恵美応援の会】の座席は、既に賑わっており、襖を開けて中に入ると、大きなハゲ、金髪のイケメン、眼鏡をかけたヒョロっとしたおじさん、おっぱいの大きなお姉さんといった、微妙に濃いメンバーたちが出迎えた。
さすがに、昨日の今日では、そこまで人が集まらなかったらしい。「遅くなってすいません」と謝り、案内してくれた店員に「生を一つ」と注文する。着てきたコートをハンガーにかけ、マフラーを外して座敷に座る。
「井岡クンお久しぶり。いやぁ、えみりんの失踪は突然の事だったね。インディーズの頃からえみりんを応援していた井岡クンも、かなりショックだったでしょ」
と、一番に声をかけてきたのは、大きなハゲ、いや、三十代後半にして前髪が後退し始めている、中年太りした尾田だった。
「ご無沙汰しています、尾田さん。この前、バイト終わりに新聞の号外を読んで驚きました。全くそんな気配なかったですからね。まさに青天の霹靂でした」
「やだなぁ井岡クン、僕と君の仲じゃないか。敬語なんて堅苦しい言葉使わず、もっとフラットにおいでよ」
と尾田が言う。どんな仲だよ、と内心で毒づきつつ、
「いや、そうは言っても、年上の先輩なのでなかなかタメ語というのは難しいですよ」
と返す。尾田は、「そうかそうか、俺、先輩だもんな」とまんざらでもない顔をする。
とりあえず持ち上げておけば機嫌を損ねないので、わかりやすい男だ、というのが尾田の印象だ。
「翔弥っち久しぶりー。元気だった?相変わらず翔弥っちのトコはブラックだねー」
と笑う金髪イケメンは、自分と同い年である須藤涼真だ。彼は専門学校には行かず、先輩が経営する美容室で働きながら、独学で美容師を目指し、勉強している。
来年には絶対に資格取る、と息巻いているので、その時はぜひカットしてくれ、と予約している。
その度に、初めてのお客さんは恵美ちゃんがいいなぁ、と言うので、もっと腕のいい美容師さんがやってくれているよ、と言うとくやしがって、絶対いつか恵美ちゃんのスタイリングしてやる、と夢を語っていた。
「人手が足りなくて、どんどん新人の子が入るから、ずっとその育成。その代わり、給料も少しだけど上がったから、ありがたく思ってるけどね」
「そっか後輩の育成かー。俺もさ、四年今のとこで働いているけど、後から入ってきた人たちに免許持っているから、って理由でどんどん仕事とられちゃってさー。まあ、それでも雇ってくれている先輩には感謝しているし、中には俺と話したい、って言ってくれるお客さんがいるおかげで、どうにか頑張ろうって思えるよ」
「立派だな、涼真は」
と茶化したように言うと
「いやあ、好き好んでブラック企業で社畜している翔弥っちには負けるよー」
と軽くいなされた。
「私も、髪切りに行くときは、涼真君のところに行くわよ。なにより、涼真君の先輩の菅谷さんが凄くイケメンな上に、技術も凄いからもう完璧なの。正直、恵美ちゃんがスタイリング頼むのなら、菅谷さんじゃない?」
と言うのは、この時期に寒くないのか、と心配になるほど、胸元がセクシーに開いたシャツを着た、いかにも年上のお姉さん。といった雰囲気のある、吉野美夜さんだ。
彼女は普段、ネイリストの仕事をしていて、最近自分の店を立ち上げたらしく、よく色んなモデルや女優の方々が、雑誌に紹介してくれていて、大人気らしい。
「くそー。悔しいけど先輩ならしょうがないって思うような、でも恵美ちゃんのスタイリングだけは譲りたくないような」
と涼真が本気で悩んでいるところに、ヒョロとした細田英吉さんが、眼鏡をクイッとしながら、
「僕だったら、シャンプーだけでも泣いて喜ぶけどね。女の子の髪って、命っていうだろう?えーみんの髪の毛に触れるなんて、それだけで奇跡じゃないか!」
と力説する。美夜さんが「英吉君やばいよ、それはひくわ」と本気で引いた目をして、涼真には「いつも思うけど、えーみんってネーミングセンスはどうかと思うっすよ」と茶化される。
「さて、メンバーもそろったことだし、本題であるえみりん失踪事件について、議論を交わそうと思うんだが、よいかな?」
と尾田が切り出し、それぞれが「うーっす」やら「はぁーい」やら「もちろんです」と答える。自分も、黙ったまま頷首いた。
バイト終わりでのどが渇いていたので、届いた生を一気に飲み干す。ほのかに胃の腑が温かくなるのを感じ、新たに生を頼む。注文の声に、私も生!と言う美夜さんの声が続く。
「それで、改めてボクの見解を話そうかな。皆知っていると思うけど、えみりんは元々歌を歌うのが好きで、それをもっとたくさんの人に聞いてもらいたいからデビューした。というのは有名な話だよね」
それは、どの雑誌にも恵美さんがインタビューで話して載っていたことだし、恵美さん自身が、初めて自分と会った時に言っていたので、まごうことなき事実だ。
「うん、みんな大丈夫みたいだね。流石は【山那恵美応援の会】のメンバーだ」
「義治さん、常識よそれ。流石に心外」
と、美夜さんが口をとがらせる。ちなみに義治とは尾田の名前である。
「ごめんごめん美夜クン。あまりに当り前なことを聞くのは、逆に失礼だったね」
「美夜クンって呼ばれるのも私的にしっくりこないけど、まあそこが義治さんって感じよね」
「ふむ。ありがとう。それでだ。えみりんは、自分の歌をもっとたくさんの人に聞いてもらいたくて芸能界入りした。それなのに、最近は女優業ばかり回ってきて、本当にやりたい音楽活動が全くできなくなっていたから、それに嫌気がさしたんじゃないかな?元々、路上でライブしていた時も、金銭を集めようとは思ってなかったみたいだし」
と私見を述べた尾田に対し、届いた生と焼き鳥を、口に運びながら美夜が語る。
「それはそうだけど、女優業も嫌で始めたわけじゃないんでしょ?彼女のブログには映画の主演に選ばれて嬉しい、って書いてあったし。それに、女優として顔が広がれば、それだけ沢山の人が自分の音楽を聴いてくれるきっかけが増えるわけだし、そんな重く考えてなかったんじゃない?」
「映画の主演と言えば、一時期えーみんと共演した、俳優の池田晃とのデート写真が、雑誌に載っていましたな。それが関係していたりするのですかな」
「それは違うんじゃないっすか?それに関しては、両事務所とも事実を否定しているわけだし、きっと、何か違うことがあったんじゃないかと思うっすよ。もしかしたら、何か事件に巻き込まれていたりして。ほら、五・六年ぐらい前だったか、神奈川のどこかで高校一年生の女子が誘拐された事件があったじゃないっすか。急に報道されなくなったから、結局あの犯人が捕まったのかも、女の子が見つかったのかもわからないですし」
日本酒を嗜みながら語る細田さんに対し、涼真が反証する。美夜さんが「さすがに、誘拐事件はないでしょー」と笑い、「そうっすよね」と涼真も笑う。
「なるほど。確かにどの案も可能性はあるかもしれないね。ちなみに、井岡クンはどうだい?」
「そうですね。逆に言ってしまうと、どれも可能性のある、としか。現段階では情報が少なくて、予想がつきませんね。もう少しして、新しい情報がはいればいいんですけど」
と答えると皆「まあ、確かにそうなんだよね」と答えた。
その後は特に、失踪に関しての話は出ず、それぞれの近況や恵美について語るだけの会になった。
飲み放題の時間が終わり、それぞれが料金を払って店を出ると、その時点で、解散になった。
ホームはかなり冷え込んでいたので、逃げるように電車に乗り込む。仕事帰りのサラリーマンで電車は混んでいて、湿気で窓ガラスが真っ白に曇り、ぎゅうぎゅうの電車に揺られる。
ふと、スマートフォンを取り出してある人とのトーク画面を開く。『たすけて』とだけ送られてきたメッセージに『どうしたんですか』と返信している。『私を助けて。私が初めて作った曲。そこに書かれたところで待ってる』と返信が来て以降、自分からのメッセージには一切既読はつかず、電話の呼び出しにも応じなかった。メッセージが送られてきたのは、号外が配られた前日。
その画面の名前の欄には、【恵美】と表示されていた。