平凡な一家
初夏から初秋にかけての北海道は人気の旅行先ですが、冬から春先まではクリスマスや雪祭りの時期を除いて、特に観光客が多いわけではないようです。寒過ぎるからです。
一人で二泊しても4万円という新聞広告に惹かれ、4月中旬の函館は湯の川温泉を訪れたのも、この時期を逃しては損、という所帯じみた感覚からでした。
夕食会場は予想した通り、定年後の夫婦が大部分で、とても雑誌に載るような女性の洒落た一人旅を演出してはくれませんでした。
どの初老夫婦も互いに遠慮のない様子で、五稜郭の桜はまだまだ先だの、函館山の坂を歩いて腰が痛いのと、自由に語らっています。特に男性はお酒に顔を赤らめて、宴会係の女の子に嬉しそうに話しかけ、奥さんにたしなめられて、それでも満足そうです。
それらの笑顔は他人には分からない、もしかすると伴侶にさえも分からない数十年の苦労へのご褒美なのでしょうが、未だ良縁に恵まれず三十路を迎えてしまった私の胸中には、羨望と焦燥が頭をもたげます。日頃の煩いから逃れて癒されたいという望みは、結局日頃の煩いに追いつかれてしまいました。
ところがほかにももう一組、お一人様の泊り客がいたようです。60歳台とおぼしきその男性は私と一つ隔てたテーブル席で、上機嫌に徳利を傾けていました。
話しかけられたら嫌だな、と思っていましたが、そこは先方も相手を選ぶようで、一人旅の冴えない30女より、笑顔で話を合わせてくれる二十歳前後の宴会係の子と話した方が楽しいに決まっています。自席に長く足止めさせて、一方的に機嫌良く話をしていました。
敢えて自分を棚に上げて言えば、この年代の男性の一人旅は珍しいと思います。単に独身で過ごしている人かも知れませんが、お酒で緩んだ笑顔の向こうに過去の事情が透けて見える気もします。
そうです。まじめに働き誠実に暮らしていても、添い遂げることさえできない夫婦もいるのです。病院勤めを続ける中で、そうした例に私は少なからず接して来ました。ある意味で賭けのような結婚になど憧れる必要はない、と自分を納得させるに十分なほどに。
その患者さんは私が未収金担当になる前から度重なる入院費の支払いが滞っている人でした。決してずるい人でも開き直った人でもありません。
内装の職人さんでした。自分の店を構えるような商売っ気はなく、頼まれれば下請けとして現場に出向き、実直な仕事をして日払いの報酬を得ていたようです。それでも健康に働けていたうちは共働きの妻のパート収入と合せて2人の娘を学校にやり、4人で慎ましく暮らしていました。
その吉倉幸八さんが肺癌と診断され最初の入院をしたのは、1年前の6月からの約2ヶ月でした。その後は化学療法のため1週間から2週間の入院を繰り返し、6回目の入院直前に私が未収金担当となり、この人の存在を知ったのでした。
入院費と支払い状況は次のようなものでした。
①平成24年6月11日から同年8月14日 322,210円 完済
②平成24年9月1日から同年9月24日 182,620円 4,620円が未収
③平成24年11月13日から同年11月22日 96,440円 全額未収
④平成24年12月14日から同年12月19日 88,090円 全額未収
⑤平成25年1月23日から同年2月7日 177,790円 全額未収
合計366,940円が未払いのまま、次の入院を控えていたのです。
さて、健康保険には高額療養費という、ありがたい制度があります。3割の自己負担額が平均的な所得の世帯で約8万円を超えると、支払い後にその超えた額が健康保険から支給されるのです。つまり3割負担額が20万円であれば、雑駁な計算で11万円強が健康保険から返ってくる仕組みです。
どうせあとから返ってくるなら、それを先に医療機関の支払いに充てるために、初めから自己負担額を約8万円で頭打ちにする制度が平成19年に施行されました。保険証のほかに限度額適用認定証という証を入院前に申請しておけば、患者さんは高額の支払いから解放され、医療機関も未収金の発生をかなり抑えることができます。
吉倉さんもこの制度を利用していましたが、私は前述した未収歴を見て、せっかくの制度の細部を応用し切れていないことに気づきました。
高額療養費制度は12ヶ月のうち自己負担額が約8万円を越える月が4回あれば、4回目からは『多数該当』と言って自己負担額が44,400円に減額されます。④の入院費はこの減額計算がされていません。私はまず④入院費のレセプト(健康保険への請求書)を返戻し、自己負担額を圧縮した上で再提出するよう請求担当者に指示しました。これにより④の未収を43,690円減らすことができました。
また、自己負担額は一ヶ月間の医療費ではなく、あくまで歴月ごとの医療費に適用されます。したがって⑤のように月をまたいでしまうと、それぞれの月に自己負担額が発生します。現に月をまたいだ事実は変えられませんが、④と同様、レセプトを返戻することにより、1月と2月の自己負担額をそれぞれ44,400円に圧縮し、177,790円の未収を88,800円に修正しました。
この二つの工夫により、総額366,940円の未収を234,260円に減額することができました。
さらに間近に迫っていた次の入院予定がこの月の下旬だったため、主治医に相談し、治療に影響のないことを確認した上で、翌月の月初に延期してもらいました。月をまたぐことを避けるためです。
無慈悲なようですが、治療効果に事実上変わりがないのであれば、それも止むを得ない選択でした。大学病院も昔とは違います。製薬会社などの露骨な寄付には社会から厳しい目が向けられるようになり、折からの不景気で一般企業さながらに科ごとの診療成績、すなわち収入が重視されるようになっています。医師も自分たちの仕事が病院の収入に結びつかないことには不満を口にするほどコスト意識が高くなっています。また、そうでなければ勤務医は務まりません。
入院日の延期を伝える電話が、その後も続く私と吉倉さんとの会話の始まりでした。普通の人だよ、と入院受付の担当者から聞いてはいましたが、どんな人だか分からずに接触して、いきなり未払い金の話をしなくてはならないのですから、どうしたって気持ちが構えてしまいます。未収を通して生まれる人間関係というのも因果なものです。
延期の理由は率直に説明しました。少々の抵抗には抗弁できるよう理論武装して臨みましたが、案に相違して吉倉さんは、
「そうですか。そのような方法があるのなら、もっと早く教えていただきたかったぐらいです。でも、これまでの入院費も少なくしていただいて助かりました。ご配慮、ありがとうございます」
と言って、却って感謝されました。実直な人柄の人でほっとしましたが、それだけに心苦しい気もしました。
入院日を迎え、吉倉さんと初対面しました。53歳の小柄で穏やかな男性で、見た目には癌治療の痛々しさは感じられない、落ち着いて礼節をわきまえた人でした。
「はじめまして、水野と申します。先日は不躾な電話を差し上げ、大変失礼いたしました」
「とんでもない。私も人からお金をいただいて暮らしている身ですから、仕事でお金の話をしなければならない方のお立場も想像できるつもりです。そもそもご迷惑をおかけしているのはこちらですから、申し訳なく思っています」
「恐れ入ります。早速で恐縮なのですが、今日はいくらかご用意いただけましたか?」
「毎月のお約束の3万円は用意して来ました。お支払いが追いつかなくて申し訳ありませんが…」
「いえ、お約束の支払いを続けていただいていることは確認しておりますので、そのことはありがたく思っています。その上でお聞きしますが、月々の入金額をもう少し多めにしていただくことはできませんでしょうか?」
財布から3万円を取り出す動きが困惑げに鈍りました。
「すみません。仕事が思うようにできなくなってからは、生活を切り詰めながら子供の学費を出すのが精一杯で、正直なところ、これ以上は…」
「そうですか。失礼ですが、月々の収入はどのぐらいになりますか?」
「仕事を回してもらえるときは15万円ぐらいになりますが、情けない話、少ないときは10万円以下です。家内のパート収入と合わせて、だいたい20万円から25万円ほどです」
「お子さんはお二人とも学生さんですか?」
「いえ、上の娘は昨年大学を卒業したのですが、正規の職に就けなかったので、今はアルバイトをしながら就職活動をしています。下の娘は昨年大学に入ったばかりです。悪いときに病気になってしまいました」
家族で支え合って暮らしている様子が目に浮かびました。吉倉さんは口にはしませんでしたが、下の娘さんの大学卒業までの学費を支払い切れるか、心にかかっていたに違いありません。
「退院したらすぐに生命保険の入院給付金の手続きもします。少ない金額で申し訳ありませんが、これからもお世話になるのですから、お約束の支払いだけは今後も続けます。」
そう殊勝に約束して、病棟に向かいました。
退院ごとに診断書を申し込んでいたことは知っていました。一日数千円の入院給付金を受けて、医療費や各種の支払いの足しにしながら、かろうじて生活しているのだと思います。
ここまでを上司の東氏に報告すると、東氏はこう言い放ちました。
「このあとも何度か入退院して、最後に生命保険が下りるのを待つしかないだろうな」
言わんとする意味は明らかです。そう考えたのは私も同じでした。思って言わないのと思って言うのとは、良心の問題としては、さほどの隔たりはないのかも知れません。
でも悪意ある思いは空気に触れると有害反応を起こします。このあと東氏が、
「♪お金がないってぇ~、惨めなものねぇ~」
と昔の歌謡曲の替え歌(天地真理の「ひとりじゃないの」)で続けたのを聞き、やはり、ことばとは毒を吐くのと同じことだと思いました。
ただ残念なことに、このあとの展開は東氏の替え歌の通りになっていきました。
吉倉さんはその後も短い間隔で入退院を繰り返し、月々44,400円の入院費を積み重ねました。
一方、月々の入金額は2万円、1万円と次第に少なくなってきました。病気で体力も技術も落ちて来たのか、
「最近は仕事も回してもらえなくなって、これだけしか用意できませんでした。親戚からもお金を借りて、家賃だけは何とか払っている状態です」
と気力と誠意だけは失わずに窓口で話していました。用意できる金額は減っても、一度も督促の電話をさせない人でした。
だから、そんな吉倉さんを助けると思って助言したつもりでした。
「改めてお訊きしますが、生活保護を申請されるおつもりはありませんか?」
と。
生活保護の受給は以前にも勧めたことがありました。保護費しか収入がなくなりますから、貯まった未収金の解決は遠ざかりますが、生活保護を受ければ医療費は全額公費給付されるので、新たな未収の発生は抑えられます。
以前に申請を勧めた際には、
「あと一回か二回の入院で化学療法は終わりだと聞いているので、迷惑をかけますが、このまま頑張りたいと思っています」
「古いマンションですが、家賃が生活保護の基準額を越えるので、退去しなければならないと聞きました。仕事道具の置き場でもあるので、また働けるようになったときに困ります。働けさえすれば、医療費は必ずお返しします」
「生活保護を受けるためには、なまじ収入がある長女と世帯を分けなくてはならなくなります。下の娘も大学を続けられなくなります。せめて大学だけは出してやらないと…」
と言って、申請を拒んでいました。快復を信じ、その希望と意思だけで自分を支えている様子でした。確かに生活保護を受ければ、今の暮らしを続けることはできません。拒まれれば、強いては勧められませんでした。
でも入退院を繰り返す癌患者に快復の例がどれほどあるか、門前の小僧である私にも分かっていました。あるとき主治医に尋ねてみました。
「吉倉さんが社会復帰できる可能性はどの程度あるのですか?」
医師の仕事の効果に疑いをはさむような言い方はさすがに憚られますが、もちろん真意は通じていたでしょう。まだ若い女性の主治医はこう答えました。
「化学療法は全クール終えたので、今後は放射線治療を始める方針です。未収が増えないよう配慮しますが、再入院が必要になる可能性は十分ありますね」
こうしたことから、当面は仕事を休んで治療に専念するために、就業再開への前向きなステップとして生活保護を再度提案したのでした。
気丈にしているようでも心は弱っていたのでしょう。吉倉さんは一瞬硬い表情をしたあと、「それも考えてみます」と答えました。
病気に苦しみ、家族との別離の予感に苦しみ、医療費の支払いにさえ苦しみながら、その苦しみに追い打ちをかける私にお礼を言って、吉倉さんは8回目の入院を終えました。
その後、祝日と合わせて三連休を取っていた間の報せが休み明けにもたらされました。吉倉さんの緊急入院、そして死亡です。
お金の話をするだけの間柄でしたが、それだけに踏み込んだ話をしてきた相手でもあります。顔を合わせてことばを交わした人がもう世にないと聞かされれば、いかに職業とは言え一種の喪失感が去来します。
とは言えやはり職業です。残った未収をどうするか。すぐにその思いに立ち返りました。
入院患者が死亡退院すれば当然入院費が発生しますが、ご遺族の心情も考え、一週間弱、つまり葬儀を終えて一段落つく頃までは入院費の連絡は控えます。
吉倉さんの場合、入院費だけでなく、長きに渡る通院での抗癌剤投与や放射線治療の費用もかさんでいましたので、合算した未払い額は100万円に迫っていましたが、死亡保険金が下りれば問題なく支払いできると思っていました。
5日が経ち、そろそろ医療費の通知を郵送しようと思っていたとき、吉倉さんの奥さん、吉倉知子さんが窓口に見えました。知子さんは吉倉さんとの支払い相談に何度か同席していましたので、すでに十分面識がありました。吉倉さんと似て、温和で正直な人でした。
ところが保険金の手続きに必要な診断書の申し込みに来たのだろう、という予想は意外な形で覆されました。
「長い間、先生方や看護師さんたちにはお世話になりました。事務のみなさんにもご迷惑をおかけして申し訳ないと主人も繰り返し申しておりました。いつまでもわがままを通していてはこれ以上ご迷惑をかけると思い、前回の退院後に福祉事務所に行って、生活保護の相談を始めた矢先だったのですが、生活保護を受けるには加入していた生命保険が障りとなると言われて解約したばかりでした」
頬を張られた気がしました。
こんなときのために備えておいた保険を、快復に賭けて当座の生活費と医療費のために解約したのですから、さぞや苦渋の判断だったと思います。
そしてその決断は…、裏目に出ました。
永久の別れは避けられなかったにせよ、あと少し待っていれば家族に残してやれるはずだった死亡保険金が、肝心なときに手からすり抜けていったのです。さぞかし無念だったに違いありません。
「娘二人と世帯を分けて、私たち夫婦だけが受給する方向で、ケースワーカーの宮岡さんにも話を進めていただいておりました。私も体調が勝れなくて、働けるようになるまでは福祉のお世話になろうと考えています。ですので、重ね重ねご迷惑をかけますが、当分は月々一万円ずつの返済にさせていただけないでしょうか」
宮岡さんも勧めていたのか…。
浅ましくも胸をなでおろした私は、向こう何年も要する支払い計画を了承し、知子さんを見送るべく腰を上げました。罪の意識から動揺していた私は、背中を返して帰りかけた知子さんの姿が視界の下端から消えたことに、その瞬間気づきませんでした。
騒然となった窓口にインフォメーションからも職員が駆けつけ、知子さんは私たちの介助のもとで内科外来に運ばれ、そのまま入院しました。長い看病の疲れが出たのだろうと誰もが思っていましたが、診断はなんと末期の子宮頚癌。体調の変化は自覚していたそうですが、夫の闘病に付き添った心身の疲れと本人も思っていたそうです。
知子さんの入院中に吉倉さんの最後の入院について、生活保護の医療要否意見書が届きました。医療扶助の必要性を医療機関に問う書類です。生活保護が開始されたことを意味します。これによって吉倉さんの最後の入院費と知子さんの入院費は全額公費支給されるため、患者さんへの請求はなくなります。吉倉さんのせめてもの置き土産だったと言えます。
一ヶ月ほど入院したのち、知子さんは自宅近くの市立病院に転院していきました。
なお、生活保護を受給する際、福祉事務所の助言で未収医療費を債務整理する場合がありますが、実直な吉倉さんはその提案を断ったそうです。これまで世話になり、これからも治療を続けるつもりだった吉倉さんには、そのような不義理な真似はできなかったのでしょう。
それだけに残った未収金の請求は立場上続けなくてはならなくなります。
幸い、吉倉知子さん名義での月々一万円の振り込みは途切れませんでしたので、督促をする必要はありませんでした。
数ヶ月後、たまたま吉倉さん夫婦について東氏と話をしていたときでした。
「生活保護の話、もう少しだけ我慢して上げていれば良かったと今でも思いますね」
「しかたないよ。あれからすぐに亡くなるなんて、医者だって本人だって分からなかったんだから」
「でもせめて生命保険金が下りていれば、借金も返せて生活だって楽になったでしょうし…」
「気にすることないよ。払うものを払わない奴が悪いんだから」
こんな何の慰めにもならない会話をしていたとき、入院受付の職員から「吉倉さんの娘さんがいらしてます」と告げられたのです。
吉倉さんの次女、理沙さんはおとなしそうなお嬢さんでしたが、
「父がお世話になった病院の皆さまにきちんとご挨拶をしていなかったので、代わりにお礼を言ってくるよう、母から言い付かって参りました」
と礼儀正しく口上を述べました。さすがは吉倉さんの娘、と感服しました。
でも運の悪い人はいるものです。普段は窓口になど姿を見せない東氏が吉倉さんの娘、というより若い娘と聞いて興味をそそられたのか、窓口に顔をのぞかせたのです。そして大きなだみ声で理沙さんに話しかけました。
「いやぁ、わざわざ痛み入ります。お父さんは本当にお気の毒なことをしました」
私でさえ面喰ったのですから、理沙さんがびっくり眼で身を固くしたのも無理はありません。緊張を解く間を与えず、東氏は続けました。
「しっかりしたお嬢さんですなぁ。大学生とお聞きしていますが、おいくつになられますか?」
「は、はい、二十歳です」
すっかり気をのまれた理沙さんはそう答えてしまいました。東氏の濁った目がどろりと光った、かどうかは分かりません。
「そうですか、もう二十歳になりますか。ところでお父さんにはまだ支払いを済ませていただいてない医療費があるのですが、お母さんからお聞き及びですかな?」
「い、いえ、聞いていませんでした」
「そうですか、お嬢さんに心配をかけさせまいとなさったのでしょうな。いや、それが親心というものです。実はですね、入院と通院を合わせて、…ええと、いくらだっけ?」
突然振り向いて私に尋ねました。答えないわけにはいきません。
「…、890,720円です」
「そんなに…」
理沙さんは絶句しました。
「お父さんも納得された上で治療をお受けになったわけですし、患者さんの負担もできるだけ小さくなるよう手続きした結果残った金額ですからね。こちらとしてもお支払いいただくべき正当な医療費だと考えているわけですよ」
「は、はい」
「それでですね、本来はお母さんが転院される前に書いていただくべき書類だったのですが、お嬢さんももう成人されているのであれば、代わりにご記載願えませんか」
そう言って、支払い誓約書の用紙を理沙さんの目の前に差し出しました。
いくらしっかりしていても所詮は二十歳の女の子です。60を過ぎたおじさんに正面から正論を言われては、いなす術など持ち合わせてはいません。相続放棄などという知識はなかったでしょうし、教えてくれる人もいなかったでしょう。せめて「母に相談してから」と答える機転があれば良かったのですが、頭の中はいっぱいいっぱいだったに違いありません。
「はい、それじゃあ、そこに金額を書いて、はい、その下にお名前を書いて…」
もはや言いなりです。
ああ、署名しちゃだめ…。
心の声を職業人の自分の手が塞ぎました。
二十歳の娘があっという間に債務者本人に転落した瞬間です。支払い誓約書に署名したと聞かされては、知子さんもさすがに嘆いたことでしょう。死んでも死にきれない思いがしたに違いありません。
重荷を背負って帰った理沙さんに、私はかけることばもありませんでした。
「水野さんが落ち込んでいたからさ、わしもたまには力になってやろうと思ってね。どうだ、これで取り戻してやっただろう」
泣き笑いでお礼を言うしかありませんでした。
ああ、この一家に何の落ち度があったと言うのでしょう。
平凡な幸せ、というものがあるのなら、吉倉さん一家を襲ったのはいわば平凡な不幸。マスコミが飛びつくような華々しい悲劇ではありません。でも平凡だからこそ、誰にでも起こり得ることです。
家族というものが楽しいことばかりでないのは分かります。それでも吉倉さん夫妻が出会い結ばれた頃、自分たちの将来にこのような結末が待っていようとは、どうして想像できたでしょう。家庭を持つとは、何と厳しい可能性を孕んだものなのでしょう。
崩壊寸前の吉倉さん一家をつついて崩した私には励ます資格もありませんが、二人の娘さんが、両親の美徳を仇と感じるような日だけは来ないよう願わずにいられませんでした。