4年生のとき
私が小学生になる前に通っていた保育園は、保育園にしても狭いところだった。鬼ごっこができるほど大きな庭はなく、皆数少ない遊具をうまく使って遊んでいた。
敷地の狭さに比例してか、今思うと通っていた園児の人数も少なかったのではないかと思う。そしてその分、子供やその親同士の距離が近かった。
その中でも特に私と仲の良かったのが、西梨々香、杉原紗菜、金崎広樹の3人だ。入園したのが同じ4歳の時で、私たちの小学生時代を通じて母親たちも交流を続けていた。
もちろん、その頃には何も問題なんてなかった。事が少しずつ動き出したのは、私たちが小学校に入って4回目の秋を迎えた頃だ。
***
チャイムが鳴った。
4時間目の授業で、科目は算数。教科書とノートだけ準備した私は、気を抜いて窓から見えるグラウンドなんかを見ていた。4年生の教室は一番上の階にあるので、見晴らしがいい。
「じゃあ宿題の答え合わせからね~」
しかし、担任の先生がそう言った瞬間、私は慌てて視線を前に戻した。
まずい。完全に忘れていた。30問くらいの計算問題が印刷された──しかし私の解答は書かれていない──プリントを焦りながら机から取り出した私は……
「はいまず(1)、分かる人~」
クラスの皆が手を挙げるのを感じながら、顔を伏せた。後から振り返ると信じられないことだけれど、こういう時、この年代の子供たちはだいたい真面目に挙手をする。
しかし私は指名されても答えられないので、腕を下げたままだ。
「3です」
「いいでーす」
なんとか担任と視線をぶつけないように……そして目を逸らしていると思われないように、身動ぎする。
「3.14です」
「いいでーす」
私は小心者なので、自分から「忘れました」などと言い出すことはできない。内心ビクビクしながら、クラスメイトの答えを聞いている。
そんな風に10問ほどやり過ごした時、私はやっと「だれかが指される直前に手を挙げる」という方法を思い付き、
「じゃあ(12)は……」
と先生が言った瞬間に挙手した。
「佐藤さん」
そして当てられた。
「え、あ……」
まさかこんなに不都合な偶然があると思っていなかった私は思いっきり動揺し、言葉を詰まらせた。
「……えっと、……」
一瞬毎に室内の空気が歪んでいく。何人かの生徒は不審そうにこちらを見やる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう……!
何も言えず、あと数秒で泣き出してしまいそう、というところで──
──スッ。
すぐ右の席から、ちゃんと解の記されたプリントが差し出された。ご丁寧に当該の問題にぐるぐると鉛筆で丸がつけられている。
「9.42、です」
「……いいでーす」
「はい次、(13)は……」
ふぅぅぅ、と、安堵のため息を吐いた。
なんとかやり過ごすことができた。
隣を見ると、救世主の少年も私の方を見ていた。
──危なかったね。
ニコッと笑いながらそう囁くと、広樹は堂々と手を挙げた。
私は何故か──当時の私には何故かわからなかった──彼に「ありがとう」と言うことができなかった。
***
保育園から小学校にあがり、新たな友人関係ができてくると、私たち4人はやや疎遠になった。けれど、梨々香とも紗菜とも、昼休みなんかに一緒に遊ぶことはよくあったし、母親たちは連絡を取り続けていたようだから、やはり私たちは仲良しの友達だった。
ただ、4人の中で唯一男の子だった広樹とは、休み時間に遊ぶといったこともあまりなかった。とはいえ、私は小1、小2、小4と、彼と同じクラスになることが多かったので、少なくとも男子の中では広樹が一番仲の良い友達のままだった。それに彼は、小学生男子にありがちな「異性と喋っているとからかわれる」といった現象を全く意に介さなかったので、私も気を遣うことなく、女友達と同じように接することができた。
──その頃までは。
***
「じゃ、さっきのプリント出して」
「……えっ?」
給食と掃除の時間を経て、昼休み。その始まりを告げる鐘を聞くやいなや、広樹は私にそんなことを言ってきた。
「……なんで?」
「だって、やってなかったでしょ? 宿題は家でやってくるから宿題なんだぞ」
なんだか生真面目そうなことを言っているけれど、ちょっとおかしい。
「ここ、家じゃなくて学校じゃん」
「あ、そっか。でもやんないままはダメ。今やっちゃおう」
「えー……」
私としてはもうあの宿題のことは忘れたいのに、ほら難しくないから、などと急かす広樹は退く気配がない。
仕方なく私は問題に取りかかる……と、ものの数分で30問を解き終えてしまった。これならさっき、落ち着いて自分で答えを出せたのではないだろうか。
「よし答え合わせしよう」
隣の席に座ったまま私が解き終わるのを待っていた広樹は、赤ペンを取り出して丸をつけていく。
その手が、12問目で止まった。
「あれ、ここオレが見せてあげたところじゃん。なんでここだけ間違えてんの?」
「あ、ほんとだ……ごめん」
「別にいいけどさー……よし、終わり!」
最後まで丸つけをしたところで、
「広樹ー!」
と呼ぶ声がした。教室の、後ろの扉からだ。
「なにやってんだよ早く来いよ!」
「わかった!」
どうやら外で遊ぶことになっていたらしい広樹は、催促する男子生徒に大声で返事をすると、勢いよく立ち上がった。
「あ、待って広樹」
その腕を、私は咄嗟に掴んだ。
「うおい、なんだよ日和」
彼は少しバランスを崩しながら振り向く。
「あの、ありがと、宿題」
「おー」
広樹は教室を駆け出していった。
(そういえば広樹って真面目……っていうか、馬鹿正直なところ、あったな)
私は見晴らしのいい景色を見下ろした。
さっきの男子生徒と一緒に、広樹がグラウンドを駆け抜けていた。
***
私たちの友情を長続きさせていた、より直接的な要因がある。私たちはそれを「マック会」と呼んでいた。
要は私たち4人とその母親がハンバーガーショップに集まって、お喋りをしながらバーガーを食べるという催しだ。だいたい1~2ヶ月に一度、夕食時に開かれ、子供組は「プレイランド」という……まあ、遊具みたいなもののあるスペースで遊びながらポテトをぱくついていた。その遊具というのがジャングルジム、というより秘密基地のようで、夜は子供客が少なく貸し切り状態で使えるため、私はたまのマック会にそこで遊ぶのを楽しみにしていた。
私が算数の宿題を忘れた数週間後のその日も定例のマック会が開催され、私と梨々香・紗菜・広樹は、いつものようにプレイランドでチキンナゲットを食べていた。そしていつものように梨々香が唐突に「もうけっこう食べたし遊ぼう!」と言い出した。
「広樹、DS買ったんでしょ? 通信しよ!」
梨々香はやや気の強い子で、何で遊ぶかを決めるのは、大抵彼女だった。
「いいよぉ~」
広樹がそれに快く応じると、梨々香はゲーム機を母親に預けているらしく、「取ってくる!」と言い、長い髪を揺らしながらプレイランドを出ていった。
「日和と紗菜、持ってないでしょ? オレたちだけゲームしてたら暇だろうから、後で交替するね!」
広樹はポケットからゲーム機を取り出しながら私たちにそう言った。
「うーん、でもやり方分かんないよ」
テンションの高い梨々香や広樹とは対照的に、紗菜は肩から体の前に垂らした三つ編みを弄りながら不満をこぼす。
「大丈夫だって、オレたち教えるし。梨々香、それでいいでしょ?」
「え、なにが?」
明るいピンクのDSを片手に戻ってきた梨々香に、広樹が説明する。彼女が頷いたのを見て、それならと紗菜も納得した。
「じゃ、最初はオレたちがやるの見ててね」
──広樹がそう言うとすぐに、私は彼の背中側に回り込んだ。
4人でプレイランドにいるのもいつも通り。梨々香が遊びを決定するのもいつも通り。でも、今日の私の心持ちは、今までとは違っていた。
この何週間かの間に、私は自分の広樹への印象が変わったことに気付いていた。彼と話しているのが不思議なほど楽しく感じられたし、あの笑顔を見ると心から嬉しくなった。
同時に、広樹の持つ私の印象も気になり始めた。彼も同じように、私と話していて楽しいと思ってくれているか、私の表情をどんな風に感じているのか……。
恥ずかしいことに、私がその想いに恋と名付けることになったのは、広樹の手が私の胸にほんの少しだけ触れた時だった。その頃、私は既にブラトップを身に付けるのが習慣になっていたくらいには……成長していた。けれど広樹はその時、表面上は少しも心の動きを見せなかった。だから彼の手が掠めた後、それについて広樹がどう思っただろうと想像し、そこで初めて、自分の女性性と、広樹の男性性を意識した。二人を「男女」だと捉えた時、私は自分が恋をしていることに気付いたのだった。
私は少しでも広樹の傍にいようと、彼の肩越しにゲーム画面を覗く。
「待って待って待って、広樹強いんだけど」
広樹はこのゲームが得意らしく、彼と向き合って座っている梨々香は焦った表情を浮しながら懸命に指を動かしている。その隣には、首を伸ばして通信対戦を見守っている紗菜がいる。
「ふふーんそうだろー」
広樹は余裕の笑みを浮かべて、梨々香の攻撃をいなす。
「これ、広樹が勝ってるの?」
私はゲームで遊ぶことがあまりないので、よく分からない。多分紗菜も分かっていないと思う。
「うん、ちょう勝ってる。いつも友達とやってるからなー……ふっ、とどめ」
「あー、負けた! 紗菜交替、日和を倒して!」
「え、これチーム戦なの、っていうか全然ルール分かんないんだけど……」
「今から教える! まず……」
向こうでは梨々香が紗菜に操作方法を伝授している。それを確認して、広樹も私にゲーム機を渡し、今度は広樹が私の背中側に来るような体勢になった。
「よし日和、まず動き方からな……」
広樹はゲーム機を持つ私の手を更にその上から持ち、一緒に指を動かしながら丁寧に教えてくれた……。
しかし私は密着する彼の体温のために集中できず、紗菜に惨敗した。それでも、紗菜は梨々香と手を打ち合わせて喜んでいたし、広樹も「妻と娘を、頼む……ガクッ」などと笑いながら倒れていたので、結果的には、皆満足できたと思う。
***
そんな風にして、私は自分の恋心を育てていった。
席替えによって席は離れてしまったけれど、広樹がクラスの男の子たちと楽しそうに騒いでいるのを見るのが好きだった。
もしかしたら、この頃に告白でもしていれば良かったのかもしれない。
しかし幼い私は何か私と彼の関係を変えるような行動をすることもなく、なんとなくいつかこの想いが叶うのではないかと考えていた。そしてそのまま、2年が経った。
変わらなかった関係が変わったのは、小学6年生の11月。私たちが開いた最後のマック会でのことだった。




