初めての演奏
手前には明るい茶色の羽織ものに、裾に赤のラインの入った白いスカートを着ているキリーヌが背中を向け、その奥に婆臭い口調の金髪三十代後半が全身を光に包まれながらベッドの上に浮いている。おれと同じく入院患者が着せられるような淡い水色のロープを着ていて、首と頭に濃い緑色のアクセサリーをつけている。
「さっそくだが、クライブにいっておくことがある」
いきなり名指しされたおれは後ずさってしまう。護衛であるキリーヌが警戒の姿勢を見せずに立っていることから警戒は必要ないと思うが、それでもおれにとっては正体不明の怪しい人物である。
「その前に、あんた何者だ?」
「王子!?」
銀髪を波打たせながらキリーヌがふり返る。見開かれた目には明らかな焦りがあった。
「……言葉遣いがなっておらんのう」
キリーヌがまたもふり返って、頭を垂れた。「申し訳ありません! 王子はただいま記憶を失くしておりまして」
背中を丸めるキリーヌは小刻みに震えていた。
そんなにおれはまずいことをしたのだろうか。このサウンソニード様とやらは王子であるクライブよりも身分が上で、ちょっとした粗相を見せると罰を下すような癇癪持ちなのだろうか。
言葉をつづけようとしたキリーヌを、目を閉じた三十代後半が手で制した。「よい。わらわは気にしておらぬ。それに時間がない」目を開いておれを見据えた。目に宿った強い意志が、顔をそらすことを許してくれない。「お主に課題を与える」
「課題……?」がくがくする口でなんとか言葉を発する。額に汗がじんわりと出てきた。
サウンソニードがつづける。人差し指を立てて、「一つ。これから毎日この部屋で音楽の練習をすること」中指も立て、「二つ。毎朝神殿に出向き、真剣に祈りをささげること」薬指も立てた。「三つ。ミルリアがこの国にやってきたら、この部屋で共に演奏すること」
……ミルリアってだれ?
聞こうと思ったけど、サウンソニードは口を動かすのを止めない。「それと……、キリーヌ、といったか?」
跪いたままのキリーヌが弾かれたように顔を上げる。「は、はいっ!」
サウンソニードが鋭い口調でいった。「お主の魔力の脆弱さではクライブの護衛としてあまりにも心許ない。もっと、精進するように」
キリーヌがぴくっとして、ゆっくりあごを引いた。「……承知いたしました」
それを見てむかっとした。眉間にしわができるのを感じる。魔力の高い低いは全然わからないけど、キリーヌは『楽器が弾きたい』というおれのわがままを怒られる可能性があるのに聞いてくれたし、サウンソニードの正体がわかるまで一生懸命おれを守ろうとしてくれた。出会ってから一日も経ってないけど、わけのわからない女に責められるのは見ていて気持ちのいいものではない。
おれの気持ちなど露知らず、サウンソニードが満足そうにうなずいた。すると、彼女をまとっていた光が弱くなってきた。
「もう時間か……」ため息交じりにつぶやいておれを見た。「よいかクライブ。課題を決して忘れるでないぞ。破ったら神罰を下すからな」
一方的に話しまくったサウンソニードが、すうっと音も立てずに消えた。光の粒子を残したりすることもなく、始めからそこになにもなかったかのように。
ベッドの上の魔石はサウンソニードが姿を消して少し経ってから、役目を終えたように輝きを失った。
もうベッドにはなにも異常がない。掛け布団とシーツがくしゃっとしていて、魔石が上に乗っているだけだ。そんなベッドを、おれとキリーヌはしばらく黙って見ていた。自分の呼吸音がよく聞こえ、呼吸の度に動く腹の動きがよくわかった。
「……なあキリーヌ、聞きたいことがあるんだけど」
「はい、なんなりと」
言葉を合図にしておれはベッドに腰かける。
キリーヌは倒れたイスを起こし、座面を手で払ってきれいにして華奢な体をゆっくりと預けた。
「まず、あの女は何者だ?」
「いまの方は音の神であるサウンソニード様です。あの女などといってはいけません。神罰が下ってしまいます」
じっと見つめてくるキリーヌから逃れるように、おれは目を覆った。「……神? ここには神がいるのか?」
キリーヌが穏やかにいう。「はい。スオーロテッラに限らず、どこの国にいても神々はいつも我々を見守ってくださっています」
……信心深いんだな、この世界。
キリーヌの眼差しやなめらかな口の動きからは嘘をついているように見えない。
「……そうか。いまの女の人も、神様なんだな? 音の神、だっけ」
「その通りです。サウンソニード様以外にも神々はたくさんいらっしゃいます。平和の神、水の神、武の神、美の神、挙げればきりがありません」
……八百万の神みたいにたくさんいると思ってればいいかな。
「ふうん」おれは顎を撫でた。「それで、サウンソニード……様の課題はこなさなきゃいけないのか? 神罰とかいわれても」
「当たり前ではありませんか!」キリーヌが身を乗り出した。おれが思わず身体をそらすと、キリーヌは立ち上がって熱弁を始めた。やっぱりイスが床を転がる。「神託を無視するなんてありえません! 神々の怒りに触れてしまえば命の保証がありませんよ! そもそも神託を受けるということは非常に栄誉あることで、誇るべきことです。そのような嫌な顔をなさらないでください」
身振り手振りを加えながら勢いよく言葉を並べるキリーヌに圧倒されたおれは、いつの間にか半開きになっていた口を小さく動かした。「……そうなのか。ごめん……」
はっとしたキリーヌが決まりの悪そうに弱々しくいった。「いえ、わたしの方こそ大声を出してしまい申し訳ありません」
小さく頭を下げたキリーヌがイスを起こして座った。
なおも気まずそうにちらちらとこっちを伺うするキリーヌに、おれは微笑みを作る。「それで、サウンソニード様から出された課題、神託は必ずこなさなきゃいけないんだな?」
キリーヌがほっと息を吐いた。「はい。必ずです」
キリーヌが言葉を切って考えるような表情になった。黙って待ってると、まっすぐな瞳で射貫いてきた。少しドキッとする。
「神託を授かったことは秘密にしておきましょう」
「……ホワイトレースにもか?」
キリーヌが首をふった。「ホワイトレースにはわたしから伝えておきます。秘密にするのは、それ以外のすべての方です」
「家族にも?」
クライブの父親である国王様が面会を求めていたはずだけど、そういった人たちにも秘密にしなくてはならないのだろうか。
それは冷たいな、と思ったけど、キリーヌは肯定を示した。「はい。いまはまだ伝えない方がいいと思います」
「……なんで? 家族だろ?」
「それは、そうなのですが……」
キリーヌが言葉を濁す。悲しげな表情から察するになにか事情があるに違いない。
「……わかったよ。黙っとく」
追及されないとわかったからか、キリーヌが大きく息を吐いてイスにもたれかかった。
気を抜いたところを、おれは悪いと思いながらも尋ねた。「ごめん、まだ聞きたいことがあるんだ」
キリーヌが姿勢を正す。頬が少し赤くなっていた。
「えっと、なんだっけ……」名前が思い出せない。「だれかがこの国にやってくるってサウンソニード様はいってたよな?」
「ミルリア様です。隣国の『ガッシュルヴォダ』の姫君で――」唇をいったん閉じ、また開いた。「王子に会うためにスオーロテッラにいらっしゃいます」
「……おれに会いに来るの?」
「はい。年が同じで音楽が好きな方だそうですよ。両国の親交を深めるためにも、ぜひ仲良くなってくださいね」
……音楽が好きなお姫様か。仲良くなれるといいな。無視してはならない神託があるから、いっしょに音を奏でるんでしょ? 楽しい会合になりそうだな。
お姫様との演奏を楽しいものにするためにも練習は必須だ。
「だったらルーテンライアーを練習しないとな。上手い方が好感を持たれるだろ?」
「リーテンライアーですよ」キリーヌがくすっと目尻にしわを作った。「……王子は本当に演奏が好きなんですね」
……顔に出てたかな? ちょっと恥ずかしい。
「さきほどはサウンソニード様がいらっしゃったので聴けませんでしたが、今度こそ演奏を聴きましょう」
おれがベッドの上の魔石を拾い、手に乗せる。右手を重ねてキリーヌに向けた。口角が自然と上がっていくのを止められない。
おれの手にキリーヌの手が重なる。心なしか、表情が硬くなっている。「いきますよ」
何度目かの魔力を流し込む作業。お腹辺りの熱が全身に広がって、手に移動する。手以外の場所がほんの少し冷えた。手はさらに温かくなって、じわじわとする感覚がある。
「もう大丈夫ですね」キリーヌがそっと手を離した。見上げたおれに微笑む。「そのまま持っていれば大丈夫ですよ」
ポケットサイズの魔石を包んだ手に目を落とす。指の隙間から光が漏れ出し、音が鳴り始めた。「おぉ……」と思わず声が出る。
右手を退けると、よりよく音が聞こえてきた。光を放ちながらメロディーを奏でる魔石。これを見ただけでも長い夢を見ている甲斐があるってものだ。
始めは快調な演奏を響かせていた魔石だったが、だんだんと音がくぐもってきた。
首をかしげてつぶやく。「……もしかして、魔力が足りなかったのか?」
「そうではありません。そういうものなのです」
キリーヌが説明してくれる。録音の魔石はどれほどいい音を録音したとしても、音がくぐもったりかすれたりしてしまうものらしい。いまおれが手にしているものが最高品質だそうだ。
「それは、困るなあ……」
「と、いわれましても……。いいものが開発されるまでは……」
……どうせ聞くならいい音で聞きたい。当たり前のようにいい音を聞ける環境で生きてきたけど、それって贅沢なことだったのかもしれない。
「ま、無理なもんは仕方ないか」
ないよりは全然いいんだ。楽しめないこともない。
聴いたことのない演奏が終わる。一番近いのはクラシックだろうか? ゆったりとした曲調で、リーテンライアー以外の楽器の音もいくつか聞こえる豊かな音が気に入った。
もう一度聞こうと魔石に魔力を流そうと試みる。体に力を入れ、手に力を入れてみるが、上手く魔力が流れない。さっきの感覚に体がならない。
助けを求めるように座っているキリーヌを見ると、「仕方ないですね」といいたげな顔をして手伝ってくれた。
体温が上がったところでキリーヌが手を離し、背もたれに体重をかける。じわっと手が温まって魔力が魔石に流れ込む。
ここまではさっきと同じだった。
いつまで経っても魔石が光らない。最初は一度演奏を聞いたから多めの魔力が必要なのかと思ったが、「おかしいですね」とキリーヌが声を上げたから違うのだろう。
キリーヌが膝に手を当てながら立って、おれの側に寄った。何気なしに手を近づける。わずかに触れたところでバチイッと火花が上がった。
「きゃっ!」
「なんだあ!?」
キリーヌが咄嗟に手を引っ込めて手を剣に添えた。異常が起こったときにキリーヌが取る癖なんだろう。なんとも騎士らしい。目力も強い。
「……大丈夫か?」
「……こちらの台詞なんですが……、王子は大丈夫そうですね」キリーヌは力を抜いて手と手をこすった。
「ああ、魔石から手が離れないぐらいで、特に問題はない」
火花が散った瞬間、当然のようにおれもそこから離れようと身をよじった。手もばっと動かして、普通ならそれで魔石は部屋のどこかに転がっていくはずだったけど、両手にぴったりとくっついてはなれなかった。いまも離そうとしているが、離れない。
キリーヌが眉間にしわを作る。「……問題、ないんですか?」
「たぶん。別に体が痛かったりするわけじゃないし」
いい終わると、魔石が光り出した。
手が離れるようになったのでそっとベッドに置く。
「まあ、なんもなかったね」
くぐもってしまっている演奏のなか、何度かうなずく。ふうっとため息をついたときだった。一瞬だけ金縛りにあった。目が見開き、顎が小さく揺れた。
すぐに体は動いた。
でも、おれの意志では動かない。勝手に動く。それに全身がぼんやりと光っている。
「えっ、なにこれ? キリーヌ、助けて。体が勝手に動く」
おれの全身が光ったせいだろう。目を丸くして固まっていたキリーヌが慌てたように声を出した。「勝手に、ですか? えっと、どうすれば……」
キリーヌが剣に手を当てて離してを、「えっと、えっと……」と繰り返す。間違いなく混乱していた。
その間もおれの体は動く。ベッド脇に置いてあったリーテンライアーを手に取る。膝を伸ばしてベッドに座り、木の枠を体の中心に置く。上半身がやや右に傾き、弦を覗き込むように視線が動いた。左手がくり貫かれた左側から弦に触れ、右手がそのまま弦に触れる。演奏に合わせて、指が弦を弾きだした。
弾いた弦から音が鳴り、光の粒子が宙に浮いていく。指先から蛍が舞い上がっていくかのようだ。鳴らす音は色豊かで、盛り上がるところでは力強く、静かに聞かせる場面ではしとしとと。音に合わせて指先から舞い上がる光も色を変える。まさに夢の世界だ。
人生で一番楽しい演奏だと胸を張っていえる。それも終わりに近づいてきた。終わってほしくない。この時間が永遠につづいたらいいのに……。
最後の音を奏でる。青色の光が浮かんでいく。自由に体が動かせるようになった。顔を上げると様々な色の光が部屋を埋め尽くしていた。
「すごい……」
その言葉しか出てこなかった。
「きれいです……」
胸の前でぎゅっと手を握っているキリーヌの瞳は潤んでいた。瞳がめまぐるしく色を変えていくのが、とても美しかった。
しばらく滞在していた光りが、ひとつひとつ消えていき、ついに最後の青い光も消えた。
「…………」
「…………」
「……すごかったな」
「……はい」
短く言葉を交わすと、おれたちは余韻に浸った。
頭のなかでは、まだ演奏が響いている。
遅くなりました。ごめんなさい。
明日は日付が変わるぐらいで更新したいと思っています。
柏床勝也からするとまだ夢を見ている状態。ほっぺたをつねって痛みが発生しても夢なんです。魔法や魔石なんて現代ではありえないですからね。