白の王女、追憶する
決意から一週間、王城内はとても大騒ぎになっていた。
なぜかと言えば聞くまでもなく、わたしが三年近く久し振りに、部屋から出て来たからである。
しかも、出て来てすぐ王の元へ、王妃としての勉強を始めたい、と何の前置きなく申し出たからだ。
王はと言えば、何の報せもなく突然、部屋を訪ねて来たわたしに驚いた様だが、さすがは王をやっているだけあり、大した困惑もなく、二言の返事で了承してくれた。
そして、その次の日には、帝王学や歴史、領地や貴族の特色などの未来の王妃として必要な知識と、マナーやダンスレッスンなどの令嬢としての基本レッスンが始まった。
正直、少し意外だった。
わたしは飾りの王妃を望まれていると思っていたから、まさか何の文句もなく、王妃としての知識を学ばせてくれるなんて、思っても見なかったのだ。
どうやら、王の一存だったそうで、わたしには王の真意など分からない。
だけど、学ばせてくれるならば、お言葉に甘えさせて貰おう、と心に決めた。
周囲の者達はやはり、あの部屋で大人しくしていてくれた方が、都合が良かったのだと思う。
その証拠に、周囲も業務的にしか声を掛けて来ることはない。むしろ、距離を置いている節があった。
この容姿が気味悪くて仕方がないのだろう。
わたしと目を合わせようとする者はほとんどいなかった。
それでも、挨拶や謝罪や感謝などを伝えるわたしに、ようやく普通に接してくれる人が、ちらほらと出て来始めたところである。
そんな生活が一週間、元より知っているのではないかと思われた程の速さで、手習いごとをマスターしてしまったわたしは庭園で一人、お茶を嗜んで考察していた。
考えている内容。それは、前世の自分について、だ。
わたしが何者なのか、今更になって疑問になったのである。
この世界の知識は勿論、帝王学や語学や数術などの勉学、マナーやダンスレッスン、姿勢の類、あれは実を言うと実際に知っていた。正確には、思い出したのである。
今までは出来ないと思っていたが、少し習っただけで頭の中に次の動作が浮かび、簡単に再現してしまえたのだ。
正直、自分でも驚いた。だって、あの瞬間で思い出したのは、令嬢としての振る舞い方だけではない。
帝王学や勉学の際は、向こうの世界の発展した科学技術まで思い出した。
食事やお茶会のマナーレッスン時、紅茶の淹れ方やありとあらゆる紅茶の種類。それに合うお菓子やその作り方。様々な料理の作り方も、それこそ料理や食事関連の物凄い量の知識を思い出し、記憶の引き出しの中にしまわれたのだ。
姿勢やダンスレッスンの時は、女性側と男性側、どちらの振る舞いも完璧だった。言葉遣いも同様だ。
それ関連の豆知識や注意、必要なのかと思える知識まで、わたしの記憶に整理してしまわれている。
どうやら、わたしはとても優秀な頭をしているらしい。
多分、一度覚えたものは勿論、見たものは忘れない。
我ながら、凄い記憶力である。
そして、前世のわたしは様々なことを知っている様だ。
こんな風に、庭園の花壇に咲く美しい花々を眺めるだけで、どんな名前の花で咲く時期や花言葉、種の形やどんな仲間がいて、どうやって咲かせるのかが、頭の中で浮かんでは記憶に収まって行く。
王城内を少し歩くだけで、次々と知識が蘇り収まって行く。
その感覚が面白くて、わたしは初めて、もっと思い出したい。もっと知りたいと思った。
同時に、知識では足りないと感じたのだ。
思い出したい。前世の自分自身や、自分の周りの世界、自分が大事に思って来たもの、その理由、前世の記憶を思い出したかった。
分かっている。思い出しても、空しいだけだ。
もう戻れない。どれだけ望んでも、わたしは死んだのだ。わたしの世界はここ。
どんなにここが地獄だとしても、わたしはここで生きるしかない。ここで、一人で強くなるしかない。
それでも、わたしは思い出したかった。
大事なことを忘れている気がして、大事なものを落としてしまった気がして、わたしは取り戻したくて仕方がないのだ。
でも、それはどんなに考えても不可能で、わたしは深くため息を零した。
もっといろんなものを見たり体験すれば、いつかは思い出せるかもしれない。
少なくとも、今の状態ではどんなに考えても、思い出せない気がして、わたしは考えることを放棄した。
そして、現状の手習いごとは順調だから良いとして、次は何をしようかと思考を切り替える。
正直、知識があっても実際に再現できるかは、まだ不安だった。
体力をあまり使わないことは、簡単に再現できると思う。手先は器用で何でもそつなくこなせるからな。
けれど、長時間は体力が持たないので無理だ。
となるとやはり、まずは体力作りを第一の目標にすべきだろう。
王に剣術の先生でも呼んで貰うのも良いが、独学、と言う手もありだ。まだ思い出せていないだけで、前世のわたしが知っている可能性が大きいからな。
もしそうならば、少しやるだけでいろいろと分かって、自分のペースで実力をじっくりと分析出来るかもしれない。
「セレスティア様」
不意に名を呼ばれ、どうしたのかと視線を向ければ、下がっていた筈のメイドが前に出ていた。
紫色の短髪に同色の瞳。綺麗だが決して、表情豊かとは言えない彼女は、わたしの側仕えのエルサだ。
「どうしました?」
「側妃様方がいらっしゃったそうです。貴方様がよければ、お茶に同席したい、と申していらっしゃいます」
落ち着いた紫色に瞳を真っ直ぐとわたしに向けたその声は、微かに呆れが含まれたものだった。
彼女はこの一週間、彼女は誰よりもわたしと普通に接してくれる。それよりも今は……はぁ。
「側妃の誰が来たんですか?」
「全員です。王子殿下方もご一緒の様です。既に城内に上がった以上、追い返すのは不可能かと」
「……案内して下さい」
「畏まりました」
そろそろ、一斉に来るだろうな、とは思っていた。
エルサの指示で報せに来たと思われるメイドが、場を去って行く。
目の前では、わたしに許しを得てから、何人かの使用人達が来客を迎える準備がされ始めた。
それを横目に、わたしは紅茶を一口含み、強張った体の緊張を解く為に、フゥッと息を吐く。
正妃とその子どもしか住めない王宮。
側妃達にはそれぞれ、後宮が与えられて、実子と住まわされている。
後宮からほんの数時間しか掛からない筈だが、今まで来なかったのは、様子見でもしていたのだろう。
そして、他が動き出すのを知って、負けじと自分達もやってきて、鉢合わせしたと言う、三年前と同じ展開だ。
迎える側としては突然、そんなに一斉に来られて、迷惑この上ないのだが、向こうは必死なので何を言っても無駄だろう。
わたしが引き籠もり、誰にも会わなかった三年、彼女達が何をどう考えて行動していたかは知らないが、どうせ王子同士を競わせて、少しでも王に相応しくあらせようとしていたのだろう。
まぁ、結婚が許される十八の時までは、誰を夫として王として選ぶかは、わたしの意志を尊重されている。ただ、十八を過ぎると実力で強制されることになっている。
これも、王の手配だ。
側妃達はわたしに王子を薦めることは出来ても、十八を過ぎるまで強制は出来ない。他も同様だ。
……何度も言う様だが、王が分からない。
元は隣国の王子で、政略で結ばれた王と正妃。
ゲームでは忙しい人だとしか語られていない。だから、前世の記憶では分析できない。現実を見れば、謎は深まるばかり。
正妃との間に愛があったかは知らない。ただ、王はわたしが産まれる前に、側妃達を次々と取ったから、きっとないのだと思っている。
かと言って、側妃達の中で特別視している存在はいない。寧ろ、王子が産まれてからもその前も、仕事以外で会っているのかも怪しく、側妃、王子ともにとても興味があるとは思えなかった。
ただ、わたしのことはそれなりに気に掛けてくれている様だ
引き籠もり始める際、あの人はわたしを訪ねたのだ。
わたしは誰にも会いたくないと追い返してしまい、それからは一度も訪ねはしなかったけれど、あの人は確かに一度、わたしを気に掛けて会いに来てくれた。
そして、わたしの意志をいつだって、尊重してくれている。
理由は分からないけれど、それだけは事実だと思う。
だって、訪ねたわたしを見た彼の目は安堵した様に、けれど、申し訳無さそうに、心配そうに揺れていた。
その瞳がわたしを思ってくれている、と言う真実を語っている気がした。
だから、わたしは彼を信じようと思った。
少なくとも、現状で誰よりも頼れるのは王だ。
王が何を企んでいるかは分からないけれど、国を崩壊させる様なことはしないだろう。
きっと、これからも協力してくれる筈だ。
そんな思惑をしている内に、準備が整って行き、少し騒がしい集団がやってくる音が聞こえ出す。
いよいよだと、わたしは迎えるべく、席を立ち上がった。