0-5 西の離宮
「ジュザ様、おはようございます」
西の離宮についた翌朝のことだ。俺はレイゼイに起こされて目を覚ました。外を見るとまだ夜は完全には明けきっておらず、空は朝焼けの茜色を残していた。
「んー。ねむー」
我が事ながら、年相応の言葉しか出せないようだ。この辺りは要練習、というところか。
「さ、朝でございますから、少し朝食前の散歩をしてまいりましょう。帰ってくる頃には朝食も出来ていることでしょう」
まだ眠い目をこすりながら、イオに手早く顔を洗われ作務衣に着替えをさせられ、レイゼイに連れられて散歩に追い出された。今日はとりあえず離宮の塀の周りをまわってみましょう、などといわれながら。
そういえば、この世界の一般的な普段着は作務衣なのか?
昔の塀沿いに一回りする、と一口に言うが、流石は離宮と呼べるものだったのだろう、相当な広さがあったようだ。瓦礫の山あり、雑草の生い茂った庭園跡あり、ちょっとした林あり、小川あり、往時はともかくとして現在は完全に朽ち果てていた。小川にかかっていた橋が朽ちていなかったのは幸いだったのかもしれない。
1才児だからほとんど歩けないのかと思っていたが、1才児も意外に歩けば歩けるものだ。1時間ほど歩いて、一周して元の離れに戻った。聞けば晴れていれば毎日のことにするという。
朝食は、焼いた川魚に雑穀ご飯に漬物であった。この地域の人が食べるものだから、とさやかが言っていたが、正直言って川魚は美味しくない。何しろ泥臭くて仕方がない。この村の元々の住人であるしのはともかく、さやかやイオも問題無く食べていることから、この世界の川魚はこういうものなのだろう。かといって泥抜きを教えるのは1才児には難しい。確かきれいな水を替えながら何日か置くのだったか。
この子は妙に小骨の避け方が上手ね、といわれながら、何とか完食する。
食後、イオが文字を覚えましょう、とどこからか出してきた石板とチョークで字を教え始めた。
この世界の文字は、わずかな違いはあるものの、日本語と同じものだ。ただし問題は、ほとんどが行書であり非常に読みにくいという点だ。現代日本の活字に慣れた身としては、なかなかに難しい。とりあえず平仮名から教えるようだ。
昼頃まで勉強して終了したが、明日は算数をさやかと一緒に勉強すると言われた。
勉強が終わると昼食だった。机の上を片付けている間にレイゼイ達が入ってきて、さやかとイオとしのが手にどんぶりを持って入ってきた。
「昆布ないんだね。シイタケもないし煮干しもないから、出汁が取れなかったの。しのさんに聞いたら、この辺の味の基本は味噌に生姜だって。ジュザは生姜は大丈夫かな?」
さやかが机の上に並べながら言った。
昼食は具のないうどんだったが、汁が醤油ではなく味噌だった。生姜が効いていて、これはこれで旨い。
昼食をとると少し昼寝の時間で、その後は原っぱに遊びに連れて行かれた。いわゆる公園デビューというやつだ。男女関係なく、遊んでいる子はほとんどが犬耳程度のハーフだけれども、ジョセフと名乗った大柄の子は手足まで毛があるケモナーだった。一応彼がボスで、後から聞いたら、村長の甥だそうだ。
既に話が通っていたのだろう、彼から仲間に紹介された後、一緒に遊ぶことになった。難しい遊びではないが、駆けっこや鬼ごっこ、かくれんぼの類だ。
狼人族だからか、子供はみんなそうなのか、とにかく足も速いし体力も凄い。頑張って付いていこうとするがジョセフをはじめ他の子供らには全くかなわない。特に木のぼりはジョセフにまだ早いと止められてしまった。
とはいえ、木登りも危ないから止められただけで、特に仲間外れにされることもなく、日暮れまで遊んで夕方にさやかが迎えに来るまでそのまま遊んでいた。
夕食は山鳥の蒸し物だった。酒蒸しにした鶏肉に焼いた味噌をつけたものだ。昼間のうちにレイゼイが獲ってきたらしい。春先だからまだ脂が乗っていない、と言ってはいたが、なかなかにこれは旨かった。鶏肉ばかり食べていたらもっと野菜を食べなさい、と叱られた。
夕食後は少しだけ朝のおさらいをさせられ、疲れていたのか動きが鈍ったのを見てさやかが俺を寝かしつけた。
そんなこんなでジュザの西の離宮の生活は始まったのだった。
そして1年が過ぎた。ジュザは2才になった。
毎日、日の出とともに起き、朝の鍛錬、朝食を食べ、午前中は勉強、昼食を食べて昼寝、午後の鍛錬、夕食を食べ、勉強して寝るという、言葉にすれば1才時には考えられない生活を、ジュザは過ごしていた。
といっても、朝の鍛錬は軽いジョギングというか散歩をレイゼイ子爵か、時々ニハチがついて行う程度であり、軽く体を動かす程度でしかなかったし、また、午後の鍛錬もほとんどが天気が良ければ野原で遊ぶ程度であり、天気が悪ければ家で勉強ということになっていた。
勉強は、まずは字を覚える、足し算と引き算を覚えるというごく単純なものであり、文字はイオが、足し算・引き算はさやかが教えることになっていた。
字は、行書体に少し手間取ったが、何しろ楷書では元々知っているから、半年も経たないうちに自由に読めるようになってきた。書く方も、石板にチョークか、精々が和紙のような紙に万年筆のようなペンであり、行書ということでなかなか慣れなかったが、これも半年もやっているうちに徐々に書けるようになってきた。
数字もアラビア数字が全く同じように使われており、足し算・引き算も小学校レベルだから簡単に出来た。ついでに掛け算・割り算も全てすぐにやって見せたが、分数はないようだった。
秋頃には、既にある程度漢字が含まれた本を問題なく読みこなせるようになっていた。
驚いたのはさやかとイオだ。半年程度で、文字は読めるし書ける、足し算・引き算はおろか掛け算・割り算もできる。天才じゃないかしら、とさやかが言えば、教えるのはそろそろ私たちでは限界だから誰か良い先生を、とイオも返して喜んでいたが、ふとさやかはジュザの洗礼をしてくれた枢機卿の言葉を思い出した。
『西の離宮でも可能な限り目立たぬように。庶子とはいえ王子の成人前の葬儀は、あの子だけにしたいものですからな』
あまり才気があるのも困りものだ。
「良い学校に、とまでは言わないわよ」さやかがため息交じりに言った。
「教育は受けさせたい。でも絶対に目立つでしょ? そうしたら……」
イオが引き取って言う。
「継承問題、ですか。ジュザさまに王になってほしいとか、そういうこと全く考えてないのに、周りが、ということですね」
とりあえずこの件についてレイゼイと話をしてみよう、ということにしてその日は終わった。
その日と翌日はレイゼイが狩りに出る日だったので、話し合ったのは翌々日の昼過ぎ、ジュザの昼寝の時間だった。最近はレイゼイも公的な態度を改めており、服装も口調も砕けたものになっていた。
「学問の方も、ですか。……いや、正直に言って身近に子供はいなかったので何歳くらいでどの程度のことができるのか、などの一般的なところは知らないのですが、朝の散歩がそれなりの距離でも問題はありませんし、時々走らせても問題無い。昼に他の子たちとボール遊びやなんかをさせているのですが、大体は際立って上手です。鬼ごっこなどでジュザさまを鬼として全員捕まえてみろと言ってみたら、4-5歳位までの子供しかおらずほとんどが人間よりの混血ばかりの時とはいえ、獣人族の中でも体術に優れている狼人族の子供たち8人を、ものの15分もかけずに難なく捕まえていました。逆に他の子たち全員を鬼にしても触られることは滅多にない。あれは少し別格ですな。
体がまだまだ幼いということもありますが、そろそろ素振り位から段々と教えても良いかもしれません」
それはさておき、と一息ついて続けて言った。
「学問、ですか。一応は貴族だから教育は一通り受けてはいますが、王庶子ともなれば難しいですな。武術体術であればまだまだ我々で出来るにしても、学問の方はほとんど準備できておりませんし教材もない。先日の英雄物語は? もう読み終わったのですか」
今呼んでいる最中、と答えてさやかが続けた。
「村に誰か教えられる人、いないかな? 村の寺子屋の先生とか」
困った顔をしてニハチが答えた。
「この村には寺子屋なんてありませんぞ? 一応、村長が文字と計算の手ほどきを冬の間限定で行っていますが、それ以上の教育を受けたければアカホ市へ留学するしかない。もっとも、この村で畑をやったり狩りをしたりするだけなら、それで充分ですからな。今さやか様とイオ様が教えられたこと以上のことは教えておりません。
それはそれとして、魔法はどうしますか? 基本的な生活魔法程度なら、某とレイゼイ子爵で教えられます。多分この様子ならすぐにマスターすると思われますが」
さやかやイオはともかくとしてレイゼイもニハチも、学問を体系的に教えたりする能力は持っておらず、ましてや本格的な魔法を教えるとなると全く無理であった。大体、魔法は生活魔法以上となれば魔道書を読んでストックを増やしては発動させる、という作業を必要とするのだ。
「……やはり外部から呼ぶという以外には選択肢はありませんね」
「子爵、外から呼ぶのに必要なお金も何もありませんし、何よりカエデさまとアカネさまの目もあります。外部から無許可では呼びにくいですし、許可はまずおりないでしょう」
さやかに言われて、問題はそこか、とレイゼイが切りだした。
「お金は問題ございません。別に私の所領は手つかずで残されていますし、手当も出ておりますが使い道もないため手つかずで残っています。最上級の教師を呼んでも2人位は、金銭面での問題はないでしょう。ただし、カエデさま、アカネさまの目となると、余り上級の教師は難しいです。……とはいえ、教師自体は実は、一人だけ心当たりがあります」
さやかとイオの顔が明るくなったのと対照的に何かを察したのかニハチの顔が暗くなった。そして、あのぅ、と発言を求めた。
「あのぅ、……タケオミさま、それで宜しいので?」
よい、と言ってレイゼイが続けた。ニハチが珍しくタケオミ様と呼んだのは、私的な部分が混ざっているからだろう。
「心当たりは、女性ですがマツ=イチジョウ。イチジョウ男爵家の二女であり、私の許嫁であります」
話はこうだ。マツは学院を出た後、イチジョウ男爵家で暮らしている。魔術師の一人ではあるが魔術師ギルドとの関係は極めて薄く、師匠がいるから仕方がなく所属しているだけである。彼女であれば、レイゼイの婚約者であるため、特に軍務からは離れた身であるレイゼイの下に来るのも問題にはしにくい。
「当初、籍は半年前にも入れる予定にはなっていた上、向こうもこちらに来たいとは言っていたのです。問題は」レイゼイが呻いた。「アレが来ると、色々と、な。その、教育上宜しくないことが起こるやもしれないのですが」
その後も相談したが他に案があるわけもなし、マツを呼び寄せるということになった。
====ゼント通信 皇歴238年05月号====
<レイゼイ子爵 ご成婚>
ゼント王国一公四子爵の一人、レイゼイ子爵が、イチジョウ男爵家の二女マツ=イチジョウが昨年1月に正式に婚約したのは既報の通りであるが、この5月、お二方は結婚することとなった。ただしレイゼイ子爵は任地を離れることはできないため、任地での生活となるとのことだ。
・国王陛下は祝福された様子
王政府によれば、アカシⅡ世陛下は結婚の報を聞き、大層お喜びなされ、また祝儀としてレイゼイ子爵の任地に屋敷地を賜る旨の令を下したとのことだ。
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「ところでレイゼイ子爵の件だがな、あれは許可を出して良かったのか? マツ、ってアレだろ? 王都一のじゃや馬で老師の最後の秘蔵の弟子の」
王都、サカキ大臣の執政室で、ゼント王はサカキに言った。
「最後かはどうか。なにしろあの老師は、某が生まれた時から既に老師でしたからな。一体いくつなのやら。一度たずねたら千から先は数えていないからとからかわれました。マツとの婚姻ですが、レイゼイ子爵本人からの申請でしたから、特に問題にもならないでしょう。両家の添え状もそろっております。面白いのはマツ殿の上申状もあることです。女性側からというのは滅多にはないのですがな。
もっとも、内々には幼少期から許嫁とされているため、両者の性格上断りにくかったかと。それに傳役もこれでそろいましょう」
「確かに、傳役は騎士と魔道士が揃うのが普通。宮廷魔道士への推挙があれでしたから、魔道部も持て余しておりましたし、レイゼイ子爵の妻でもあるとなれば、お二方も拒絶させる口実が難しいでしょうな」
しかしの、と王はサカキに困り顔をした。
「傳役に、というが、要は飼殺しだ。レイゼイ子爵一人のみならず、マツまでも、だ」
王の言葉にサカキはニヤリとしながら答えた。
「先月公務を全て引退した老師と先日お会いいたしましてな。ついうっかりと事の次第を教えてしまいました。ついでに終の棲家を探しておられたので、サヨの里を紹介しておきましたな」