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第一話:こんなデブ、いますか?

 気紛れに、新作を上げてみました。

 不定期連載ですが、タイトルにもチラ裏とあるように、気楽にやっていくつもりなので、良ければ見てやってください(ちなみに、松阪牛に意味はありません)。

 主人公の名前も拓二ですが、たまたま同名なだけの別人です。

 大園拓二おおぞのたくじの朝は早い。

 時刻は朝の七時。ボタンも留め、学校指定の制服をしっかりと着用し、カバンを引っ提げて、自分の部屋のある二階から降りる。


 一階のダイニングのテーブルには、既に今日の朝食が並べられていた。

 目玉焼きと焼鮭、ウィンナー、味噌汁にご飯。サラダもある。完璧な朝のメニューで、食欲をそそられる匂いが立ち昇っていた。

 そして、台所にいる女性に声をかける。


「おはよう、母さん」

「あ、おはよう拓二さん。朝ごはん出来てますよ」

「うん、ありがとう」


 彼は、本当にどこにでもいる、ごく普通の高校生である。

 ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通の人生を歩んできた。生まれた時から一度も、この街、この家を引っ越したことが無いくらいだ。


「いただきます」

 

 両手を合わせ、拓二は朝ごはんを食べる。


「拓二さん、今日から久しぶりの学校ね」

「ああ、そうだね。週明けだから、少し面倒だな」

「あらあら、そんなこと言っちゃだめよ。ちゃんと学業に励んでちょうだい」

「分かってるよ、大丈夫」


 母親である幸巳こうみと朝食をともにし、登校時間にもゆとりのある一時を過ごす。

 寝坊して慌てて朝食をかっ食らうという真似はしない。模範的な、規則正しい食生活。それが彼のモットーだった。

 

「……ねえ、拓二さん」

「ん?」


 その様子を、対面から眺める幸巳。


 幸せそうな微笑を湛え、彼女はこう言った。



「――――そろそろご飯食べるの控えてくれないかしら……もうお米が残ってないの。これでもう十杯目よ?」



 大園拓二は、世間一般で言うデブであった。



「……ごめん。朝とデブは相性がよくて」

「いや、待って拓二さん。もうそういうレベルじゃ……ちょっと拓二さん!? それおべんとっ……ああーっ!?」



■ ■ ■    



「で? 今日の弁当の分まで朝飯で食っちまったのかお前は」


 昼休み、拓二は友人である宮路大和(みやじやまと)と机を合わせ昼食を取っていた。

 机の上は、大和の弁当の他には山積みになった菓子パンの数々が占めていた。


「ああ……おかげで今日の昼はパンだ」

「おかげもなにもお前のせいなんだけどな」


 染め抜いた金髪頭をこれみよがしに掻き上げ、呆れたような息を吐いた。


「っていうか、そんなに朝から食ってんのに まだこれだけ食うのか……」

「いや、まだ足りない」

「まだ足りねえのか!?」


 大和がすっとんきょうな声を上げた。


「お前食費ヤバイだろそれ……」

「問題ない。まあ見てろ」


 拓二がアンニュイに笑い、大和の弁当の蓋を裏向けにした。

 そして、それを机の上に放置した。


 すると。


「あ、大園くん。ちょうどよかった、ちょっと食欲無いからこれ食べてー」

「大園くん、私ブロッコリー嫌いなの。代わりに食べてくれない?」

「大園、これ食べるー? もらったからおすそわけ」


 パンの山をあらかた平らげた時には、その弁当の蓋を皿にして、山盛りのおかずやお菓子などが積まれていた。


「――――な、問題なかっただろ?」

「残飯処理じゃねーか!」


 大和が突っ込むのも気にせず、拓二は貰ったおかずを、いつの間にやら持っていたマイ箸で口に運んでいく。

 その様子を妬ましげな目で見やる大和。


「しかも女からばかりだったし……ちくしょう、何でお前みたいなデブがモテんだよ」

「いや、それは違う。女だからこそ、ダイエットやらなんやらで押し付けてくるんだ。何でも、俺の食べっぷりを見てるだけで腹がいっぱいになるんだと。燃費良いよな」

「うん。取り敢えず、お前がモテてるってわけじゃないのは分かった。てか俺の弁当の蓋返せっての」


 それでも数分すれば、パンと一緒におかずも全部食べ終えてしまっていた。

 まるでどこぞの吸引力の変わらないただ一つの掃除機のように、口に食べ物を運んでいく。

 それを見た大和が、こう訊いた。


「……お前さあ、痩せようとか思わないわけ? このまま一生、デブのままで過ごす気かよ」

「……なんだと?」


 その言葉を聞いた拓二が、ガタッ、と音を立てて立ち上がった。

 クラス中が静まり返り、拓二と大和の方に視線が行く。

 

「な、なんだよ……?」

「…………」


 張り詰めた緊張が辺りに充満する。

 拓二が、ひたと大和を見下ろし、そして――――

 

「痩せようと思って痩せれたらデブなんかやってない!」

「知んねええええーよッ!!!!」


 大和(ツッコミ)の絶叫が、学校中に響き渡った。



■ ■ ■




「ちわーっす」


 放課後、掃除当番をこなしてから拓二が訪れたのは、文学部の部室だった。

 改修のなされていない、やや寂れた部室棟の端の端に、その部屋はある。

 ぎいい、と軋んだ音を立てて、扉を開けた。

 狭い扉で、普通の人間なら問題はないのだが、拓二ほどの横幅ではいちいち横にならないと入れないくらいだった。


「あ、お、大園くん。どうも…… 」


 そこには既に先客がいた。

 といっても、本当の客ではなく、彼女もれっきとした部員である。


 三編みにしたお下げを一束垂らし、ごつい黒縁の、分厚いレンズが取り付けられた眼鏡が特徴的な、良く言えば伝統的文学少女の出で立ち、悪く言えば地味で野暮ったい格好をしていた。

 要は、『ささら』という三文字が、完全に名前負けしていた。


 椅子に腰掛けて読んでいた本を畳んだ少女に、拓二は挨拶した。


源川(みながわ)先輩、こんちわっす」

「や、やめてよ先輩なんて。同学年なんだし……」


 彼女の名前は、源川ささら。

 拓二と同じ高校二年生であり、歳も変わらない。

 だが、彼女の方が、拓二より半年ほど早くこの文学部に入部した。それ故、拓二が個人的にささらのことを先輩と呼んでいるのだ。


「いや、先輩なのは変わりないっすよ。まあクラスも違うし、部活でしか会いませんし、そう呼ばせてください」

「で、でも……」

 

 喉に何かつまっているかのように、ささらが口をもごもごさせる。


「……う、うう」


 ――――結局今日も、言い負かされたかのように、赤面しながらうつむいてしまった。

 いつもこうなのだ。

 極度に引っ込み思案な性格で、人とのコミュニケーションを取ることが全く出来ない。いつも自分の殻に籠り、黙々と本を読むことだけしかしない。

 実はこれでも、かなり前進した方だったりすると言っておく。初対面の時には、警察を呼ばれ掛けたことさえあるのだ。……その話は、またいつかの機会に。


 拓二がその対面に腰掛けた。座ったパイプ椅子が、とにかく激しい悲鳴をあげ、見ていたささらが冷や汗を流す。


 そんな彼女の内心も知らず、拓二はふと尋ねた。


「あの、今日は何を読んでるんですか?」


 すると、それまで読んでいた本で顔を隠し、照れたような素振りで、ささらはポツリと小さく呟いた。


「……『三四郎』」

「へえ、夏目漱石っすよね。俺は『こころ』と『坊っちゃん』しか読んでないですね。読書感想文で」

「あ、そ、そうなん、だ。へえ……」

「それ、面白いんですか?」

「う、うん。なんていうかね……明治時代とそれ以前の時代背景とか、そういうのを知ってたら凄く面白いかも。え、えっと……九州の田舎から出てきた主人公が、都会の人達と出会って、色んな世界を知っていくってお話なんだけど――――」


 すると、ささらはそれまでのどもり口調が嘘のように、すらすらと流暢に口を回し、作品の内容を語っていく。目も、どことなく輝いているように見える。


 拓二は、それを聞くのが好きだった。

 言ってしまえば、話す内容は何でもいい。夕暮れの静かなこの部室で、彼女の話す声が溶け入っていくのを聞くことが、拓二の文学部での主な活動内容だった。


 しかしやがて、その声は徐々にポツポツと途絶えるようになっていき、ついには口の中で転がすように歯切れ悪くこう言った。


「……ご、ごめんなさい。こんな、べらべら調子乗って喋っちゃって……」


 拓二は、その言葉を受けて、あっさりこう返した。


「いや、全然いいっすよ。俺、先輩の話聞いてるの好きです」

「えっ……」


 しばらく、眼鏡の奥の目を丸くしたかと思うと、数瞬の遅れのあと、言葉の意味を飲み込んだようで頬をカアッと赤く染め上げた。


「そ、そんなの、嘘だよ。わ、私なんかの、面白くない話聞いても、すっ、すすすす、好き……なんて」

「本当ですよ。それに、面白くなくなんてないですし」


 恐ろしいくらいの真顔で、恥ずかしげもなくそう言いきる拓二。

 言葉の意味合いでは、ほとんど告白まがいのことをしてることに気付いているのだろうかこのメタボは。


「……そ、そんなこと、初めて言われた」

「なんていうか、先輩の話を聞いてると……」


 拓二は、そこでしばし頭の中で適切な表現を探し――――そして、ピンと来たかのように浮かんだ台詞を口にした。


「――――そう、なんか念仏聞いてるみたいで!」

「それ、褒めてる……?」

「……じゃあ、家の台所にいるような安心感?」

「……それは大園くんだけだと思うな」


 がくり、と落胆したように頭を垂れるささらと、首をかしげる拓二。

 フラグを折った者と折られた者が混在するこの部屋に、突然、ノックの音が響いた。


 そして、扉が開かれる。


「遅れてごめんね。会議が思ったより長引いてしまって」


 現れたのは、凛とした涼しげな雰囲気のある、垢抜けた美人だった。


「あ、淡島先輩、こんにちわ……」

「部長、おはざす」

「うんうん、今日も部員二名、しっかり出勤か。半分幽霊部長の私が若干申し訳なさを感じるくらいだよ」


 高校生というカテゴリーに入るのがいささか違和感があるこの女性は、淡島蓮子(あわじまれんこ)

 この学校の生徒会長であり、拓二とささらの二人の部員がいるこの文学部の部長を兼任している。

 拓二達の先輩にあたり、才色兼備、この学校きっての優等生で、その気立てのよさから学年問わずモデル顔負けの美人として広く知れ渡っている。

 まさに、高嶺の花。事務所にスカウトされたことがあるだの、告白された回数は中学・高校合わせて五十回を超えるだの、確証のない色々な噂があったり無かったりしていた。


 蓮子はささらと本棚の隙間を縫って、自分の席である部長の座に座った。


「それで、今日は二人は何の話をしてたのかな?」


 そして、いつものように蓮子が二人を見回して尋ねかける。

 それを受けた拓二が、口を開いた。


「『三四郎』の話を、俺が一方的に聞いてました」

「あ、あ、ご、ごめんなさい。私、完全に一人で喋って、もう黙りますから……」

「? 何で先輩が謝ってるんです?」

「あ、また、先輩って……だから私、そんなんじゃ」

「あー、はいはい。そこまでそこまで。喧嘩しないのお二人さん」

「「喧嘩なんてとんでもない!」」

「……なんなのかなー、君達は。仲が良いのか悪いのか……」


 やれやれと肩をすくめ、諦めたのか頬杖をついた。


「……『三四郎』か。都会的な女性である美禰子(みねこ)の曖昧な態度に、世間慣れしていない三四郎が悶々と思い悩むお話だったね」


 そこまで言うと、ふむ、と少し思案げな表情を浮かべてから、こう話した。


「君達は、そういうのは無いのかな? 異性の気のあるような行動にどぎまぎしたことは? ね、ささらちゃん?」

「わ、わわわ私っ、ですかっ!?」


 唐突に話を振られたささらが、盛大にテンパる。

 一気に顔を赤くして、蚊の鳴くようなか細い声を出した。


「わ、私は、そういうのは……!」

「え、一回も?」

「一回もですっ!」

「へー、そうなんだー」

 

 蓮子はご満悦といった表情を浮かべ、わざとらしく頷く。

 話の内容というよりも、ささらを冷やかして、その反応を楽しんでいるようだった。 


「じゃ、拓二くんは、誰かに告白したりとかしたことはあるのかい?」


 その矛先は、今度は拓二に向かう。

 完全に修学旅行中のコイバナになっているのだが、拓二は当たり前のようにこう答えた。


「――――デブに告白したりされたりする権利があるとでも?」

「そこまで卑屈にならなくてもいいんじゃないかなっ!?」


 これには流石の蓮子も驚きを隠せない。


「しかもなんでそんな得意気に……」

「俺、デブであることには一家言持ってるんで」

「あ、うん……凄いね、君」


 しゅんとしている蓮子に、首をかしげる拓二。


 デブをマイナスと思っていないかの様子の彼に、それまで黙っていたささらがおずおずと拓二に口を開いた。


「あ、あの。その……前々から思ってたんだけど」

「はい」

「ええと、大園くんは、その。いわゆる……太ってるって言われるのは、苦痛じゃないの?」


 ささらは微妙に言葉を濁したが、つまりはデブであることに疑問を感じたことはないのかと――――もっと言えば、デブを止める気は無いのかと暗に尋ねている。


「ごっ、ごめんなさいごめんなさい! やっぱり何でもないです……っ」

「…………」


 そのニュアンスを拓二は感じ取ったのかどうなのか、無言の間が数秒生まれた。

 そして、答えた。


「……いえ、俺は」


 まるで当然のことを当然というかのような調子で、彼はこう言った。



「――――食べることを止めることこそが、一番の苦痛ですから」



 至言だった。

 十六年間生きてきたデブが辿り着いた境地。デブがデブたる所以。

 デブしか分からない領域、彼は今そこにいる。


 当然、小柄なささらには分からない世界だった。


「……い、いや、大園くん。それは……」

「――――感動したよ」


 しかし、蓮子の頬には一筋の涙が伝い、感銘を受けたように唇を震わせている。


「デブであることを後ろ向きに受け止めず、ありのまま、達観的に捉えている。君の考えは、卑屈なそれではなく、着飾らず、他人の目を気にせず、自然的な君の性格に基づいていて、実に素晴らしい」 


 ガタッと椅子を揺らして立ち上がり、拓二のもとに近付いたかと思うと、その両手を握った。


「やはり君は、太っているべき人間だ」

「ありがとうございます。俺、これから頑張ります」

「あ、今日もお菓子いっぱい持ってきたけど――――」

「食べます」

 

 二人は固い握手を交わし、お互いの何かを確かめ合った。


「え、ええー……」


 ただ、同じ場にいたささらだけは完全においてけぼりであったが。



■ ■ ■



「いやあ、今日も楽しかった。やはり部活動というのはいいものだね」


 帰り道。陽がとっぷりと沈みこみ赤黒く染まった空の下、蓮子とささらは同じ家路を辿り、並んで歩いていた。

 拓二とは真反対ほどに離れるが、二人は家の方向がほぼ同じだった。


「うん。やっぱりこれからは、もう少し頻繁に部活に来ようと思うよ。生徒会も忙しいけど、できる限りはね」

「そ、そう、ですね……」

「もう、お固いなあ、ささらちゃんは」


 カラカラと蓮子が闊達に笑う。


「君達みたいな後輩を見るの、結構好きらしい。文学部を廃部にしなくて本当によかったよ」


 彼女が言うのは、去年の春を通り越した、梅雨入りの時期。

 文学部は、部員不足で存続の危機にあった。

 ありきたりと言えばありきたりな話で、定員数三名を満たさなければ廃部。一応、長い伝統のある部であるということで、これまでは幽霊部員がいようと見逃してもらえていた。

 が、いよいよ部員はささらの一人だけとなり、半年ほどの猶予の末、蓮子、そして拓二の二人が今現在部員としての活動を全うしている。

 ……とはいえ、やることはお菓子をかじりながら本を読むくらいのものだが。


「一時はどうなるかと思ったけどね。ささらちゃんが拓二くんに怯えてて」

「あ、あの時は、その……!」

「あはは。二人が仲良くなってよかったよかった。拓二くんは、面白いし凄い子だから。仲良くなって損はないと思うよ」

「凄い……ですか?」

 

 ささらはその言葉に驚いて、蓮子の方を見る。

 蓮子といえば、学校の中で知らない人間がいないくらいの才女だ。

 いくつかのコンクールにも参加し、賞という賞をを総なめにしたという彼女が、拓二のことを高く評価していることを、ささらにしては珍しく食い気味に尋ねかけた。


「どうしてですか? どうして大園くんをそこまで……」

「うーん……」


 それを受けた蓮子が、しばし悩むように唸ってから、こう答えた。


「……ささらちゃんになら、話してもいいかな」


 蓮子は、三本指を立ててみせた。


「デブにはね、三種類の人間がいると思う」

「は、はい……」

「一つは、デブであることを気にする人間」


 ピンと立てた指を、見えるように一本曲げる。

 言い聞かせるような口調で、数拍置いてから続けた。


「二つは、デブであることを気にしないふりをしようとする人間」


 指を二本、折り曲げる。


「そして、デブであることを当たり前のように思っている人間。瞳の色が青いように、二重瞼であるように、左利きであるように、デブであることさ」


 最後に一番言いたかったことであろう三種類目のデブを、彼女はこう語った。


「生粋のデブだから達する境地に、彼はいるんだ」

「は、はあ……」


 カッコいいことを言っているようで、実はそうでもない蓮子の言葉に、なんと言っていいのか戸惑うささら。


「……そして、昔私が行けなかった境地でもあるんだけどね」


 蓮子はそこで、あるものを取り出した。

 ピンク色の可愛らしいスマホで、その画面をささらに見せた。


 ――――さて、その画面の内容は、彼女のプライバシーにも関わるといえるため、ここでの詳しい描写は敢えて伏せさせていただく。


 しかし、それを見たささらの反応はというと。


「……誰ですかこれ?」

「私」

「…………」

「私、四年ほど前までは体重八十キロ以上あってね。ダイエットの末ここまで落としたよ。すっかり痩せちゃっただろう?」


 長い長い沈黙が滞り、その帰り道は静寂に包まれる。


「……え、えええええええええええええっ!?」


 そして、ささらは生涯数度として無い絶叫を、この時したと後に語る。



■ ■ ■



「ただいま」


 一方、拓二は帰宅していた。

 玄関で靴を脱ぎ、一緒に家族の靴もしっかりと揃える。


 それを迎えたのは、老い錆びた男の声だった。


「おうタク坊、おかえり」

「お祖父ちゃん。何してたの?」


 何故か一点の汚れもない真っ白な褌一丁で、家のなかを徘徊している拓二の祖父が、拓二の視界に入った。

 念のために言っておくと、彼やその実娘である幸巳は、拓二のような肥満体型ではなく、痩せている人間のカテゴリーに入る。


 つまり、拓二だけがデブなのである


「さっきまで乾布摩擦をな。お前も今度やるか?」

「ははは、脂肪は擦っても無くならないよ」

「そうじゃない、精神の弛みを磨り減らすためじゃ。心の肥満は人生の肥満。お前も図体はでかくとも、心まで重くしてはならん。分かるか?」


 とまあ、帰ってきて早々、こんな唐突な説教をかます彼は、妻には既に他界され、現在単身赴任中の父の代わりというように、拓二と幸巳との三人で同居生活を送っている。


 その長寿から成された貫禄は、蓮子を以てして凄いと言わせた拓二でも、流石に勝てないと思わせるほどで、今のようにあっさり言い負かされることも多い。


「だからと言って、ベランダで気合いの叫び声をあげられても迷惑なんですけどねえ」


 そこに、エプロン姿の幸巳も顔を出し、刺すように言葉を飛ばした。


「あ、拓二さんお帰りなさい。ご飯もう出来てますよ」

「うん、すぐ食べる」


 幸巳は、帰ってきた息子に声をかける。

 しかしすぐに、その手前にいる裸の老人の方に向き直った。


「ご近所からはいい笑い者ですよ。お年寄りはお年寄りらしく、日向ぼっこでもなさったらどうです?」


 いつもの笑顔を絶やさず、しかし静かな怒りを宿した語気。よく見れば、その緩ませた目の奥はまるで笑っていない。


「ふんっ、女は引っ込んどれい。それも、心の肥満以前に、腐った根性曲がりの女はな!」

「あらあら、それは失礼しました。どこかから処置しようがないくらい芯のひねくれた声が聞こえてきましたもんで」

「なんだと貴様!」


 祖父が声を張り上げ詰め寄り、胸ぐらを持ち上げようとする。

 しかし、その手首を逆に掴み返して、幸巳が制した。


 その彼女の顔は、筆舌に尽くしがたい。

 先程までの上品な笑みを一切消し去り、般若の如く目を吊り上げさせ、殺気走った悪鬼のような表情で、額には青筋が浮かんでいる。



「――――んだよモウロクジジイ、そのヒョロッヒョロの身体吹っ飛ばされてェのか!!」



 そんな恐ろしい顔つきで、今までの言葉遣いをすっかりどこかに投げ捨てたかのように、唾を飛ばさん勢いで激しく叫んだ。


「――――はっ! 本性を晒したな馬鹿娘が!! 親に向かってその態度、今度こそ改心させてやるわ!」

「やってみろ死に損ない!! 母さんの所にも行かさずにぶっ殺してやる!!」

「上等じゃ出来損ない!」

「シャァオラヤンノカコラ!!」


 口汚い悪態の応酬が始まり、家中は一気に騒々しくなった。

 父を罵る娘と、娘を怒鳴る父の二人の喧嘩は、言葉では終わらない。というか、それだけでは済まない。

 打とうとすれば止められ、蹴ろうとすれば遮られる、ドラゴンボ○ルばりの武術の組み手を続けていく。激しい罵り合いの間に挟み込まれる打撃音は、とにかく凄まじい。


 そんなハイレベルな戦闘を目の当たりにして、体型がピザなだけのごくごく一般人である拓二は、どうするかと言うと――――



「じゃあ俺、先にご飯食べるから。終わったら言って」



 とだけ、あっさりと言い置いて、すぐにその横を素通りし、食事のあるダイニングに向かった。


 腹が減ってはなんとやら。喧嘩よりも何よりも、彼はハナから自分の飯のことしか頭に無かったのである。


 ……身体の横幅が広い彼は、心も広いのかもしれない。


 ちなみに、十数分後、我に返ったように取っ組み合いを止めた二人が、急いでダイニングの方に向かうと、既に家族三人分の空になった食器を台所へ下げている拓二の姿があった。


 聞けば、


「テーブルに乗ってたから、全部俺のかと思って」


 ということらしかった。

 二人の分も食べてしまったことを知り、流石に謝る拓二に対し、怒る気力は既に使い果たしていた。


 結局、仕方なしに幸巳がまだ食べ足りない拓二の分を含めた、計七人前の出前の電話を取るのだった。






不定期連載です。誤字脱字報告、または感想・批評等あればぜひお願いします。

【追記:十月十六日】加筆修正しました。

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