私は悪役令嬢を更生させたい
「お嬢様。本日をもちまして、あなたから公爵令嬢としての権限を剥奪いたします」
朝食の席でそう告げると、クラリッサお嬢様は紅茶を噴き出した。
「……は?」
「聞こえませんでしたか?」
私は公爵閣下の署名が入った書類を、白い卓布の上へ置いた。
「今後、お嬢様のお小遣い、外出、交友、使用人への命令には、すべて私の許可が必要となります」
「あなた、自分が何を言っているのか分かっていますの? たかがメイドの分際で!」
「もちろんでございます」
私はにこやかに一礼した。
「これより、お嬢様を人間にいたします」
クラリッサお嬢様は、公爵家の一人娘である。輝く金髪に青い瞳。磨き抜かれた美貌と、王立学園で上位に入る学力を持ち、第二王子との婚約まで約束されている。外側だけを見れば、非の打ち所がない。中身には、打つべきところしかなかった。
気に入らない侍女には熱い茶を浴びせ、仕立ての遅れた職人を出入り禁止にし、学園では第二王子と親しくした伯爵令嬢アイリスを取り巻きたちと虐めている。公爵閣下は、そんな娘を叱るどころか、よくやったと褒めていた。
このまま放置すればどうなるか。未来を知る力など必要ない。少し頭を働かせれば分かる。婚約は破棄され、公爵家は王家の信用を失い、領地と財産を削られる。悪質と判断されれば爵位さえ危うい。
お嬢様と親馬鹿な父親だけが破滅するなら、私も黙って見送っただろう。しかし、屋敷には百人を超える使用人がいる。領地には公爵家の庇護を受けて暮らす者が何千人といる。主人が愚かだからという理由で、その全員が路頭に迷ってよいはずがない。
――だから私は、公爵家を乗っ取った。
帳簿を調べ、閣下の私的流用を一覧にし、返済期限の迫った債権を懇意の商会に買い取らせた。執事長と家令を味方につけ、領地の代官には、閣下と私のどちらに従えば収穫税が正しく使われるかを考えていただいた。最後に、すべての証拠と王家宛ての告発状を執務机へ並べ、令嬢教育の全権を私に委ねるようお願いした。
世間では、これを脅迫と呼ぶらしい。閣下は震える手で署名してくださった。
「お父様が、メイドの言いなりになるはずがありませんわ!」
「直接お確かめになりますか?」
お嬢様は勢いよく席を立ち、父親の執務室へ駆け込んだ。間もなく、扉の向こうから怒声と泣き声が聞こえてきた。戻ってきたお嬢様の顔からは血の気が引いていた。
「お父様を脅したのね」
「人聞きの悪い。公爵家が存続するための相談をしただけです」
「卑怯者」
「お褒めにあずかり光栄です」
私がお辞儀をすると、お嬢様は銀のティーポットをつかんだ。
以前なら、そのまま私へ投げつけていただろう。だが今朝から、壊した物の代金はお嬢様個人の予算から差し引くことになっている。それを思い出したのか、お嬢様は震えながらポットを戻した。記念すべき、教育の第一歩だった。
***
最初に、お嬢様付きの侍女を十二人から二人へ減らした。宝飾品と菓子の購入を止め、夜会への出席も禁止した。朝、自分で起きなければ朝食は下げる。脱いだ服を床へ投げたなら、自分で拾うまで誰にも片づけさせない。三日目には、お嬢様は泣きながら食堂へ現れた。
「髪が結えませんでしたわ!」
金髪は、愉快にも鳥の巣のようになっていた。
「左様でございますか」
「左様でございますか、ではありません! 侍女を呼び戻しなさい!」
「ベルとミナがおります」
「呼んでも来なかったのよ!」
「お嬢様が、お二人の名前をお呼びにならなかったからです」
お嬢様は目を見開いた。
「名前?」
「『そこの役立たず』では、誰を呼んでいるのか分かりません」
「使用人の名前など、あなたが覚えていれば十分でしょう」
私は給仕台の脇に控えていた若い侍女へ目を向けた。
「ミナ」
「はい」
栗色の髪をした少女が進み出る。右腕には、まだ薄く包帯が巻かれていた。
「この者が怪我をした理由を、お嬢様はご存じですか」
「知らないわ」
「先月、お嬢様が投げた花瓶の破片が刺さりました」
お嬢様は包帯を見た。ほんの一瞬だけ、顔がこわばった。
「治療費は払ったのでしょう?」
「屋敷からは。ですが、三週間仕事ができず、傷痕も残るそうです」
「だったら、余分にお金を渡せばよいではないの」
「お嬢様が投げた花瓶は、ミナの一年分の給与より高価でした」
お嬢様は黙った。
「一本の花瓶にはそれだけの価値を認めるのに、一人の人間が負った傷には金を渡せばよいとおっしゃるのですね」
「……わたくしのお金で買った花瓶ですわ」
「いいえ。領民が納めた税と、使用人たちが働いて得た利益で、閣下がお買いになった花瓶です」
「うるさいわ!」
お嬢様は拳を振り上げた。ミナが身をすくめる。その様子を見て、お嬢様の拳が止まった。振り上げた手をどうすればよいのか分からないように、しばらく空中で震わせてから、ゆっくりと下ろした。
「……髪を結え、ミナ」
「お願いする相手に使う言葉ではございません」
「では、どう言えばよいのよ」
「私ではなく、ご自分でお考えください」
お嬢様は唇を噛んだ。長い沈黙のあと、ミナの顔を見ないまま言った。
「髪を……結って、ちょうだい」
ミナは私を見た。私は小さくうなずいた。
「承知いたしました、クラリッサお嬢様」
その日、お嬢様は初めて、自分の世話をしている者の名前を呼んだ。
***
次に、お嬢様へ屋敷の名簿を渡した。使用人百十二名の名前、家族構成、担当する仕事が記されている。
「これを全部覚えろと?」
「一週間で」
「無理ですわ」
「王国三百年の歴史と、十二か国の王統を暗記できる方が?」
お嬢様は負けず嫌いだった。
翌日から、廊下ですれ違う使用人を呼び止め、名簿と顔を見比べるようになった。最初は試験問題を覚えるのと同じだったのだろう。だが、名前を知れば言葉を交わす。言葉を交わせば、その者にも生活があると知る。
庭師長の息子は今年、騎士団の試験を受ける。料理人の妻は病気で、王都の医師に診せるため金を貯めている。洗濯女の一人は文字が読めず、娘から届いた手紙を同僚に読んでもらっている。
人間は、遠くから眺めれば景色になる。名前を持てば、景色ではいられなくなる。一週間後の試験で、お嬢様は百十二人全員の名前を答えた。
「いかが? わたくしにかかれば、この程度は当然ですわ」
「お見事です」
私が素直に認めると、お嬢様は驚いた顔をした。それから、ほんの少しだけ誇らしそうに顎を上げた。
「では、次の課題です。ミナへの謝罪を」
その顎が下がった。
「……お金は払ったでしょう」
「公爵家が払いました。お嬢様は何もしておりません」
渋々、彼女はミナを呼び出した。
「わたくしにも悪いところがあったようですわ。治療費は払ったのだから、あなたも忘れなさい」
「不合格でございます」
「謝ったでしょう!」
「言葉を発しただけです」
私は紙を四枚、机の上へ置いた。一枚目には、自分が何をしたのか。二枚目には、相手にどのような被害を与えたのか。三枚目には、どう償うのか。四枚目には、二度と繰り返さないために何をするのか。
「すべて、ご自分の言葉でお書きください」
「こんなもの、あなたが書けばよいでしょう」
「私の謝罪ではございませんので」
お嬢様は三度書き直した。一度目は自分を正当化し、二度目はミナにも落ち度があったと書き、三度目でようやく言い訳が消えた。翌朝、お嬢様はミナの前で頭を下げた。
「わたくしは、腹が立ったというだけで花瓶を投げ、あなたに怪我をさせました。三週間も働けなくして、傷まで残しました。治療費とは別に、働けなかった分の給与をわたくしの予算から支払います。もう物を投げません。腹が立ったときは、その場を離れます。……許してほしいとは、言いません」
ミナは長い間、答えなかった。やがて、静かに頭を下げた。
「謝罪は受け取ります」
それだけだった。お嬢様は戸惑った顔をした。部屋へ戻る途中、私に尋ねた。
「許してくれなかったわ」
「当然です」
「わたくしは謝ったのよ」
「謝罪は、許しを買うための代金ではございません」
「では、何のために謝るの?」
「自分のしたことから逃げないためです」
お嬢様は黙り込んだ。
その夜、彼女は自室の花瓶をすべて片づけさせた。ただし今度は、運んだ使用人一人ひとりに礼を言ったそうだ。使用人への態度は、少しずつ変わった。だが、学園で虐めていたアイリス嬢の話になると、お嬢様は頑なだった。
***
「あの女が殿下を誘惑したのが悪いのよ」
「アイリス様が殿下と会話したことで、お嬢様に教科書を破る権利が生まれるのですか」
「わたくしの婚約者ですわ!」
「人間は所有物ではございません」
「では、奪われても黙っていろというの?」
「殿下のお心が離れたのは、アイリス様のせいでしょうか。それとも、お嬢様ご自身の振る舞いの結果でしょうか」
お嬢様の顔が赤くなった。
「あなたに、何が分かるの」
「少なくとも、殿下が何度もお嬢様へ忠告なさったことは存じております」
「わたくしは公爵令嬢なのよ。殿下の隣に立つために育てられた。作法も歴史も、誰より勉強したわ。それなのに、あの女は笑っているだけで殿下に褒められる。わたくしには、何もないみたいではないの!」
初めて、お嬢様が本心を口にした。金髪を振り乱し、子供のように泣いていた。私は抱き締めなかった。慰めもしなかった。
「だから、アイリス様から何もかも奪いたかったのですね」
お嬢様は答えない。
「泣くことは許します。ですが、泣いたからといって、お嬢様がしたことは消えません」
「……分かっていますわ」
「本当に?」
「今なら、少しだけ」
翌日、お嬢様はアイリス嬢への謝罪文を書いた。
――五度、破り捨てた。六度目で完成した手紙を送り、返事は求めなかった。さらに、自分が流した噂を訂正する書状を、学園の友人たちへ送った。取り巻きのせいにはせず、すべて自分の名前で行った。社交界では、公爵令嬢が平民上がりの娘に屈したと笑われた。お嬢様は三日間泣き、四日目には顔を上げた。
「随分と笑われましたわ」
「後悔なさいましたか」
「いいえ」
声は震えていた。
「間違っていたのは、わたくしですもの」
私はその日の記録に、初めて「良」と記した。
***
それから半年が過ぎた。
お嬢様は完全な善人にはならなかった。朝は弱い。菓子を減らせば不機嫌になる。負けず嫌いで、口も悪い。服の趣味が合わない相手には、今でも容赦のない感想を述べる。
だが、物は投げなくなった。使用人の失敗には理由を尋ねるようになった。自分の予算を管理し、余った金をミナの読み書き教室へ回した。領地から届く報告書にも目を通し、収穫の悪い村には税の猶予を提案した。誰かに言われたからではない。自分で考えてのことだった。
それでも、私はまだお嬢様を信用していなかった。信用とは、過去の実績によって生じるものだ。
そして、実績を試す日は突然訪れた。王立学園の定期試験を目前に、試験問題が盗まれた。盗まれた紙束は、アイリス嬢の鞄から発見された。平民出身でありながら成績上位。以前から彼女を妬む者は多かった。退学を求める声が上がるまで、半日とかからなかった。
その日の夕刻、お嬢様のかつての取り巻きだった侯爵令嬢エヴェリーナが屋敷を訪ねてきた。私は給仕を別の者に任せ、隣室で会話を盗み聞きした。
「今が好機ですわ、クラリッサ様」
甘い声が壁越しに響く。
「アイリスを追い出せば、殿下も目を覚まします。証言してくださればよいのです。あの女が以前から、不正をしてでも一位になりたいと話していた、と」
「そんな話は聞いていませんわ」
「今さら真実など、誰も気にしません。皆、あの女が犯人であってほしいのですもの」
エヴェリーナ嬢が試験問題を盗ませたことは、すでに調べがついていた。私が扉を開ければ、すぐに証拠を突きつけられる。だが、私は動かなかった。お嬢様が私の目の届かない場所でも正しい選択をできるのか、確かめる必要があった。
「アイリスを退学させれば、以前の噂もすべてあの女の虚言だったことにできますわ」
エヴェリーナ嬢は続けた。
「クラリッサ様は何も悪くなかった。そういうことにできるのです」
長い沈黙が落ちた。悪くなかったことにできる。それは、お嬢様が半年間求め続けた言葉だった。やがて、椅子を引く音がした。
「エヴェリーナ」
お嬢様の声は、以前と同じように高慢だった。
「わたくしを見くびらないでくださる?」
「え――」
「わたくしは公爵令嬢です。己の保身のために、罪のない者を陥れるほど安い誇りを持った覚えはありませんわ」
「ですが、以前は――」
「以前のわたくしが愚かだったからといって、これからも愚かでいなければならない理由にはなりません」
扉が開いた。お嬢様は私を見ると、驚き、それから腹立たしそうに眉をつり上げた。
「聞いていましたのね」
「申し訳ございません。壁が薄いもので」
「嘘おっしゃい。わざとでしょう」
「証拠はそろっております」
私は調査書を差し出した。エヴェリーナ嬢の顔が青ざめる。お嬢様は書類を受け取ったが、安堵はしなかった。
「明日、学園で証言しますわ」
「この書類を提出すれば、お嬢様が表に立つ必要はございません」
「いいえ。以前のわたくしがアイリスを虐めていたことも、皆の前で話します」
「その場合、婚約の維持は難しくなります」
お嬢様の指が震えた。
「分かっています」
「公爵家の評判も落ちるでしょう」
「分かっていますわ」
「アイリス様が、お嬢様を許すとは限りません」
お嬢様は唇を噛み、それでも顔を上げた。
「それも、分かっています」
翌日、お嬢様は全校生徒の前に立った。アイリス嬢の無実を証明し、エヴェリーナ嬢から持ちかけられた企てを明かし、最後に自らの過去を語った。言い訳はしなかった。取り巻きのせいにも、父親の教育のせいにもしなかった。その結果、アイリス嬢の退学処分は撤回された。
エヴェリーナ嬢は停学となり、お嬢様と第二王子の婚約は白紙に戻された。帰りの馬車で、お嬢様は一言も話さなかった。屋敷へ着くと、自室にも戻らず、玄関広間の長椅子に座り込んだ。
「これで、満足?」
「何のことでしょう」
「わたくしは婚約者を失いました。社交界にも、学園にも、わたくしのしたことが知れ渡った。あなたの望みどおりでしょう」
私はお嬢様の前に立った。
「私が望んだのは、お嬢様が正しい選択をなさることです」
「だったら、少しくらい褒めなさいよ」
お嬢様の目から、大粒の涙が落ちた。私はハンカチを差し出した。
「本日の行いを、お嬢様の実績の一つとして記録いたします」
「それだけ?」
「加えて、明日の菓子を一つ増やしましょう」
「子供扱いしないでくださる!?」
怒鳴りながらも、お嬢様はハンカチを受け取った。私は記録帳を開き、その日の欄へ初めて「優」と記した。
***
一年後。クラリッサお嬢様は、公爵領に新設された学校の運営を任されていた。婚約は戻らなかった。アイリス嬢とも友人にはならなかった。
それでも二人は、領地の施療院を改善するために手紙を交わしている。アイリス嬢はお嬢様をまだ完全には信用していないし、お嬢様もそれを当然のこととして受け入れていた。
ミナの腕には傷が残った。お嬢様が謝ったところで、その傷は消えない。だから彼女は、傷を消そうとするのではなく、これ以上増やさないために生きている。
――ある日、お嬢様が学校の会計簿を抱えて私のもとへ来た。
「来年度の予算案ですわ。確認なさい」
「命令ですか?」
「お願いです」
「よろしいでしょう」
私が書類を受け取ると、お嬢様はなぜかその場を離れなかった。
「まだ何か?」
「あなた、本当は最初から、わたくしを救うつもりだったのでしょう?」
私は首をかしげた。
「いいえ」
「少しは迷いなさいよ!」
「お嬢様と閣下だけが破滅なさるのでしたら、私は黙って見送るつもりでした。使用人と領民が巻き込まれるので、やむなく行動しただけです」
「相変わらず、可愛げのない女ね」
「よく存じております」
お嬢様は頬を膨らませ、しばらく私を睨んだ。やがて、昔より少しだけ柔らかな顔で笑った。
「では、これからもわたくしが皆を巻き込まないよう、そばで見張っていなさい」
「お断りいたします」
「なぜですの!?」
「もはや見張られなければ正しい行動ができない方ではないでしょう」
お嬢様は言葉を失った。私は一礼し、予算案を抱えて執務室へ向かった。背後で鼻をすする音がしたが、聞かなかったことにした。
性悪令嬢を更生させたいと、願ったことは一度もない。ただ、この家で働く者たちを守りたかった。そのために邪魔な当主を脅し、家を奪い、どうしようもなく愚かだった少女を教育した。結果として、一人の人間が自分の足で立てるようになった。
――それならば、悪くない成果だと思う。
***
それから数日後、私は学校の執務室で予算書を確認していた。すべての数字を確かめ、最後の頁へ承認の印を押す。大きな問題はない。むしろ、私が手を入れる箇所がほとんど見当たらないことのほうが問題だった。お嬢様は、もう一人でもやっていける。喜ばしいことのはずなのに、胸の奥がわずかに落ち着かなかった。
「随分と難しい顔をしていますのね」
声に顔を上げると、クラリッサお嬢様が扉のそばに立っていた。
「ノックはなさいましたか」
「三度も。あなたが気づかなかっただけですわ」
お嬢様は私の向かいへ座り、承認済みの予算書をのぞき込んだ。
「問題は?」
「ございません」
「改善すべき点は?」
「特には」
「まあ、そう」
満足そうに微笑んでから、お嬢様は少しだけ視線を落とした。
「では、あなたはもう、わたくしのそばにいる必要がありませんのね」
その声は、ひどく平静だった。けれど、膝の上で重ねた指が落ち着きなく動いている。
「以前、見張っていなさいと申し上げたとき、あなたは断ったでしょう?」
「お嬢様には、もう見張りは必要ございませんから」
「分かっていますわ」
返事が妙に早い。
「あなたほどの才があれば、王宮でも商会でも好きな場所へ行けるでしょう。いつまでも、わたくしの世話をする理由など……」
お嬢様の声が、そこで途切れた。私は机を回り込み、その前に立った。
「お顔を上げてください」
「嫌ですわ」
「命令です」
「わたくしに命令するなんて――」
文句を言いながらも、お嬢様は素直に顔を上げた。
頬にインクがついている。おそらく、また書類を読みながら顔をこすったのだろう。私は親指で、その黒い汚れをそっと拭った。お嬢様の肩が跳ねる。
「な、何をなさいますの」
「汚れておりましたので」
「そういうことは、先に言いなさい」
「申し訳ございません」
私は手を離そうとした。しかし、お嬢様の指が私の袖をつかんだ。力は弱い。振り払おうと思えば、簡単にできる。私はそのままにした。
「必要がなければ、いなくなりますの?」
今度の声には、いつもの高慢さがなかった。私は答えを考えた。
使用人と領民を守るという目的は、すでに果たされている。公爵家の運営も安定した。ここに残る合理的な理由は、もうほとんどない。だからこそ、理由がなくても残りたいと思っている自分を、認めるしかなかった。
「お嬢様」
「何ですの」
「立派になられましたね」
お嬢様が目を見開いた。私が差し出した褒美は菓子でも、評価表の印でもない。
「私は、お嬢様が今のお嬢様になられたことを、誰よりも嬉しく思っております」
口にしてから、少々言いすぎたと思った。お嬢様は声も出せずに私を見つめている。白い頬が、みるみる赤く染まっていった。
「……もう一度」
「何でしょう」
「今の言葉を、もう一度おっしゃい――」
「お断りいたします」
「なぜですの!?」
「二度申し上げるのは、さすがに気恥ずかしいので」
お嬢様はさらに顔を赤くした。やがて袖をつかんでいた指を滑らせ、今度は私の手を握った。
「では、これは命令ではなくお願いです」
「はい」
「これからも、わたくしのそばにいてちょうだい」
以前なら、当然のように命じていただろう。けれど今は、断られることを恐れながら、それでも自分の望みをまっすぐ口にしている。私は少しだけ、その手を握り返した。
「お嬢様がお望みなら、もうしばらく」
「もうしばらく、とはどの程度?」
「少なくとも、お嬢様が私を必要としなくなるまでは」
「でしたら、一生ですわね」
あまりにも素直な答えに、今度は私が言葉を失った。お嬢様は私の手を握ったまま、花が開くように笑った。
「嬉しいわ。とても」
声を弾ませた直後、貴族令嬢らしく取り繕おうと咳払いをする。けれど口元は緩みきり、つないだ手を離す気配もない。胸の内では、きっと舞踏会でも見せないほど浮かれているのだろう。困った方だと思う。けれど、その笑顔をもう少し眺めていたいと思ってしまった私も、相当困った人間なのかもしれない。
「お嬢様」
「何ですの?」
「今日だけは、菓子をもう一つ増やしてもよろしいでしょう」
「子供扱いはおやめなさいと――」
お嬢様は途中で言葉を止め、嬉しそうに笑った。
「でも、あなたと一緒に食べるのでしたら、許して差し上げますわ」
私は小さく息をつきながら、手を離さないまま答えた。
「承知いたしました、クラリッサお嬢様」




