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「すみれドロップスの曲もけっこう好きだったしね! で、今は何してんの?」
聞かれると困る質問。光弦は良い答えが聞けると疑っていないようで、純粋に目を輝かせている。
「一応、事務所には所属してるけど……」
歯切れの悪い瑠衣の言葉に、光弦は「ふーん?」と何かを察したようだった。それ以上、何も尋ねることはしなかった。
「それより、みーくんは今何してるの?」
「それがね、今はキッチンカーをやっているの!」
「キッチンカー?」
思ってもない回答に、瑠衣は戸惑う。そのとき丁度、瑠衣の母がコーヒーを持って戻ってきた。
「はい、ミルクと砂糖入れておいたから」
「ありがと」
どうやら、お客さんが来ているということでわざわざドリップコーヒーを入れたよう。いつもより深い香りが鼻をくすぐる。口にすると、また心が温かいもので満たされる。ようやく一息つけたと、瑠衣は肩の力を抜く。やっぱり、インスタントコーヒーとは違う。
「キッチンカーって、クレープとか売ってるあれ?」
「そう。金土日は江戸川の河川敷でアイスとコーヒー売ってんの」
「江戸川の河川敷? 商売になるほど人いる? 散歩しているおじいちゃんくらいしかいないんじゃ……」
江戸川は、瑠衣の家から徒歩で数十分ほどのところにある一級河川。とはいえ、わざわざ行くことはない。川幅も広いから歩いて渡るのも面倒だし、車や電車で通り過ぎる程度だ。
光弦は、呆れたような顔をして瑠衣を見つめる。
「河川敷ってねぇ、人いっぱいいるのよ! 散歩している人以外にも、サイクリスト、ランナー、野球、ラグビー、サッカー、ゴルフ……とにかく、人の往来があるわけ。楽しいわよ、いろんな人がいて」
「河川敷ってそんなにいろんなことができるの?」
東西線で荒川や江戸川を通過するときには、見かけない光景だった。そのあたりは、整備されたウォーキングロードくらいしかなかった、ような気がする。河川敷なんて、瑠衣にとっては注目して見るようなものでもないから、記憶があいまいだ。
光弦は夢見る乙女のように、手を組んで空を見つめた。
「春は菜の花やポピーがきれいだし、秋はコスモス畑も見ものよ。ポニーがいる公園もある」
「へぇー。知らないことばっかりだなぁ」
気が付いたら、車で移動するばかりの人生だった。ツアーで日本各地のライブを行っても駅から会場までは車だし、観光する時間も用意されていない。人工的なライトに照らされてステージの上で輝くことだけが、瑠衣の仕事だった。
身近にある自然や人の行き交いについてはまるで詳しくないことに、軽く衝撃を受ける。
「いいな、楽しそう……」
瑠衣の口から、思わず声がもれる。アイスやコーヒーを売り、あたたかい光の中で街の人と交流して、花を愛でる光弦が無性に羨ましくなった。
そのとき、玄関のほうから物音が聞こえた。
リビングの扉を開いたのは、瑠衣の妹の亜未。まっすぐな髪をハーフアップにきっちりと結い、真新しいグレーのスーツに身を包んでいる。この4月から、新社会人となった。
「お、かえり」
喉につっかえながら、瑠衣は亜未に声をかける。
しかし亜未は瑠衣に一瞥もくれず、光弦を見て目を丸くする。
「みーくん?」
「あら亜未、大人になってぇ!」
「久しぶり! 元気だった?」
「元気元気!」
瑠衣は、亜未の明るく元気な声を久しぶりに聞いたな、とぼんやり思った。そうだ、少し前までは、こういう無邪気な笑顔を瑠衣にも見せてくれたっけ。
「おかえり亜未。早かったね」
母が声をかけると、亜未は「セミナー会場から直帰で」と答えた。
セミナーって、なんだろう。気になっても、瑠衣には質問ができなかった。「そんなことも知らないの?」ってバカにされた顔をされるだけだって、わかっているから。
瑠衣にとって、セミナーとはうさんくさいワードだ。高い商品を売りつけられるとか、そういう時に登場するもの。でも、まっとうな企業に勤める亜未が当たり前のように使って、みんなが当たり前のように受け入れているのだから、反社会的なものではないんだろう。
瑠衣だけが、違う世界を生きているかのような感覚になる。
心の中も頭の中も空っぽ。歌って踊る以外、花の美しさも会社に勤める人の言葉も何も知らない。
「久しぶりに女子トークがはかどりそうね! 夕飯も作らないでさ、ピザでもとっちゃう?」
光弦が、瑠衣の母と亜未と瑠衣を見て言う。しかし、亜未はすっと表情をかたくした。
「あ……わたし疲れてるから。また今度ゆっくり!」
そう言うと、母と光弦にだけ手を振ってリビングから出て行った。瑠衣の方は見もしない。




