エピローグ
6月の晴れ間を覗いたある日、瑠衣は光弦とサイクリングに来ていた。菜々子は足のケガ、愁二は自転車チームのメカニックとして静岡に遠征中だ。
蒸し暑い中ではあるけれど、風を感じながら走っていると心地よい。自転車が停まった瞬間、ぶわっと汗が湧き出るけれど。
「それで結局、芸能活動を続けることにしたの?」
「うん」
休憩に立ち寄ったサイクリングロード沿いの公園のベンチに腰かける。木陰のおかげで直射日光を浴びないで済む。いつの間にか、アジサイの季節に移り変わっていた。
「先月末、社長との面談で話したの。ひまりとユニットを組んで歌いますって」
「はぁ!?」
光弦は、手にしていたボトルを落として驚く。そんなに驚くことかと、瑠衣は苦笑する。
「ひまりに、25歳の定年まで私に時間をちょうだい、ってお願いしたの。まだ新しい人生に進まなくてもいいんじゃない? もう少し、楽しいことしよって」
「あら~、ひまりちゃんを騙して悪いお姉ちゃんね」
「ちゃんと納得してもらいましたから」
ふん、とそっぽを向く。
ライブの後、瑠衣はいてもたってもいられず関係者挨拶の時に「今日泊りに行くから!」とひまりに言った。汗だくで前髪が乱れたひまりはまばたきを繰り返した後、「うん、いいよ」と笑顔で答えた。
ひまりの家で、瑠衣は「私はまだ歌いたい」「でも、ソロ活動にピンと来ていない」「ひまりとまだ離れたくない」と伝えた。その上で、「一緒に歌いたい。アイドルの定年である25歳までは時間をちょうだい」とも。すべて正直に話した。
ひまりは戸惑った様子を見せる。
「それは……どう、だろう」
「もう少しだけ、やりきってみない? 後悔なく定年退職後の人生を幸せに生きるためにも、やり残したことがないくらい歌ってみない? だって彼氏を作らなかったら、まだすみれドロップスをやめようなんて思ってなかったよね?」
やり残したこと、という言葉に、ひまりの瞳が揺れる。
「けど、後悔のない人生なんてないでしょ。ある程度のところで諦めないと」
東京ドームでライブしたい、紅白に出たい、ゴールデンタイムの歌番組に出たい、バズりたい。どれひとつとして叶わない夢だった。
「でも、歌い続けることはできる。ひとりでもお客さんがいれば」
人気なんて、自分ではコントロールできないものだ。でも、歌うだけならいつでもどこでもできる。
「日本武道館みたいな大きなステージは無理かもしれない。売れないかもしれない。でも、歌うことでいろんな人を笑顔にしたい。ひまりとだったらきっとできるって思う。どう、かな?」
瑠衣は、おそるおそるひまりの様子を見る。ひまりは、しばらく、うつむいた。
「わたしはあの日――瑠衣ちゃんにいちごを譲ってもらったあの日から、もし、瑠衣ちゃんに頼みごとをされたら、断らないでおこうって決めたんだ」
ひまりに敵わないと思ってプロフィールの『いちご』を消したあの日。まさか、ひまりにいちごの文字を消しているところを見られていたなんて。
「覚えてたんだ……」
ひまりはうん、と小さな唇から息を漏らす。
「申し訳ない気もしたけれど、文字を塗りつぶしてくれて心から嬉しかったの。わたしはいちごが似合うかわいいアイドルになりたいって小さいころから思っていたから、絶対に譲れないって思って……。その代わり、ほかのことは譲ろうって思ってた。ようやくそのときが来たけど、まさかこんなヘビーなお願いだとは」
苦笑いをするひまり。
いちごを譲ったことと、引退を撤回して芸能活動を続けることでは割に合わない。人生がかかっているのだから、無理して合わせてほしくはない。
「無理しなくていいよ」
しかし、ひまりはいつものかわいい笑顔を浮かべる。
「ううん。もう少し、歌いたいって思いはあるの。瑠衣ちゃんの言う通り、本当は25歳までアイドルをやりたかったから」
「ほんと?」
ひまりは、少し泣きそうな顔で瑠衣を見る。
「ステージに立って卒業発表した時、もっと清々しい気持ちになれると思ったのに、違ったの。あれ、わたし全然やりきってないかもって、思っちゃったんだよね。もちろんけじめとしてやめるって自分で決めたし、グループに未練はないけど……もっと、たくさん歌いたかったなって」
武道館で卒業発表をしたときに、言葉に詰まったことを思いだした。あれは、思ってもみない自分の気持ちに戸惑っていたんだろうか。
「それじゃあ……!」
「うん。もっともっと、わたしの歌でファンの人を幸せにしたい!」
ひまりは、幸せそうな笑顔を見せた。
翌日、社長との面談時にこの件を話した。ひまりとユニットを組みたい。これまではグループ時代の歌は歌いたくないなんて言っていたけれど、それもやめる。オリジナル曲を歌う場合はソングライターに楽曲提供してもらう。OGのライブにも出る。歌える場があるならどこだって、路上だって立つと。だから、契約延長してもらえないかと打診した。
急な提案に事務所社長は目を丸くしたものの、人のよい笑顔を見せた。
「そうか。大森もいろいろ考えたんだな。ほかのスタッフにも相談して、大森のやりたいように決めていこう」
「ありがとうございます。今までご迷惑をおかけしました。それと……」
瑠衣は、歌以外の今後の展望を口にする。
「もうひとつ、考えていることがあって。私のファンの方で、車椅子の方がいらっしゃるんです。そういった事情があってライブ会場に来られない人とか、親や子供の世話があって家を空けられない人とかにも、気兼ねなくライブ会場に来れて、歌を楽しめるようにしたいんです。どんな立場の人でも、どこに住んでいても、歌で元気をもらって幸せな顔で人生を歩めたらいいなって思うんです。夢物語かもしれないし、なにをしたらいいかまだ見当もつかないですが……。舞台に立つだけじゃなく、舞台を作る側の人間としても活動していきたいんです」
菜々子は、車椅子席があるというだけで「生きてていいって許可をもらえた気がした」と言っていた。本当は、許可なんてなくたって大きな顔をして堂々と幸せそうに生きてほしい。
そのためには「当たり前に、いろんな人が楽しめる空間」を作らなくてはいけない。作っていきたい。
瑠衣の言葉に、社長は目じりにシワを作り、うんうんとうなずいた。
「なんだか、今の大森は幸せそうに見える」
まだまだ、人生に切羽つまっている状態だと思っていたけれど、そう評価されることは嬉しいことだった。
「研修生のオーディションを受けにきた時の、キラキラした笑顔を思いだしたよ」
「ずいぶんさかのぼりますね」
あはは、と社長は笑う。瑠衣も、笑った。
こんなに前向きな気持ちで面談できたのは、いつぶりだろうか。瑠衣はほんの少しだけ、定年退職後の人生が明るいものにできそうな気がした。
「忙しくなりそうね! じゃあ、もうキッチンカーは卒業かな?」
話を聞いた光弦は、少し残念そうに言う。
「うん。ごめんね。ユニット本格始動の前に、家族旅行にも行くことにしたんだ」
「あらいいわね」
「亜未が行きたいところに行って、最大限甘えてもらうつもり」
果たしてそれで許されるのかはわからないけれど、あとで後悔しないためにも今やれることをやるしかない。自分のことじゃなく、亜未のことを最優先で考えていきたい。
こう考えられるようになったのも、光弦のおかげだ。
「みーくんにキッチンカーを無理やり手伝わされたことで、人生が拓けたからめっちゃ感謝している!」
「あらほんと? それはよかった」
「それと……みーくんにも言いたいことがあって」
「アタシ?」
光弦は驚いた顔で自身を指さす。
「この前、瑠衣と亜未には迷惑かけないって言ったでしょ。老後のことで。でも、少なくとも私には頼ってきてほしい。迷惑かけないなんて、そんなこと言わないで、いつか私を頼ってよ」
「瑠衣……」
光弦は、目をうるうるとうるませて瑠衣を見る。
「ついでにさ。どっちも独身だったら、私たち結婚しちゃえばいいよ。イトコ同士って結婚できるって言うし」
「は!?」
光弦はベンチから立ち上がる。大きな声に、道行く人がチラチラと見る。
「ええええでも瑠衣には愁二さんが……」
「べつに付き合ってないから! とはいえみーくんもモテるし、どうなるかわかんないけど……そういう未来も面白そうじゃない? 半分本気でそう思う」
「半分だけかい!」
瑠衣の言葉に、光弦はベンチにストンと座って空を見あげながら笑った。瑠衣も、大きな空を見上げる。河川敷の空はとにかく広大だ。すぐそばにはビルもタワマンもあるというのに、目に入らない。街の姿も人間の内面も、表裏一体でいろいろな顔がある。それを知っただけでも、瑠衣は少し大人になれた気がした。
「アタシたちが夫婦になるなんて言ったら、叔母さん超驚くと思うわ~」
「その顔だけ見たい!」
瑠衣と光弦は、けらけらと笑った。
亜未が新しい瑠衣の進路を応援してくれるかわからない。愁二と親密になるかどうかも。冗談半分で言った光弦との結婚も実現してしまうかもしれない。先のことは何もわからないから怖いけれど、わからないなりに楽しむしかない。
25歳から始まる、長い長いセカンドライフ。大森瑠衣は、いろんな顔をして渡り歩いていく。
了




