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アイドルを定年退職した大森瑠衣は幸せそうに見られたい  作者: 武田花梨
第六章 心の底から燃え上がるもの

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20/22

6-2

 こっちじゃなかった、と引き返そうとした時、また後ろから声をかけられる。


「落としましたよ」


 はっとなって振り返るが、床に何も落ちていない。視線をあげる前に、黄色いラインの入った車椅子がすっと視界に入ってきた。


「菜々子さん……!」


「どーも」


 昔からの友人に会ったかのように、気安い雰囲気で菜々子が手をあげた。


「こんなところでウロウロしてどうしたんですか?」


 周囲をきょろきょろしながら、菜々子が声をひそめて尋ねてくる。幸い、瑠衣に気づいている人はいない。


「トイレ行こうと思ったら、道を間違えてしまって……」


「あらま。一般客用は行列だから、関係者用のトイレを使った方がいいですよ」


「ですよね……」


 車椅子に座る菜々子の右足にギプスが巻かれていることに気づく。先日は右足だけで自転車を漕いでいたのに。瑠衣の視線に気がついた菜々子が、手で右足をぽんぽんと叩く。


「自転車で盛大に転んで、骨を折りまして……」


 あはは、と面白くなさそうに笑う。瑠衣は顔を青ざめる。


「だ、大丈夫なんですか? 無茶しないでくださいよ……!」


 瑠衣はしゃがみこみ、菜々子の顔と右足を交互に見る。


「大丈夫ではないわね。片足が使えないと日常生活の難易度が爆上がりすんのよ。最近すっかり右足に頼って生きてきたわけだから、正直申し上げて不便この上ない」


 想像するだけで、大変そう。さすがの菜々子も落ち込んでいるかと思いきや。


「でも、今日すみれドロップスのライブに来られたからラッキーよ。あやうく配信で見る羽目になるところだったんだもの。ギリギリ退院できたわ」


 今日のライブは有料で生配信もされる予定だ。骨を折っているのだから、無理しなくてもいいのに……と瑠衣は思ってしまう。


「配信でもいいのに……」


「だって! 健康な人と違って、いつどの会場でも気軽に行けるわけじゃないのよ? 日本武道館で次回もすみれドロップスがライブをするとは限らないじゃない」


「……すみません」


 つい、自分の基準で物事を考えてしまう。まだまだだな、と瑠衣は内心反省した。


「で、でもほんと、菜々子さんはすごいですね。悪いことじゃなくて良いことを数えられるタイプなの、羨ましい」


 瑠衣は、自分だったら……と想像する。せっかく自転車を始めたというのに骨折してしまったら、きっともう二度と、何にも挑戦したくなくなる気がする。


「最初から、そうやって生きてきたわけじゃない」


 瑠衣の羨望の眼差しを受けて立った菜々子は、少し怒りの気持ちをにじませて瑠衣を見おろした。普段陽気な菜々子からのはじめての視線に、瑠衣は思わず固まる。


「リハビリで足を動かせるようになったように、性格も訓練して変えていったの。180度変わるわけはないけど多少はね。悪いことを数えていたら、生きるのが嫌になるもの」


「そう……ですよね」


 瑠衣は、しびれた足を気遣いながら立ち上がる。


 いつまでもネガティブに、思い悩んで、自分だけが可哀想な顔をして生きていることをとがめられた気分だった。事実だからこと、何も言い返せずただどんよりと重苦しくなる。


「あんまり思い悩んでいると、病むわよ。超病み倒した私が言うんだから間違いナシ!」


 わはは、とわざとらしい笑い方をする。きっと、空気が悪くなってしまったから明るくしてくれたのだろう。瑠衣が菜々子を傷つけたのに、菜々子に救われてしまった。


 性格も、訓練すれば多少は変わるというのなら、やってみようかな……と瑠衣が考えていると。


「あ、瑠衣さーん!」


 大きな声で呼ばれて、瑠衣は飛び上がらんばかりに驚く。立ち上がって周囲を見ると、愁二がずんずんと大股で歩いてこちらに近寄ってきた。なんでここに愁二が?


 愁二の声により、周囲の人が瑠衣を認める。車椅子の女性と話しているところに男性が来たというシチュエーションに不思議なまなざしを向けてくるが、ファンの人は見て見ぬふりをしている。ありがたいような、言い訳するチャンスが欲しいような。


「あ、どうも……どうしたんですか?」


 わざと、よそよそしく返事をする。


「菜々子さんの介助で呼ばれて! いつもお母さまが付きそうそうなんですが……」


「ひとりだと田安門のあたりの上り坂は登れないから、いつも母に介助をお願いしていたんだけどね。でも今日は風邪ひいちゃって」


 と言いつつ、瑠衣の顔をニヤニヤと見てくる。菜々子の母が風邪を引いたというのは本当だろうかと思いつつ、追及しないでおいた。


「瑠衣さんも、すみれドロップスのファンなんですか?」


「いや……」


「僕、菜々子さんにすみれドロップスのこといろいろ教えてもらってて。ミュージックビデオを見たんですけど、瑠衣さんにそっくりな人がいてびっくりしました」


 それ、私ですけど……と言うべきか。菜々子はどういうつもりでミュージックビデオを見せたのか、軽くにらんでやると、肩をすくめて目をそらした。


 ああもう、ややこしいから正体を明かしてしまおう。瑠衣は意を決する。だってもう、愁二とのことはどうでもいいと思ったんだから、たとえ嫌われたとしてもショックではない。瑠衣は伊達眼鏡を外す。


「愁二さん、そのそっくりな人、私です」


「え? でも今お客さんとしてここにいるじゃないですか?」


「去年の秋に卒業したので、今はすみれドロップスのメンバーじゃありません。OGとして見に来たんです」


 愁二は口をパクパクさせて菜々子を見た。


「菜々子さんは知ってて……?」


「当たり前です。見たらわかるでしょ」


「えー」


 愁二は、瑠衣の顔をじっと見つめたあと、顔を赤くした。どういうリアクションか、と瑠衣は身構える。


「ずいぶんお綺麗な人だとは思ってましたが……」


 愁二は手で口を抑え、それ以上の言葉を発しなかった。


 お綺麗、だって。アイドルを卒業してからというもの、男性に褒められることはなくなっていた。だから、久しぶりに綺麗と言われて……思った以上に、瑠衣は戸惑った。そんな風に思ってくれていたなんて。好かれないと思っていた分、その落差に戸惑う。


 最近、容姿を褒めることすら失礼であるという風潮だけれど、多少なりとも容姿を売りにしている瑠衣にとっては、やっぱり嬉しい。


「あ、ありがとうございます……」


 瑠衣は、もじもじと伊達眼鏡をかけなおす。愁二は、自分の足元を見つめる。ファンの人が見ている、とは思うものの、取り繕うようなセリフは出てこない。


 生きている世界はきっと違う。人生観が違う。そう思ったけれど、もしかしたら理解しあえるかもしれない。


 そんな期待をしてもいいのかな。


「あのー、お2人さん? もじもじしていないで、連絡先の交換くらいしたら?」


 菜々子の言葉で、じゃあ……と瑠衣と愁二は連絡先を交換する。こんな風に、男の人と連絡先交換をするのははじめてだった。しかも、すみれドロップスのファンにちらちら見られながら。あとあと、ネットでなにを書かれるのか……。


「あの、菜々子さんとも連絡先交換したいです」


 瑠衣の言葉に、菜々子は首を振る。


「ファンが推しと繋がるなんて言語道断。許されない」


「でももう、アイドルじゃないし……」


 瑠衣の言葉に、菜々子はカッと目を見開く。食われるかと思った瑠衣は後ずさりする。


「あのね瑠衣さん。アイドルって言葉には、いろんな意味合いがあるの。日本では歌って踊るアイドルが一般的だけれど、国によっては「憧れの人」「尊敬している人」っていう意味が合いが強いの。正直申し上げて、私にとって瑠衣さんは永遠のアイドルであることに変わりないから!」


 物凄い圧と熱量。瑠衣は、ただ頷くしかなかった。連絡先はダメだけど、こうして気軽に話しかけるのはアリなのか……というツッコミは、心の中にしまっておく。一線の引き方は、人それぞれ。


「じゃ、そろそろ開演だから行かないと」


 菜々子が車椅子を操作し、方向転換する。


「愁二さんも、車椅子席で?」


「はい。介助者用の席を用意してもらってるみたいです」


「見やすい席よー。関係者席の後ろだから、瑠衣さんの後ろ姿も見られるわね。るいるいのいなくなったすみれドロップス、お手並み拝見。じゃ、また」


 瑠衣に後ろ姿を向け、すいすいと車椅子の菜々子は遠ざかっていく。


「じゃ、じゃあ瑠衣さん、連絡します」


 菜々子の後ろを、愁二がついていく。


 連絡します、だって。どんな関係になるか楽しみだった。



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