5-2
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瑠衣はひまりの家に泊まりに来ていた。ひまりは明日の武道館公演を前に気持ちが落ち着かないということで、いつものように呼ばれた。
「ねー瑠衣ちゃん、明日、ちゃんと観に来てくれるんでしょ?」
「あー、うん。まあ」
瑠衣はすみれドロップスのOGということで、事務所から日本武道館に招待されていた。すみれドロップスのライブを外から見るのは初めての経験だった。
「なによ、歯切れが悪いんだから。やっぱ行けないはなしだよ」
ひまりはしゃべりながらも、コンサートの構成表やタブレットのリハーサル映像にひっきりなしに目を通している。もう覚えたでしょ、と言っても、不安だからと同じところを確認している。時間は深夜二時になっていた。「明日来てくれるんでしょ?」「本当に来るよね?」という質問も、もう何度目か。
行きたいか行きたくないかで言えば、行きたくはない。
幸せそうじゃない。落ちぶれた。劣化した。
そう言われるのを分かった上で、みんなの前に顔を出すことにためらいがあるに決まっている。今、なにも充実していない瑠衣を人前にさらけ出したくはなかった。でも行かない方があとあと面倒になる気もしているから、行く。
「怖いだろうけどさ、喜んでくれる人もいっぱいいるよ。メンバーも、瑠衣さんに会いたいっていつも言ってる」
他人のこととなると楽観的なひまりが言う。
「喜んでくれる人もいるだろうけどさ……。なんか、表舞台に立たなくなると、急に人の目が怖くなるんだよ。ステージに立っている時は、みんな私を見て! って思うのに」
「わたしなんて、そのモチベしかないよ。目立ちたいからアイドルやってるんだもん」
構成表やタブレットから目を離して、ひまりが笑う。
瑠衣はあくびを噛み殺しながら、眠気覚ましのエナドリを口に含む。この調子だと、まだ眠れなさそうだ。
「あの、さ。瑠衣ちゃん」
かしこまった態度で、ひまりが瑠衣を正面から見る。急になんだ、と思って瑠衣も姿勢を正す。
「明日、ライブ中に発表する予定だったんだけど、瑠衣ちゃんには先に言っておくね」
「え、何? 怖いんだけど」
ごくり、とエナドリを喉に流し込む。なんとなく、察しはつく。自分を含めて、これまでのメンバーがやってきたころだ。
「わたしね、秋頃にすみれドロップスを卒業するって決めたの」
とうとうそのときが来た。
すみれドロップスの結成時メンバーは6人、ひまり以外の5人は全員卒業している。つまり、ひまりが最後のオリジナルメンバーというわけだ。否が応でも大きな区切りとなる。
「そう、なんだ。まだ、23歳なのに」
かすれた声に気づいているのかいないのか、ひまりは穏やかな笑顔を浮かべている。
「ちょっと早いけどね、でもセカンドキャリアは早い方がチャンスも多いから」
そっか、と返事をしたつもりだったけれど、口の中に言葉がこもる。すみれドロップスは卒業と加入を繰り返して10年続いてきたグループだ。とはいえやはり、メンバーの卒業は寂しいものがある。特にひまりは、最後のオリジナルメンバーだ。すみれドロップスを結成から知るメンバーがいなくなる、ということ。
「みんなにはまだ言ってないから、ナイショね。事務所の人以外は瑠衣ちゃんにしか言ってないの」
「お母さんにも?」
ひまりはこくんとうなずく。
親よりも先に知れたことに、若干の優越感が生まれてしまう。
「メンバーと、OGのみんなには、明日言う。ライブ前に動揺させちゃうけどね」
ひまりは、うふ、とわざとらしく握った両手をあごの下に置いた。
ひまりはそろそろ卒業するのではないか、と予感したことはあったけれど、こうも早いとは思わなかった。せめて来年、再来年でも……。瑠衣は寂しさに目の奥がツンとなる。すみれドロップスが、違うグループになっていくような感覚。
「辞めた後のこと、考えてるの? ひまりならソロ活動でも活躍できると思うけど」
うーん、と言葉にならない吐息のような逡巡を漏らし、ひまりはルイボスティーの入ったマグカップを指でもてあそぶ。
ハッキリしない態度に、嫌な予感がした。
ひまりは瑠衣と視線を合わせず、部屋の隅を見ながらぽつりと呟く。
「……地元に戻って教育関係の仕事に就きつつ、婚活でもしようかなって」
地元に戻って婚活、という言葉に瑠衣は固まる。
ひまりがそんなことを考えているなんて、知らなかった。結婚なんて興味ないと思っていた。
『おばさんになってもお互い独身だったら、一緒に暮らそう』
眠るひまりに、そう問いかけた自分が恥ずかしくなる。こんなに一緒にいたのに、何も知らなかった。
「そか、婚活か……」
うまく言葉が出てこない。かろうじて、相槌程度の声をなんとか漏らせた。
「瑠衣ちゃんも知っての通り、わたしって甘ちゃんで、ひとりで生きられないと思うんだよね。だから家族を作りたいの。それなら早い方がいいかなって。ちゃんとした仕事をしていたらまともな人と知り合えそうじゃない?」
それは、人によるだろうとは思うけれど。でも、ひまりの言わんとしていることはよくわかった。
「それも逆算した上で、大学に行ったんだね」
こくん、とひまりはうなずいた。
瑠衣は、打ちのめされていた。ちゃんと人生の設計図を描いて行動してきていたひまりと、何も考えずその場その場で行動してきた瑠衣との差は大きい。
「で、でも。うちらは全然恋愛してこなかったじゃない。大丈夫? ヘンな男にひっかからないか心配だよ」
卒業後、経験不足とこじらせた承認欲求などにより、ろくでもない男にひっかかってしまう真面目な元アイドルの話はよく聞く。毎日ファンから浴びてきた「好き」「可愛い」を一人の男性に求めた結果なんて、よい結末になるわけもない。
しかし、ひまりはあいまいな笑顔を浮かべるだけで、何も言わない。
どうして、と思った瞬間、ひまりはゆっくりと口を開いた。
「ごめん瑠衣ちゃん。彼氏がいた時期、あった」
ひまりは、力強い声で言った。その人生を選んだことに悔いはないとでも言いたいかのように。
瑠衣は崖から蹴落とされた気分になる。地元に戻って婚活、と聞いたときよりも、深い深い谷底に落ちていく。苦しい。ひまりは、言い訳のように言葉を続ける。
「いつか言わなきゃと思ってたんだけど……。瑠衣ちゃん、ひまに彼氏がいた過去があるなんて、思ってもみなさそうなんだもの。がっかりされるのが怖かった。瑠衣ちゃんは、わたしのこと買いかぶりすぎだよ」
冷めたような、達観したような、悲しそうな。ひまりのこんな表情、見たことがない。瑠衣は谷底からひまりを見上げる。
どんな顔をしたらいいかわからなかった。裏切られた、というのも違う。がっかりしたというのも違う。ただただ、目の前にいるひまりのことが見知った人間には見えなかった。
瑠衣だってもう、25歳だ。何一つ後ろ暗いことのない人間などほとんどいないくらいわかる。けれど、ひまりが恋愛していたってことは、あまりにも信じられなかった。
「で、でも、ひまりはファンの人のことを第一に考えて……」
自分の知っている羽鳥ひまり像を押し付けるために、瑠衣は震える唇を開く。
「考えてた。でも、あの日、わたしは自分の人生を一番に考えてしまった。だから、卒業しようって決めたの。もう、誰かのためには生きられない気がして」
ひまりの言う「あの日」がいつのことなのか、どんなシチュエーションだったのか、相手は誰なのか、聞きたくもなかった。
彼氏がいた時期があったと言うことは、今はいないのだろうか。でも確実に、アイドルではなく一人の人間としての人生を選んだ瞬間があったのだ。
けれど、それに気づいてアイドルを辞めようと思ったことが、瑠衣にとって救いだった。
「やっぱ、ひまりは真面目じゃん」
思いもよらない言葉に、ひまりは大きな瞳をゆらして瑠衣を見つめる。
「え、聞いていた? わたし、彼氏を作って……」
「ほとんどの子は、バレなきゃいいって彼氏作るじゃない。バレたら「友だちです、勘違いさせてごめんなさい!」って言って、活動を続ける。でもひまりは、バレてもいないのに卒業するって決めた。自分の心とファンの人にウソは付けないって思ったんでしょ。やっぱ、真面目だよ」
瑠衣の言葉に、ひまりはふぅー、と大きな息を吐いた。
「瑠衣ちゃんはすごいね、全部いいように言ってくれる」
「私はそう思うだけ」
ひまりはようやく、笑顔を見せてくれた。
「瑠衣ちゃんみたいな男の人と知り合えたらいいなぁ」
それは無理だよ、と思ったけど、瑠衣は口を開かなかった。こっちは10年の付き合いなのだ。アイドルの研修生になっていちごを譲ったあの日から、10代という多感な時期を家族以上に多くの時間を過ごしてきた。昨日今日出会った男にそれを求めるのは酷だ。
私でいいじゃない。どうして男じゃなくちゃいけないの。そうは思っても、口には出せなかった。
「……山梨に戻っても、友だちでいようね」
瑠衣の、絞り出すような声にひまりは目を丸くする。
「当たり前じゃない! 東京駅から甲府駅まで特急で2時間かからないし。しょっちゅう会えるよ」
「ありがと」
「こちらこそ!」
これだけ長く一緒にいても、ひまりのことなんて何も知らないんだと思うと、瑠衣は自分を買いかぶっていたのではないかと思う。それなのに、愁二とほんのわずか会話を交わしただけで「私には合わない」と断言するのも、光弦の言う通り尚早なんだと痛感する。
「さ、もう寝よう。明日は朝からリハーサルでしょ。もう3時だよ」
「そうだね。なんか、瑠衣ちゃんに真実を告白したらすっきりした。よく眠れそう!」
私はすっきりしてないけど。瑠衣は唇を噛んで言葉を押しとどめる。
歯磨きをして、いつものようにシングルベッドに密着して眠る。すぐに、ひまりはかわいらしい寝息をたてた。でも、瑠衣は眠れそうもなかった。
こうして、知らない男の腕の中で眠ったのだろうか。そのとき、ファンの人の顔は思い浮かばなかったのだろうか。考えても仕方ないことばかりが頭をめぐる。
苦しかった。自分の進路が決められない以上に、ひまりに彼氏がいたことが。彼氏がいたのに、「私たちは恋愛経験がない」と言う瑠衣に合わせていたことが。
とてつもなく、バカバカしい。
許す許さないの問題ではない。ひまりは自分でけじめをつけるのだし、瑠衣があれこれ考えることでもない。けど、でも、今まで通り接するためにはやはり、時間が欲しいと思った。
「ごめん」
瑠衣は、そっとベッドから抜け出す。音を立てないよう静かに荷物をまとめて、部屋着のまま外に出た。合鍵でそっと鍵をしめて、ひまりの住むマンションを出る。一番暗くて寒い時間。
潔癖だと言われるだろうか。昔のことなのに気にしすぎなのだろうか。明日……今日のライブを、どんな気持ちで観たらいいんだろうか。
ほかのメンバーだったら、彼氏がいたと聞かされた所で「ああそう」という感想になるけど、ひまりは違う。ひまりだけは違うと思っていた。
時間を確認するためにスマホをつけると、眩しい光に思わず目を細める。朝4時半。もうすぐ、朝日が昇るだろう。駅近くの公園のベンチに腰をおろす。ひまりの家を出てきてしまったこと、正しい行動だったのだろうか。自分の感情を押し殺してでも、気にしてないそぶりを見せるべきだったのではないだろうか。今なら、何食わぬ顔をしてひまりの隣で眠ったフリができるんじゃないだろうか。でも――できない。
瑠衣がいなくなって、ひまりは朝びっくりするだろう。いや、そもそもひとりで起きられるだろうか? 寝起きが悪いのに、武道館公演のリハーサルに遅れたら大変だ。
時間になったら、用があるから先に出たと言いつつ連絡して起こしてあげよう。そうすればきっと、ギクシャクしない。大丈夫。そう言い聞かせて、瑠衣は始発の時間を調べ始めた。




