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見知らぬ男性と出国するはずだった日は、過去になってしまった。
窓から射し込む陽射しで、時間の経過を感じる事は出来るが、あの日以来、私は、食べているか、うたた寝をしているか、彼に抱かれているか………、の日々を過ごしていた。
もう、今日がいつなのかも、どれほどの時が経っているのかも、分からなくなっていた。
窓から見える遠くの山々や、見下ろす壁の内側にある庭園の、小さな花々が私の荒んだ心を慰めてくれる。
一度、情事の後、聞いてみたことがある。 「何時まで、ここに居ないといけないの?」
すると、彼は言った。「何を言っているの? 僕と結婚したいんでしょ? 一生ここに住むんだよ」
私は言葉を失った。 もう、彼と一緒になりたい気持ちは微塵もない。 結婚したかったのは、もう昔の話なのに。
それに、ここは家じゃない。
もしかしたら、従順にしていれば、ここから出してくれるかも。といった、私の淡い期待は打ち砕かれた。 こんなにも大人しく、囚われているというのに。
飽きることなく、彼は私を抱く。脱け殻のようになった私を、彼は抱く。 毎日、毎晩。
最近では、甘い香りを漂わせている。 媚薬でも使っているのだろうか。 そこまでして、毎晩、私を抱く理由は何なのだろうか。などと、考えてはみるが、ねっとりとした甘い香りに我を忘れてしまう。 私は、狂ったように彼の口唇を貪ぼり、嬌声を上げる。 ひと時の快楽に、身を任せる罪悪感に浸りながら、ま白いシーツを汚していく。
ふと、我に返るとすでに陽は高く、もちろん彼は隣にいない。 私は、いつもひとりぼっち。
「こんな生活、いつまで続くのかしら………」
気怠い身体を持ち上げ、あられもない姿で窓辺に立つのが、日課になっていた。 どうせ、誰にも見られやしない。
そんなある日、夕暮れ時から何やら外が賑やかだった。 どこからか、楽隊の音楽が聞こえる。 窓辺に張り付くと、せまりくる夕闇に抗うように、明るくなっている箇所に気が付いた。
「夜会でも開かれているのかしら?」
そうだとするなら、ここは宮殿の敷地内なのかもしれない。 どこか町外れの、使われていない『見張り塔』に囚われているのだろうと思っていた。
だが、宮廷病棟から馬で、数分の距離にあるだろう高い塔。 その塔から見える広い庭園に防護壁。 そんな建物が集まる場所。
考えれば考えるほど、ここが宮殿内のような気がしてくる。 寝てしまっていたから、病棟からの距離は分からないけど。
「逃げられるかもしれない」
私の胸は期待に高鳴る。 宮殿の敷地内なら、誰かに頼んで古い友人と連絡を取ることも可能だろう。
幸いな事に、ここにはタオルとシーツは山のように用意されていた。 これをつなぎ合わせれば、地面近くまで伝って降りる事が出来るかもしれない。 届かなくとも、怪我をしない高さ位までには………。
「それにしても、こんなに大々的な夜会なんて珍しいわね………」
オレンジ色の列が夕闇に浮かび上がる様子を、窓枠にしがみついて眺めていた。
馬車のカンテラの灯が繋がる様子から見て、相当な規模だと想像がついた。 国内の、ほとんどの貴族が招待されているのだろう。
その時、ふと思い出した。 あの、見知らぬ男性を。 隣国の護衛騎士だと言った彼を。
私は記憶の糸を辿る。 「一緒に出国しよう」と言われたが、本来の帰国日はもっと、ずっと後だったはず。 「他にも護衛騎士はいるから問題ない」確か、そう言っていた。
「なら、あれは彼らの夜会なのかもしれない」
そう思いついた私は、逃げ出すなら、明日早朝だと考えた。
「きっと彼は夜会に参加するだろうから、今夜は来ないかもしれない」
弾かれるように窓から離れた私は、リネンが仕舞われている扉を開け、シーツを引っ張り出した。 それらを結びつけ、ロープを作るのだ。
黙々とロープを作り続け、我に返ると足元にはシーツのロープが、グルグルと渦を巻いている。 余程集中して作っていたようだ。
「これだけあれば十分でしょ」
私はロープを手繰り寄せながら満足する。 これで、やっと逃げる事ができる。やっとだ。
念の為に、ロープの山をベットの下に押し込んだ。 明日、陽が昇る頃、まだ人々が動き回る前に、ここから逃げるのだ。 絶対に逃げ出してやる。
そして、隣国の荷馬車に潜り込み、そのまま出国する。 見つかったら、それはその時だ。
窓の外を見てみれば、闇夜にまだオレンジの車列が浮かぶ。 こちらに向かっているのか、帰るのか。
そして、月は見えなかった。
「このまま、闇夜に紛れた方がいいのかも………」
私は椅子を手に、窓辺へと戻った。 丁度その時、私の鼻腔に甘ったるい匂いが届いた。 思わず顔をしかめる。
「今日は来ないと思ったのに………」
ガチャガチャと鍵が開く音がして、鈍い音と共にドアが開く。 薄暗い灯に照らされた彼から、少しアルコールの匂いも漂ってくる。
「何をしていた?」
「珍しく、灯の列が続いているのが見えたので、眺めていました」
私の肩越しに窓の外に視線を動かした彼は「あぁ………」と納得したようだ。
そして、酒臭い息で私の口唇を塞ぐ。
「今日は来ないと思ってたわ」
「なぜ?」
「だって、お忙しいでしょ?」
私は、拗ねてみせる。 すると、彼はクツクツ笑い出す。
「嫉妬深い君を黙らせるには、コレが一番だろ?」
そう言って、彼は自身の下腹部を押し付けてくる。 媚薬のせいだろうか、酔っているはずなのに。
私はウンザリしながら、彼の首に手を回す。 そして、彼の口唇を、舌を、受け入れた。
(また、朝までかしら。 逃げ出すチャンスがなくなるわ………)
そんな事を考えいたはずの、私の小さな頭は、あっという間に彼に翻弄される。 彼の口唇に、舌に、指先に、全身がほどけていく。
―――ところが事が終わると、彼は早々に部屋を出ていった。 まだ、一回しかしていないのに。 まだ、身体の奥が疼いているのに。 足りない。 ぜんぜん足りない、拍子抜けだ。
だけど、チャンスだと感じた私は、眠ったフリをする事にした。 気付かれないように寝息を立てた。
カチャリと小さく鍵の締まる音がして、コツコツと規則正しい足音が遠ざかる。 私はゆっくりと重たい身体をベットから起こし、一つしかない窓に近づいた。
暗闇に目を凝らすと、小さなオレンジの灯が一つ、ゆっくりと遠ざかっていく。 私はその灯が消えてなくなるまで、身動ぎ一つせずに見守った。
今日の彼は酔っていた。 酔いすぎて媚薬の効果も薄かったのだろうか。 いつもなら陽が昇る頃まで、少なくとも空が白みはじめるまで、私を離さないのに。
お陰でまだ、私は自分自身を保っていられる。 体力があり余っている。
私の口から、聞いた事の無い声が漏れる。 くぐもる様な笑い声。 それが、だんだんと大きくなる。 私は高笑いを上げた。
「やっとだ。やっとだわ。さぁ、早く逃げ出さないと」
浴室に駆け込んだ私は、自分の身体にお湯をかける。 とても心地よいその液体に、重だるい身体を浸けてしまい衝動に駆られるが、一刻の猶予も無い。 サッと洗い流し、真新しいワンピースを引っ張り出した。
私は椅子を手に取り、引きずりながら窓辺へ向かう。 そして、その椅子を持ち上げ思いっきり窓へ投げ付けた。
パリンッ
乾いた高い音が部屋に響いた。 少し温度の低い空気が、部屋になだれ込む。
私はテーブルの脚に、シーツで出来たロープを縛り付け、少し引っ張ってみる。 若干、心もとないが仕方がない。
そのまま、拙いロープを手に窓枠に登り、一歩を踏み出した。
ガタンッとテーブルが動き、窓枠に引っかかるのを感じるのと共に、私の身体は宙に浮く。
背すじがヒヤッと冷たくなるが、もう、引き返せない。 見下ろせば、奈落の底が如く、漆黒の闇が口を開けている。 地面が見えない。
「早まったかしら………」と、不安定な足場と揺れる身体に不安しかない。
でも、進むしかない。 恐怖心を抑え込みながら、壁に脚を踏ん張り、ゆっくりとロープを伝い降りてゆく。
何度も落ちそうになった。が、何とか地面が見えるところまで、脚が届きそうな所まで降りてきた。
もう、手が限界だった。 私は手を離し、飛び降りた。
ザクリ、と手のひらに痛みが走る。 ガラスの破片で手のひらを切ったようだ。
だが、闇夜に傷もガラスの破片も見えやしない。 そんな事より、一刻も早く、隣国の荷馬車を探さなくては。 いったい何処に、迎賓館があるのやら………。




