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「おかわりは、如何ですか?」
見知らぬ男性が、私の空のグラスを取り上げ、変わりに琥珀色の液体が入ったグラスに取り替える。
初めて見る顔だった。 私に話しかけるという事は、この界隈の交友関係に疎いのだろう。
「同じ飲み物ですよ」
そう言うと彼は、やはり同じ琥珀色の液体が入ったグラスを傾け、私のグラスにカチンと合わせる。
困ったな………。 正直、私は困ってしまった。
チラリと彼の方に視線を向けると、やはり、氷のような視線をこちらに向けていた。
彼は嫉妬深い。 それも、尋常じゃない。
自信の事は棚上げで、私が少しでも異性と話しているだけで激昂する。 ただの世間話だとしても関係ない。
そのうち、同性と遊びに行くことも嫌がるようになった。
「お前たち女が集まると、ろくな話をしない」
そして、私は全ての社交に出られなくなった。 参加できるのは彼が同伴するものだけ。 それさえも、誰とも話す事を禁じられていた。
彼と交際するために、ずいぶんとひどい態度をとってきていた事もあり、私に話しかける物好きな令嬢はいない。
ただ、幼い頃からの家族ぐるみの付き合いのある令嬢だけは、彼に気付かれないように交流を続けてくれていた。
今思えば、その古い友人の忠告を聞いていれば良かった。
「それは、愛情じゃないわ。 独占欲よ」
まだ、異性に興味を持っていなかった古い友人の話など参考にもならないと、私はその古い友人の話を聞き流していた。
当時の私は、その異常な独占欲さえ、愛のある束縛だと喜んでいたのだ。
なんと愚かなことだろう………。
そんな後悔をしながら私は、見知らぬ男性にもらったグラスに口をつけ、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
見知らぬ男性は、当たり障りの無い話題を振ってくる。
うわの空で空返事をしながら、彼が怒りに任せて私を殴ってくれれば、それを理由に別れられるのではないか。と、考えていた。
ところが彼は激昂するどころか、いつも以上に他の令嬢との距離を詰めていた。
とうとう私に見切りをつけてくれたのかと、内心喜んだ。 通常であれば、すぐに別室に連れて行かれ、私が謝るまで「調子にのるな」「ブサイクのくせに」など、暴言を浴びせ続けるのだ。
それならばと気が緩んだ私は、見知らぬ男性に話かけた。
「初めてお会いしますが、どちらの方ですか?」
「やっと声が聞けた」と、見知らぬ男性はわかりやすく喜んだ。
見知らぬ男性は、隣国の騎士だった。 この夜会に参加している貴族の護衛の為に参加している。と、教えてくれた。
「こんな所で私と話していて良いのですか? 護衛対象の側にいなくてはならないのでは?」
私の想像する『護衛騎士』は、対象者の背後に圧を放ちながら立っている。
すると、見知らぬ男性はクツクツと笑い出す。
「大丈夫ですよ。 心配なさらないでください」
互いに挨拶をし、言葉を交わした間は、それ程長くなかったと思う。 彼がいつも他の令嬢たちと交流している時間は、もっと長い。
ところが、突然彼が現れ、私は腕を掴まれた。 彼は怒りをあらわにしていた。
いつの間に近くに来ていたのだろうか。 彼に気付かないほどに、見知らぬ男性との時間は楽しかったのだろうか。
私は掴まれた腕の痛みよりも、そちらの方に驚いていた。
「ずいぶんと楽しそうだな」
彼に引きずられるように、私はその場から離れた。 見知らぬ男性は、そんな私に手を降ってくれていた。 手を振り返したかったのだが、そんな事をすれば、『見知らぬ男性』が彼に何をされるか分からない。
引きつった笑顔で話しかけてくる彼は、恐怖だった。
思った通り、近くの空き部屋に押し込まれた私は、床に投げ捨てられ暴言を浴びせられていた。
いつもは、必死に謝罪するのだが、私は黙っていた。
かえってそれが彼の怒りを煽ったようで、彼は手当たり次第に物を投げ始めた。 さすがに、私に当てることはなかったが、やっぱり怖いものは怖い。
暴言を吐きながら迫る彼から逃げるように、私は壁際に追いやられた。
鈍い痛みを感じ、手首に視線を落とすと、彼に掴まれた所が薄く色が変わっていた。
ガシャン!
ひときわ大きな物音がして、私の横の壁で燭台が割れた。 その燭台の欠片が、私の頬に当たる。
チクリとした痛みが走り、頬を何かが伝う感触があった。
すると、私の名前を叫び彼が駆け寄ってくる。 「大丈夫か?」と尋ねながら、側にしゃがみ込んだ。
大丈夫も何も、貴方のやった事ではないか。 私は何も話さなかった。 頬を押さえた指の隙間から、血が流れていた。
私はこの機会を逃してはならないと考えた。 別れを切り出すのには、最高の舞台だ。
私は彼を押しのけ、部屋を飛び出した。 思った通り、慌てた彼は追いかけてくる。
会場に戻った私は、振り返り彼に伝えた。
「もう、耐えられない。 私と別れてください」
皆の視線が集まる。 会場内がざわついている。 私の腕を伝って、血の雫がポタリと落ちた。 小さな悲鳴が聞こえた。
やっと、やっとだ。 悪魔のように彼から離れる事ができる。
「ごめん。ごめんよ。もう、痛いことはしないから、許してくれ」
彼が必死に謝ってくる。 だが、絶対に許すものか。 私は彼に背を向け歩き始めた。
だが、彼は尚もすがる。 また、腕に痛みが走った。
「やめて、離して。 もう、あなたとは関わりたくないわ」
強気の私は、ここぞとばかりに彼を拒絶する。 何処にいたのか、古い友人が駆け寄り私と彼の間に立ちはだかった。
「彼女を医務室に連れて行くわ。 手を離してちょうだい」
ようやく彼の束縛から、逃れられた私の心は、晴れやかだった。
******
宮廷医師の診察を受けている間中、診察室の外で彼が叫んでいた。
たまりかねた看護師が、彼の入室を許可しようとしたので、私と古い友人は必死に断った。
私は事の顛末を説明した。 そして、やっと別れられる事まで話してしまった。
それ程までに、私は浮かれていた。
私を心配した医師は、宮廷内の病室で傷が癒えるまで休む事を提案してくれた。 一週間もあれば、傷口は落ち着くだろうと。
「ですが、傷跡は薄く残ってしまうと思います」
申し訳なさそうに伝えてきたが、彼との関係が絶てるのなら安いものだ。
古い友人は、私の手を取り喜んでくれた。
「ずっと、心配していた。このままじゃ、あなたがおかしくなると思っていた」
「ありがとう。 ずいぶんと掛かったけど、やっと自由よ。 本当にありがとう」
私たちは互いに抱き合って、おいおいと泣いた。
看護師に案内された病室は、高貴な方々の為の棟にあり、強固な警備が行われている。
「ここならば、あの方も入ってこられないでしょう」
そう言って、宮廷医師や看護師は安心するように言ってくれた。
ところが、私たちの思惑は見事に外れた。
翌朝、彼が現れたのだ。 彼との仲を取り持ってくれた彼女と共に、私の病室に訪れたのだ。
案内してきた看護師も、何とも言えない表情を浮かべていた。
―――失念していた。 彼の遠縁であると聞いた彼女は、高位貴族だ。
「あなた、すごい所に入院しているのね」
彼女は嬉々として室内を見回っている。
私はベットから上半身を起こし、彼女を手招きした。 彼は入口近くのソファーに腰を降ろし、睨むように私を見ていた。
「昨日の騒ぎ、聞いてないの?」
不思議だった。 私は昨日、フロアの真ん中で彼に別れを告げたのだ。
あの場にいた彼女が、事の顛末を知らない訳が無い。
「知ってるわよ。 でも、彼がどうしても、あなたに謝りたいって」
彼女は屈託なく笑う。 私は頭を抱えた。
「それにしてもあなた達スゴイわね。 そんなに盛んだとは思わなかったわ」
「どういう事?」
私には彼女の話の意味が分からない。
「彼も謝っているのだから、意地を張ってないで、もう、許してあげたら?」
私は驚き彼女の顔を見つめる。 私は彼に怪我を負わされたのだ。 意地も何も無い。
「あの部屋で、ちょっと激しい行為をしていたのでしょ? 道具を使って。 ちょっと彼が急いてしまっただけじゃない。 今度は上手くいくわよ」
「ちょっと待って。 意味が分からないわ。 どういう事?」
すると彼女は言ったのだ。 ちょっと顔を赤らめ、横目で彼をチラリと見ながら。
「あなたがまだ、十分に解れていないのに、道具を使われたのでしょ? それは、痛そうだわ」
私は目眩を感じた。 どうして、そんな話になるのだろうか。 彼がそう言い訳しているのだろうか。 そうだとしたら、恥ずかしすぎて外に出られなくなる。 と、当時に怒りも沸いてきた。 なんと失礼な言い訳なのだろうか。
「まぁ、そういう事なのだから、仲直りしなさいよ。 私は外で待ってるわね」
彼女はヒラヒラと手を振り、何やら気分良さそうに部屋を出ていってしまった。
仲直りのキッカケを作った事に、満足しているのだろうか。 そうだとしたら、冗談じゃない。
彼女が部屋を出ていったのを確認した彼は、能面のような無表情で私に近づき屈み込む。
そして、私の顎を掴み耳元で囁いた。 地の底を這うような低い声で。
「俺から逃げられると思うなよ」
私は身動き一つできず、凍てつく彼の視線を浴びていた。




