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(まただ………)
グラスに口をつけながら私は、彼が他の令嬢と親しげに接している様子を、腹ただしく思いながら眺めていた。
こうなる事がわかっていたから、今日の夜会は欠席したかった。 が、既に出席の返事を返してしまっている上に、彼が私の欠席を許さなかった。 仮病も使えなかった。
どうせ会場では別行動になるのだし、彼はいつも私を置いて、他の令嬢たちと親しくしている。 なら、私も楽しめばいい。 でも………。
―――私の存在価値は?
毎回、自問自答するが、答えは見えない。 何のために私たちは交際を続けなければならないのだろうか。
初めの頃は、彼の浮気グセが許せなくて、彼に対し声を荒らげ、怒りをぶつけた事もあった。
ところが彼曰く、身体の関係が無いのだから浮気ではないという。 これも『社交の一部』だと言い張る。
そもそも、身体の関係があるか、ないかなど、私に確認できるはずもない。 というか、私調べでは、彼女たちとも、かなり親密な関係を持っていたようだった。
そんな事が続けば、感覚も麻痺するのか、彼に対する熱も醒めていく。 今では、どうでもいい。
そもそも、私は彼に対して恋愛感情を持っていたのだろうか? ただ、単に浮かれていただけかもしれない。と、思うようになっていた。
*****
―――あの日、成人して社交を始めたばかりの私にとって、王宮の夜会は憧れの場所だった。 全てがきらめいて見え、フロアで踊る令息令嬢は見目麗しく、溜息が出るほどだった。
やっと、憧れていた大人の仲間入りを果たせた事に、当時の私は感極まっていた。
数年が過ぎ、社交にも慣れ、そろそろ婚約話が出始める年齢になった頃、一部の令息たち、眉目秀麗で地位のある彼らが、私たちの憧れの的になっていた。 その中に彼もいた。
その頃から既に彼には『女性関係が派手だ』という噂はあったが、不思議と悪い話は聞かなかった。
そんなある日、父親に紹介されたのが彼だった。 思いがけず憧れの彼と接点を持ってしまった私は、邪な気持ちを抱いてしまった。
―――誰もが憧れる彼を独り占めする事ができたなら、どれ程気分が良いだろう。
まるで、希少なアクセサリーを買い求めるかのように、あの頃の私は彼を欲してしまった。 それが、全ての間違いだった。
強引なアプローチと、他の令嬢たちに対する、あからさまな牽制で、私は彼を手に入れようと策を練っていた。
そんな私に救世主が現れた。 彼の親戚の令嬢だ。
彼女とは、とある夜会で親しくなり交流を深めていたが、彼女の家が主催した夜会に彼が参加していた事から、遠縁の親戚であると知った。
私の気持ちを知った彼女は「協力する」と、言ってくれた。「あなたと親戚になるのもいいわね」とも。
彼女の協力を得て、私は彼を堕とす事に成功した。
まるで、夢のようだった。 あの、憧れの彼が私だけに語りかけ、私だけに微笑むのだ。
そして、私に愛を囁くのだ。 甘く切なく。 彼の全てが私の物になったのだ。
幸せの絶頂にある私は、彼に婚約を迫った。 名実ともに彼を自分の物にしたかった。
なぜ?って………、私と交際を始めても、彼は他の令嬢との交流を止めないのだ。 彼の心が私にあるとわかってはいるが、わかってはいるのだが、安心出来ない。
文句を言うと、必ず彼は決まって言う。
「なぜって、これも大事な社交だよ? 僕の君への気持ちを疑うのかい?」
そして、困ったように、その美しい顔を歪めるのだ。
「僕の目には君しか映っていないというのに。 僕はこんなにも君に恋焦がれているというのに。 その僕を疑うのかい?」
彼は震える指先で、私の頬にかかる髪をかき上げ、その髪束に口を寄せる。 そして、上目遣いで私を見るのだ。
その美しい彼に見つめられれば、先ほどまでの、怒りも不安も消えてゆく。
嬉しさからなのか、恥ずかしさからなのか………、紅く染まる私の頬を、彼は、その冷たい指先で包むように撫で始める。
そして、だらしなく開いた私の口唇を、彼の親指が撫で始めると、私は期待でその背に手を回す。
フワリと彼の瞳が緩むと、その美しい顔が近づいてきて、私はギュッと目をつむる。
そう。 私はチョロいのだ。
―――そんなチョロくてアホな私でも、彼の社交とやらを何度も目撃してしまえば、だんだんと怒りの方が勝ってくる。
そして、私は別れを告げた。 彼に。
ところが、彼は泣いてすがってきたのだ。 あの彼が。
それに、何度頼んでも私の両親に挨拶に来なかった彼が、我が家にやって来た。 私の両親に、私との交際の許可をもらいに来たのだ。
私は驚いた。 そして、愛されているのだと勘違いしてしまったのだ。
*****
そんな私は今、溜息と共にいる。
煌めくシャンデリアの下で、美しい令嬢たちに取り囲まれ、微笑みを振りまく彼を、空のグラス越しに眺めていた。
本心では今すぐ帰りたかった。
だが、その後の事を考えると面倒が多かった。
以前、腹を立てた私は彼を会場に残し、帰ってしまった事があった。
正直、もう彼への好意は薄れていた。
心の奥底では、新しいお相手に夢中になった彼に、捨てられる事を希望していた。
私が帰ってしまった事に怒った彼に、別れ話をされる事を期待していた。
ところが彼は、馬を飛ばし私を追いかけてきた。 もう既に、彼への気持ちが冷めきっていた私にとって、迷惑でしかなかった。
従者に、相手にしないように。 止まらず家に向かうように伝えたのだが、なぜだか従者は馬車を停めた。
「お嬢様。 彼の話を聞くべきです。 彼ほどお嬢様を大切に想っている方はいらっしゃいません」
私は驚いた。 毎回、社交の場で私以外の令嬢と親密な関係を築いている彼の何処に、私を大切に想っている。と、感じられる箇所があるのだろうか。
すると、従者は言う。
「それも、社交の一部ですよ。 彼ほどの有力者には敵も多いのですから、味方を増やすためにも必要な行為ですよ。 将来、彼の家族になるのですから、彼の仕事のサポートをしなければ」
そして、私は彼に引き渡された。 我が家の従者が、私を裏切った。
彼に連れて行かれたのは、ボロ小屋だった。 街外れの森の中のようだった。
彼は後ろ手に小屋の鍵を閉めた。
月明かりしかない小屋の中で、青白く浮かび上がる彼の顔は、相変わらず美しく女神のようだった。
だが、血の気を感じない彼の表情は、恐怖さえ感じる。 無表情に近付いてくる彼が恐ろしく、私は一歩後ろに下がった。
しだいに私は壁際に追い詰められ、もう後が無かった。 彼の右手が上がった。
私は殴られると思い、ギュッと目をつむり身体を縮こめた。 自分を襲うであろう痛みを、受け入れる覚悟をしていた。
ところが、私を襲ったのは左耳の側で聞こえた、壁を打ちつける大きな物音だった。
「ひっ!」
思わず声が漏れる。 が、左耳側の物音は止まない。 恐怖で目を開ける事も出来なかったが、彼が怒りに任せて壁を殴っているのは、想像に容易い。
いつ、その拳が自分に向けられるのかと不安と恐怖で身体が震える。
左肩に重みを感じ、恐る恐る目を開けてみれば、彼の頭がそこにあった。
「なんで、わかってくれないんだ………」
唸るように絞り出すその声に、私は、罪悪感を感じてしまった。
思わず謝罪の言葉が喉から出かけたが、私はそれを呑み下した。 騙されてはいけない。 他の令嬢と目の前で親密にされているのに、私が悪い訳が無い。
「私にはあなたを支える自信がないわ。 ごめんなさい。 私たち、もう終わりにしましょう?」
今がチャンスだと思い、言葉を選んで別れを告げた。
私が貴方に相応しくないから別れたい。という事にすれば、別れてくれるかもしれない。 そう考えた。
ところが、それは間違いだった。
彼は暴れ出した。
暴力の矛先が私に向かうことはなかったのだが、彼は奇声を上げ、手当たり次第に物を投げ始めたのだ。
物がぶつかり合う音、何かが割れる音。
私は恐怖にうずくまり、耳を塞いで許しを請う。
「お願いやめて。 私が悪かったわ」
正直、なんで謝ったのか今でもわからないが、とにかく怖かった。
「別れたいって、言った」
驚く程低く、お腹に響く声が聞こえた。 コツコツと私に近付いてくる足音に、震えが止まらない。
うずくまり、震えて縮こまる私に、覆いかぶさった彼は言う。
「考えを変えるまで、ここから帰さない」
彼の両腕に包みこまれた私は、恐怖で声も出ない。 ただただ、彼の考えが変わり、ここから出られる事を期待して息を殺していた。 我慢比べだ。
どれくらい時が経ったのだろうか。
相変わらず彼は耳元で、中身の無い愛を、うざったい程囁いている。
私は全てをあきらめた。 これは、無理だ。
「ごめんなさい。 私が、悪かったわ」
すると、彼の瞳がすがるように私を見た。
「もう、別れるって言わない?」
「ごめんなさい」
私は、明言を避けた。 だって、私は別れたいのだもの。
機嫌を直した彼は、意気揚々と馬に乗り、私を家まで送ってくれた。
先に、空の馬車と戻った従者は、どんな言い訳を両親にしているのだろうか。
朝日が差す街道を、彼と共に馬の背に揺られながら、私は考えていた。
こいつと別れるには、きちんと準備をしないといけない。と。
******
だが、いまだ良案が浮かばず、ダラダラともう一年も関係を続けている。
聞いた話では、私は彼にベタ惚れらしい。 冗談じゃない。 彼の女性関係に文句も言わず、連れ添っているからなのだろうけど。
彼の親密な社交について、口を出す事は、とうに止めた。 もう、どうでも良かった。 できれば、新しいお相手を見つけて欲しかった。
巷で流行っている小説のように「真実の愛を見つけた。 私と別れてくれ」と、言ってほしい。
そんな期待を込めて、空になったグラスで彼を覗いていた。