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霧の国を抜ける時

 よし。

 明美は、んーと伸びをした。損益計算書を書き終わった。次は貸借対照表だ。去年のデータを元にして書いたやつだけど……ティレアヌスでの療養費、めっちゃ高かったんだね。

 

 その時、お腹の奥で、ポコンと何かが弾けた。ご飯を消化中? いや、違う。

 私は椅子から立ち上がり、ベッドに腰掛けた。そっとお腹に手を当ててみた。また、ポンと動いた。今度は確かに分かった。たったこれだけの小さな動きだけど分かる。中に、いる。この子が。

 私は目線を天井に向けた。涙が出そうだった。絶対に守る、絶対に。そして必ずあなたを1人にはしない。


 ドアの向こうからノック音と共に「アーサーです」という声が聞こえた。

「どうぞ」と私はベッドから立ち上がった。


 アーサー様が入ってきた。私が勧めるとアーサー様はテーブルについた。ドアを開け放したまま。私はチラとドアに目を向けてから、テーブルについた。


 アーサー様は「お話があるのですが、誰もいない今2人きりはマズいでしょう。なのでドアを開け放したままにすることをお許しください」と申し訳無さそうに眉尻を下げた。

「いいわよ」と私は微笑んだ。「それで、お話って?」


 アーサー様はチラとドアを見た。誰かがいないか気になるのかな。それから私に向き直った。


「エリザベス様。先日、閣下とあなたについて話す機会がありました」


 ハッと顔を上げた私を見て、アーサー様は目を細め微笑んだ。


「予想通りでしたよ。彼の行動理由は昔から変わらない。彼は、ほんの12歳だったころと変わらず、大切な人を守るためになら悪役を演じる男でした」


 私が口を開きかけた。バタバタと足音が聞こえた。


「アーサー! 余計なことを話すな!」とヨハネス様が駆け込んできた。

「あ、意外と早かった」とアーサー様が立ち上がった。「まだ何も話していませんよ。あの手紙に気づくまで30分は掛かると考えていたのですが、お早かったですね」

「不審なものがあれば気づくに決まっているであろう」とヨハネス様は眉間に皺を寄せた。

 私は軽く腰を上げ「ヨハネス様。お掛けになってください」と空いている椅子を指した。

 ヨハネス様は気まずそうに「ああ……」と椅子にかけた。「体はどうだ?」

「お陰様で」と私は微笑んだ。「それで、余計なことって何の話ですか? 私と1ヶ月も話さなかったことと関係がありますの?」


 ヨハネス様はアーサー様を軽く睨んだ。ピリピリとした空気が流れる。


 アーサー様は「閣下。エリザベス様から距離を取られていたのには、閣下なりの理由がおわりなのでしょう。恐らく3日後にはヴァロワールへと向かわれるエリザベスが恋しくなるのが怖かったのでしょうか?」と肩を竦めた。

「黙れ。アーサー」とヨハネス様は地を這うような低い声で凄んだ。「この部屋から出ていけ」

 アーサー様は「この部屋の主はエリザベス様ですので、彼女の意向によりますよ。閣下」と私を指した。


 どうしよう。アーサー様の作戦かな、これも。出てもらうべき? それとも……。

 向かいにいらっしゃるヨハネス様と目が合った。そうだ!


「では、ヨハネス様、アーサー様。どちらかが残ってください。アーサー様が出て行かれた場合、私はヨハネス様と話します。そしてヨハネス様」と私はヨハネス様に目を光らせた。


 ヨハネス様が身動ぐ。私はにこりと微笑んだ。


「あなたが出て行かれた場合、私はアーサー様のお話を伺います。ヨハネス様の主であるあなたが、どちらかをお選びください」

 ヨハネス様は「仕方がない」と深くため息を吐いた。それから「アーサー。其方の望み通り、エリザベスと話そう」と彼を見た。


 アーサー様は悪戯が成功したように微笑んでから、お辞儀し部屋から出て行った。

 部屋には私とヨハネス様だけが残された。さて、どうしましょう。1ヶ月も避けられていたから、何から話せばいいのやな。チラッとお腹に目線を向けてから顔を上げるとヨハネス様と目が合った。一瞬だけ見えたヨハネス様の表情を、私は眼に焼き付けた。不安そうに震える唇を、眉を。


「ねえ。ヨハネス様」

「エリザベス」


 同時に口を開いちゃった。私は小さく笑ってから、ヨハネス様が先に話すよう身振りで促した。ヨハネス様は一瞬目を細めた、気遣わしげに。


「エリザベス。先ほどから腹に手を当てているが、痛むのか?」

「え?」と私は咄嗟にお腹から手を離した。無意識のうちに触っていたみたい。


 私はふるふると頭を横に振った。手を伸ばし、ヨハネス様の手を取った。


「隣に座ってくださる?」

「分かった」とヨハネス様は素直に私の隣に座った。

 私は微笑み「さっき、お腹の子が動いたのです」とヨハネス様の手を握った。「今は寝ているようですが……」


 動かないかな〜、ベビちゃん。ほんの一瞬、手のひらで何かを確かめるような温もりの探りを感じたあと、ヨハネス様は私の手を振り解いた。

 私はヨハネス様を小さく睨んだ。この人はきっと、お腹の子に情が湧くのが怖いのかな。明々後日、私はこの国を出る。この子の成長をヨハネス様は見られない。だから情が湧くのが怖いのだろう。

 私は首を傾げた。ヨハネス様の表情は読めない。あーあ、イライラする。勝手に私をこの国に閉じ込めて自分と結婚させた挙句、今度は出ていけ? この子と私を守るため、亡命させるためってことは分かっている。だけど、全部この人が勝手に決めて、ヨハネス様が勝手に怖がっていること。

 ふっと、私の口が弧を描く。


「ヨハネス様。私はこの国を出たらイギリスか日本、もしくは第三国に住みます」

「安全な国であればどこでも良い」とヨハネス様は顔を背けた。


 私はヨハネス様の顎を掴みこちらを向かせた。


「ヨハネス様。この子に会いに来てあげて下さい。この子が父親のない子になるなんて、まっぴらごめんです」と私は左手でヨハネス様の手を握った。「もし、この子が5歳になるまでに会いに来て下さらなければ、私は再婚します。あなたのことを忘れて」


 ヨハネス様の目が丸くなる、強張ったように黒目が大きくなる。口元が震える。衝撃が抜けるまで、この人は話せないだろう。

 私は真っ直ぐヨハネスを見た。いつもすごい人のように見えていたけど、よく考えればこの人は私より4歳上なだけ。——満年齢だとたったの3歳差だ——。


「だから、ヨハネス様。それまでに何とかこの子に会いに来て下さいね。そのころのゴーディラックがどうなっているのか私は知りません。だけど、どんな手を使ってでも来てください」


 ヨハネス様は何も言わず、俯いている。私はふ、と顔を上げた。私はそっとヨハネス様の手を取り、私のお腹に当てた。ポコっと動いている。


「ね。いいでしょ?」と私は首を傾げた。


 ヨハネス様は俯いたまま深々と息を吐いた。


「私が其方にしたことはいいのか? 其方が私から離れることを選ぶに足るほどのことをした自覚はある」

「いいですよ、別に。赦しますよ、いくらだって」と微笑んだ。「過去にやらかしたことを気にする余裕がおありなら、私の可愛いレモンちゃんのことも気にしてあげてくださいよ」

 ヨハネス様はギギギと顔を上げ「レモンちゃん?」と片眉を釣った。

「生まれるまで呼び名がないのはちょっと寂しいでしょう? だからこの子が生まれるまで私はレモンちゃんと呼びます。お医者様によると11月に生まれるそうですからレモンちゃんです」

「もう少し……ないのか? 他に?」


 私は首を傾げて少し考えた。そうだ!


「ではヨハネス様。この子が5歳になるまでに会いに来てくださると約束してくだされば、生まれるまでの愛称について考えましょ」


 ヨハネス様は諦めたように俯き息を吐いた。祈るように目を瞑った。


 ヨハネス様は「分かった」と重く呟いた。


 顔を上げた時、ヨハネス様は巨大なゴミを捨てた後のような寂しさとスッキリしたような穏やかな顔をしていた。


「其方の案を呑もう。其方のローズが5歳になるまでに会いに行けば良いのであろう?」

「あ、愛称変わっちゃった」と私は嬉しさいっぱいに微笑んだ。


 私は1枚の紙を取った。記憶の糸を手繰り書いた後、ヨハネス様に差し出した。


「この数字の羅列は私の電話番号です。使い方は……誰かに聞いてくださいませ」と私は適当に笑った。「この文字は、私の日本の家の住所です。私の旅券の緊急連絡先も確かそこですから。これは日本の駅かどこかで聞けば教えてくれるでしょう」


 たぶん。


 ヨハネス様は「旅券か……」と呟いた後、「作戦は分かっているか?」とハイド伯爵の顔になった。

「ええ。ヴァロワールに着いて旅券の提出を求められたら、隠しポケットに入れていたイギリス人としての旅券を出せばいいのでしょう? そうすればヴァロワールでの滞在ビザがとうに切れているアケミ・エアリーはイギリスへ強制送還される」と私は黒く微笑んだ。


 大丈夫。作戦に穴はあるが、これが精一杯。国際社会についての情報が制限されているゴーディラックに住む私たちの精一杯だ。

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