閑話 この国で、一番になったら
「ねえ、ジョエル。話があるの。いいかしら?」
「はい。エリザベス様」と僕はピアノの蓋を閉じた。
僕は少しピアノの椅子の向きを変えた。この椅子、高いから1回降りたらよじ登んきゃいけないもん。エリザベス様はお腹を庇うようにソファに座った。エリザベス様は少し目を泳がせている、困ったように。どうしたんだろう?
「エリザベス様。僕ね、バイエルの15個目まで来たんです」
「あら、もうそこまで来たの?」
「はい!」
エリザベス様は立ち上がり、譜面台に置いてあるバイエルを取りパラパラと捲った。少し遠くを見ているみたいだけど。どうしたんだろう? 僕はうーんと唇を尖らせた。
「そうだ、エリザベス様はピアノがお上手だとハイド伯爵閣下から伺いました。どの曲がお好きなんですか?」
「そうね……」
僕は椅子から降りて、エリザベス様に座ってもらった。エリザベス様のお腹には赤ちゃんがいるから。エリザベス様の横の髪がふわって揺れた。鼻の形が綺麗、まつ毛も長いし、肌も白くて綺麗。
「ねえ、エリザベス様。この間、ダニエルから手紙来ました」
「あら、なんて?」とエリザベス様は首を傾げた。
「元気か、って来ました。あと、姉は回復したそうです」
「本当?」
エリザベス様は……目を見開いて微笑んだ。彼女は心の底から喜んでいるみたいに、胸にそっと手を置いた。
二階からドタバタと音が聞こえる。たぶん、マカレナ姉さまがお嫁に行く準備だ。養父上はお仕事があってハイド伯爵閣下の邸宅にいるから、代わりにアーサー兄さまが頑張っているらしい。
ピアノの音が響いた。エリザベス様だった。なんの曲なんだろう? 僕は少し前のめりになったけど、ただ鍵盤を鳴らしただけだった。髪に隠れていてエリザベス様のお顔がよく見えない。どうしたんだろう?
僕は本棚まで小さく走って楽譜を取った。うーん、ベートーベン? 誰だろ? 古い楽譜だから有名な人のだろ!
僕は「エリザベス様、何を弾けばいいのか分からない時は楽譜を見たらいいですよ」と楽譜を渡した。
エリザベス様はパチパチと瞬きをしてから、ふんわりと笑った。僕はエリザベス様の笑顔を見た。エリザベス様はよく超えを出さずに笑うけど、この笑顔が一番好きだ。
エリザベス様は楽譜を持ったまま、ゆっくりと呼吸をした。
「ジョエル、話したいことがあるの。いいかしら?」
「はい、どうぞ」と僕は頷いた。
どんな話だろう? 僕はソファの下にあったスツールを、ピアノの近くに持ってきて座った。エリザベス様はドの音を鳴らした。
「私ね、お腹に赤ちゃんがいるの」
「はい、知ってます。おめでとうございます?」
どうして今更? 僕はうーんと口を突き出した。エリザベス様は俯いた。
「だからね、しばらくは来られなくなるの」
時計の音が聞こえた。カチカッチカチ。
「そうなんですか。無事に生まれることを祈ってます」
「ありがとう」とエリザベス様は唇を震わせながら微笑んだ。
エリザベス様は楽譜を開いた。
「あら、ベートーベン?」と弾き始めた。
何の曲なのかわかんないけど、寂しい曲だ。胸のあたりがぎゅってなる曲だ。エリザベス様は楽譜をまっすぐ見つめながら弾いている。エリザベス様は鍵盤を見ずに弾けるんだ。たくさん練習したんだろうね。メトロノームのように隣の部屋から時計の音が聞こえる。カチカチカチゴーンゴーン。スツールに座ったまま僕は頬杖をついていた。
エリザベス様の指が鍵盤から離れると、控えめな拍手が聞こえた。ピアノ室の前に立つアーサー兄さまだった。
「急にベートーヴェンのソナタが聞こえると思ったらエリザベス様でしたか。ジョエル、今日の分の練習は終わったかい?」
アーサー兄さまは僕の頭をぽんぽんと撫でた。ダニエルと違ってガシガシじゃない撫で方だ。
「はい。バイエルは20個目まで終わりました!」と僕はずびっと笑った。
「あら、15個目までじゃなかった?」とエリザベス様が口元を抑えながら首を傾げた。
「ジョエル……嘘はつかないで」とアーサー兄さまは呆れたように笑った。
アーサー兄さまはエリザベス様を見た。
「エリザベス様はジョエルのお守りをしてくださっていたのですか?」
僕はぶすぅと口を尖らせた。お守りってなんだよ。赤ちゃんじゃあるまいし。でも口は挟まない。だって貴族の大人たちの会話には割って入っちゃダメなんだって。
エリザベス様は小さく笑い声を上げた。
「お守りじゃないわ。だって私は人様の家でピアノを弾いていただけよ」
「それでもエリザベス様にジョエルを見てもらっていたことは変わりませんので」
僕はぶくぅとアーサー兄さまを睨んだ。前はマカレナ姉さまが僕のピアノの練習を見てたのにいないもん、最近。
エリザベス様の目が一瞬だけ見えなくなった。
「私ね、ジョエルに話があって来ただけなの」
「そうでしたか」とアーサー兄さまは顔を顰めた。
なんで? おめでたくないの?
エリザベス様は祈るようにそっと胸を触った。ぺったんこ。エリザベス様は顔を上げた。何だか凛々しい顔だ。
「ねえ、ジョエル。さっき、お腹に赤ちゃんがいるから、来られなくなるって言ったけど嘘なの」
「ふぇ? 嘘? なんで?」
「なんで……あまり言っちゃいけない理由だから?」とエリザベス様は首を傾げた。
僕がだいっきらいな大人の都合ってやつ?
「赤ちゃんも嘘?」
「それは本当」
「じゃあ、どこらへんが嘘なんですか?」
エリザベス様はチラッてアーサー兄さまを見た。アーサー兄さまは謝りそうな顔だ。エリザベス様は椅子から降りて僕と目を合わせた。
「本当はね、マカレナに着いて外国に行かなくちゃならないから」
エリザベス様がゆっくりと瞬きをした。一滴涙が溢れた。僕は涙を拭こうとポケットに手を伸ばした。エリザベス様は僕を優しく抱きしめた。
「ごめんなさい。あなたをお母様から引き離しておいて、途中で見捨てるようなことを……」
僕はエリザベス様の首に手を伸ばした。
「それって行かなくちゃいけないの?」
「ええ」とエリザベス様は頷いた。
「なんで?」
「なんでって……。ヨハネス様の命令なの」
「え。あの怖い人の?」
アーサー兄さまがくっと笑いを堪えた。なんで? 僕は鼻水を啜った。エリザベス様がとんとんと軽く背中を叩いてくれた。
「この国じゃ私のお腹の子は無事に生まれられないの。だから私はマカレナに着いていくの」
無事に生まれない? あ、そういうことか。
「外国はすごいお医者様がたくさんいるんですか?」
「そうよ」とエリザベス様は頷いた。僕の肩に隠れて顔が見えない。
伯爵ですらエリザベス様と赤ちゃんを助けられるお医者さんを呼べないの? エリザベス様が外国に行ったら……。
「もう会えないんですか?」
エリザベス様は何も言わず頷いた。僕はアーサー兄さまを見た。
「僕、お医者様になります。この国で一番のお医者様になります。そしたらアーサー兄さまの奥様と赤ちゃんは国から出ていかずに済みますよね?」
アーサー兄さまは目をかっ開いた。
「お気持ちはありがたいがジョエル。僕はまだ結婚していないよ」
「じゃあ、僕が国一番のお医者様になるまで結婚しないでいてください」
「え……?」とアーサー兄さまから情けない声が出た。
エリザベス様がすごく笑ってる。エリザベス様の赤ちゃんが無事に生まれて来られますように。エリザベス様も無事でいられるよう、神様の守りがありますように。それから僕が外国のお医者様にも負けないくらいのすごいお医者様になれますように。僕は十字を切った。




