いつか、ちゃんと
私は窓を開け、枠に寄りかかりハァと白い息を吐いた。ぶるりと冷たい風が寝室に忍び込む。さすがに夜明け前は冷える。カーテンで暖を取ろうと思っても刺されるように寒い。11月なんだから当たり前か。ベッドで眠っていたヨハネス様が目を覚ました気配があった。カーテンに遮られた向こうは真っ暗で何も見えない。
「誰だ」
「エリザベスです」と私はカーテンから顔を覗かせた。
「このように寒い夜に其方は何をしている。こちらに戻りなさい」とヨハネス様が軽く布団を捲った音がした。
「後で戻ります。ヨハネス様は夢の世界へお戻りください」と私は微笑んだ。
私は再び窓から空を見た。カーテンが私の体から離れ、そっと肩にガウンが掛けられた。振り返るとヨハネス様が私の後ろに立っていた。メリーさんかよ。
「星空が美しいな」とヨハネス様が呟いた。
「ええ」と頷いた。
今はゴーディラックの首都アウリスに住む私は知っている。ティレアヌスの星空は見るものを圧倒させるほどに強く、雲すら霞むほど煌々と輝くのだと。
白い息が漏れる。後ろからヨハネス様に抱きしめられた。寒いのか、甘えたいのか。私はこてりと首を傾げた。
ヨハネス様は「どうした?」とどこか眠そうな声だ。
「少し考えごとをしていただけです」と考えながら答えた。「そんなことより人のつむじに顎を当てたまま喋らないでください」
一瞬間があった。私は微かに顎を上げた。ヨハネス様は静かに私から離れた、私の体に巻き付けていた腕まで。
「すまなかった……」と微かな声が聞こえた。
私は「謝ってほしかった訳ではなかったのですが……」と申し訳ない気持ちでヨハネス様を見た。
だって何となく自分の感情を声に出してみたくなったから言った。言い方がキツかったのかな。何となくしょげちゃう。私は星空を見た。綺麗。ヨハネス様が私の隣から窓の外を見た。私はチラと彼を見た。
「ヨハネス様。ティレアヌスはどうなるのですか?」と首を傾げた。この質問に他意はないと伝えるために。
ヨハネス様は何も言わず私の髪を撫でた。寝る直前までは三つ編みだったけど。今は髪を下ろしているし、波々になっているからさわり心地はいいはず。私の髪は生まれつき柔らかいから。ふとヨハネス様の顔を見ると、パッと真顔になった。今、どんな表情をしていたんだろう?
「エリザベス」とヨハネスは低く掠れた声で呟き「エミリア・ガゼルからの手紙は受け取ったか?」と囁いた。
私は「ええ」と目を見開いた。「なぜヨハネス様が……」
あ、そう言えばマカレナは今、ヨハネス様に仕える文官だった。文官の仕事は未だによく分からないけど、ロイス様を見る限り……補佐や伝令が仕事なのかな。じゃあ、マカレナは伝令ということでヨハネス様にエミリアさんからの手紙を見せたのかな?
「ええ。読みました」と私は微笑んだ。手紙に検閲を掛けたのもヨハネス様?
「そうか……」とヨハネス様は視線を星空に戻した。
私も星空を見るフリして横目でヨハネス様を見た。目の表情が苦しそうで切ない感じ。
やがて星空の向こうが、――屋根屋根に遮られて地平線は見えないけど―― 微かに白くなっていく。もうすぐ夜明けが訪れる。南方にあるティレアヌスは朝日の輝きに染まり始めているのだろう。エミリアさんは寝ているのか、もう起きているのか分からない。
「幸せを祈るわ……」と呟くと白い息が宙に浮かび広がった。
ヨハネス様の視線を頬に感じる。
「エリザベス……。其方はどのような本を好む?」
「え?」と私の感傷は瞬く間に散った。
「其方はよく本を読むだろう」
「まあ……、読みますね。好きな本のジャンル……、小説かしら?」
わからん。考えたことない。推理モノはハラハラするし、トリックで混乱する。SFは読んでて楽しいけど、別に好きじゃない。ファンタジーはテーマによる。ホラーは論外、怖い、無理。日常もの、心温まるものは好き。ラノベは好き、読みやすい。だけどラノベなんてものはこの国にない。この国に多くある恋愛ものは相関図が比較的単純だからよく読むけど、好きなわけじゃない。
「そうですね……。分かりません」と私は首を傾げた。
「分からないのか?」
「ええ」と小さく頷いた。「だって誰かが選んだものしか読んだことがなくて」と声を潜めた。
ヨハネス様は何も言わず私の腰に手を回した。彼は目を忙しく動かした後、日が昇る空に目を向けた。
「ならば、エリザベス。午後に、本を選びに街へ行かないか?」
「今日!? なんで?」
「良いだろう?」
「ええ。予定はないので」
「ドレスはティレアヌスのものでいいが、なるべくそうと知られないようにしなさい」
「はーい」
ティレアヌスのドレスはゴーディラックのドレスと比べ、質素。どうしよう、ゴーディラックの飾り帯つけて誤魔化すか。
*
突然できた外出の予定にあたふたとしているうちに時間はまたたく間に過ぎた。私は馬車から外を見た。隣にはヨハネス様。護衛はヨハネス様付きのアーヴィング様と私付きのアンネリースの2人。私の護衛はアンネリースだけだけど、ヨハネス様にはもっといた気がする。なのに護衛が2人だけってことはお忍びですな。
馬車は貴族街じゃなくて平民街で止まった。綺麗な街だから富豪の住む街かな。ヨハネス様に手を引かれ馬車を降りた。
ヨハネス様は「1時間後には戻る」と御者さんに伝えた。それから「まずは本屋へ行くか。この街で最も品揃えはいい本屋と、知られていないが面白い本ばかり置く本屋、どちらがいい?」と私を見た。
「マカレナからの情報ですか?」と私は苦笑した。
「ああ。あのマカレナからの情報だ。若かった頃はコソコソと平民街へ行っていた男の娘からの情報だ」とヨハネス様は手を引いたまま歩き続けた。
「ロイス様が?」
「ああ。アーサーやマカレナを伴い博物館へ行っていたそうだ。奥方がフリーダに相談していたそうだ」
私はパチクリと瞬きした。ロイス様の奥方って確か今年亡くなられた……。まぶたの裏に黒い服を着ていたマカレナが過ぎる。胸のうちが重くなってくる。私はパッと顔を上げた。
「品揃えのいい本屋へ行ってみたいです」と明るく笑ってみせた。
「そうか」とヨハネス様は微笑んだ。「その本屋には文具も売っているそうだ」
「素敵ですね」
品揃えのいい本屋かぁ……。本屋、生まれて初めていくかも。
本屋に到着すると私は息を呑んだ。新品の本の匂いに満ちている。本が多すぎて背の高い本棚。高い位置にある本を取るために掛けられたハシゴ。本棚の列の中心にある螺旋階段の上に更に連なる本棚の列。厳選するように本の背表紙を睨む人々。ヨハネス様はつかつかと螺旋階段を上った。私は何となくヨハネス様の後に着いていった。螺旋階段って目が回る。ヨハネス様は一冊の本を指した。
「この本はどうだ? 近頃若い娘たちに人気があるそうだ」
「若い娘……。恋愛モノですか?」
「おそらくは」とヨハネス様は肩を竦めた。
「恋愛モノ以外で女性に人気がある本ってあります?」
「ふむ」とヨハネスは顎に手を当てた。「ここで待っていなさい」
恋愛モノコーナーに置き去りにされた私は背表紙を見つめていた。〜の秘め事。〜の愛。薔薇にも勝る〜。陳腐。そう言えば、フリーダ言ってたなぁ。「ゴーディラックの恋愛モノが読むのをお控えください」って。
ヨハネス様が戻ってきた。
「恋愛モノ以外だと詩集や宮廷小説の人気高いそうだ」
「えぇ……。あ、もしかして若い女性って未婚の人のことかしら?」
「あ」とヨハネス様は声を漏らした。
私、既婚者。一応、あなたの妻。
「そう言えばマカレナはどういう本を読むの?」
「マカレナ? マカレナは何でも読むのでは? ロイスによると目についた本はすべて読むそうだ。地学や蚕糸業でも何でも」
「蚕糸業?」と私は本気で首を傾げた。なにそれ?
ヨハネス様はふ、と笑った。それからヨハネス様は何か思いついたようにパッと顔を上げた。螺旋階段を下りた。とりあえず着いていった。雛鳥になった気分。視界がぐるぐる回っているうち、1階に着くなんて面白い。
ヨハネス様は手招きし、一冊のノートを指した。淡いピンクの花、たぶん桜模様がプリントされたノートだ。
「其方、日記帳がのページ数が残り少なくなっていただろう?」
「なぜご存知なんですか?」と私はヨハネス様の目を見つめた。
ヨハネス様は身を屈め「毎夜、寝室に日記帳を持参しては書いているだろう。其方の母国語で」と囁いた。
私の胸の奥で何かが蠢く。この人、私のこと見てたんだ。意外だなぁ、と思いながらマジマジ見た。私の視線に何かを感じ取ったのか、ヨハネス様は微かに眉間に皺を寄せた。
「ノートが良ければ好きな模様を選びなさい」と平積みされたノートを指した。
本でもいい、みたいな言い方。私はこくりと頷いた。ノートの模様には種類が5つあった。どれにしようか、と見ながら考えた。桜の模様。華やかな春夏の花の模様。大人っぽい茶色のクロス模様。最後にトルコみたいな青い幾何学模様が目に留まった。生唾を飲み込んだ。
「ヨハネス様。ノート、2冊買ってもいいですか? あとで代金はお返ししますから」とヨハネス様を見つめた。
「どれだ?」
「この桜の模様と、青いノートです」
「分かった」とヨハネス様はノートを2冊取った。「だが払わなくていい」
「え」と私は首を傾げて、ノートのお値段を見た。50スティア、ノートにはいいお値段だ。
ヨハネス様は会計を済ませた。ヨハネス様はノートを鞄に仕舞い、私の手を引き馬車の中へ戻った。馬車が動くとヨハネス様が重く息を吐いた。
「エリザベス。誕生日おめでとう」と僅かに眼尻を和らげ私を見つめた。
あ、そう言えば今日誕生日だった。
「ありがとう存じます、ヨハネス様」
私は、自分の誕生日くらい覚えていましたよ〜、と言う風に微笑んだ。
ヨハネス様は「今日で其方も19歳か」と私の額に口付けた。それから「其方には何がいいのか分からずすまなかった」とさっき買ってくれたノート2冊を手渡した。
「ありがとう存じます」と青いノートをヨハネス様に手渡した。
「ん?」とヨハネス様が困惑したように片眉を上げた。
「私の母国には1冊の日記帳に大切な人と共有しながらメッセージや日記を書く……風習があって」
交換日記って風習というほどすごいものなのか知らんけど。それにワーホリの人たちがやってたのを見ただけの知識だけど。
「ヨハネス様。一緒に書いてくださいませんか?」と私は首を傾げた。
「あぁ……」とヨハネス様は目を見開きながらノートを受け取った。「だが私でいいのか?」
「ええ。だって以前、ボーヴァー伯爵夫人が仰っていたでしょう? 私たちは話す時間を多く作るべきだと」
「それもそうだが……」
ヨハネス様の反応が悪い。私は諦めるように小さく息を漏らした。
「ですが、やはり私が使います……」とノートを取り返そうと手を伸ばした。
「いや、いい。私から先に書くか、それとも其方なのか?」とノートを抱きしめた。
「じゃあ、ヨハネス様からどうぞ」と私は首を傾げた。胸の奥は何となく温かい。
続くといいね、交換日記。
次回、見つからない家庭教師と護衛騎士。




