迷路の彼方にあった光
近頃ヴァロワール共和国の大使からこちらの情勢を探るような文ばかりが届く。ヨハネスは文を片手にため息を吐いた。
8月末に起きた襲撃事件の主な犯人である5人が処された。そのうち1人はエミリア・ガゼルの17歳だった弟マキシオ・ガゼル。エミリア・ガゼルの長弟は数年前ゴーディラックの商会に婿入したため、次弟であるマキシオが継ぐものだと思っていた。マキシオ・ガゼルがいずれ父に代わりゴーディラックとティレアヌスの橋渡し役となるものだと思っていた。
立ち上がり机から離れ、窓を見下ろした。息苦しい。10月だ、夏ではないのに、なぜこんなにも息苦しいのだろうか?
再び机の上に向き直った。ヴァロワール共和国からの文、書類。舞踏会への招待状。現状、招待状の宛名は私1人もしくはマカレナとの連名。しかし2日前の舞踏会にはエリザベスを連れて行った。いずれ私とエリザベスとの連名になるのだろう。
書類の決裁をしているロイスに視線を向けた。再び立ち上がった。ロイスが一瞬こちらを見た。私は書斎を出た。空気が重かった。外交を一身に担わねばならぬ私は、ただの通訳官だ。尤もかつては領地の経営も一手に担っていたが……。
エリザベスの部屋の戸を開くと誰もいなかった。もぬけの殻だった。そう言えばこの時間、エリザベスはジョエルの勉強に付き合っていたな。今日はマカレナも来ているため屋根裏が騒がしい。
静かなこの部屋に入りソファに腰掛けた。エリザベスは窓を開け放つ癖があるため、この部屋は開放感に満ちている。涼やかな風に運ばれたキンモクセイの香りが部屋を満たし、頬を冷やす。少しずつ頭も冷え、カーテンと窓に吊るされた花束が揺れる。視界が朧げになり狭くなり……。心に穏やかな思いが満ちて行く。ソファのクッションに頭を預けた。
「ヨハネス様、ヨハネス様。こんな所で寝ないでください。風邪ひきますよ」と何かが私を揺さぶる。
「母上…………?」と朧げながらも目を開く。少しずつ女の輪郭がはっきりと見えてくる。明るい茶髪、不思議な色合いの白い肌。
「違います」とエリザベスは私の顔に手を添えた。「ロイス様が探していましたよ」
「そうか」と私は起き上がった。「すまない、今何時だ?」
「昼の2時です」とエリザベスは空いたスペースに腰掛けた。
「そうか……」
もう2時間も寝ていたのか。
「すまない、エリザベス。また夜に」と私は勢いよく立ち上がった。
「閣下、おつかれなのですか?」とエリザベスは私の手を取った。
私は「いや、ヴァロワール共和国からの要求に難儀していただけだ。考えがまとまらなくなり、無気力になっただけの話だ」と彼女の手に口付けた。
「それを疲れている、と言うんじゃ?」とエリザベスは首を傾げた。
私は何も言わず再び彼女の手の甲に口付けた。華奢で温かな女らしい手。彼女は怪訝そうな表情をした後、微笑んだ。
「それではまた」と私は彼女の部屋から立ち去った。
書斎に戻ると書類の山がわずかに低くなっていた。私は黙々と仕事を続けるロイスに目を向けた。
「ロイス、長時間不在にしてしまい申し訳なかった」
「いえ。私が処理出来る分だけですので」
私は深呼吸したのち、ロイスの机の前に立ち彼の目を見た。
「ロイス。マカレナと話したいことがあるため近いうちに彼女と話したい」
「承知いたしました」とロイスは立ち上がった。
私は自分の机に戻り書類を1枚取った。1度寝たお陰だろうか、頭の働きが冴えている。難解なフランス語の文章すらもスラスラと読み解ける。マカレナが来るまでの僅か30分の間に、5枚の書類を決裁することが出来た。
「ロイス、すまない。マカレナと2人で話したいことがあるため一旦席を外して欲しい」
「かしこまりました」とロイスはお辞儀した後、退室した。
「マカレナ、そちらに座りなさい」とロイスの席を指した。
「はい」とマカレナは席についた。
幼い子どもと遊んでいたせいだろうか。マカレナの髪がやや乱れている。
「子どもって本当に元気ですね。私を息切れさせるなんて」とマカレナは笑った。
「ジョエルはどうだ? 其方の養弟に当たる子だが……」
「利発な子ですし、とても興味深い子です」
「そうか。マカレナ、大事な話がある。私達の婚約についての話だ」
マカレナはあら、と真剣な表情になった。私達はついている机はそれぞれが離れているが、お互いに向き合えるよう体の向きを変えた。
「マカレナ。1年半前、エリザベスの第一夫人としての能力に不安を感じたこと、彼女を公の場に出すことに怖れを感じていたため其方と婚約した。しかし」
「ヨハネス様。前置きはいいので」とマカレナは退屈そうに口元を顰めた。
私は「分かった」と呆れたように小さく笑った。「其方との婚約を破棄する」
「かしこまりました」とマカレナはスッキリしたように笑った。「お話は終わりですか?」と立ち上がりかけた。
「いや」と私は首を横に振った。
ここからが大事な話だ。私は指を3本立てた。
「其方への最大限の謝罪と感謝を込めた贈り物だ。3つの案がある。どちらかを選びなさい。1つ目。他家、辺境伯の家に嫁としてもしくは跡取りのための養女として入る。家の候補は4つある」
マカレナの驚いたような顔を確かめた後、ゆっくり薬指を折った。
「2つ目。其方の実家であるローレンス家の後継となる。現在後を継ぐのはアーサーと決まっているが、私の後ろ盾があれば出来る」
マカレナは目を見開いた。私は中指を折った。選択肢は残り1つ。
「3つ目。エリザベス、もしくは伯爵以上の貴族の文官となる」
マカレナは考えるように頬杖をついた。その時、ロイスの机に置かれたフランス語の書類に目を向けた。マカレナはゆっくりと顔を上げた。目が星のように輝き、頬が紅潮している。
「ヨハネス様。私、通訳官になりたいです。お力をお借りしてもよろしいでしょうか?」
思いも掛けぬマカレナの希望。動悸が早まる。私は通訳官になりたいなどと願ったことはなかったが、国王陛下と父の意向により通訳官となった。エリザベスですら、望んで語学堪能となったわけでなかった。しかしマカレナは……。未知への好奇心、ただそれだけが動機なのだろう。
私はゆっくりと目を瞬いた。
「ああ。私が力になることが出来るのなら力を貸そう」
「やった!」とマカレナは拳を振り上げた。
「もしも私が不在の時にはロイスに教えてもらいなさい」
「え? お父様もフランス語がお出来になるのですか?」
「ああ。そうでなければロイスは普段、どうやって私の仕事を手伝うのだ?」
「左様ですか……」
マカレナはなぜか顔を赤らめ、遠い目をした。どうしたのだ? 私はマカレナの顔を覗き込んだ。
「マカレナ、話を続けてもいいか?」
「ええ。私、いつ通訳官としてデビューできますか?」
「其方の勉強の進捗によるが、新年のヴァロワールとの挨拶にはエリザベスの通訳として伴う予定だ」
「エリザベス様もお連れになりますの?」
私は軽く目を細めた。ヴァロワールの高官はただの「明美・エアリー」だった頃のエリザベスを知っている可能性があるため、連れて行かなかったが……。彼女が最後にヴァロワール共和国の者と会ってからもう4年も経った。更にエリザベスは今年に入ってから顔つきに大きな変化があった。気付かれる可能性は低いだろう。
「ああ。いい加減、妻を伴わくてはいけないからな。だが安心しなさい。通訳官の妻にはよほどの物好きでない限り、誰も話しかけぬ」と私は重く頷いた。
「私、立派な通訳官になります。どんな人ともどんな会話も臆せず続けられるような!」
それはただの其方の趣味ではないのか? 見聞を更に広めたいだけであろう? 小さな笑いが漏れた。かつて私が苦しんだ末に習得したものが、彼女の望みを叶える光となるのか……。彼女が眩しく見える。
*
その夜、エリザベスを部屋に呼んだ。彼女はいつも通り寝室に本と日記帳を持ち込み、うつ伏せで本を読んでいる。肩に緩く太い三つ編みが垂れている。彼女の三つ編みに手を伸ばすと、彼女は一瞬身を強張らせた。
「エリザベス。マカレナとの婚約は破棄した」
「え?」とエリザベスは本から目を離し視線が彷徨った。
モハメドからの手紙はフランス語だから安心だと思っていたのに、まさかロイスがフランス語もできるとは。
次回、仕掛けるのは甘い罠




