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卵が孵る

 ゴーディラックへ帰るため、明美は要るものと要らないものを分けていた。こちらで買った服は持っていけない。だってゴーディラックのスタイルと違い過ぎるから。私はティレアヌスの服の方が好き、長持ちしそうだし。私が小柄すぎてこちらの使用人にあげられないのが残念。

 私はふぅとため息を吐いた。

 あとの片付けはレベッカ達に任せることにして、私は散歩に出かけることにした。ゆっくりと階段を降りた。あたたかな陽を感じながら戸を開き外に出た。夕方の汽車でゴーディラックへ向かう、つまり14時にはここを離れる。今は朝の9時。

 今日は本を持たずに庭園に来た。ベンチにハイド伯爵が座っていた。会釈してから私は噴水に腰掛けた。ぼんやりの花を見つめた。夏の花は萎み始め、秋の蕾が膨らみ始めている。水やりをしていたジョエルと目が合った。ジョエルはじょうろを放り出し、私の元に走ってきた。——ハイド伯爵が立ち上がった——。ジョエルはひしと私に抱きついた。だからわたしは静かに抱き返した。ジョエルはバッと顔を上げた。


「ねえベス! 本当にゴーディラックなんかに行っちゃうの⁈ や! ずっとここにいてよ! ねえ、ベス!」とジョエルは顔を涙でぐしょぐしょにした。


 隣に立った閣下がぽんと私の肩に手を置いた。私は頷いた。ここでティレアヌスに留まってはいけない。


「行くわ。だってそろそろ帰らなくちゃいけないもの」

「やだ! エリザベスがいなくなったら僕どうやって勉強すればいいの⁈」

「本当の本当に教えたかったことはもう教えたから大丈夫よ」と私は首を傾げた。基本的なことしか教えられなかったけど。


 そもそも……。私の知識は保健体育の授業からだった。たったそれだけの知識しかないのに、人の命に関わるようなことを言った。なんて浅はかだったんだろう。

 

「でも僕、ダニエルが怪我した時、何もできなかった!」


 どうしよう。私はハイド伯爵を見た。ジョエルは私から身を放し、キッと私を見た。


「僕、ダニエルやドルカスを助けられるお医者様になりたい!」


 閣下から驚きの声が小さく漏れた。閣下は身を屈めジョエルと目を合わせた。


「其方の名は?」

「ジョエル。ジョエル•マルティネスです」と小さな声で答えた。うん、閣下って声も顔も身長も迫力あるから怖いよね。

「ティレアヌスの者は医者にはなれぬ」


 ジョエルはえ、と絶望の声を漏らした。どうしよう、子どもの夢が潰れる瞬間を見ちゃった。私はチラと閣下を見た。心苦しそうだが、真剣な表情だ。

 私は小さく首を傾げた。こんなに立派な夢が潰れるのは惜しい。


 閣下は「親兄弟の命を救いたい、という気持ちは分かる。だが、私には何もしてやれない」と極々小さな声で呟いた。


 閣下の呟きに私は何となく俯いた。閣下は18歳になるまでに両親と兄妹を亡くしている。親兄弟の枠に入らないけど、他の家族も多く亡くしている。残ったのは彼の継母であり、私の書類上の養母であるボーヴァー夫人だけ。

 私はふと顔を上げた。


「ジョエル、私の養子にならない? そうすればゴーディラックの人になれるわ」


 ジョエルの目に戸惑いと希望が見え始めた。閣下は私に困惑の眼差しを向けた。


 閣下は「すまないがジョエル。私は妻と話すべきことがあるので仕事に戻りなさい」とジョエルを追い払った。


 ジョエルはあ、と叫んでから仕事に戻った。よく見ると庭師が怒っている。

 頬に閣下の熱い眼差しを感じる。私はドレスの皺を直してから、体ごと閣下に向けた。閣下は深々とため息を吐いた。


「エリザベス、其方の案は悪くない。だがエリザベス。ティレアヌス出身の少年を養子として引き取るのは悪手だ。目下のところハイド家に跡取りはいないのだから」


 あ。

 じゃあどうしよう。


 私は「さすがにジョエルが跡取りになるのはマズイですよね」と気まずく笑った。

「マズイ、どころではない。他の貴族からの養子の話を断り続けていた挙句、平民の子を養子などにすれば……」


 ヤバい。俯いてしまった私の顔を閣下が上げた。


「1番良いのは、既に跡取りのいる私の文官らの誰か……ロイスあたりの養子とし、我々が後見人となることであろうな」

「え? ジョエルをゴーディラックへ連れて行くこと自体はいいのですか?」

「ああ」と閣下は鷹揚に頷いた。「仮にロイスの養子とするならば、彼の私生児ということにしておくか」


 私はバッと目を見開いた。私はジョエルの家族の顔も、ロイス様の子ども達も知っている。


「え?」と私は戸惑いながら首を傾げた。

「よくある話だ。ジョエルの母親も貴族の別荘で働いていたのであろう? 滞在中の貴族の子を使用人が産むのはよくある話だ。それに今はロイスの妻が亡くなった直後。愛人の子をいれるのにはちょうもよい時期だ」と閣下は腕を組んだ。


 勝手にありもしない犯罪歴、というか不倫歴をでっち上げられたロイス様。哀れ。私は心の中でアウリスの方角に手を合わせた。


 閣下は「ロイスに電報を打った後、ジョエルの母親の元へ行ってくる」と立ち上がった。私も立ち上がりかけると閣下に「其方は帰り支度と着替えを済ませなさい」と手で制された。


 私は頷いてから、今着ているドレスを見た。シンプルだけど柔らかく広がる落ち葉色のドレス。これもティレアヌスの服。今日で見納めかぁ……。

 小さくため息を吐き、屋敷へ向かう閣下のあとに着いて行った。閣下はくるりと振り返った。


「話は変わるがエリザベス。そのドレスはよく似合っているな。それは持って帰るのか?」

「持って帰ってもいいのですか?」も私は閣下に駆け寄り手を繋いだ。

「ああ、2、3着くらいなら。それこら着る時は誰とも会わない日にしなさい」と閣下は手を握り返してくれた。

「ありがとう存じます、閣下」と私は微笑みかけた。


 *


 駅に着いた。心が苦しい。何かを忘れた気がする。何か……心の一部を別荘に置いて行っちゃったみたい。私は屋敷のある東の方へお辞儀をした。ここ9ヶ月分の感謝を込めて。顔を上げた時、床板の隙間からキラリとしたものが見えた。何だろう? 屈んで床板の隙間を覗き込んで見た。下にある物が見えた瞬間、私はヘアピンを一本引っこ抜いた。ヘアピンを床板の隙間に差し込み、ペンダントを引き上げた。無くしたと思っていた、お母さんがくれたペンダントだった。すっかり錆びてしまったけど……。リボンのペンダントトップが夕日に照らされキラリと鈍く輝いた。閣下が不思議そうな表情で私の手元を覗き込んできた。

 汽車の汽笛がなった。私たちは慌てて汽車に乗り込んだ。1週間半後にはアウリスにいる。


 一等室に座ったあと一息吐いた。閣下は私がハンカチにペンダントを仕舞ったのを見ていた。


「エリザベス。ジョエルは来月アウリスに来る」

「そうですか……。マルティネス夫人には申し訳ないことをしましたね」

「ああ。かなり彼女は泣き喚いていた」


 閣下は小さく俯いた。閣下も辛いお仕事だったよね。私は労りの気持ちを込めて閣下を抱き締めて、頭を撫でた。映画で見たことあるからマネしてみた。閣下は深く息を吐いた。閣下の体からふわっと力が抜けた。


「エリザベス。其方にとって愛はどのようなものなのだ?」


 私はこてりと首を傾げた。リラックスしすぎて頭おかしくなった? ちょっと考えた。


「愛は分かりませんが……。恐らく、相手のために何かをしてあげたいと感じること?」

「其方はジョエルとその兄を愛しているのか?」と閣下はため息を吐いた。

「たぶん。でも恋愛という意味ではありませんのでご安心ください閣下」


 閣下の頭を撫でながら私はふっと顔を上げた。誰かのために何かをしたいのが愛なら……。

 胸元に頭を預ける閣下が重くなってきた。


 閣下は「エリザベス……。私たちはまた関係を作り直せるだろうか……」と呟いた後、眠りに落ちた。


 座ったまま寝るのは辛そうだから、膝枕にしといた。

愛人がいた設定を勝手につけられたロイス。ハイド伯爵はもっと父親の乳兄弟の外聞を気にしよう。

次回、エリザベスの今後とロイス。

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