光と祈りの季節
もう大丈夫だと判断した私はゆっくりと歩き始めた。少し右足首がぐらぐらする。でも痺れているだけだから大丈夫。市場の中は、崩れた建物と瓦礫で暗く重苦しかった。
ゆっくり歩いていると人々が囁き合う声が聞こえた。突然働く場所を失った人々だ。さっきの襲撃で生活の場を失った人たち。さっきの爆発で家族を失った人もいるのかもしれない。沈み始めた陽が人々を平等に煌々と照らしている。
奇異の目線を感じながら歩いていると男の子の声が聞こえた。板の上に寝かさられた年嵩の男の子を揺さぶっている金髪の男の子。ジョエルだ。駆け寄った。
私は「ジョエル」と駆け寄った。
「ベス! どこにいたの!?」とジョエルは私にしがみついた。
私は座り「ごめんね。ちょっとあの場を離れられなかったの」とジョエルの頭を撫でた。
板の上で横になっているダニエルに目を向けると血に塗れていた。頭、あとは背中から出血している。見るだけで冷たくゾクッとする。ジョエルを見ると、顔に包帯が巻かれていた。少し砂ホコリがついているけど、さっきまでは綺麗だったんだろうな。
「誰が包帯を巻いてくれたの?」
「さっき女の人が巻いてくれたんです。でもその後、建物が崩れた時にダニエルが……僕を…………」
ジョエルは肩を大きく震わせ、ぐすぐすと泣き始めた。怖かったんだろうな。私は震える手でジョエルの背を撫でながら、ダニエルの傷を確認した。背中の傷はひっくり返さないと分からないけれど、頭の傷は出血が多いだけで深くない。大丈夫。スカートを破り水筒の水を含ませた。傷口を拭いた。出血が酷かったようだ。出血が長引けば死んでいたかもしれない。包帯が欲しい。さすがに破いたスカートを包帯代わりにするのは衛生上不安。頭を悩ませていると後ろから声が掛かった。
「弟さんに包帯を巻きましょうか?」
ぱっと振り向くと黒い髪の女性がいた。お互いに「あ」と声が漏れた。
私は「エミリアさん」と目を見開かせた。
エミリアさんは「エリザベス様……」と驚いたように呟いた。それから「この男の子たちは使用人ですか?」としゃがんだ。
それからテキパキとダニエルの頭と背中に包帯を巻いてくれた。
エミリアさんは「申し訳ありません。私はこれで」と立ち去ろうとした。
「待って」と私はエミリアのスカートの裾を掴んだ。「ありがとう。エミリアさん」
「どういたしまして」とエミリアさんは微笑んだ。後光のように夕日が彼女の背から輝いている。
「最近どうなさっていたの? 教会でも見掛けなくなって心配していたのよ」
「妊娠しましたの」とエミリアさんは顔を強張らせた。
おめでとう、と言いかけて止めた。国王陛下の愛人となる形でティレアヌス側の人質となったエミリアさん。頭の中でその意味が回る。彼女が妊娠した、と言うのは良い報せなのかな。国王陛下がティレアヌスにいらっしゃったのは4月。ならもう妊娠4、5ヶ月だろう。言われてみるとエミリアさんのドレス、帯の位置が高い。
「そう。じゃあどうして今日はこんな危険な所に?」
エミリアさんは「市場で襲撃があったと耳に入りました。私の弟の仕業ではないかと考えたため、怪我人の手当てに」と眉根を寄せた。
「弟さんならさっき会ったわ」
エミリアさんは怒ったように血相を変えた。
「弟はどこに?」
私は「あそこにいたわ」とさっきまでいた方向を指さした。
エミリアさんは「申し訳ありません、エリザベス様。用事が出来ましたので失礼させていただきます」とお辞儀して走っていった。妊婦が走ってもいいのかな?
夕日の最後の輝きがジョエルの横顔とダニエルの寝顔を照らし始めている。ジョエルを見ると顔が火照っていた。そう言えばさっきの爆風で帽子飛んじゃった。さっき買ったレモンの存在を思い出した。ポケットからレモンを取り出した。
「ねえジョエル。ナイフ持ってる?」
「うん」とジョエルはダニエルのポケットを弄り、ナイフを渡してくれた。
レモンを切っていると手元に、陰となっていた髪からひとしずくの光が差し込んだ。レモンがその光を反射した。その小さな風景を見ながらレモンを切っていると心が落ち着いてきた。果汁を水筒に入れた。
「さあ飲んで」と水筒をジョエルに渡した。
ジョエルはごくごくと飲んだ。飲み終わると、ジョエルの顔色が少し良くなった。ほっとした私はダニエルの上体を起こした。少し考えた。うん。小さな命を守るために、私にできることは全部やらなきゃ。レモン水を口移しで飲ませた。
ジョエルは小さく「きゃー」と叫んでいる。
「意識がない人に無理やり水を取らせるのは危ないのよ」と説明した。「それからさっき言ったようにレモンにはビタミンがたくさん入っている。ビタミンは怪我の治りを早めてくれるわ。残ったレモン、食べる?」とジョエルにレモンの残り半分を渡した。
「後でダニエルにあげる! すっぱいもん!」とジョエルは引きつった笑いのまま、レモンの受け取りを断固拒否した。
私は思わず吹き出してしまった。残り半分も水筒に入れようかな。いや、水筒の水も残り少ない。ただの濃縮なレモン水が出来る。酸っぱさ倍増!
ガラッと音がした。音の方向を見るとブルーノがガレキを潰した音だった。
「ブルーノ!」
「エリザベス様! ご無事で!」とブルーノが走ってきた。
ブルーノの声でアンネリースもこちらに気づき駆け寄ってきた。私はアンネリースの手を握った。
「アンネリース、ブルーノ。無事で良かったわ」
「奥さまもご無事で本当に……」とアンネリースの言葉が途切れた。ダニエル達に視線が移った。「奥さま。帰りましょう」
「ええ」
ブルーノがダニエルをおんぶした。アンネリースは私の足を見て、私を抱き上げた。市場から離れた所に停めておいた馬車に乗った。
「僕、何も出来なかった」とダニエルの声が聞こえた。目覚めたようだ。
8月最後の日の出来事だった。
大人から離れていたのにダニエルのお陰で無事だったジョエル。
次回、ボーヴァー伯爵夫人の邸宅へ。




