硝煙とレモン
帯を締めると明美は「よし」と気合を入れた。
白いゆったりしたシャツブラウスに、斜めストライプの入った青いスカートという出で立ちだ。
今日はダニエル、ジョエルと市場へ行く。リボンのついた麦わら帽子を被り、部屋から出た。
「アンネリース、支度が終わったわ」
アンネリースは頷いた。玄関へ行くと、従僕が待機していた。彼はお辞儀した。
「本日、奥様の護衛を務めさせていただきますブルーノ•ワイリアムスと申します」
「ブルーノ、今日はよろしくね」
ブルーノは使用人の中では腕が立つようだ。今回の護衛に(アンネリースによって)選ばれたのだから。
ダニエル、ジョエルと合流し馬車に乗った。馬車はブルーノが操っている。アンネリースは私の左隣に腰掛けている。ダニエルとジョエルは私の向かい側に。アンネリースは常に警戒するように腰の剣に手を当てている。私は微笑んだ。
「アンネリース、そこまで警戒しなくてもいいと思うんだけど」
市場から少し離れた所で馬車から降りた。ジョエルは嬉々として私の手を握った。私は笑いながらダニエルに手を伸ばした。
「ダニエル、あなたも繋ぐ?」
「いいえ。結構です!」
キッパリと断られちゃった。何となくショボンとした気持ちのまま歩いているとダニエルがチラチラ私を見ていることに気づいた。どうしよっか〜。
ジョエルはニヤニヤとダニエルを見た。
「ダニエル、恥ずかしいんだ! 奥様と手を繋ぐの」
「違う!」
「奥様、お綺麗だもんね〜!」
「うるさい!」
ダニエルは顔を真っ赤にして怒っている。私、どうすればいいんだろう?
アンネリースがジョエルの肩に触れた。
「ジョエル。外では奥様のことをエリザベス様とお呼びしなさい」
「分かりました!」
私は「ベスでもいいわ」と付け足した。
少しずつ人通りが増えていく。服装を見るに別荘街の近くに住む庶民だろう。アンネリースが私の隣にピタリとついた。背後にはブルーノがいる。ジョエルはアンネリースの様子に構わず私の手を繋いだままだ。
「ねえ、ベス。今日は何の勉強なの?」
アンネリースが鋭い目でジョエルを見たのを、私は軽く手で制した。
「今日は栄養についての勉強よ」
そう言った時、市場に着いた。私はすぅと息を吸った。スパイスの匂いが胸いっぱいに広がった。
「ダニエル、ジョエル。主な栄養素は5つあるの。炭水化物、たんぱく質、ビタミン、脂質、ミネラル」
野菜の山が並ぶ屋台の間に、私の声が小さく響いた。ダニエルはぶつぶつと私の言葉を繰り返した。私はポケットからノートを取り出し、1枚ちぎった。
「ダニエル、覚えたければこのペンと紙を使えばいいわ」
「ありがとうございます。エリザベス様」
ダニエルはメモを取り始めた。メモを覗き込むと字は汚かった。読み書きは出来るけど、書くのは苦手なのか。立っていると人にぶつかった。身を乗り出しかけたアンネリースを、目立たぬよう片手で制した。
ぶつかってきた男は「わりい。割れ物は持ってないよな?」と謝ってくれた。
私は痛いな、と思いながらにこりと笑った。「大丈夫よ。今、何を買うか相談していた所だったもの」と首を傾げた。
男は「ほぉ、一家勢揃いか」とアンネリースとブルーノ、ダニエルにジョエルを見た。
一瞬、この男がダニエルとジョエルの顔を知っていたらどうしようと思ったが杞憂だった。
男は「今日はキャベツが特売だぜ。蒸せばぁ腹が膨れるぞ」と人だかりのある店を指さした。
「あら。親切にありがとう」
「いいってよ。この物価高だ。あんたらみたいな兄弟が多い家は大変だろうなぁ。人が多いから気をつけろよ」と男は立ち去った。
私はアンネリースに「買う? キャベツ」と片眉を上げた。
アンネリースは「エリザベス様が望むのなら。ですが庶民の生きる糧を横取りするのは気が引けます」と難色を示した。
「冗談のつもりだったんだけど」
それからジョエルとダニエルに向き直った。
「キャベツにはビタミンや食物繊維が多く含まれているわ」
「食物繊維って何ですか」とダニエルは真剣な眼差しで尋ねた。「さっきおっしゃっていなかったものですよね」
「そうね、食物繊維は……。とりあえずお腹が膨れるわ。それに……」と言葉が詰まった。言葉を選んだ末、「お花を摘むのが楽になるわ」と付け足した。
案の定、ジョエルは首を傾げている。ダニエルは少し考えてからハッとした。メモを覗き込むと「便がよく出る」と書かれていた。私は思わず吹き出し笑った。チラリとレモンが視界に入った。
「ビタミンは、体の調子を整えてくれるの。病気からの回復も早くなるし、怪我の治りも早くなる。とっても便利な栄養素よ」
ジョエルが、レモンを指さして「これにも入ってる?」と聞いた。
私は「入っているわ。よく分かったわね」と頷いて微笑んだ。
ジョエルは「だってベス、チラチラこれ見てたもん」と胸を張った。
日が高くなってきた。石畳がまぶしく反射している。財布を持っているアンネリースに言ってレモンを買った。水筒の水を飲んだ。その時だった。
市場の奥から発砲音が聞こえた。誰かが何かを叫んで走る。刃物を持った男たちが、周囲の人々を追い払っている。誰かが倒れ、血が地面に広がる。周囲の人間がどっと避けて散った。アンネリースがバッと私の前に、ブルーノが私の後ろに立った。目を見開いたまま、私はその場で動けずにいる。
何かがおかしい。
動悸が速くなる。私は無意識にジョエルの手を引っ張り腕の中にかばっていた。
次の瞬間、空気が裂けるような音とともに、屋台がひとつ――爆ぜた。市場の風景が、あっという間に別世界のように変わった。
乾いた破裂音と、木材の飛散音、人々の悲鳴が重なる。爆風でジョエルを抱えたまま飛ばされた。煙が上がった。右の足首がズキリと痛い。香辛料の香りが焦げた臭いに変わる。
ブルーノが「ダニエル! 大丈夫か!?」と声を上げた。
ブルーノの視線の方向を見るとダニエルが体を丸め頭を庇っていていた。私達から少し離れた所に飛ばされていた。
手を伸ばしかけた。
その時、太い男の声が響いた。
「ゴーディラックの貴族だ! あの女だ!」「ティレアヌスを穢すゴーディラックの、貴族だ!」
叫び声が飛んだ。私を指差し、確かにその男たちの目が、私を捉えていた。背筋が凍った。アンネリースが男の1人に剣を向けている。その時、いつの間にか側に来ていたダニエルが私の手を強く引っ張り、地面に倒した。
「身を低くしてください。この人だかりですから、隠れやすくなります。この体勢のまま走ってください」
「分かったわ」
背後を見るとブルーノも戦っていた。横ではジョエルも身を丸くしている。よく見るとジョエルの顔から血が出ていた。さっきの爆発で飛んだガレキがぶつかったのだろう。
混乱の中で、誰かが石を投げた。それが市場の中央に立っていた布製の看板に当たり、倒れた。叫び、叫び、誰かの泣き声、怒声。でも、煩ければうるさいほど、私は冷静になっていた。
私はジョエルの背を抱き寄せた、小さな背が震えている。飛んできた石が背にぶつかった。ぎゅっと上唇を噛んだ。2人を守るためには、自分を捨てる覚悟が必要だった。もしかしたら、これが私の本当の役目なのかもしれない。
「ダニエル、ジョエル。逃げて。逃げなさい」と、立ち上がった。
「何なさってるんですか? 身を低くしてください」とダニエルは私の手を引っ張った。
私は腰を屈めて、ダニエルと目を合わせた。
「貴族が狙いならあなたたちは1番関係ないわ。それにこの場ではあなた達が1番幼い」
「でもあなたは懐妊なさっているのでしょう」
あぁ……。だから守ろうとしていてくれたのか。私は首を横に振った。
「妊娠してないわ。本当に」
一昨日ようやく生理が来た。だから妊娠なんかしていないって分かった。
痛みに泣きじゃくるジョエルの頭を撫でながら、ダニエルをまっすぐ見つめた。ダニエルはかろうじて怪我をしていない。
「あなたはジョエルを守るためにでもいい。逃げなさい。これはあなた達の先生役としての言葉じゃないわ。貴族としての言葉」
ダニエルはビッと背筋を伸ばした。
「分かりました。エリザベス様はどうなさるのですか?」
「私は後で行く。だってアンネリースの主だもの」
「絶対来てくださいよ」とダニエルは念を押し、ジョエルをおぶって逃げた。
ダニエルとジョエルの背が消えたのを確認し、笑みが漏れた。まだあんなに小さいんだもん。私が守らないと。
それからそっとスカートを捲った。靴下から血が滲み溢れている。木の破片が刺さっていたので、抜いた。そしたら出血が酷くなった。終わったかも。ポケットから大判のハンカチを出した。ヤバい、と感じながらハンカチで右足首を縛り止血した。
兄弟が多い家……モブの男性は明美も含めて兄弟だと思っています。ダニエルとジョエルはもちろん、ダニエルと明美もどことなく似ているから。ついでに後ろにアンネリースもいたので。
次回、止まらない血。




