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はずれものの恋、ユーラシアのはぐれ島で  作者: 神永遙麦
この手を伸ばす先:ティレアヌス
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風の入る部屋

 明美は日本語で小さく「失礼しまーす」と呟きながら寝室に入った。

 寝室に入ると、ぐっと眉間と口元に皺が寄った。臭い。陰鬱で湿った空気が充満している。空気の流れが全くない。さっきリビング(?)の窓が3ヶ月開けられていないと聞いてヤバいと感じた。結核は伝染るってことはウイルス系でしょ? なら定期的に空気の入れ替えをしなくちゃいけないのに。


「だれ……?」と掠れた声が聞こえた。

 

 私はベッドで横になっている女性を見た。マルティネス夫人によく似た亜麻色の髪がぐしゃぐしゃなままベッドで波打っている。異常に赤い顔。高確率でこの人がダニエルのお姉さんだろう。年は私より下、14歳か15歳くらい?マルティネス夫人も寝室に入ってきた。


「この方はダニエルが働く屋敷にいらっしゃる方よ」

「ドルカス……です。こんな……なりですみません。」


 息絶え絶えでつらそう。そう言えば私4歳まで日本で育ったけど、結核の予防接種って打つのかな?

 ドルカスの潤んだ目がこっちを見ている。きっと私が(一応)貴族だってことは言わないほうがいい。貴族の屋敷へ奉公に行っていたのなら、ハイド姓を名乗れば勘付くだろう。

 

「そのままで大丈夫よ、ドルカスさん。私はエリザベス……・エアリー。よろしくね」と微笑んでみせた。


 マルティネス夫人がドルカスに近寄り、腰を屈め額に触れた。それから「今日はいつもより熱が低めね」と髪を撫でた。マルティネス夫人はドルカスに悲しげで柔らかだが張り詰めた視線を向けている。

 私はもう一度、呼吸をした。ハンカチ越しでも分かるほどの、重い埃の匂いが喉に貼りつく。ナイチンゲールもおったまげの衛生環境。喉の奥がヒリヒリと痛む。


「……すみません、窓を開けても?」


 声に出すまで、ずいぶん時間がかかった。

 マルティネス夫人が困惑の視線をこちらに向けた。私はええい、ままよと心の中で叫んだ。


「換気が……必要だと思います」

 

 小さな声。それでもちゃんと聞こえるよう意識した。


 マルティネス夫人は目を見開いた。私の言葉が不快だったよね。余計だったよね。けれどマルティネス夫人はほんのわずかに頷いた。だから善は急げと窓に近づいた。窓の鍵を回すだけの動作にこんなにも力がいるんだ。かすかに手が震えている。けれどもう止めるつもりはない。勇気を出してカチリと鍵を外し、窓をぐいと押し開けた。夏。だけど新鮮な外の空気が、湿った部屋に流れ込んできた。風がカーテンを揺らした。

 窓から離れた。ドルカスが目を細めた。風のせい? それとも気持ちが少し楽になったから? 不快だから? 私には分からない。

 何となく苦しくて寝室のドアの前に立った。ダニエルが興味津々といった様子でこちらを見ている。


「どうして窓を開けたんですか?」


 私は寝室から出て、さっきの部屋に戻った。、マルティネス夫人が私の背に何か言いかけて、結局黙った。それから壁に寄りかかった。目の前にはダニエルとこの部屋の窓。

 

「必要だと思ったから。寝室が密閉されすぎていて空気の流れが止まっていたの。空気が部屋の中にこもっていると、病気は悪化してしまうわ」


 ダニエルはその言葉をしばらく考えてから、少し頷いた。


「それは本当なんですか?」


 少し声が震えている。私はゆっくり「ええ」と頷いた。


 ま、偉そうに言った私の知識は保健体育の授業からなんだけどね。ダニエルは納得したように頷いてからこの部屋の窓を開けた。私はつとテーブルに触れた。テーブルはちゃんと掃除してある。

 私がここへ来たのは、ジョエルくんのためじゃない。そう言ってしまえば、マルティネス家の方々はどう思うんだろ。私は自分なんかの存在でも誰かの役に立つという確信が欲しい。ただ、それだけ。

 私はゆっくりと歩み寄り窓辺に手を伸ばし、拒絶するように冷たい木の感触に触れた。


 玄関の戸がぎぃぃぃと開いた。私はバッと振り返った。ぐっしょりと汗に濡れた痩せた金髪の男の子。――この子がジョエル? 8歳だと聞いたけど――。男の子は窓辺のダニエルを見てパッと顔を輝かせた。


「ダニエル!」

「ジョエル! ただいま!」


 ジョエルが走り寄るより先に、ダニエルが一気に駆け寄り男の子を抱きしめた。ジョエルはぐりぐりとダニエルのみぞおちに顔を埋めている。


「ダニエル! ダニエル! ほんとに帰ってきたの!?」

「うん。帰ってきたよ。よかった元気そうで」


 ダニエルがジョエルの頭を撫でた。ジョエルがぽろぽろ泣き出して、ダニエルもぐっと唇を噛んだ。私はすぅと気配を消そうと努めた。寝室からマルティネス夫人も出てきた。


 ジョエルが泣き疲れたあと、ようやく私の存在に気づいた。


「……だれ?」


 ダニエルが「紹介するよ。この人は……」と言いかけた。私は軽く手を挙げて遮った。


「エリザベスよ。あなたのお姉さんのお見舞いに来たの」


 ジョエルがちょっと警戒しながら「ふーん」と睨んだ。私はジョエルの手に何かが食い込んだような痕があることに気付いた。


「何か重いものを持っていたの?」


 ジョエルは「牛乳を乗せた車を引っ張ってんだよ。でもへっちゃらさ」と胸を張った。

 

 今、午前11時ごろ。ジョエルは毎朝牛乳配達で朝早くから歩いている。マルティネス夫人はドルカスの看病、家事、ジョエルの世話もしている。ジョエルだけでも引き取れないかな? さすがにダニエルが働いている屋敷でジョエルだけぬくぬくと生活するわけにはいかないだろうけど。

 私はマルティネス夫人に歩み寄った。なるべく低く小さな声を出した。


「マルティネス夫人、提案があります」

「外で話してください、奥さま。ダニエル、ジョエル、棚にパンがあるから薄く切って食べていいわよ」


 私達は外に出てドアを締めた。これから言う事は心が痛む。けれどやらないと。


「マルティネス夫人。きっとあなたもご存知でしょうが、幼い子どもは伝染病にかかりやすい傾向にあります」

「知っています」


 マルティネス夫人の声が少し苦しそう。けどここで引いたらまだ小さな痩せっぽちのジョエルは助からないかもしれない。マルティネス夫人が拳を握りしめた。


「やはりジョエルを引き取りたいと?」

「ええ。あの別荘なら安全です。別荘では恐らくダニエルの下につくこととなると考えております」

「まだ幼いあの子はなるべく手元に置いておきたかったのですが……」


 揺れるマルティネス夫人の目を見ているうちに母を想った。私がお母さんに会いたかったように、お母さんは一瞬でも私に会いたいと思ってくれたのかな……。4歳だったころの私も母のもとにいたかった。けど継父にとって私は家族の中にいらなかった。きっとジョエルだって今、母親と一緒にいたいはず。でも、ジョエルをこちらに引き取って、マルティネス夫人の仕事を1つでも減らさないと倒れてしまう。子どもの未来を想うなら長生きすべき。


「マルティネス夫人、ドルカスさんの病が寛解すれば必ず返します」


 マルティネス夫人は苦しそうに息を吐いた。それから「ハイド伯爵夫人。ジョエルをよろしくお願いします」とお辞儀をした。再びドアを開けた。ダニエルとジョエルは厚く切ったパンを食べていた。夫人はジョエルに歩み寄った。


「ジョエル。あなたはダニエルと一緒にエリザベスさんの所へ行きなさい」


 ジョエルはパンを膝の上に落っことし、不安げに夫人と私を交互に見つめた。

母親から引き離されちゃったジョエル。

次回、マカレナの色仕掛け。

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