閑話 静かな戦い
ダニエルは「本当に来られるの?」と何度も奥様を振り返った。
奥様は「ええ。行くわ」と足元を確認しながら階段を降りている。
僕は「結核ですよ」と念を押した。それからチラリと奥様の護衛を見た。
奥様は「分かっている」とショールを深く被った。ここから先は平民街。
もとはクリーム色だったのであろう壁々は灰色や土色に染まっている。石畳の地面も元の色が分からないくらいすり減っている。この街も昔は綺麗で豊かな街だったらしい。振り返ると奥様は目を皿のようにして周りを見ている。でも嫌そうな感じで見ていない、物珍しそうなわけでもない。僕は不思議に思った。だってなんで伯爵夫人がキラキラした目でこの街を見ているんだ?
「奥様?」
「なに? 着いたの?」
「はい。鼻と口元をハンカチで覆ってください。」
目の前には僕らの家。レベッカに言われたことを指示した。来られたもんは仕方ないけど、なるべくうつさないように……。奥様はハンカチを取り出し顔に当てかけたが、何かをお考えになったようですぐに止めた。なんで? 奥様の背後にいる護衛の人はちゃんと覆っているのに。僕は中の様子を見るよう静かにドアを開けた。パッと見、母ちゃんはいない。たぶん姉ちゃんとこだろうな。
「母ちゃん、姉ちゃん。ただいま」
寝室から物音がした。「ダニエル!?」とすごい勢いで寝室のドアが開いた。母ちゃんだ。母ちゃんは目をカッ開き、「アンタなんで!?」と戸口まで走ってきた。それから奥様に気づいた。奥様を見ると綺麗に微笑んだ。
「初めまして。ダニエルくんが働く別荘の主、ハイド伯爵の妻エリザベスです」
母ちゃんは見るからに狼狽えパッパッと服の埃を払った。逆に奥様はどうしてこんなにも冷静なんだろう? それからお辞儀した。
「お初にお目にかかります。ダニエルの母、イーゼラと申します。どのような御用向きでこのような所へ?」
「イーゼラ、ご息女が病に伏していると聞きました。そのため下のご子息を預かりたいと考えております」
母ちゃんは「え? ジョエルを?」と困惑したように眉間に皺を寄せた。僕も不思議に思う、何でジョエルを預かりたいんだろう?
奥様は深呼吸してから「家の中を見てもいいかしら?」と首を傾げた。
母ちゃんはチラリと僕の方を見た。母ちゃんは冷や汗をかいている。母さんが焦ってるのは珍しい。釣られて奥様の表情を見ると、目の奥に強い意思が見えている。 ――ちなみに僕の方がほんのちょっとだけど、奥様より背が高い――。母ちゃんは折れたように「どうぞ」とガクッと肩を下ろした。お貴族様には逆らえない。
「けれど鼻と口はハンカチで覆っていただけますか」
「ありがとう。マルティネス夫人」
奥様はどこか安心したように顔を緩め、ハンカチで口を覆った。あれ、断られることを想定なさってたの? 母ちゃんがドアの外に出て、奥様を招き入れた。奥様はくるりと家の中を見渡した。窓に近づき、窓枠に触れている。それから奥様は母ちゃんを見た。
「最後にこの窓を開けたのはいつ?」
「3ヶ月前です」
奥さまは上品に眉間に皺を寄せた。最後に寝室のドアに目を向けた。
「あの部屋は?」
母ちゃんの冷や汗が僕にまで伝染った。
母ちゃんは「あれは寝室です。娘がいるので立ち入らないでください」とぐっと拳を握りしめた。
奥さまは「入ってもいいですか?」と首を傾げた。
人間、タガが外れると怖いな〜。
次回、ダニエルの姉と弟。




