傍観者
汽車が来た。汽車の向こうで輝く夕日が、汽車の窓を抜けハイド伯爵の背を照らしている。明美は小さな駅舎を背に微笑んだ、いつものように首を傾げて。
「それでは閣下、お気をつけて」
「ああ」
閣下は駅舎から背を向け手すりに手を伸ばした。身を捩り閣下はこちらをちらりと見た。手すりから手を離し、一歩駅舎の方へと踏み出した。なんでなのか分からず私は目を見開いた。
「閣下、いかがなさいましたか?」
閣下は何も言わず、私の頬に手を伸ばした。あったかい。唇に柔らかなものが当たった。少し屈んだ閣下が私に口付けた。私は思わず目をしばたたいた。頬が熱い。何を考えてこんな人目のあるところで? ここ駅だよ? 閣下は私の耳に口を寄せた。
「息災でいるように」
瞬いてから私は「はい」と微笑んだ。
私から閣下を抱きしめてもいいのか分からない。汽笛が鳴った。私は身を捩り閣下から体を離した。閣下は汽車に乗り込んだ。汽車が動き、姿が見えなくなった。
駅舎の方を向くとアンネリースが背を向けていた。なんかごめん。
「帰りましょう、アンネリース」
別荘に戻り、夕食を終えた。いつも通り風呂に入り、寝間着に着替えた。
寝室に戻り、ナイトテーブルから日記を出した。5月20日と日付を書いた。今日の日付に何か引っかかった。昨日が19日だから合ってるはずだよね。なら何が引っかかるんだろう?
5月20日、5月20日、5月20日……。なんの日だっけ? 誰かの誕生日だった気がする。閣下は2月だから違う。マカレナは4月生まれ。マカレナのお兄さん? 違う、だって誕生日知らないし。フリーダは7月の末。アンネリースは……いつだっけ? レベッカは秋だから違う。
私は目を上げた。ゴーディラックの外の人かも。おばあちゃんはいつだった? 1943年の……8月…………25あたりだった気がする。違う、8月27日だった。お父さんの誕生日は12月、命日は4月5日。お母さんの誕生日は……。
私はぽんと手を叩いた。そうだ、今日はお母さんの誕生日だった。84年生まれだから39歳か。39歳……。お母さんが私を生んだ時、20歳だったんだ。私が18歳だから、来年私が妊娠するくらいの話なのかな。妊娠かぁ……。不順とは言え生理も来てるし、ありえない話ではないなぁ。女の子は母親に似る。私が母親になれた所でお母さんのように何かあった時に子を優先することはないだろう。
私は鉛筆を取って、日記を書き始めた。今日は英語で書く日。
5月20日。
今日、閣下がアウリスへ帰られた。
今思い出したけれど今日はお母さんの誕生日だった。3年半も会っていない。翔一たちは元気かな? 日本では4月に学年が切り替わる。だから翔一は中学2年生、美咲は小学6年生、智は小学4年生になるはず。合ってるのか分からない。2019年に半年ほど一緒に暮らしていただけだから。父親が違ってもあの3人とは兄弟なのに、変な話。
お母さんはなんで私に「明美」と名付けたんだろう? よく見る名前だけどちょっと古くない? 「美咲」はまだ新しい感じがするのに。「明美」は「明るい」という意味を持つ字と「美しい」という意味を持つ字が使われている。綺麗だとよく言われるから「美しい」のは合ってる。けど明るくはない。
昨日、お父さんがなんで私に「エリザベス」とつけたのかを考えすぎてあまりよく眠れなかった。「エリザベス」は曾祖母にあやかってつけた名前だと聞いた。けれど曾祖母の名前は「レティシア」だった。「エリザベス」はミドル・ネームなのかな? そうだ! さすがに曾祖母の偽名なんてつけるわけないか!
私の名前の1つに「ガヴィーナ」がある。ゴーディラックでは「第四王女」につける名前(?)らしい。そのことを知らずにつけたわけがない。曾祖母は第一王女だった。もしかして曾祖母、おばあちゃん、お父さんと数えて私は4代目だから「ガヴィーナ」とつけられたのかな?
明日は本を読もう。そう、庭園でゆっくりと過ごそう。いつもみたいにポケットに飴ちゃんを仕込んで。もし明日が雨だったとしたらピアノを弾けばいい。閣下は「ピアノの練習を再開しなさい」とおっしゃった。第二夫人へ降格する私にピアノが必要になるのか分からないけど、閣下がおっしゃったことだもん。失望されないよう、やるしかない。
*
ハイド伯爵がティレアヌスからアウリスへ帰ってから2週間。6月に入り日が長くなった。噴水の側での読書を楽しんでいた明美はベンチから立ち上がった。
ダニー坊やが泣いている。
ダニエルの眦が赤くなっている、唇をぎゅっと閉じている。泣いていたの? 腰を屈めレンガ畳を拭いていたダニエルと視線を合わせた。
「ダニエル。大丈夫?」
ダニエルは瞬発的に「大丈夫です」と答えた。そのまま拭き掃除を続行した。
私は頬杖をついた。大丈夫ではないと思う。ダニエルの黒髪に夕日が反射し美しく輝いた。眦に小さかったころの記憶が蘇った。ワーホリのお兄さんに何度か「大丈夫?」と聞かれた朧げな記憶。そうだった、「大丈夫?」と聞かれても「大丈夫」だなんて答えられない。なんでなのか分からないけど。分からないけど、「大丈夫」だと答えた。
ダニー坊やの目には泣いた跡があった。ダニー坊やの服は長袖に半ズボン、袖は短く捲くられている。痣や殴られたような跡はない。肉付きも私よりはマシ。ダニエルは住み込みで働いている。ここでの人間関係や環境が原因でなかったら、家族の方に何かがあったのかしら? 考えているうちにダニエルは遠くに行っていた。仕事が早いねえ。
私は後ろを見た。アンネリースが控えている。
「ねえアンネリース。ダニエルに何があったのか知ってる? いじめられているの?」
アンネリースは力強く首を横に降った。
「いいえ。使用人間での悪い噂はありません」
「そう。ありがとう」
夕方らしい冷たい風が頬を掠った。微かに震えた。耳横の短い髪が揺れた。アンネリースが肩掛けを掛けてくれた。空はまだ明るいのに、周囲は暗くなる気配を見せている。噴水の向こうの木々が黒く沈んでいく。
「ダニエルに何があったのか探りましょうか?」
「そうねぇ……」
何となく疲れた私はベンチに座った。
私が手を出していい話なのかなぁ。手を出した所でどうにかなる話なのかなぁ。ダニエルは「大丈夫」と言った。なら私はいらない。けれど助けを求める方法を知らないだけだったら? でも「大丈夫」と言った。なら大丈夫。下手に私が手を出しちゃいけない。大丈夫。きっと大丈夫。
「いいえ。探らなくていいわ。下手に干渉しない方がいいもの」
「かしこまりました」
噴水の向こう側では日が沈もうとしている。鳥々が巣へ帰るため飛びゆく。私は石畳を蹴るように足を揺らした。
「そろそろ帰らないと」
アンネリースがおずおずとベンチの背に手を掛けた。
「今夜は夕食を召し上がりますか?」
「いいえ。ただ朝は食べるから大丈夫」
私は立ち上がり屋敷に向けて歩き出した。噴水沿いに北側へ歩くだけで着く。ドアの前に着いた時、左後ろを振り返った。日が最後の光を放とうとしている。光の中で最も光らしい強いオレンジの輝きが一帯を染める。顔に夕日が当たる。色は温かなのに、この光に温度はない。
「綺麗よねぇ。最後の輝きって」
次回、エミリアの異変。急に話が進みます。




