影の王女レティシア
明美が目を覚ますと夕方になっていた。ベッドで寝ていた、と言うことは誰かが運んでくれたのかな。ベッドに血の海ができていた。生理来た。思わず天を仰いでため息を吐いた。ピアノの音が聞こえる。胸元に触れた。レベッカを呼んで着替えを済ませた。ゆったりとした赤茶色のドレス。
ピアノの音はまだ続いている。部屋を出ると音が大きくなった。ピアノ室に行ってみるとハイド伯爵が弾いていた。何となく入りづらくてドアの隙間から覗くだけにした。なんて曲なんだろう? 芯がある美しい悲しさって感じの曲。
閣下が手を止め、こちらを見た。
「もう大丈夫か? エリザベス」
「はい、お陰様で」
入口で立っていると閣下が「こちらに来なさい」と手招きをした。私は重い足を動かしてピアノから少し離れた所にあるスツールに腰掛けた。片手で鍵盤を弄ったまま閣下は体の向きをこちらに向けた。
「2日後、私はアウリスへ帰る。だが其方にはまだここにいてもらう」
さっきやらかしたから? 私は軽く目を瞑り飲み込んだ。
「かしこまりました」と微笑んで見せた。
閣下は椅子から立ち上がり、歩き回った。スツールの後ろに立った。私はぐりんと首を後ろに傾けた。
「閣下?」
「エリザベス。其方はピアノの演奏ができるか?」
「ピアノの?」
閣下は私の肩に手を置いた。私はピアノを見た、普通のグランドピアノだ。ま、ピアノならアップライトだろうと電子だろうと弾き方は変わらないけど。
「弾けると思いますよ、昔習っていたので。ただ今も弾けるのかなぁ……」と私は首を傾げた。
「どれほどの腕前だった?」
「上手だとはよく言われました。ただ到底プロには及びませんし、古典的な曲はほとんど弾けませんよ」
「そうか……。其方が暮らした国で流行っていた曲だけを演奏できるのか?」
「流行り……。近年のゴーディラック以外では人気のある曲なら大方弾けますよ」
特に映画やアニメの曲はウケがいいから練習してた。閣下が私の髪に触れた。髪、結い上げているのに触ってて楽しいの?
「一曲弾いてはくれないか?」
「一曲?」
私は立ち上がりピアノの前に立った。首を傾げた。楽譜は置いてない。鍵盤に指を下ろした。少し力を込めると音が鳴った。高い音だった。椅子に座り、離れた位置にある鍵を押した。特段高くも低くもない音。さっきの閣下が弾いていた曲……この2つの音の中より低くらいの音だった。鍵を押した、その周辺も。そうこのくらいだった。それらしい音をいくつか鳴らしてみた、繋げてみた。そうそうこんな感じだった。それっぽい音の塊をいくつか見つけて繋げた。コツコツとした勘頼りの作業だ。
*
翌日は庭園で噴水を見ているだけで1日が終わってしまった。私は夕食後のケーキを口にした。明日の夕方ハイド伯爵が帰るのに何もしていない。ちらりと向かいに座っている閣下を見た。
「閣下は今日1日どのように過ごされたのですか?」
閣下は飲んでいたワインをコンと下ろした。あ、食器から音を鳴らした。動揺するような質問だったの?
私はとっさにコテリと首を傾げた。
「世間話のつもりなのでえっと……適当な返事でいいですよ」
「今日は本を読んでいた」
閣下は安堵したように息を吐いた。ほんの少しだけ胸がチクリとした。深めの瞬きをした。
「面白い本でしたか?」
「ああ、とても興味深い本だった」
何の本を読んだのかは聞かないほうがいいよね、きっと。
チョコケーキを食べ進めることに集中しよう。ビターよりのチョコケーキ。
夕食後、ベッドの上で体育座りして日記を書いていると、ベッドが揺れた。閣下もベッドに入ったようだ。閣下が私の手元を覗き込んだ。彼の顔に視線を向けると眉間にグググと皺が寄った。
「これはフランス語でもないな。どの国の言語なんだ?」
「日本語です。私の母が日本の人なので」
昨日は英語で日記書いたけど、それは言わなくていいよね。もしゴーディラック・ティレアヌスから出られないまま死ぬとしても英語と日本語だけは忘れたくない。
閣下は私の髪に触れた。今は夜だから緩い三つ編みにしている。
「エリザベス。其方が手紙に書いていた件について話がある」
手紙に書いていた件。
私は姿勢を正し日記を膝の上に置いた。閣下は私の髪から手を離した。
「ヴィンス7世の子は6人いた。王子が3人、王女も3人」
前から思ってたけど子沢山だったんだね。
「スヴェトラーナ后が生んだのも男3女3だったそうですが、彼に側妃や愛人の子はいなかったですか?」
「私が知る限り、ヴィンス7世には側妃も愛人もいなかった」
一夫多妻の国なのにすごいな、ヴィンス7世。
「王子3人はヴィンス7世の処刑に伴い死んだ。王女2人は幼さ故か病で死んだ」
残酷な事実と、世界史に出てきた「やたら早く亡くなる王子王女」という事実。確かルイ14世の跡を継いだのは曾孫のルイ15世だった気がする。ルイ16世もルイ15世の孫だった。
うん? 王女3人中2人が病死したの?
「では残りの王女は?」
「ヴィンス7世の第1王女レティシアだけは行方不明となった」
閣下は私の顔をじっと見た。
「恐らく其方は外国へ逃亡したレティシアの子孫にあたるのだろう。其方がヴィンス7世の子孫を名乗らなければ、私が知ることのなかったことである。決して漏らさぬよう箝口令が出されていた話だから」
言わなきゃよかった。
私はカーテンの掛かった窓を見た。
じゃあレティシア王女は亡命後、「エリザベス」と名前を変えたのかな。あれ、でも……。父が自分の祖母にちなんだ名前を娘につけるのは分かる。けど偽名由来の名前なんてつける?
今更だけど小説なのかな、これ。説明多くない?
次回、駅とダニエル。




