曖昧な名前
今日はなんとなく気分が良かった。
明美は屋敷を歩き回って見ることにした。まだ目眩は残っているけど、もう階段を上り下り出来る。
動き回りたい気分だったから青地に花柄のプリント生地のドレスにした。髪はゆる三つ編みを捻って纏めた。後毛も作っちゃった!
チェックのため鏡を見た時、おでこが広いのが気に入らなかった。子どもっぽく見えたから。ただでさえ童顔なのに子どもっぽく見えるのは嫌だなぁ。前髪を作ってみようかな?
ピンを一本残らず引っこ抜いてせっかく結い上げた髪を下ろした。裁縫箱からハサミを取り出した。自分の髪なんて切ったこともないから勝手が分からないけど、人差し指の長さくらいの幅を取った。
背後に人の気配を感じた。
「其方は一体何をしているのだ?」
よく通る低い声。くるりと振り返るとハイド伯爵だった。髪を撫でつけてハサミを化粧台に置いてからお辞儀をした。
「閣下、ご無沙汰しております」
「何をしているのだ? 」
閣下はハラリと落ちた私の髪を撫でた。手が大きい。
「髪を切るつもりだったのか?」
「いいえ、前髪だけです。額の広さが気になったので」
「毛量が減ったのではなく、生まれつきのものだろう? 気にする必要はないであろう」
「顔が幼く見えるので嫌です。ただでさえ小柄なのに」
「私は可愛いらしい体型だと思っているのだが?」
身長が低いから可愛く見えるのは知ってる。けれど……。私は髪を耳にかけながら、閣下の顔を見た。
「それは、庇護欲が駆り立てられるからですか?」
思いの外低い声が出た。思わず次の言葉を呑み込み、唇を噛みしめた。閣下は怪訝そうに屈み私の顔を見た。私は意を決してキッと顔を上げた。
「私は嫌です。今だって閣下が屈んで下さらないと目が合わなかった」
閣下が驚いたように目を見開き、私の目尻を指で拭った。必死に涙を堪えようとしたけど、視界がぼやけて来た。私はカッと目を大きく開いた。
「いつだって閣下が何かしてくださらないと私は目を合わせることすら叶わないのに。閣下が来てくださらないと、話しかけてくださらないと、庇護下に置いてくださらないと……」
「エリザベス、機嫌が悪いのか?」
「いいえ。さっきまで機嫌は良かったです」
閣下が私の顎を持ち上げ、目を合わせようとした。当然のように私の顎を持ち上げた。私は「やめて」と乱暴に手と顔を振って閣下の手を離させた。私は顔をそむけ、視線を足元に落とした。
「一体どうしたと言うのだ、エリザベス」
閣下は私の髪を一房取った。心がぶるりと震えた後、しんとなっていく。首を左に傾げた。
「閣下。閣下は私の名前を覚えていらっしゃいますか?」
閣下は不思議そうに眉を顰めた。
「エリザベスであろう?」
「私の本名は?」
私の髪がハラリと閣下の震えた手から離れた。そして考えるように目を細めた。頬が引き攣りかけているのを感じながら私は笑った。
「私は明美です、明美・エアリー。エリザベスはただのミドルネームです、曾祖母由来の名前でした」
今はエリザベス・ライムンダ・ルツ・ジュダ・ド・ボーヴァー=ハイドと名乗っている。
なんでこんなに変わったんだろう。なんでこんなに遠くまで来てしまったんだろう。ただの明美・エアリーだった頃は各国を転々と回されていた14歳の女の子だった。でも今はよく分からないまま長い名前を名乗る18歳だ。分かっている、そうじゃないと命が危ないって。だけど……。
「いつ、私はただの明美・エアリーに戻れるのですか?」
*
ヨハネスは怒りを収めようと息を吐いた。驚き、動揺は越えた。
この娘が一体何を言っているのだろうか。いつかまた本名を名乗りたい、という意味だろうか。それともこの国を出たい、と言うことだろうか。
私は膝を伸ばしいつもの高さから彼女を見据えた。距離を詰めるため一歩踏み出すと、エリザベスは俯き一歩退いた。彼女は鏡台にぶつかった。
「私は閣下のお側にいれば良いのですか? それとも離れた場で庇護を受けていれば良いのですか?」
彼女はこちらを睨み首を傾げた。微かに黃が混ざる蒼灰の瞳がこちらをぎろりと睨んだ。
「なぜ、私には何も教えて下さらないのですか? 閣下。私がヴィンス7世の子孫と名乗ってしまったから? あなたより年下だから? それとも……」
彼女の唇が震えた。彼女の瞳から怒りが見え隠れしている。とめどなく涙がこぼれている。涙を拭ってやろうと彼女の顔に手を伸ばした。勢いよく彼女の拳に振り払われた。痛い。彼女は顔を真っ赤にしている。
「触らないで! 私に触らないで!」
更に後退りしようと彼女は目線をこちらに向けたまま鏡台の縁をまさぐった。行場を求めた手は壁に触れた、彼女は壁にピタリとくっついた。ずるずると部屋の隅にしゃがみ込んだ。
「私は閣下の何なのですか?」
「妻だろう?」
「本当にそうお思いですか?」
悋気だろうか?
「結婚しただろう?」
彼女は顔を膝と両腕に埋めてしまった。手を伸ばそうとすると彼女が頭を振った。
「来ないで」
彼女が作った間合いのまま彼女を見守ることとした。ひとしきり泣かせておくために。
彼女の小刻みに揺れている。やがて髪が一房、肩から滑り落ちた。鳥が鳴いた。時計を見ると11時だった。そう言えば彼女はまだ朝食を終えていなかったな。彼女が落ち着いたらサンドイッチでも良いから、何かを食べさせないとまた風邪をひきかねない。
外で控えている者に言伝を頼もうと立ち上がった。彼女が鼻をすすった。
「ごめんなさい、せっかく来てくださったのに。ちょっと調子が悪いみたいです」
「まったくだ」
私は着ていた上着を脱ぎ、彼女に掛けてやってから、部屋を出た。
アイデンティティ形成するお年頃の明美。
次回、影の王女レティシア。




